第六前夜「流星、砲将、黒陽、皇帝」④

 ――皇帝――


 くすくす。くすくす。

 ――彼女は、笑う。

 

 もしもここに誰かしら、この光景を目にするものがいたとすれば、己の正気を疑うだろう。

 彼方に見えるは、宝石箱を一面に振りまいたような、無数の煌く星々。

 右手に、太陽。

 左手に、月。  

 そして、眼下には青い惑星。

 何しろ此処ココは、――である。

 煌々と輝く星々が、眩く燃え続ける日輪が、そして真白き月の光がどれほど美しく見えようと、この場は生命の存在をけして許さない。


 けれど今この瞬間。――真紅のドレスに身を包んだ、美しい女性がひとり。

 年の頃は、20をいくつか過ぎた程度か。

 ドレスと同じ色の赤く長い髪をゆらめかせ、地上を遠く離れ闇の中にその身をたゆたわせる。

 夢見るように目を細めて、胎児がそうするように四肢を折り曲げ体を丸め、暗黒と真空のただ中に、彼女はいた。

 

 ――あははっ。


 重力の軛を外れて、くるりと一回転。

 優美な肩と胸元を大きく露出させ、吹き付ける太陽風と降り注ぐガンマ線を滑らかな素肌に受け止めて、悠然と気晴らしに興じる。

 生命体がこのように身一つで宇宙空間に放り出されたら――。

 たちまち窒息し、破裂し、凍りつくか、焼け焦げるか、全身を宇宙線に冒されて命を失う。

 こんなことはありえない。

 などと言うのは、こうして彼女が現に存在している以上、それこそありえない。

 ――彼女が存在している以上。〈そこ〉は既に彼女の帝國の支配域だ。

 真空状態も、いかなる宇宙線も、彼女の細胞一片すら害することはできない。

 それが〈絶対零度〉だろうと〈一兆度の炎〉だろうと、それこそ〈光速〉だろうと同じこと。

 たとえこの瞬間に、巨大な隕石が降り注ごうが、頭上の惑星から彼女目掛けて最新鋭の殺戮兵器が殺到しようが、その玉体に傷ひとつつけることも叶わない。


 ――ふん、ふん、ふふん。

 故に、彼女の口元からは、笑い声と、小鳥のさえずるような歌声が零れるのみ

 細く開いた瞼から覗く楽しげなその瞳に宿るものは、溢れんばかりの、慈悲と慈愛。

 およそ悪性と取れるものなど何一つ見受けられない柔和な微笑みを浮かべ、彼女は頭上の青い惑星を見上げていた。


 手を伸ばし、掌をかざし、母親が我が児にそうするように包み込む。

 遥かな距離を隔ててそうすると、直径12000キロの惑星も、あたかも指先に乗るような小さなものに映った。

 そんな指先の水滴に、そしてそこに息づく者たちに微笑みかける。


 ああ、なんて。

 ――なんて、いとおしい。


「――わたしは、あなたたちがだいすきだ!」


 その想いを、口にする。

 胸の内が、その感情で満ちる。

 人類だけでも総数、およそ70億人。

 その全てに分け隔てなく、普く慈愛を注ぐ。

 老若男女貧富貴賤、ただ一人の例外もなく、すべての命に加護を与える。

 健やかであれ、豊かであれ、――幸せであれと。

 病まぬように、

 獣に食われてしまわれぬように、

 戦に見舞われぬように、

 不幸と悲しみの内に、その生を終えてしまわないように慈しむ。

 持てる能力の8割近くを常時そちらにつぎ込んで、幸福と繁栄とをもたらし続ける。

 己の命を捧げるようにしててそうすることこそ、彼女にとって最大のであり、最高の喜びであり、身を焦がし続ける苦痛から気を紛わせる、唯一の手段だった。


 眼下の青い惑星は、彼女の指先の上の小さな水溜り。

 或いはシャーレの上の寒天に過ぎない。 

 毎秒毎秒手を加え、赤子をあやすように慈悲を施し続ける。

 ほんの少しでも手を抜けば、たちまちその中の生命体は死に絶えてしまう。

 ――これほど手をかけてさえ、青い惑星は楽園には程遠い。


「――あなたたちは、まだ、悲しんでいるな」 


 ――ああ、まだだ。


 まだ足りない。


 まだわたしが至らない。


 まだわたしの献身が足りない。


 まだわたしは、すべてのひとを救えていない!


 どれほど介添えの手を尽くそうと、どれほど慈愛を注ごうと、まるで穴の開いた袋に水を貯えようとするかのように、それはどこかに消えてゆく、それは枯渇してゆく。 

 或いは飢え、或いは渇き、或いは病み、或いは怯え。

 それらから逃れるために必死で自ら生み出した物に絡め取られて。

 もっともらしい理屈をつけて、勝手に憎み合い、争い、殺し合う。

 やむを得ない、という魔法の言葉のもとに切り捨てたり、切り捨てられたりする。

 ――果ては、わけの判らぬ獣に食われて死んでゆく。


 その悲しみ、その渇き、

 彼女には、己が事のように理解できる。


「ああ、わかるよ、よくわかるなあ、――これほど悲しいことはない!」


 かつて幼い日に望んだ通り、彼女には〈他人の痛みを理解する〉ことができた。


「あなたたちも、わたしも、等しく弱者なのだから」


 弱いから、脆いから、助け合わなければ生きていけない。

 わたしはあなたたちを助けよう。


 どうかもう少し、もう少しだけ、耐えてほしい。

 わたしが、必ず。――必ず。

 あなたたち、すべてを。


「――――から」


 一言、そう呟いて。ほんの少し、身を傾けた、

 それで、重力の糸が、彼女の優美な肢体を絡め取る。

 上下左右のなかった空間から、重力に引かれて、――まっさかさまに、墜ちてゆく。

 ――大気圏、突入。


「あ は は は は は は ―――!」


 断熱圧縮と呼ばれる現象。

 微細な空気の粒子が圧縮され、赤いドレスに包まれた肉体に押しつぶされ、高熱の火の粉が柔肌の上で踊る。


 ……何の痛痒も感じなかった。

 およそあらゆる焔は、彼女の糧、彼女の力。

 そういう出自を、彼女は持っている。 


 星々が、太陽が、そして月が、彼方に遠ざかってゆく。

 ――ああ、そうだ。


「あの子はどうしているのかな?」


 脳裏に、一人の少女の面影を思い浮かべた。


「――そろそろ、あなたのところに行こうかなぁ?」


 さて、どこに落ちようか?

 かくして――火神皇帝は、帰還する。

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