第8話 善行と悪業

「ゆったりプラザ」という名称の施設のエントランス付近に、環状のベンチが置かれている。そのひとつを、宇藤木はまるで自分のオフィスであるかのように占拠していた。

 彼は、先にすませたい用のあったみずるを待っているのだが、近くにある県警本部にも、その向いの県庁舎にも入らず、わざわざこんな場所を待ち合わせ場所に選ぶとは、通なのかひねくれ者なのか、いつものことながらわからない男だ。

 みずるが清潔で静かな建物に入って行った時はなにも感じなかったが、宇藤木に近づくと、かすかな音がするのに気がついた。低く鼻歌を唄っているようだ。

 どうやら曲目は「わたしのお父さん」らしいのだが、「鞭声粛々〜」と川中島を吟じているようにしか聞こえない。

 

 まあ、誰も近くにいないからいいよね、とみずるは注意するのはやめにした。

 ほかのベンチには、高齢者や主婦、仕事途中のサラリーマンと思しき面々が思い思いに座って、囁き合ったり居眠りしたりスマホを見たりしているのだが、黒衣の大きな宇藤木がときどき独り言と鼻歌をもらす怪しい空間に、わざわざ踏み込んでくるほど酔狂な人物はいない。

 みずるは恐れ気もなくそこに踏み込み、自分も腰をおろした。

 彼女に気づくと宇藤木は、「ああ、こまった、こまった、コマドリ姉妹」と眉を八の字にして言った。


「なによそれ。待ってた資料は、ちゃんと届いたんでしょう」

「うん。難波くんはアホ、いや、アポ取りについては特異な才があるのを認めざるを得ないが、こういった地道な仕事は放置が基本のすちゃらか警官だから、有能な柳瀬さんにお願いした」

 そして宇藤木は、替え歌と思われる歌をぼそぼそとつぶやきはじめた。難波刑事は常に定刻を五分過ぎて出勤するという内容だった。しかし、この元歌は古すぎて逆にみずるは知っていた。「それ、祖母がよく歌っていたわ。昔のテレビの主題歌だったかな」

「おや、そう。すてきなおばあさんだ」

「難波のやつ、資料管理室に美女でもいれば、ぜったい通い詰めるのにな」

「美男でも行くよ、きっと」

「そういや、そうね。性差は気にしないやつだから」


 彼が熱心に目を通しているのは、柳瀬刑事が送ってきてくれた資料類のコピー集である。読みやすいようにきちんと表紙をつけて閉じてある。

「でも、こんなに丁寧にやってくれるなんて、忙しいひとに悪いことした。これはパート1で、あとで会うときにパート2を持ってきてくれることになってる。新聞の切り抜きとかもあるから、全部まとめた状態で届けますって」

「問題は、キミが古くっさいパソコンしか持ってないことじゃないの?あの黒い鞄みたいな重たいパソコンにいつまでも拘らず、さっさと更新しなさいよ。軽くて薄いの、いくらでもあるでしょ。それでWi-Fi使って外出先でデータをやり取りするの。簡単よ。そうだ、Wi-Fiと格安スマホのセットがあるじゃない。あれにしなさい、あれに」

「だって……」

「ああ、未練がましい男、いやらしい。とにかく、迷惑をかけているって自覚があるなら、今回の事件をうまく解決して柳瀬さんの手柄にしてあげなさいよ、難波じゃなくて。そんなことが可能かどうかは知らないけど。少なくとも、あちこちで彼女を褒めることは忘れないように。物でのお礼とかは受け取りそうにない人だから、無形のお返しをするべきよ」

「はい」しょんぼりと宇藤木は黙ってしまった。

 

 大人しくなった彼を見て、みずるは袋に入ったままのホットコーヒーと菓子を眼前にひらひらさせた。ちゃんと猫が餌に気を取られるように、宇藤木は袋の動きに合わせて首をうごかしてくれた。

 困った困ったと言うわりに、余裕はあるようだ。

「あ、レーズンサンド」袋の中を見た宇藤木が言った。

「小川軒じゃないけど、我慢しなさい。コンビニ菓子がおいしいと言ってたの、キミでしょう」 

 大男は楽しそうにコーヒーとレーズンサンドを交互に口に入れながらも、まだ資料に目を向けている。これほど熱心なのはめずらしい。ちょうど、頭にアイデアが湧いているところかもしれないし、単にゴシップ読み物を楽しく読んでいるつもりなのかもしれない。

「それで、犯人にガンつけはできた?コナンくん」

「ぼく、わかんないよ、蘭姉ちゃん」

「可愛くねえよ、子供ぶるコナンの真似なんて」


 宇藤木が取り寄せた資料というのは、殺された松永武子のそれではなく、彼女の死の前に樫木付近で発生した死亡事故や不審死、そして突然死といったものである。

 全部集めれば膨大な量になるだろうが、宇藤木はその場で適当に期間や属性を絞り込んで伝えた。そういう指示を口頭でさっさとすませて、それで当たったりするのだから、いまさらながら不思議な男だなと、みずるは思う。

「そうねえ。どこから説明しようかな」宇藤木は大きく伸びをした。しかしコーヒーカップはしっかりとつかんだままだ。

「今日は、コーヒーをはりこんで、キリマンジャロブレンドにしたでしょ。さっさとゲロしなさい」

「ああ、高級なカフェインが脳髄をじんわり刺激する」

 

 彼は、最初に柳瀬から渡された捜査資料のまとめを指でコツコツ叩いた。

「まず、善良かつ軽く数千人に親切の手を差し伸べた伝説の世話焼き、さらに小柄なお年寄りであるところの武子さんが無残にも殺された事件というのが今回の前提にある。これは、捜査する側にやる気を起こさせる一方、無意識のうちに視野を狭めてしまっていた。膨大な量の聞き込みをしては、彼女の伝説に都合の良い犯人像を探そうとしていた」

「もっとわかりやすく説明しなさい」

「へい。わかりやすく言うとさ、聞き込みに行くたびに『おばあちゃんは、恨まれるような人じゃないの、ヨヨヨ。刑事さん、必ず犯人を捕まえてくださいね』って思考停止した言葉ばっかりぶつけられたら、いくら人の裏を見抜くのに長けた刑事たちでも、影響は受けるよね。人数が多いと疲れるし。宗教信者の集団を相手にするみたいなもんだ。だから、最初に立てた仮説の間違いと視野狭窄を修正できなかった。目標がさだまったら、現場が踏ん張り抜いていい結果を招き寄せるのは、我が同胞の得意技ではあるが、悪い方に転ぶと死屍累々となる」

「まだ、よくわかんない」

「あら、それは残念。心を込めてご説明申し上げたのに」

「ただ、この前に橘さんのお話を聞いたでしょう。あれ以来、武子さんの死は、不慮の災禍に巻き込まれたというより、彼女自身がトラブルを引き寄せたのかもしれないという気は、してきた。そして彼女が聖女を演じていたがために、手がかりが残っていない」

 宇藤木は人差し指を「それ」という感じでみずるに向けた。


「柳瀬さんは、こっちで指摘する前から、問題は被害者自身にあるのではないかと思いつき、ぽつぽつ調べてはいた。だけど、これまたあまりに茫漠として、手がかりが容易に見つけられなかった。こんなときは手抜きに限るんだけど」

「日ごろ武子さんが接していた相手が多すぎるし、おまけに秘密主義。人間関係の濃淡がさっぱりわからない……」

「そう。ずっと前からお金のやり取りについては自ら隠蔽するくせがついていたから、彼女の頭脳が動きを止めたいま、はっきりしたものは何にも残っていない。もしかしたら、どこかに秘密帳簿が隠してあるかもしれないけど、そういうタイプでは、ないよな」


「それが彼女流の美学なのかな。高倉健が、世話になった人に、さりげなく高価なプレゼントをあげたって話があるじゃない。あの明細がきっちり残っていたらガッカリだけど、そんなことないだろうし。似た感じかしら」

「と、思う。息子たちがうるさくチェックしたせいで、余計に隠したかもしれないけどね。とにかくコツコツ裏金を積み立てては、いろんな人に渡していたんだと思う。そして彼女の人柄は好かれていたから、この前の橘さんのように、察している人はいてもはっきり口にされることはなかった。武子さん本人の意図はなくても庇われていた。彼女の認知症だってそれに拍車をかけたかもしれないしね。結局、だから、ますます、追跡が困難だ」


「じゃあ、やっぱり犯人はお金を借りた人なのかな。武子さんは返してもらう気はなくとも、本人は借金してるつもりになってて、すごく焦ってたとか」

 みずるが言うと、

「それもありうるんだけど」宇藤木はひっくり返りそうなぐらいに頭をそらし、コーヒーを飲み干した。

「わたしもまず、それを考えた。善意で金を貸したら逆恨みされたという線を。あるいはどこかでこんがらがって、第三者に恨まれたとか。しかし、それについては、和気さんいうところの、この胸の中の黒々としたなにかが違うと否定する。耳をすませると、黒いなにかはこう言っていた。『オイ、ほんとに彼女はそこまで善良な老女だったのかい?』このセリフ、誰の吹き替えがいいかな。肝付兼太氏かな、熊倉一雄氏だろうか。堀勝之祐氏の声だとドキドキするかも」

 

 みずるもまた、口元に手を当てて考えていた。

「たしかに、お金を善意で貸したが故に殺されたという風につい考えてしまう。でもそれは、無意識のうちに武子さんが無謬の善人だというあやふやな前提を受け入れているせいね。人は良いことをしながら悪事をはたらくっていうのは、叔父の好きな池波正太郎の書いたものにあったぞ、たしか」

「その通りだと思います、お頭っ。それに加えて、何度も拳で殴っていた。あれは痛めつけて、なにかを吐かそうとしていたのではないだろうか、と『戦争の犬たち』の原作が古本屋にあったのでひらめいた。ガラスは飲ませてないが。殺してから殴ったり、額に鉈を打ち込んだりしたのは、見せしめのつもりなのか、よほど怒っていたのか」


「考えたら嫌な話だなあ。怖かっただろうな」不快な気分が急に彼女の胸を覆った。「そうだ、コーヒーもう一杯飲む?」彼女は自分用に持ってきたコーヒーを示した。

 宇藤木は首を横に振ってから目をつむった。「今回、武子さんとは別に、強く感じることがある。それは」

 彼がみじろぎせずベンチに座っている姿は、彫像のようだとみずるには思えた。ピエール坐像と題した像を制作し、ここに寄付したらどうだろう。犯罪避けになるかもしれない。

「犯人の手慣れたところだ。あとをたどれるような痕跡がほとんど残っておらず、やけに手際がいい。もっと言うと、感情的な部分と、冷静な、手慣れてさえ思える部分が混ざっている。もしかすると複数犯なのかもしれないけど、少なくともここまで手際の良いのは、このあたりの暴走族の兄ちゃんとかには難しい」

「経験豊富ってこと?殺し屋なの?」

「うーん、そこまでいかずとも、練習して準備していたような感じすら受ける。とにかく人を殺すって大ごとなのに、全般的に要領が良すぎるぐらい。例えば、武子さん殺害には車を利用したと考えるのが自然だが、痕跡は見つかっていない。死体をベンチに放置する際も、監視カメラをかいくぐっている。誘拐だって目撃されていないし、終わったあとはさっさと姿を消した。むろん、すべて偶然にうまく行った可能性だってあるが、少なくともはじめてだったら、どこかで忘れ物とかをしちゃうものではないかな」

 

 話を聞きながらみずるは、自分の分のコーヒーを飲んだ。残念なことにあまり美味しくは感じられなかった。

「それで一番言いたいことは、なに?」

「言いたいのは、この殺人は犯人による最初の殺人ではなさそうだということ。そして、これは想像にすぎないが、本題となる殺人があって、犯人は実行までにあれこれシミュレーションしていた。武子さん殺しはその副産物ではないかということ」

「なんか、寒気がしてきたわ」


「最初は、犯人について『整理魔』って人物ではないかと疑ったりもした」

「なに?誰、それ」

「以前、ある人が連続殺人犯を追いかけていて、ついに正体がつかめないまま終わったことがあった。その人は犯人を「整理魔」と呼んでいた。どこのだれかは知らないけれど、現場と目される場所が過剰なほど清掃整理されていて、証拠が砂粒ひとつ残っていない。あまりにきれい過ぎて、逆にそいつの仕業だとわかる」

「へんな洒落」

「もちろん、今回は整理魔ほどの凄みはないし、整理魔だったら死体にあんなことしない。割り切って処分してしまうだろう。この犯人は、武子さんを多少とも感情的に殺害した。しかしその割に、後の処理がスムーズだ。だからあらかじめ準備していたのではないかと考えた。ただ、届いた資料パート1にはその回答はなかったから、パート2待ちだね」

 

「それで、困ったというのは何に困っていたの?危険な犯人だから困った?」

「危険な人物でもあるだろうが、逃げ足が早そうなのに困っている」

「さっさと逃亡されちゃいそうってこと?」

「そう。武子さん殺害の構造が見えてきたから、犯人を絞り込んだり、あるいは確証を得る作業に移りたい。だが、不用意に犯人の近くにいる人物に話を聞いたりしたら、手が回ったと感づかれて、逃げられるおそれが大きい。ろくな証拠はないから、すぐには犯人を拘束できない。外国にでも逃げ込まれたら、もうおしまい。難波にインターポールの知り合いはなさそうだし。銭形警部ならよく知ってますとかはいいそうだけど」

「とりあえず予定通り記念館に行って、柳瀬さんに合流して、相談したらなにかいい考えが浮かぶかもよ」みずるはショルダーバッグを肩にかつぎ直した。

「でも、柳瀬さんにとってあの場所が近くて便利なのはわかるけど、なんで難波があそこにこいって指定するわけ?」

「一階の喫茶室のおねえさん。パンク風の格好をしていて、口紅が黒い。爪にもいろいろ付いていた」

「ああそうか。そんな娘、いたな。しかし、その観察力と執着力を仕事にいかせよ、難波」

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