第六夜「北極星」(Aパート)③
〇
人間は、とか、ひとは、とか無暗に大きな主語で語ることは基本的には慎まなければならないことである、のだけれど……。
このぼく御剣昴一郎をはじめとする、ごくごく普通の、そんじょそこらの平均的一市民であっても、何かの弾みで、
「けして取り返しがつかない、自分でも何でそんなことをやっちまったのか皆目判らない事をやっちまう」ことは、時にはあるもので……
……具体的に言うと、その時のぼくは、まさにその状態だった。
「……ん、くっ……はぁっ……はぁっ……」
「あ……あ、あ……あわわわ」
つまり、ぼくがはっと我に返った瞬間。
眼前に――、耳まで仄かに赤く染め、声も出せなくなっている、恥らうくおんさんがいた。
そして、部屋の前、――廊下でうずくまる、たまこちゃんがいた。
――忘れていた。
昨晩、とりあえずぼくの部屋で休んでもらうことにした彼女を起こしに行っていなかった。
身体に傷こそなかったもののすっかり怯えきっていた彼女に、ここは安全な場所だから何も心配はいらない。朝になればまた来る――と納得してもらうのにも、随分難儀したものだったのだが。
「い、いやあの、これはね」
「ひぃぃっ!」
つい、引き攣った声で言いながら歩み寄るぼくと、尻餅をついた姿勢のまま、思いのほか機敏な動きで後ずさるたまこちゃん。
まあ何しろ、彼女はどうも、自分の名前だけは覚えていたものの、あそこで目を覚ますまで、どこでどうしていたのか、まるで覚えていないと言う事で……それは不安にもなるだろうが……
「ああ、そう怖がらないで、だから、これは……」
これは……
いや、これは、何だ?
ぼくは言い訳しようとしているのか?
あの、ぼくはなにか、特殊なことしてましたか?
言い訳しなければいけないようなことを、していましたか?
「な……」
震え慄く声が、たまこちゃんの喉から漏れる。
「なに、してたんですか……?」
「なにって……」
いや、いやいやいやいや。いやいやいやいや。
ぼく、変なことしてないよね!
普通に、当たり前にくおんさんの髪を梳いてた、ただそれだけだよね!
「あんなに小さな女の子に……あんな風に髪を梳いて……!あんな風に名前を呼んで……!」
……そう、では、あったかも、しれないけど!
「くおんさん! くおんさんからも何とか言ってください!」
そう声を上げ、助けを求めるように、鏡台の前のくおんさんを呼んではみるものの、
「え……その」
くおんさんは――目をそらして斜の方を向き。
――それから、ぽっと、可愛らしく頬を赤らめて、口をつぐんだ。
「くおんさんっ?」
まったく、本調子ではないとはいえ、くおんさんともあろう人がいったいどうしてしまったと言うのだ。
……実際のところ、どうやらぼくも数分の間、記憶がはっきりしてないのだけど。
まあ、くおんさんの麗しの御髪(おぐし)を手ずから梳らせて頂く、という態変な栄誉に預かった。
されど髪の毛、かもしれないが、たかが髪の毛――ではないか。
言葉では説明し難い、と言ってしまえばそれ即ち御剣昴一郎の語彙の貧困と怠慢とを晒すことになってしまうが、掌に、五指に、これまでの人生であまり覚えたことのない幸福感が未だ残留している。
そのさ中、つい……くおんさんが愛おしくなって、その名を呼びかけてしまったりは……したかもしれない。
確かに得難い経験ではあったが……それだけのこと。である。
例えば、この屋敷の中に限っても、いつも顔を合わせる紙人形のお嬢さんなんかは、普段からくおんさんの髪や、それこそお肌に触れることだってあるだろう。
今日はたまたま、その役割がぼくだっただけで。
何を狼狽えたり、疾しく思ったりすることがあろうか。
「……んっ」
どうにか平静を取り戻してくれたらしいくおんさんが、こほんと小さく咳払いをしてから、
「はい、昴一郎さんは、普通に髪を
と、ぼくの潔白を保証した。
そこまでは良かった。
「……良いですね?」
声のトーンを落とした、念を押すようなその一言が拙かった。
……くおんさんは大層容姿が美しいが故に、それもどちらかというと、美しさの「ジャンル」というものが、「幼くもミステリアスで、時に冷たくさえ見える美貌。」という部類に属するせいで……
その、ちょっとばかり、本当にちょっとばかり、知らない人からすると……
特に、びゃくやとかぼくとか、距離の近い相手以外に対するよそ行きの、毅然とした態度を取ろうとする時には。
威厳があるというか。
厳しく見えると言うか。
いや、ぼくはけして彼女をそうは思わない、思わないのだが、それでも。
もしかしたら、ひとによっては、恐い、怖ろしいと感じるひともいるんではないかなあと思われるような。
……そういうところが、おありになるので……
「――ひぃぃぃ!」
そして、平たく、端的に言うと、たまこちゃんはくおんさんに怯えまくっていた。
震え、竦み、息を荒げ、冷や汗を垂らし、今にも過呼吸でも起こしそうである。
「くおん、怯えているではないか、かわいそうに」
と書いた紙を嘴に咥えたびゃくやが、ぼくの肩にばさりと停まった。
「あ、あの……わたし、だまってます……いまみたこと、だれにもいいませんから……だから……!」
と、そこまで言うのが気力と勇気の限界だったのか……
「……こっ、ころさないでっ! くだ、さいっ……! や……やだぁっ……! 死ぬの、やだあぁっ……!」
嗚咽交じりに言いきると、その場に泣き崩れ、しくしくとすすり泣きはじめた。
いったいぼく達を何だと思ってるんだ、この子。
……特に恩に着せる気はないけど、それなりに体張って君を助けてきたんだよ?
……だが、どうも、おかしい。
「ウィッチを恐れている」のなら、おなじ人間の姿をしているぼくたちを、流石にここまでは恐れないだろう。
それに、言葉の端々から、ウィッチとは関係なく、叱責される、責められるという段階でなく「殺される」……差し迫った生命の危機に晒されていたかのような、根の深い怖れが感じられる。
彼女は「ローズウィッチが落としていった」……少なくともそう見えた訳だけど、それとは関係なく、もともと暴力的に命を奪われるような状況に瀕してでもいたとでもいうのだろうか。
つまりは、ぼくたちだけでなく、この世界全てが恐怖の対象であるかのようだ。
「……ひぃっ……ぜぇ……こひゅっ……」
と、見ている間に、泣きじゃくる声が、喉を引き攣れさせ、呼吸を詰まらせるようなものに変化しつつあった。
むかし兄さんが具合の悪い時、よくこうやって苦しんでいた。
……これは流石に、放ってもおけまい。
「………っ」
くおんさんは、一度ぼくの頭上のびゃくやに怒りの視線を向けると、ベッドに手をついて身を起こした。
「……くおんさん、無理に起き上がられては……」
と押し留めようとするぼくを手で制すると、確かな足取りで、――これは、精いっぱい気を張って、己を奮い立たせて、動かない身体を無理やり動かして、尚それを悟らせまいと努めているのだと言う事が、明らかに見て取れてしまうような調子では、あったけれど。
「……怖がらせてしまって、ごめんなさい」
たまこちゃんのところまで歩を進めると、穏やかにそう言って、
「わたしはそんなに、怖ろしかったですか」
と、重ねて声をかける。
膝を折り腰を屈め、目の高さを合わせるようにして、たまこちゃんの手を取った。
彼女の呼吸が落ち着くのを待って、
「けれど、わたしは、あなたの味方です」
と、静かな声で、そう伝える。
「あなたのような人たちを護ることが、わたしの役目です」
ひとつひとつ、愚直に言葉を届ける。
「信じて、もらえますか?」
ああ、……こういう子、こういう人なのだ。
今の
光を超え、大地を叩き斬る破壊力は、望むべくもない。
けれど、それでもこうやって、そこに怯え、震えているひとがいるなら、そこは依然変わらず、彼女にとっては戦いの場なのだろう。
……ましてや、当の自分が小さな女の子を怖がらせてしまった。とあっては、その葛藤、如何ばかりか。
そして実際、くおんさんの二言三言は、ぼくが無体に吐いた数多の言葉よりも、はるかにたまこちゃんを安堵させる効果を持っていて。
たまこちゃんの呼吸を鎮め、強張り引き攣っていた顔つきを、おだやかで可愛らしい素の物へと変化させていた。
何か、精神を安定させる魔法でも使ったのかとも思ったのだが、そんな余裕はなかったはず。
本当に、言葉と笑顔だけで彼女を救ってしまった。
自分がこの人に仕えているということが誇らしくなってくるほどの王子様ぶりだ。……まったく敵わない。
……ああ、だからこそぼくは、このひとのことが。
「昴一郎さん、お水を」
くおんさんに促され、カップに水差しから白湯を注ぎ、たまこちゃんに手渡した。
「……ええと、その」
たまこちゃんは、一口水を喉へと流し込んでから、まだおどおどと、心細げに視線を泳がせながら、
「た……大切な時間……だったのではないですか?」
と、尋ねた。
くおんさんはそれを受け、面映ゆげに苦笑いすると、……少し考えてから「んっ」と小さく頷いて。
「……なら、騒いで、邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
たまこちゃんは涙をぬぐって、そう返した。
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