第六夜「北極星」(Aパート)②
○
……一応、言い訳をさせてもらう。
くおんさんからの、髪を梳いてほしい、という求めに対し、ぼくは最初、遠慮させてもらった。
というか、頭を下げて、そればかりはご容赦を、と固辞したのである。
だって何というか、……畏れ多いではないか。
髪というのは、肌でこそないが体の一部だ。
それも、多感な時期の少女ともなれば、他人に触れられるのは抵抗があるだろう。
まして相手は、――くおんさん。
その外見を端的に表するなら、――長い黒髪の、ミステリアスな白皙の美少女。
より正確に言うなら〈神話級の美少女〉。である。
腰の辺りまでの丈の、その特徴的な黒髪ときたら、まさしく日の光月の光に映えて輝くこと宝石のような黒髪なのである。
あだやおろそかに、ぼく辺りが触れてしまっていいようなものであるようには思えなかった。
「だってその、他人が女の子の髪に触れるのは……」
びゃくやがノートを嘴で咥えてよこす。
「君は、知らんかも、しれんが」
「人間の、世界には、美容師、理髪師という」
「職業が、あってな?」
と、切れ切れに書いてあった。
いや、それは知っているけれども。
ひとを突然近代社会につれてこられた前近代人みたいに言うんじゃない。
そういうのだって、特殊な技能だし。
……だってくおんさんの髪って、髪だけどただの髪じゃないじゃないですか。
名工の手による美術品とかに類するモノじゃないですか。
御剣昴一郎指定人類文化遺産とかにして保護しておきたいくらいじゃないですか。
煩悶にうめくぼくに、びゃくやのメモが放たれる。
「くおんが望んでいることができないというのか」
「君の忠義はその程度か?」
「それともくおんの髪には触れたくないのか?」
メモの一枚一枚が、鏃のようにぼくを苛む。
そうではない、そうではないのだ。びゃくや。
ぼくくらいくおんさんの髪の価値が判っている男はいない。
そして、さらに続けて放たれた数枚は
「何でもすると言っておいて」
「嘘をついたのか?」
「君は嘘が嫌いではなかったか?」
――既に満身創痍のぼくの心臓を、深々と抉った。
そして、続けて放たれたメモの一枚は、ぼくが手に取る前にくおんさんが拾い上げて、
「…………」
何が書いてあるのかぼくがまだ認識しない内に、笑顔を浮かべながら、ぐしゃりと握りつぶした。
「ん。……びゃくやの戯言はともかくとして」
そして、くおんさんはぼくの前に立ち、
「普段は自分でしていますし、誰にでもお願いできる訳ではありません。昴一郎さんだから、頼めるのです」
視線の高さを合わせ、仕方のない子ね、とでもいうように。
「お願い、できませんか?」
そんな風に、言うのである。
「……ね?」
「……でも」
「……ね?」
もはや、断るという選択肢はなかった。
くおんさん、ぼくの操縦方法を熟知し過ぎじゃないですか?
○
既に、湯浴みの際に埃や汚れは洗い流してある、とのことで。
居住まいを正し、深呼吸をしてから、いざ、と白いワンピース姿のくおんさんの背中に正対する。
なまじウィッチとの戦闘の前よりも緊張する。
一度露わになった真後ろからの首筋の白さに目が眩みそうになりながら。柘植の櫛を手にして、椿の油を手に絡ませて、改まって告げる。
「では、――ふつつか者ですが、よろしくお願いします!」
そして、濡羽色の黒髪に、指先を差し入れて――。
――うわ、あ。
息を呑み、言葉を失う。
何と言う滑らかさ。何と言う柔らかさ。
何と言う、清らかさ。
これは、何だ。
今自分は、一体何に触れている!
このような、……このような感触が、この地上に存在しようとは…!
今さらながら、くおんさんの頭皮に畏敬の念すら覚える。
……最上級の絹糸のよう、などという比喩が、どこまでもどこまでも野暮で的外れなものとしか思えない。そんなものでは断じてない。
ああ、そう、どんな比喩だろうと、この感触を正確に表しているとはいえない。
それでもあえて、他の表現を探そうとするなら。
――月の光の照らす、清浄な夜の大気を髪の毛の形に押した様な。とか。
――生涯ただの一度も罪を犯さず清らかに生きた聖人を祝福するため奏でられる音色のようなとか。
そう言う、ほとんど形而学的な比喩を持ってくるしかないのではないか。
艶やかな髪の一筋ひとすじが挿し入れた指の
こんなにも美しいものに手を触れているという、高揚感。
そして、同時に襲ってくる、――罪悪感。
本当にこんなことしてしまっていいのか。
くおんさんに求められてのこととはいえ、これってそれこそ天罰が当たってこの身を砕くのではないか。そう思われてならなかった。
一瞬、僅かに手を止める。
――我が主、くおんさん。
あんなにも強いひとが、こんなにもきれいなひとが、
「……どうか、しましたか?」
背中から見るその姿に、今更ながらに、
――こんなに、小さかったんだよな。
とか、
――ぼくの為に無理をさせてしまっているのではないか。
とか、そう言った感情が押し寄せてくる。
――ああ。どうか。
そんな想いが、ふと、声に出て。
「くおん、さん」
思わず、そう呟いていて。
「ーーっ」
くおんさんが、短く声を上げ、びくん、と身をよじらせた。
咄嗟に飛びのき、叫ぶ。
「な、何かしてしまいましたか、髪を引っ張ってしまいましたか、爪が肌に当たりましたか」
そのようなことがあればこの御剣、今すぐこの場で十文字に腹を掻っ捌きます!
「い……いえ、急に名前を呼ばれたから、びっくりしただけです。あと、少しくすぐったくて。……お腹は切らないでください」
「……そ、そのようにします」
「……そういえば、昴一郎さんは、けっこう、綺麗ないい声をしていますよね」
「そ、そうでしょうか、自分じゃあんまり」
気にしたこと、なかったけど。
「……ええ、声優さんみたいです」
声優さんって偉大ですよね。
例えばぼくだって、一流の声優さんが声を当てていたらそれだけで魅力が数割増しになるであろう。
「あ、あははは……く、くおんさんにそういってもらえるなら、すこしは自惚れても、いいのかな……」
「でも、突然呼ばれるとその、びっくりしますので……ほら、昴一郎さんはよく、ええと、とか、その、とかつけて喋りますよね? そう言う風にしてもらえれば、大丈夫だと思いますよ」
改めて、そう言われ、髪梳きを、再開する。
「じゃ、じゃあ、声かけるときは、そうしますね!」
しかしさっきは驚いた。
髪を梳きながら名前を呼んだだけで、くおんさんがあれほど過敏に反応するとは。
とりあえず、突然声をかけたりしなければいいわけだ。
決して同じ過ちは繰り返すまい。
くおんさんもさっきは少し恥ずかしそうだったし、普段透けるように真っ白な耳も、首筋も、ほのかに紅潮していて……
「くおんさん」
――そう、囁いた。
「ひゃ……!」
小さな動物のようにくおんさんが震え、声を漏らす。
「……くおんさん」
「こ、昴一郎さん? や、約束が、ちが…」
甘い声が漏れる。くおんさんの小さな体から、次第に力が抜けてゆく。
……ああ、良かった。
ちゃんと、喜んでもらえている。
くおんさん、ぼくは、あなたの役に立っていますか?
「……くおんさん」
信頼を、敬意をこめて。
一房一房、髪を丁寧に梳き上げながら。
「くおん、さぁ、ん」
「ふ、ぁっ! も、もう……や、やめっ…!」
「くおん、さんっ……!」
「……ん……っ!」
がちゃり。
という、ドアノブを捻る音がして、手を停めた。
――はっ、ぼくは何を。
部屋の入口……びゃくやか?
「何、してる……の?」
震え慄く、ふたつの瞳が、ぼくたちふたりを、映していた。
「えっ?」
そういえば、
今この
すっかり忘れていた。失念してしまっていた。
昨夜連れて帰ってきた女の子――たまこちゃんは怯えきった表情を浮かべたまま、恐ろしいものをみてしまったように、ぺたりと床に座り込んでいた。
……うわあ。
やっちゃったよ!
「きもちわるい」
一枚のメモ紙がひらりと舞って、床へ落ちた。
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