温泉旅行
やなぎ猫
1話 完結
空から光が降ってきた。
その光は一瞬にして東京を焼き尽くした。
2020.4.26 11:30
その時、タエコは温泉に浸かっていた。
湯煙の立ち込めるなか、1人だけの時間をゆっくり過ごしていた。
ちゃぽんと時折水滴が落ちてくる。
「ふぅ、気持ちいいなあ」
タエコは他の客に迷惑がかからないように小さく呟いた。
タエコは地方の大学を卒業後、就職をせずにアルバイトなどして暮らしていた。
友達には自分探しと言っている。
歳は今年で26才になった。
家賃5万円のアパートで二つ上の彼氏と同棲している。
同棲を始めて3年目になった。
今回の温泉旅行は、その彼氏とすこし距離を置きたくて一人で来ていた。
若い女性が将来を考えて自分と向き合う、そんな一人旅であった。
この時、タエコは長野の野沢温泉に居た。
特にここというこだわりはなかった。
中央線を乗り継いだ先で偶然にこの場所に辿り着いたのであった。
タエコは昔からこういう旅が好きで、特に行き先を特に決めずに、
ぶらぶらとその時の気分に任せて西へ行ったり東へ行ったりしていた。
かぽーん、とケロヨンの絵が描かれた洗面器が床にぶつかる音が聞こえた。
「癒されるなあ」
タエコはそう呟きながら肩にお湯をかけていた。
突然、天井から「ごー」っという音が聞こえてきた。
それが飛行機の音だと気が付くのに少し時間がかかった。
10分か20分か、その音はかなり長い時間続いていた。
タエコは湯舟から出て、洗い場に向かった。
そして亀の子タワシにレモン石鹸を塗って、ワシワシと身体を洗い出した。
身体を洗うのは昔から亀の子タワシと決まっていた。
肌の深い部分まで汚れを落としてくれるような気がしていたからだ。
レモン石鹸はこのまるい形が可愛いくてお気に入りだった。
亀の子タワシの浄化力の強さに身体の色が段々赤くなってくる。
人間はもともと赤いのだと、その時、タエコは思った。
レモン石鹸のにおいを漂わせながら、ぽかぽか上機嫌のタエコは部屋に戻った。
そして東京が大変なことになったことを知ったのであった。
東京の惨事をテレビの中継は伝えていた。
タエコはいよいよ日本が大変なことになったと、先ほどのぽかぽか上機嫌が一瞬で消えた。
そして蒼白になりながらテレビの中継に食い入った。
専門家がなにやら難しい用語を交えて語っていた。その中に、
「のっしー」
という単語が出てきた。
専門家の説明は、要領を得ないが、搔い摘むとなにやら野尻湖から怪獣が出現したというのであった。
その怪獣の名前を、野尻湖からなので、緊急対策本部が「のっしー」と命名したとのことであった。
のっしーという名前はふなっしーに似ていて可愛いな、丸いのかな、可愛いな、などと思いながら、タエコは微笑むのであった。
◇
湖面にぷくぷくと気泡が浮き出ていた。
その気泡は湖全体に広がり湖面全体を埋め尽くした。
2020.4.26 13:45
テレビ中継で東京の惨事を知ったタエコは居てもたっても居られず、情報を得ようとロビーに向い部屋を飛び出した。
旅館のビニールのスリッパをパタパタ言わせながら廊下を駆けていった。
あと少しでロビーというところで、いまにも襲いかかってきそうな熊の剥製に驚いて、脚をもつれさせて盛大にすっ転んだ。
茶色いスリッパが宙を舞う。そして廊下の脇に止めてあったスチール製の配膳用ワゴンに載っているお膳の上にポトンと落ちた。
「いたた、、」
タエコは自分が転んだことに驚いて誰に言うとでもなく、そう声を出した。
そして、一人で奔走している自分が哀れで、じわっと涙が浮かんできた。
「シンジくん、、」
恋人の名前を呟きながら、少しの間、廊下にうつ伏せになり、一人で泣いている。
こんな時にシンジが傍にいてくれたらどんな言葉を掛けてくれたか。そして、どんなに心強かったか。
シンジはアルバイト先の後輩だった。画家志望の彼は絵だけでは生活が出来ず、
タエコの働いている雑貨店にアルバイトとして入ってきたのだ。
タエコが指導役となり、そして次第に仲良くなり、お互いに心を惹かれ合うようになっていった。
二人の生活は楽しかった。シンジはよくタエコの絵を描いた。
まったく似ていない絵を見てそのたびに二人で笑い合った。
シンジは私のことを陰から見守ってくれていた。
分かっていたのだが、最近では、その見守りがなにか煩わしく思えていた。
シンジは、頼りなく、煮え切らない性格だった、でもそれを補うくらいに優しく広い心を持っていたことに気づいた。
実を言うとタエコはシンジと別れようと思っていた。その決意を固めるために今回の旅行を計画した。
この旅の中でシンジとの3年間の生活を思い出にしようとしたのだった。
私は、、シンジの心を裏切ったのだ。
「シンジくん、、」
廊下でうつ伏せになりながら、恋人の名前を、何回も何回も呟いた。
天井の方から「ごー」という飛行機の音が聞こえてくる。
「行かなきゃ、、」
ひとしきり泣いたタエコは立ち上がり、山賊焼と山の幸三点盛りの上に着地したスリッパをとって、また走り始めた。
ロビーには大勢の人が群がっていた。
「えらいことになったじゃんけ」
「群馬の方面へ、向かってるだってよ」
いろんな情報がガヤガヤ聞こえてくる。
タエコは自分の鼓動が、どくん、と脈打ったのを感じた。
なんだか不安になる。
以前にもこんな感覚を覚えたことがあった。
あれは確か、幼稚園の頃、家族3人でドライブに出かけたときの事だった。
3人でパーキングエリアで休んでいると、黒塗りのワンボックスカーが止まって、中からチンピラ風の7人組がでてきた。
そしてお母さんを強引に連れ去ろうとした。
その時、タエコの鼓動が、どくん、と脈打ち、
「そんなことしないで!」タエコは叫んでいた。
一瞬、あたりは光に包まれ、そして気付くと、タエコは母親の手を握っていた。
7人のチンピラは倒れていて、ワンボックスカーは大破していた。あたりからはぷすぷすと白い煙が立ち上がっていた。
母親はタエコの前にかがみこみ、タエコと同じ目線になりながら、こういった。
「巫女の力は使っちゃ駄目・・・」
タエコは自分がただ怖くて震えて泣いていた。
この日タエコは巫女の力を自分の深い、とても深い部分に眠らせた。
「群馬が壊滅したってよ」
そんな声が聞こえてきた。
タエコは私がやらなきゃ、、私がなんとかしなきゃ、、あの力を、、巫女の力を使わなきゃ・・・
日本を、そして世界を救うのは私しかいない、と決意していた。
そして野沢温泉と書かれた浴衣姿のまま、パタパタとスリッパの音を響かせて、旅館の玄関を出ていった。
後にはレモン石鹸のさわやかな香りだけが残った。
◇
諏訪湖の湖面がぷくぷく躍動していた。
そのぷくぷくは湖面全体に広がって、そして巨大な固まりが姿を現した。
2020.4.26 17:00
パタパタパタパタと安いビニールのスリッパの音が山道に響いていた。
タエコは走っていた。どこに向かえば良いのかも分かっていた。
しかし、もう走り始めて10分が経過していた。
息が切れて眩暈がした。
それでもタエコは走っていた。脚を引きずってでも走っていた。
しかし、とうとう力尽きた。タエコはへなへなとへたり込む。
「もうだめ・・・ごめん、みんな・・・」
涙を浮かべて諦めかけたその時、ぼろっぼろっなシルバーの軽自動車が目の前に止まった。
サイドミラーやバンパーが落ちないようにガムテープで補強してあって、リアウィングは取れかかって右に傾いている。
それはシンジの軽自動車だった。
「タエコ!無事か!?」
シンジはタエコを軽自動車に乗せた。
「野尻湖に、、向かって、、」
タエコは息も絶え絶えにそう言った。
カーラジオからパーソナリティの悲痛な叫びが聞こえる。
「本日、野尻湖の『のっしー』に続き、諏訪湖から巨大な固まりが出現しました。
諏訪湖から現れたそれを『すっしー』と命名しました。
『のっしー』には政府からの要請で航空自衛隊による攻撃を行いましたが、びくともしません。
『のっしー』は進路を北に進んでおり群馬から新潟に向かっているようです。
『のっしー』は四角でしたが、『すっしー』はレモン石鹸型です。果たして日本はどうなるのでしょう・・・」
最後は嗚咽していた。
一通り聞き終わったタエコは一族にまつわるこんな話をし始めた。
「私の苗字は護湖、それは知ってると思うけど、
私の一族は湖に眠っているダイダラボッチっていう神様にお使いしている巫女の家系なの。
巫女の家系は日本全国に散らばっていて、それぞれの土地の湖にいるダイダラボッチを鎮めているの。
それでね、巫女にはダイダラボッチを呼び覚ます力があるの。
野尻湖から出てきた『のっしー』はダイダラボッチで、野尻湖の付近に住んでいる巫女一族の仕業だと思うの。
諏訪湖の『すっしー』は私の家系がお使いしているダイダラッボッチで、私が呼んだの。」
シンジはハイライトメンソールに火をつける。
タエコはその煙に咳き込む。
「ちょっと一緒に居る時はタバコ吸わないでって言ったよね。臭いからやめてよ」
そう言いながらタエコはシンジを睨む。
「いま入った情報によりますと『すっしー』が瞬間移動したようです。
現在『のっしー』のすぐ真横に出現して、両者が戦い始めたとのことです」
ラジオのパーソナリティが声を荒げる。
「戦いは体当たりだそうです。ぽよんぽよんという鈍い音があたりに響いているとのことです。
付近のみなさん決して外出しないで下さい。」
「『すっしー』、お願い、『のっしー』を鎮めて」
タエコはそう祈った。
ほどなくして野尻湖に到着する。
野尻湖の湖畔では老婆がひざまづいて祈りを捧げていた。
「もうやめてください」
タエコは叫んだ。
老婆は振り向いて、
「こんな日本は滅んだ方がいいんじゃー」と叫び返す。そして、
「もう終わりじゃて・・・ひひ」と笑った。
タエコは蝶のように両手をパタパタさせはじめた。
両手をパタパタするたびに浴衣の袖がバフバフと音をあげる。
そして、徐々にタエコは浮かび上がっていった。
「お母さん、私に力を・・・」
タエコは念じる。
そして降りてきた。そしてまた浮かび上がる、そしてまた降りてくる。
その場で浮かび上がったり、降りてきたりを、何回も何回も繰り返していた。
老婆も負けじと両手をパタパタさせはじめた。
やはり同じようにその場で浮かんだり、降りてきたりを繰り返している。
シンジは、なにやってるんだろ、と首をかしげる。
そのうちに老婆が浮かび上がらなくなった。力が尽きたのだろう。
「どうやら私の負けじゃのう・・・」そう老婆は言うと、ガクっと項垂れた。
「終わったのね」とタエコは言った。
その後、のっしーは野尻湖に、すっしーは諏訪湖にそれぞれお戻りになられた。
タエコはシンジと一緒にぼろっぼろっのシルバーの軽自動車で野沢温泉の旅館に戻った。
「湯冷めしちゃったよ。お風呂、一緒に入ろうか」
タエコはシンジに抱き着いてそう言った。
完
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最後までお読み頂きまして、本当にありがとうございました。
私の2作目になります。コメディー系が書きたいなと思って書いてみました。
本当にありがとうございました。
やなぎ猫
温泉旅行 やなぎ猫 @NekoK_2020_4_22
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