月を売る

新原つづり

月を売る

「月を売ってくださいですって?」

「ええ」

 その奇妙な男は当然のように言った。だから私も反射的に答えてしまった。

 よく考えるとおかしい。ここは私の部屋で、こんな夜遅くに男がいるはずなどない。けれど不思議なことに、私は恐怖を感じていない。

「でも、月は私のものではないわ」

 私が当たり前のことを言うと、男は何かを考えるように顎を触った。

「それはおかしなことだ」

「おかしくもなんともないわ。月は誰のものでもない。常識よ」

 私は男に反論する。月は誰のものでもない。当たり前のことだ。けれど、それを言葉にしたとたん、胸が痛いのはなぜだろう。

「月が、そう言っているのです」

「月が?」

「あなたには聞こえませんか?」

 私はベッドから起き上がると、窓に近付き、そしてカーテンを開ける。部屋に光が射す。夜は私が考えているよりもずっと明るい。

 私は窓を開けた。

「今夜は一段と冷えますね」

「そうね」

 私と男はベランダに出る。見上げると空の高いところに月が輝いていた。偶然にも満月だった。

「聞こえませんか? 月が、自分はあなたのものだと言っています」

 私は耳を澄ませた。少しだけ、風の音がする。

「あなたは私を口説いているみたい」

 私は男の顔を見る。男は私よりずっと背が高かったから、見上げるという方が適切かもしれない。部屋の中ではわからなかったが、男は色白で、どこか幼い、美しい顔立ちをしていた。

「ある意味では、僕はあなたを口説いています。ですが、それは不純な心から来るものではありません」

「そう」

「未来のことはわかりませんが」

 男はそう言うと少し笑った。

「もし私が月を売ってしまったらどうなるのかしら?」

 私は恥ずかしくなって、話題を変えた。

「意外ですね。月を売ったら何をもらえるのか、最初に聞かれると思っていましたから」

 男の言う通りだった。けれど、なぜだかその問いは思い付かなかった。

「それも気になるけど、まずは売ったら月がどうなるのか知りたいわ」

「そうですね」

 男は左手で顎に軽く触れた。彼の考えるときの癖なのだろう。それから男はゆっくりと口を開いた。

「簡単に言うと、この世界から月がなくなります」

私は再び頭上の月を見上げた。月には少しだけ雲がかかっている。

「月がなくなるとは、第一に空に浮かぶ月が消滅することを意味します。そして第二に人々や動物たちの記憶から、月が消滅することを意味します。さらに第三に、この世界から、あらゆる月の記録が消滅することを意味します」

「つまり、この世界には月がはじめからなかった、ということになるのね」

「そういうことです」

 それは、どういうことなのだろう。

 私は月がない世界、月がなかった世界を想像する。夜空にぽっかり穴が空く、のではない。そこには夜空と星たちだけがあるのだ。

 百科事典から月が消える。恋人たちが一緒に見た月が消える。月のうさぎも消える。私のお気に入りのカップに描かれた月も、消える。

「悲しみも、喪失もありません。あなたたちは月が消えたことに、気が付けないのですから」

 私は再び耳を澄ませる。なぜ私なのだろうか。月の声は聞こえない。ただ、風の音だけがした。

「あなたは、どうして月を売ってほしいの?」

 私は男に問いかける。

「僕の世界にも、昔は月があったとされています」

 彼はちらりと月を見た。私は不意に昔のことを思い出した。誰かが彼と同じように月を見ていた。私はそれを見たことがある。

「今はないのです。僕は、この世界に来てはじめて月を見ました」

 男は私たちの世界の住人ではない。何ともばかばかしい話だけれど、どうしてか私は彼を疑うことも、笑うこともできない。

「文献によると」

 男は話を続ける。男の吐く息は白い。私は私の肌ではなくその白さから、外の寒さを感じているような気がした。

「大きな猫が、兎を狩る際にあやまって、月を丸呑みにしたとあります。月は意図的にではなく、不注意によって僕たちの世界から失われたのです」

「それは、何というか、不思議な話ね」

「ええ。当時も信じがたいことだったようで、他のより合理的な仮説がいくつも立てられたそうですが、結局どれも間違いだった……」

「ちなみに猫はどうなったのかしら?」

「文献には、その猫は月を体から排出することはなく、寿命で死んだとあります。死後その遺体は火葬されましたが、月は見つからなかったそうです」

 月は見つからなかった、という言葉に、私は惹かれた。月は見つからなかった。猫が寿命で死んだのもいい。

「僕の世界では、詩人や哲学者が月についてよく語ります。月はなぜ失われたのか、なぜ意図的にではなく、不注意によって失われたのか、なぜ噛み砕かれることなく丸呑みにされたのか」

 彼の横顔は、哲学者のようでも、詩人のようでもあった。

「僕は月を探して旅に出ました。月に惹かれた者の一人として、月を見てみたかったのです。ただただ地道な旅でした。ときどき、自分が何を探しているのかわからなくなることもあった」

「だけど、ついにあなたは月を見つけたのね」

「そういうことです」

 男は深く頷いた。しばらく沈黙が続く。どうやら話はこれで終わりらしい。

「どうして?」

 私は口を開く。男は私を不思議そうに見た。

「見るだけではだめなのかしら? なぜ売ってほしいの?」

 男は自分が大切なことを言い忘れていることに気が付いたようで、軽く頷くと再び話し出した。

「月が、故郷を懐かしんでいるのです」

 男は淡々と続ける。

「月はこの世界を気に入っています。何より、あなたが所有者であることに満足している。ですが一方で、月はかつての世界を懐かしんでもいます。だから僕は尋ねました。僕と一緒に元の世界に帰らないか、と。そしたら月は言ったのです。それは私には決められないし、決めるべきことでもない。私の所有者は彼女なのだから」

 男は私を真っ直ぐに見つめた。少しだけ、夜の光が薄くなったような気がした。

「月はあなたの判断に任せています」

 所有者である私が、決めなければならない。全く不可解な話であったが、脳とは別の部分が、その論理を受け入れている。

 私は月を見た。月の声は聞こえない。ただ、風の音だけがする。

 空には月だけが浮かんでいる。普段は控えめに輝く星たちも、今夜は隠れてしまったらしい。冬の冷気が私を包む。夜の透明な光が私の体を通過して、そこに影を落とした。私は目を細める。私は彼と同じように月を見る人を知っている。遠くを見るように、心の奥底にあるイメージを取り出していく。私よりずっと背の高かった人。優しげな背中。月は私たちをどこまでも見守っている。

「あなた、本当は、どうしたい?」

 私は月に向かって叫んだ。月は本当にこの世界に満足しているの? 本当は帰りたい? どうして私なの? どうして私が決めなくちゃならないの?

 私の言葉は空に消える。風の音だけがした。

 月の声は聞こえない。

「今すぐに答えを出して欲しいわけではありません。ゆっくり、考えてください」

 男は言った。けれど、私はわかっている。何もかもがそうであるように、今回も時間なんてないのだ。

「決めた」

 私は言った。

「月を、売ります」

 私の答えに男は目を見開く。こんなに早く決断するとは思っていなかったらしい。

「いいのですか?」

「決めたことだもの。月もきっとそれを望んでいる」

 私は月を見上げた。

「今まで、そばにいてくれてありがとう」

 とても不安だった。体が震えだした。けれど、私の答えはきっと正しい。

 月の声は聞こえない。風の音だけがする。ただ、風の音が揺らいだところに、誰かの声を聞いたような気がした。

「ありがとう」

 男は言った。

「不思議な時間だったわ」

「旅の終わりにふさわしい、貴重なときを過ごせました」

 月は男と一緒に故郷に帰って行く。もう決まってしまったこと。

「それで、月と交換するものについてなのですが……」

「そういえばそうね」

「僕が持っているものの中で、一番のものを、あなたに差し上げたい」

 男はそういうと、ポケットから何かを取り出した。それは男の手のひらにすっぽり包まれていて、何であるかはわからない。

「これは



 目覚まし時計の音で、私は目覚めた。

 カーテンの隙間から太陽の光が射しこんでいる。自動車が道路を走る音が聞こえる。私は何とかベッドから起き上がり、自分の部屋を出た。

 リビングのテーブルの上には、朝食が置かれていた。食パン、たまご焼き、ウインナー。

 私は温かいものが飲みたくて、やかんでお湯を沸かした。食器棚からカップを取り出す。今日はココアの気分だ。

 パンをトーストし、たまご焼きとウインナーを温め直す。朝食の準備を終えると私は席に着き、ココアを一口飲んだ。

「それにしても……」

 変な夢だった。気が付くと部屋に男がいて、いろいろ話して、そして最後に、私は不思議なものをもらう。手のひらにすっぽり収まるくらいの、もやもやしたもの。

 男は言った。この世界の人々は寝ているときに夢を見ない。それは、これが世界に無いからだと。

 夢を見る道具を夢の中でもらうなんて、矛盾した話だ。それに、私は今までもずっと、夢を見てきたのだ。


 ……ずっと、見てきた?


 おかしい。どうしてだろう。今までも夢なんていくらでも見てきたはずなのに、今日見た夢しか思い出すことができない。寝ぼけているのだろうか。わからない。いつも見ていたじゃないか。どうして。

 私は自分を落ち着かせようと、ココアをもう一口飲む。

 ふと私は、ココアが入ったカップを見た。このカップは私のお気に入りのもので、街の夜空を飛びまわる妖精たちが描かれている。

「この二人、何かに座っているの?」

 私は空高く飛ぶ二人の妖精を見た。飛ぶ? 飛んでいる?

 二人は羽を休ませているように見えた。そして、何か透明な椅子にでも座っているような、そんな恰好をしていた。違和感があった。こんなデザインだっただろうか? あるべきものがないような、そんな気がした。

 私は混乱している。寝ぼけているのだろうか。今まで見てきたはずの夢も思い出せない。何かがないように感じる。それに、少しだけ、さみしいような……。

 この感覚はしばらく続いたけれど、不思議なもので、朝食を食べ終わる頃には大分薄れていた。

 夢なんてすぐ忘れてしまうもの。

 昔からそういうデザインだったのよ。

 私はそう納得する。その通りだ。きっと変な夢を見て、少し混乱しているのだ。きっと、何かの拍子に思い出すだろうし、この違和感だってじきに消えるだろう。



 この何とも言えないさみしさだって、きっと消えるのだろう。



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