第六夜「北極星」(Bパート)⑤

 かなめさんの案内に従って、部屋を移る。


 さっきまでの事務的な待合室に比べれば随分ましな、ここならばくつろぐこともできると言えそうな一室で荷物をおろし、改めてようやくひと息を吐く。

 きちんと机と座椅子、座布団が敷かれ、宿泊もできるようにくおんさん用の寝床、くおんさん用のバスも完備。

 まあちょっとした旅館か高級マンションの一室、といった様子である。


 とりあえず、自分がここから即座に痛めつけられ叩き出される可能性、引いては今日がぼくの人生最後の日となる可能性が大幅に下がったというのは大きい。

 後はくおんさんにゆっくり休んでもらうのと、ここを起つまで、余計なもめごとが起きなければいいのだけど。


 あー、あとはたまこちゃんの身体検査と身元確認があるんだよな……

 と思えば、荷物を置いて一休みしていたたまこちゃんが、ちょいちょい、とぼくの脇腹を指先でつついて呼びかける。

「ねえねえ、昴一郎」

「……ん?」

 なにか、と尋ねてみると、

「あのひと、きれいな人だね」

 声を潜めてそう返され、目線で、くおんさんと書類を取り交わしているかなめさんの方を示される。

 どうやら彼女のことを言ってるらしい。

 ……あのおねえさん耳がものすっごくいいから、多分全部聞こえてるぞ。

 と思ったところで一瞬こっちをちらと見て、んふふーっ、と含み笑う顔を見せる。

 ……危ぶんだ通りらしい。


「そんなに……は、ふしだらな感じもしないし、昴一郎のこと好きになってくれそうだし、あの人だったらちょっと位は仲良くしてもいいよ。……でも、比べたらやっぱりくおんさんかな?」

 と、みょうにウキウキと楽しそうにいうたまこちゃん。

 ……かなめさんが実際のところふしだらかふしだらでないかといったら……まあ、割とふしだらではない、よりなのだけど……

 常日頃の格好のかなめさんを見たら、たまこちゃんは卒倒するのではないだろうか?

「君は本当に、どういう目でぼくを見てるの……」

「……わたしは、昴一郎に、ちゃんと昴一郎のことを好きになってくれるひとを好きになってほしいのです!」

 それはどうも。

 ありがたくて涙が出るよ!


「ほら、昴一郎のこと好きになってくれるひとなら、いざという時、昴一郎のこと守ってくれるでしょ?」 

「そ、それは確かに……」

 たまこちゃんの言うとおり、もし荒事となれば、ぼくは誰かに守ってもらわなくては生きる術がないのは事実だ。

 ……たまこちゃんもなかなか自分が化け物と戦う人間たちに巻き込まれた、という現状に対する理解が早い。

 

 ただ、……かなめさんというのは確かに腕が経つ、頼りになるひとではあるのだけど、どうも彼女は彼女で腹に含むものがある。

 ひとまずは味方ではあるし、いてもらった方がありがたい点もあるのだが、彼女にはぼくのアキレス腱をがっちり知られているし。

 あまり彼女の協力を得られることを前提に行動するというのも考え物だ。


 それと、かなめさんもいるうちにできれば話を聞いておきたい事、と言うのは他にもあって。

「そう言えば……くおんさん」

 書類のやりとりも終わったと思われるところで、

「……カシンテイコクってのは、どんな組織なんですか」

 と、声をかける。


 〈カシンテイコク〉――火神帝國。


 つい昨日、ぼくもたまこちゃんも含めて殺されそうになったばかりの、教皇院の敵だ。

 くおんさんやかなめさんやびゃくやが「要するに敵だ、ということだけ判っててくれればいい」と判断するのならそれでも納得はするけれど、どういう種類の敵なのか、くらいは聞かせておいてもらったほうが良いだろう。

 昨日のカンスケさんは、少なくとも言葉は通じたし、条件が論外であるというだけで、場合によっては交渉の余地もありそうな感じではあった。

 ……それが彼個人の特質なのか、組織としてのものなのか、とかそういうのも。


「火神帝國は、〈皇帝〉を頭に頂き、現状教皇院に組織だって敵対している勢力の中で最大の戦力を有するとされている者たちです……その内部がどうなっているのか、どういう指揮系統で動いているのかは、わたしも知りません」

 少し間をおいて考えてから、まずくおんさんが応えてくれる。

「……そして……その」

 何だろう……?

 どうも答えにくそうに、説明するのが辛そうに見えなくもない。

 まだあまり長く喋るほど体調がよくないのか、或いは……


「……あー、わたしから説明してもいいですかね?」

 言葉を淀ませたくおんさんを遮り、かなめさんが隣に腰かけながら引き継いで言う。

「……というのは、彼らの行動が常にごく少数で行われ、どういった戦略方針で動いているのかが見えずらい為です。ただ教皇院のごく旧い資料にも、その名は、何度か出てきます。……判っているのは、教皇院に対し、末端の一員に至るまで強く敵対の意思を示していること。……ま、わたし達は恨みも買ってますからねえ」

「……それは、例えば、ウィッチを倒すのを妨害してくるとか……なんでしょうか?」

「それもはっきりしません、邪魔してくる奴も、こっちを殺そうとするやつもいます、手助けしてくるやつも。それにウィッチもまた火神帝國の攻撃の対象であり、彼らがウィッチを狩る姿も記録されてます」

 ……つまり、ほとんど何もわからん。もしくは、それ以上の情報はぼくには教えたくない、ということだろうか。

 かなめさんの表情からはいまひとつ読み取りづらいが……。

「実働部隊、もしくは指揮官と目されているのが……〈火神帝國・九大騎士〉。実際に、幾度か直接交戦に及んでいます」

 それは聞いたことがある、ぼくも直接ご丁寧に名乗ってもらった、カンスケさん……彼の称号だ。

「……あんなのが、あと8人もいるってことか……」

 さすがにあまりお近づきになりたい人物ではなかった彼の事を思うと、ぞっとするところだ。

 

 かなめさんが憂鬱そうに続ける。

「その内ひとりは、ここに、教皇院に捕えています」

「……捕えた?なら……」

 ――そこから情報を得ることも、交渉することだって、あるいはできるんじゃないのか?

 というぼくの疑問に対して、

「それができりゃいいんですけどね?……捕まえてはいるけど、会いに行くことはできない……といいますか……。その一名……第四騎士・剣将〈上泉信綱〉は、生きたまま千年ヶ原せんねんがはらに幽閉してあります」

 と返される。

 上泉信綱。カンスケさんとほぼ同じ時代の、剣の達人、である。

 それも気になるところだが……


「千年ヶ原……というのは?」

「……特殊な〈鳥籠〉です」

「特殊、というと?」

「……教皇院はウィッチとの戦闘による被害を最小限に抑える為に可能な限りの措置を取っていますが……それがもろもろの理由で困難と見なされる、平たく言うなら倒すための戦力の確保が難しいとされる場合、ウィッチを牽制と挑発、誘導によってそこに繋げた門に追い込み、対策が取れる時まで、〈保留〉にするための空間です」

「え――閉鎖空間とはいえ、「倒せない」ウィッチを、問題を先送りにするために放し飼いにし続けてるってこと……ですか?」

 まあ、そうなります、と、苦りきった顔でかなめさんが応える。


「そして、今から10年前に交戦した際、抵抗が激しく、拘束することが不可能だったため、生きたままそこに追い込み、放り込んであります。……当時は、千年ヶ原の内部で生き残れるはずがない、それが有効な抹殺手段だ。そう思われました」

 ……待て。

 文脈からすると、それは、


「だが――〈上泉信綱〉の生命反応は、今日に至るまで途絶えてない」


「つまり、教皇院が倒しきれないウィッチがウヨウヨいるところで、10年間生き延びている、と?」

「理解が早くて、助かります」

 と、かなめさん。

 何と言うかこう……やることが杜撰と言うか、その場凌ぎと言うか、何とか事を納めるのに精いっぱいだったと言うか……

 一概に責めるのは簡単だけど、それもちょっと気が引ける。


「……昴一郎さん」

 眉間にしわを寄せて考え込むぼくの顔を見かねたか、くおんさんが横から口をさしはさんだ。

 ぼくを安心させようと、穏やかに微笑みながらいうくおんさんだったが……

「あの……大丈夫ですよ? わたしがツクヨミになってからは、少しづつですが、定期的にわたしが千年ヶ原内部での討伐を行っています。ウィッチを排除するための空間がウィッチの温床となるようでは本末転倒ですから……だから……。昴一郎さん?どうしたんですか、怖い顔をして……」


 ――あぁ?


 ……何というかもう、言葉が出なかった。 

 どこまでこの11歳の、まだランドセル背負ってるような女の子を使い倒すんだよ、ここの人たちは。


「……くおんさん」

「はい」

 名を呼びながら、じりじりとにじり寄る。

 くおんさんはまだ体力が万全でなく、飛び退ることも、ぼくを突き飛ばすこともできやしない。

「いいですか? 残りの休養時間、全力で休んでください、いかなるストレスも不快刺激もくおんさんに行かないように、ぼくが全力を尽くします。ぼくにできることなら、何でも言ってください」

「で……ですが昴一郎さんも大変でしょうし、あまり甘えるわけにも……」

 まだ、まだそういうことを言うか!このひとは!

「……くおん、さん?」

 つい低音になってしまった声で、ただ一言、名前を呼ぶ。

「……ぅっ」

「休養……してくれないんですか? ……突然命令されたら、言われるままにどっか行っちゃうんですか?」

「それは……その……」

 くおんさんが目線を逸らそうとするが、ここでそれを許すわけにはいかない。

 逸らしたその先に回り込むようにして、続ける。

「……ぼくは……ぼくは、泣いてしまいますよ?」

「……うっ……! で、ではわたしに、どうしろと……」

「だから、休んでくださいっていってるんですけど」

「んっ……わかり……ました……ふあっ……」

 こくんと、か細い首を縦に動かし、くおんさんは震える声でそう言った。


 ――これでよし!

 ところで、くおんさんの小さな顔が赤い!

 体調がまだ十分ではないみたいだから、しっかり休んでもらわないといけないな!


 それでえーと、何でたまこちゃんは床の上でのた打ち回ってて、かなめさんは、

「おー……孝行息子ー!」

 と言いながらガッツポーズなんかとってるんだろうか。

 あれ、その辺このひとにも伝わってたっけ?


「いや、いないでしょうが、こんな似てない親子!」

 ……問題はそこではない気がするが。一応抗弁する。

 くおんさんに息子扱いされるのはまだ許容できるけど、第三者にその辺をからかわれるのは心外だ。

「……性格は割と血の繋がりを感じるんだけど……」

 絨毯の上のたまこちゃんがぼそっと言い、

「ね」

 と、かなめさんが相槌を打つ。

 携帯端末が振動して着信を伝えてくれたので、見てみれば、

「君、時々すごいことするよな」

 と、びゃくやから電子文書が届いていた。


 ……味方が、いない。

 ……さて、教皇院には〈ツクヨミ詣(もうで)〉という、正式な制度ではないが〈慣例〉となっているならわしがあります。

 ……教皇院の名門氏族の子女が、教皇院に顔を出したツクヨミ様にご挨拶に伺い、顔と名前を憶えてもらう――というものでして。

 これは、うまくやれば将来有望な若手であるとして、ツクヨミ様から目をかけて頂けるようになるかもしれないし、異性であればお近づきになるチャンスかもしれないというヘドの出そうになる……もとい素晴らしい物なのである。


 このたびくおんさんは女性しか入れない禁裏の中での休養となるため、訪れるのは代理の方、ということになるのですけど、現在くおんさんはあくまで療養中です。

 ……なので、誠に失礼ではあるのだが、


「――ちっ」


 ……ご用件であれば、この御剣が代わりに仰せつかります。

 いえ、贈り物も、お手紙も、そういったものをいっさい受け取ってはならない、すべてお断りするように、と命じられています。

 存じた上で申し上げております。

 背けばわたくしが叱られてしまいます。

 ……今日の所は、お引き取りを願います。

 日を改めて、ということで、わたくしを通してお答えさせて頂きますので、何卒、ご厚情のほどを。

 ご容赦を。

 ご寛恕を。

 ご堪忍を。


 とこちらの事情を丁寧に述べさせて頂いて、ドアを閉じる。

「ちっ、ようやく諦めてくれたか」

 取り継げないし手紙や贈り物も一切預かれないと言ってるんだから、ものわかりよくしてくれればいいものを、呑み込みの悪いひとたちだ。


「ご苦労だッタな、昴一郎。……32回と64回」

 かなめさんがかけていってくれた〈活性〉のおかげで言葉が聞こえるようになったびゃくやが、そう言った。

「何それ?」

「……この半日で、ソのドアが開いた回数と、君の舌打ちの回数サ」

「まあ、これも仕事の内さ」

「しカシ君は真面目だナ、付け届けの品ヲ懐にいレルやつもいル」

「そんな恥ずかしいことが出来る訳ないだろ、ぼくが誰に仕えてると思ってるの?」

 というか、それをやったところでくおんさんには簡単にばれるだろうし、そうなればぼくは羞恥のあまり腹を掻っ捌いてしまうかもしれない。


「昴一郎さん。……来客、ですか?」

 と、部屋の奥の方から、くおんさんの声が届く。


「……ああ、どうもあまり「ああ、何て感じのいい人なんだろう!」と思える種類の方たちではなかったので、残らず帰って頂きましたが、何か問題がありましたか?」

「……いえ、ご苦労様です」

 と、すまなさそうにくおんさんが言う。

「良かったなくおん、母想いの息子を持って」

「……はい、自慢の息子です」

 くおんさん、それ、からかわれてますからねー。

 

 さて……くおんさんには喜んでもらえたので、それに比すれば羽毛のように軽いことだが、ここにきてからの半日で、ぼくの名前がどんな風に広まったか、想像すると少し憂鬱になる。


 どうもとてつもなく腕っぷしの強いらしいと噂の訳の判らん男が、何故か女性の格好をしてツクヨミ様に侍っている、のである。

 大切な慣例であるツクヨミ詣でもそいつが全部突っぱねているらしいと聞く。何と不埒な奴。ツクヨミ様の幼いのに付け入り思い上がっているにちがいない、外部の者のくせに。


 ――まあ、さぞや彼らの心証は損ねただろうが、こちらの強みは、別にこの組織で出世しようと思っていないことである。


 くおんさんの休養時間は、残り24時間を切った。

 ……さて、どんな風に過ごしてもらおうかな。

 台所を使わせてもらえれば、くおんさんの口に入るものは、ぼくが作らせてもらえた方がいいんだけど。

 

 ソファに腰をおろし、お気に入りの歌集の項(ページ)を捲っていたくおんさんが、ぽつりと呟く。

「……今日はいい日です、たまには、こうしてゆっくり過ごすのもいいですね」

 ぼくとしては、もっと頻繁に休養を取って欲しい。

 その一言をくおんさんからもらえただけでも今日は儲けもの、という気分だ。


「以前に読んだ歌も、改めて読み直すと、新しい発見があるものです」

 歌集を眺めながら浮かべる顔は、変化は少ないながらも程よく緊張の解けた、自然体のもので。

 そう……そうだよ。

 くおんさんに、こんな風に過ごしてもらいたかったんだよ!


「……後は、昴一郎さんに、髪もすいてもらいましたし」


 ……ああ、そんなこともありましたっけね。

「結構、慣れていらっしゃるような手つきでした。……お上手でした」

「……あ、あの、ぼくが誰にでもあんなことすると思わないでくださいね」

「そうなんですか?」

「その……あれは……くおんさんだけです。……くおんさんだから、特別。です」

 それはもう全くその通りであって、まったく狼狽えながら言う事ではないはずなのに、何か気恥ずかしい。

 おもわず言いよどみながら口にするぼく。

 くおんさんはそれを聞くと

「……判っています」

 と短く言って、ふいと斜を向いた。


「いい」

 と、背後から、やけに情念の籠りに籠った(きもちわるい)声が聞こえて、

「ひぇっ……!」


「いい……!」

 ふりまけば、そこには案の定たまこちゃんがいて。

「……新鮮な感動をありがとう……!」

 と、奇怪なうめき声を上げながら身を捩らせていた。

「それだよ、昴一郎……」

「それだって何だよ!」

「今の呼吸を、忘れないで!」

「だから何だよ呼吸って!」

「もうあと一押し、一押しだよ!」

「押さないよ!」

 何なのこの子!


 と、押し問答する事ひとしきり。


 ひとまずたまこちゃんの病気が治まったようなのを確認して、くおんさんに、ちょっと部屋の外に出て来る旨を伝えて了解を得る。

 では、と退出しようとするとまたたまこちゃんに呼び止められる。

「……どこかに行くの?」

「ええと……くおんさんにお茶でも淹れようかと思うんだけどさ」

「お茶?」

「……うん、お茶の淹れ方だって、色々あるんだよ?」

 と伝えるのだが……

「お茶なんて、飲めて美味しければいいよ?」

 どうもたまこちゃんの反応が露骨によろしくない。

「いい年した男の人がお茶の器やら道具やらお作法やらにちまちまちまちまごそごそごそごそこだわるのってきもちわるいし、どうかと思うよわたし」

 と、苦々しげに吐き捨てられる。

「……何の話をしてるんだよ」


 お茶の道具や作法?

 茶道……か?

 ……それこそ立派な文化じゃないかと思うのだが


「まあ、すぐ戻るから」


 くおんさんと、たまこちゃんを部屋に残し、何かあったらすぐ呼んでくれとびゃくやに不在の間の事を頼んで部屋を出る。


 白く照らされる明るい廊下を歩き、かなめさんにもらった見とり図を頼りにして角を曲がる。


 そして、ほんのわずか一歩踏み出したその先で。


 ぼくは、ソレに出会う。


 ちりん、と。澄んだ音が一つ鳴るのを、聞いた。 

 どこまでも軽やかで耳に快くすらあるそれは――鈴の音か。

 それが何であるか。

 特に気にもせずに先を急ごうとして、小柄な影に突き当たりそうになり、咄嗟に脇に身を躱して、非礼を詫びる。

 

「っと……失礼いたしました」


 向き直ったその先に、金色の髪の女の子が、ひとり、そこに立っていて。

 

 ――ひっ、


 と、息を呑んだ。


 薄影の中に光を放つ金色の髪。

 透き通るような仄白い肌。

 星の輝きのような瞳。

 作り物じみて整った顔かたち。


 歳のころ、くおんさんよりもなおひとつふたつ幼い程度だろうか?

 ソレは、容姿だけで言うならば、並外れて美しく、可愛らしい。

 神話や英雄物語に描かれる女神か天使か、と表現したくなるほどの、穢れなき美貌。

 姿かたちだけでいうなら「あどけない」と言い表せそうでいて、それに反し未成熟ではなく、すでにその姿形を完成形として成り立つ、幼形成熟なんてことばを思い起こさせるような。

 ――そんな、大人びた、賢そうな女の子。

 言ってしまえばくおんさんだってそうだ。

 どれほど美しく可愛らしくても、それ以上ではないはずなのだ。


 けれどぼくがその時に感じていたのは――


 ――何だ?

 ――いったいコレは、何なのだ?

 いや、――何者なんだ、お前は?


 ぼくがその童女に対して感じたのはどこまでもどこまでも、絶対的な、畏怖の感情。

 〈異質〉という感覚だった。


 黄金の童女は、何もしない。

 だが、それだけでも御剣昴一郎を絶息させるには充分に足る。

 その瞳がどこを見ているか、に思いを馳せることすら恐ろしい。

 身に着けているのは……湯浴みの後ででもあるのか、白く飾り気のない薄物ひとつ。

 真っ直ぐに立つその姿は、薄衣超しに伺えるその肢体が均整が取れて可憐な、育ち過ぎてもいない、幼すぎもしない理想的なものであるのをばくの眼前に晒していたが、それすら畏れ多く、身を竦ませる。


 ただそこにいるだけで、その場のあり様をかえてしまうような異常な存在が。

 〈そこにいるべきでないもの〉がいる。

 〈あるべきでないもの〉がある。

 叫び出したいのを、必死でこらえる。


 生命を脅かす、悪意と害意を持った外敵、そういったものであるならば、

 例えば――ウィッチ。

 例えば――自称・山本勘助氏。

 例えば――みやこさん。

 程度の差はあれ、そういった「外敵」「暴力」であるなら、嫌悪と忌避の情が湧き上がるのは〈恐怖〉という言葉で説明できる。

 そして〈恐怖〉であれば、どれほど困難であろうとも、理論上は理性と意志の力が上回りさえすれば、抗うことができる。

 例えばもしも――「自然現象」が人間の姿をしていたら?

 或いは――「正当にして正統なる権威・権力・強制力」そう言ったものが少女の姿をして立っていたら。

 つまりは、その時感じていたのは、そういうモノ。


 そしてそれほど異質でありながら、姿かたちだけは、ぞっとするほど美しい。

 これはそもそも、挑んだり抗ったりする対象ではない。

 だがだからこそ、いま意識を失いでもすれば、ぼくなど校正で改められる誤字のごとく綺麗に地上から消し飛んで跡も残らないに違いない。

 そう思いつつ、必死に胸の奥底から、なけなしの気力を呼び起こし、まっすぐに立とうとする、だが、それも直に崩れ、膝から、腰から、力が抜けて崩れ落ちてゆく。

 

「……何か」

 竪琴を爪弾くような声が、そう尋ねる。

「そのように怯えた眼でわたくしを見て、……何ごとか」


 そして、右が紅、左が蒼に輝くその瞳が、ぼくを捉える。


 駄目だ。

 もう駄目だ。

 ――認識された!


「――っ!――っ!」

 走って、逃げる?

 無理だ。

 肺が酸素を取りこんでくれない。

 もう体が動かない。

 どれほど大きく呼吸しても、全身が鉛のように重く、平伏を強いる!

「……わたくしを、知らぬのですか」

 腹立たしい位に、妙に可愛らしい仕草で不思議そうに小首を傾げ、ソレは問いかける。

 

 こ――

 こ――

 この、バケモノ!

 苦し紛れにそう叫んでやろうにも、声が出ない!


「ああ――そうですか」

 ぼくの有様を、何の感慨も示さない声で、けれど何かを頷くようにそう言って、

「あなたは――御剣 昴一郎、ですね」

 そう、声を発する。


 名前を――名前を、呼ばれた――?


 その瞬間、だった。

「――かっ、かはっ」

 ほんの僅かに、躰の自由が効くようになった。

 少なくとも、呼吸ができる。 

 それだけでも、数秒前に比すれば遥かにマシ、とそう言える。

 例え状況は何一つ好転してはいないとしても……


 ソレが、教え諭すように、ぼくに言う。

「……しゃんとなさい。以前にここに来た者は、震えながらでもしっかりとわたくしを見据え返して見せましたよ」

 それは――それは、どういう大人物だよ!

 こんなものと向き合って、物おじせず、真っ向向き合おうなんて思えるのは!


 胸中で毒づくぼくには意も介さず平然と、優美な白い指先で己を指し示し、 

「――みこと、鳳みこと」

 ソレは、己の名前らしきものを、ぼくに告げる。


「あなたがわたくしを知らないと言うのに、わたくしだけがあなたを知っているというのはいけません。だから名乗りました。それが作法というものでしょう」

 奇妙な事に、言葉をかけられる度に、全身の力が戻ってくるようだった。

 どうにか身を起こし、立ち上がってみる。

 大丈夫だ、腕も、脚も、どこもおかしくなってはいない。

 眼前の〈鳳みことさん〉が、ぼくの存在を許容し、肯定したかのように。


「――鳳、さん?」

 辛うじてそれだけ喋れるようになった口で、そう呟く。

「みこと、で結構です」

 〈鳳みことさん〉――〈みことさん〉はそう返し、 

「……わたくしは、それほどに恐ろしいですか?」

 と、どこか困惑したように、続けて問うた。

 畏れ入りながら、ひとつ顎を動かしてそれに応じる。

「……気を付けては、いるのですけれどね」

 そう言った〈みことさん〉が、ついと歩を進め、ぼくの間近へと歩み寄る。

 恐ろしい。

 確かに恐ろしいが――何だ?

 さっきまでに比べれば、まだ耐えられる。

 〈みことさん〉が、精々ぼくの鳩尾辺りまでしかない背丈の女の子であることさえ、ちゃんと把握できる。


「ふむ……これでどうですか?」

 どう――と言われても、怖ろしいのには変わりはない、目の前の〈みことさん〉の姿は、どこも変わっておらず、何か命じられたらそれに平伏して従うしかないような圧力なのだが。


「手が、届きません」

 〈みことさん〉が、ただそれだけ口にする。

「少し、屈みなさい」

 逆らうことなどできるはずもなくそれに従う。

 膝をつき、目線が合うところまで頭を下げる。


 〈みことさん〉が両手をすっと伸ばし、その掌で、ぼくの顔に触れた。

「――くっ?」

「ふむ……ふむ……」

 顎に、頬に、品定めするように手を触れて、

「――ああ、あなたは、もうすっかり、毀れてしまっているのですね」

 〈みことさん〉は、何の感慨もなさそうにそう問いかける。

 ああ、何て酷い侮蔑。

 けれど、それすら否定することができない、ただ当たり前の事実を口にしているだけで


「確か、貴方は、ツクヨミに仕えるものですね」

 重ねて向けられたその問いに、身が再び凍りついた。 

 ツクヨミの――くおんさんのことを聞かれている?

 くおんさんを……!

 〈みことさん〉が何者であるのか、全く理解が及ばない。

 けれど、こんな恐ろしいモノを、今のくおんさんに相対させるわけには、いかない――!

 くおんさんを、逃がすか、隠すか、しなければ――!


「ふむ……! その名を出した時だけ、ほんの僅か、あなたに輝きと呼べるようなものがある。自分ではまだ気付けていないようですが……」

 〈みことさん〉が、ひとりごちるように言って、再びぼくに言葉をかける。

「彼女は、貴方にとって、大切な者ですか?」

 という問いかけに、

「大切、だよ」

 と、答えることができた。

「大切な、」

 絞り出すように、血を吐くように、そう答えた。

「大切な、」

 何と言ったらいいんだろうか。

 ――家族?

 ――主?


 ――ああ、くそ!

 何で、こんな化け物にこんなことを白状しなくちゃいけないんだ!

 だけど、

 これは、恥ずべき行為じゃない。

 これだけは、きっとぼくは、誰にだって言えるはず――!


「大切な……! 大切な女の子だ!」


「成程……!」

 その答えの何が彼女の琴線に触れたのか。

 どこか満足そうな感嘆の声の後に――優しげな声、とすら表現できる声音で、〈みことさん〉がぼくに語りかけた。

「……いいですか、御剣昴一郎、きっとあなたはまだ、ただの一度も己の人生を生きてすらいない」

「――な、に?」


 見た目の顔かたち相応の稚気に満ちた満面の笑顔を浮かべ、彼女は謳う。

「――願え!望め!欲せ!求めよ!あなたはきっと――そこからようやく始まる!」


 ぼくはただ茫然と、彼女の嬉しそうな、可愛らしい笑い声を聞きながら……

 ひとつ息を吸った後、瞼を閉じた。

「おーい、おーい」

 ――誰かに呼ばれて、目を覚ました。

 柔らかな指先が、ちょんちょんと頬を突いている。

「う、あ……」

 ずきずきと、頭蓋が割れそうな痛みに顔をしかめながら瞼を開く。

「何やの?こないなところで」

 ――どうやら、不覚にも廊下で横になったまま眠ってしまっていたみたいで、

「今どきの外の方は雅びやねえ、廊下で寝るの、いま流行ってますん?」

 何か、酷い夢を見てた気がする。

 ――何だっけ。

 起こしてくれたらしい、この声の主には、感謝しかない。


「ほら、いつまでもそうしとらんと、起きておくんなはれ」

「あ……ごめん」

 フリルとレースに飾られた、豪奢なゴシック調の黒いこども服に身を包んだ、綺麗な女の子が、横たわるぼくの顔のちょうど脇にしゃがみ込み。物珍しそうに覗いていた。


 黒いビロードの、精緻な飾り刺繍が施されたスカートから伸びるか細い両脚は黒いハイソックスに包まれていて。

 失礼ながら、悪気はないにしろ咄嗟に視界に入ってしまったその奥は――白だった。

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