第7話 聖女の失策

 ガラスコップの氷水を口に含んでから、橘は言った。

 大きな窓のある喫茶店には柔らかな外光が満ちていて、彼女の形のよいおとがいを白く浮かび上がらせていた。

 難波の台詞ではないが、往年の彼女は、どれほど美しかっただろうと、みずるはあらためて感心した。

 もちろん、いまも十分に称賛の対象だ。しかし、これほどの佳人を相手にして、若き日の松永武子はひけめを感じたりしなかったのだろうかと、つまらないことを考えてしまう。若き武子は魅力的ではあっても、美人には分類されなかったはずだ。


「実際に言われると、戸惑いますね」橘光子は微笑むと、

「これはあなたの言葉に対する感想でもあるし、武子さんに対してもそうです。私はあまり、人と貸し借りをするような暮らしはしてこなかったですから」

「貸せと言われた金額は、百万円を超えていた?」

 難波と柳瀬がそろって目を見開いた。みずるにとっては平常運転なので黙っている。

「いえ、とりあえず五十万でした。まず最初に、変だと思いましたね。お店が借金で苦しんでいるならそんな金額では済まないでしょう」

言われて、宇藤木はうなずいた。


「それに私は、あの人の収入について多少は知る立場にありました。年金暮らしの独居老人ならいざ知らず、五十万ですむ話に私の助力を必要とする人ではありません。なにか背景が、例えば誰かに人には言えぬような理由で脅されたりしたのかと思い、確かめましたが『そんなのじゃない』と」

 視線を横のガラス窓に向けて橘は言った。

「いろいろ考えはしましたよ、孫のだれかがトラブルに巻き込まれて、彼女だけ相談されたのではないかとか。遅ればせながらオレオレ詐欺にひっかったのだろうかとか」


「唐突に金を必要とした理由について、その場で明確な答えはありましたか」

「いえ」橘は否定した。「教えてはくれませんでした。そういえば、いついつまでに必要だという話にもならなかった。とにかくわたしが驚いてしまったから」

「もちろん、それまでにお金を彼女に貸したことはありませんでしたね」

「ええ、ありません。だって、あの人のほうが各段に裕福でしたもの」そう言って橘は笑った。

「まず金銭感覚そのものに、ずれがありました。わたしはあくまで、サラリーマンの妻としてこの歳まで過ごしてきました。かたやあの人は、まがりなりにも経営者です。もしかすると彼女は、五十万ぐらいまでなら、理由を聞かずに出してもらえると思ったのかも知れませんね。他からも集めるつもりだったのかも。そこらはわかりません。わたしが返事に困っていると武子さんのほうから、『ごめん、変なこと言っちゃった、忘れて』と言いました。だから私も忘れたことにしていました、いまのいままで」


「それと、忘れようとした理由が、もうひとつありますね。彼女のせいではなく、病気のせいだと思おうとしたのではないですか。循環器とは別のところの病気のせいだと」

 橘はまた、宇藤木の顔をじっと見た。

「それも、推理してわかりましたか?」

「いえ、単純に武子さんのポーチの中身を撮影した写真を見たからです。そこにいる柳瀬刑事の資料は行き届いていましてね。肩こり用みたいなパッチがありましたが、あれは認知症の薬ですよね。ご遺体からは剥がれていたようですが」

 橘はやや固い表情になってしまった。

「もちろん認知症イコールひどい呆けというわけでははないし、本人の不名誉でもないのは、私にもわかっています。ただ、火を扱ったりは、よくない。ふっと忘れてしまうことがあるから、とは聞いています」


「ご長男夫婦とどんな話になっていたかまでは、私は存じません。でも、あの人と接していて、ときどき自慢めいた話の過ぎることや、思いつきに強くこだわることが増えたのには、いくらぼんやりした私でも気がついていました。過去と現在が入り混じったりね」

  独白するような調子で、橘はふたたび宇藤木たちに語りはじめた。

 「もともと理屈より、独特のセンスというか、フィーリングを信じて成功したひとです。他人の助けをあてにしない一方で、独善的な部分も多分に持っていました。同じことを繰り返してしゃべるくせも、昔からでした。だから、歳をとって頭が硬くなり、自制心がゆるんだためにこうなったのだろうと、納得するようにしていました。ところが、たまたま娘に彼女の通院について聞いたところ、透析のほかに物忘れ外来にも通いはじめたらしいよ、と打ち明けられました」

「驚かれましたか」

「それは、まあ。以前は誰よりもしっかりした人でしたから。ただ、やっぱりそうだったのかと納得できましたし、ご苦労様という気持ちも強かった。だから、あの人の人生がようやく、働くのをやめて気楽に余生を過ごす段階にたどり着いたのだな、と考えるようにしていました。あれだけ頑張ったったんだもの、もういいでしょう。どうせ私も遠からずあんな風になるでしょうし、みんなで機嫌よく過ごせたらそれでいいじゃないですか。頼りになる家族もいますし、お金だって。なのに、あんなことになるとはね」


 しんみりした橘に、宇藤木は小さく微笑んで続けた。「失礼ですが、少し話を戻させてもらいます。あなたの義理の息子さんをはじめ、武子さんが三人の御子息から厳しく忠告されていたのはご存知でしたか。あの人の支援癖に対し、金貸しと思われるのはまずいと」

 「ええ。ただそれは、かなり前だと思います。おっしゃる通り、武子さんは口で励ますだけでは飽き足らず、困っている方に直接お金を渡すことがありました。支援癖とおっしゃったけど、自分では『分福』とか『道楽』と表現してたのかな」

「ふむ」

「私には思いもつかない行為なので、逆恨みされたり、本業の金貸しに商売敵扱いされたりしないか聞いたこともありました。お金って魔物ですものね。でも、あっちは現役の、それも名うての商売人でしょう。一主婦の意見など笑って聞き流されてしまいました。それに、金額そのものはあまり大きくなかったらしいですね。はじめから、返してもらえなくても諦められる額でしかなかった」

「いま、意図して話を逸らそうとされていますか」

 宇藤木の言葉に、橘は黙って口をひき結んだ。ただし目の表情は悪戯っぽく、明るい。

「あなた、息をのむほどの美男子だけど、鼻持ちならない、いけずね」

「そう言われたのは、はじめてです」


 息子たちはもう忘れたかも知れないけど、と前置きしてから橘は、慈善を否定された直後の武子の衝撃と悲しみを語った。「それはもう、人生を否定されたように感じていたでしょうね。息子さんたちの勤務先でもいろいろ支援をやっているし、素人が手を出すなって怒られたそうです。そんなんじゃないのになあって、嘆いてました。『裏の木戸は開いている』って小説があったでしょう。当人はあんなつもりだったようです。そういえば、あの主人公も襲われましたね。誤解されたせいでしたが」

「息子さんたちに叱られ、武子さんは素直に受け入れたのでしょうか。反発なり抵抗はしなかった?」

「だって、女手ひとつ丹精込めて育てた息子さんのキャリアに傷がつくと言われたら、抵抗なんてできませんよ。その時点では、長男の浩一さんはまだ出世予備軍というところでしたが、商店街にはいろんな銀行や信金が出入りしていますからね。どこで足をすくわれるかわからない」

「でも結局、あとでこっそりと復活させた」

「それは私にも明かしませんでしたが、なんとなく感じてはいました。ただ相変わらず、大きな金額ではなかったのじゃないかしら。武子さん、医療費の自己負担額をたくさん払わなければならないほどの立派な年収はありましたが、お金の動きについては浩一さん夫妻にチェックされていました。もちろん次男の誠二さんにも。八十万円のコートを買ってなにも言われないのに、チップに五千円渡しただけで指摘されると怒っていました。嫁の恵子さんも元銀行員ですから、簡単には騙せない。当の恵子さんは『いつものお母さんの誇張です』って笑っていましたが、どうなんでしょうね」


 そろそろおしまいにしますと言いながら、宇藤木は聞いた。

「助言を受けたり、支援された人の中には、武子さんを神さまや聖人のように言う人もいます」

 そこまで聞くと橘は、宇藤木の視線を避けるように目を伏せ、黙った。

 そしておもむろに、「あなたのおっしゃりたいのは、わかります」と言った。

「神さまはともかく、聖人あつかいされたいという欲が、自分の首を絞めたとあなたは考えているのね」

 宇藤木は黙っている。

「そうね。あれはまさしく、彼女の煩悩だったかもしれない。喜ばれることに快を得ていた。恩に着せたりしないというのも、あの人の美学であり、それを通すのが楽しかったんでしょうね。お金を渡す現場に居合わせたことがありますが、世話した相手に見せる顔は、家族に見せている顔とはかなり違っていました。うまく表現はできませんけどね」

「あの人、とても若い頃にですが、実は女優になりたかったと漏らしたことがあったんです。聖人なんて大それたことは考えてはいなくとも、女優になったつもりだったかもしれない。そう、お芝居にのめり込みすぎて、殺されてしまった」

 不思議なほど優しい顔をして、宇藤木は礼を言った。

「言いにくいことをお話しくださり、ありがとうございます」

「いいえ。もっと早く、誰かに言うべきだったわ。もう取り返しがつかない」

 橘は軽く目を閉じた。涙が光ったようも見えたが、彼女は素早くスモークレンズの眼鏡をかけてしまった。


「あの人が善人を演じる快楽に溺れ、度を越してしまったがために報いを受けたのか、単に不運だったのかは私には見当もつきません。例の病気が悪さをしたのかもしれない。それでも、鉈で叩いたのはやり過ぎだと思いますよ。ねえ、あなたにはもう犯人の目星がついているのかしら」

「いいえ。残念ながら。ただ、あなたとお会いしたおかげで、なぜ犯行に鉈が登場したのかが、だんだん読めてきました」

「それは、なぜ」橘は小さく身を乗り出した。「どうして、あんなひどい目に遭わなければならなかったの」

「まだ、確証がありません。犯人を捕まえてから、報告にあがります」

「そんなこと言わないで。私ぐらいの歳になったら、明日死んでもおかしくないのよ。それに、若い人みたいに、ひどい内容だったからって、傷付いたりしないし。武子さんじゃないけど記憶力も弱ってきたから、すぐに忘れますってば」


 仕方なさそうに宇藤木は、「おそらく、洒落です」と返事した。「武子さんと彼女を褒めそやす人々に、一矢報いたつもりなのでしょう」

「しゃれ?」

「はい。武子さんの名前とかけてあるんです。『たけを割ったような性格』というあの人への褒め言葉といっしょに」

「まあ。洒落は洒落でも、それはひどい。悪趣味ね……」

「だから犯人は、武子さんの人柄が世間から褒めちぎられているのに、内心腹を立てている人物です。通り魔によって偶然、犯罪に巻き込まれたというより、彼女の動向や噂を日常的に耳にする距離に犯人はいたのではないでしょうか。きっと、ごく近くに。そして、武子さんが想像だにしなかったような悪意を人に抱くことのできる人物だったのではないかと思われます」



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