第五夜「ソードオブジワン」(アバン)

〈Are you happy?〉 答えてよ。

 夜の台所、くおんさんのために、ローストビーフを作っていた。

 時間はかかるけど、そこそこの手間で、まあくおんさんに出しても失礼でないものを用意できるであろうということで、柄にもなく気合が入っている。

 塊の肉に塩をすり込み、ニンニクと胡椒で香りをつける。

 均等になるようにフライパンで火を通して一旦表面に焼き目をつけ、ビニール袋に入れて密封する。

 オーブンではなく、袋に入れた状態でお湯に入れて熱を通してゆく。本で読んだ、「失敗しない調理法」だ。

 作業としてはそう複雑なものじゃない。

 館に納められている肉が、柔らかできめ細やか、弾力と脂ののりもいつにもまして素晴らしく、これはあだやおろそかな調理で無碍にしてしまったのでは申し訳がない、ということで、ちょっとだけど自信のあるこのメニューである。

 仕上がった暁には、そのまま薄切りにしてサラダと盛り合わせてもいいし、サンドイッチにして昼御飯として出すのもいい。

 見た目の上品さでは一歩譲るが、ごはんにそのまま載せて、というのも捨てたものじゃない。

 さて、予定通りの時間熱を通し、一旦火を落とす。

 ふむ、まずは良い出来栄えである。

 袋から取出し、アルミホイルで包んで、粗熱をさましていく。

 後は、別の容器に移しておいた肉汁に、醤油と調理酒を加え、別に炒めておいた玉ねぎと、おろしリンゴを合わせてソースを作らねば……だけど。いったん休憩だ。

 ひとまずは、スペースを開けるために、使い終わった調理器具を片付け、一息ついた。


 そんな時だった。

「なあ、昴一郎」

 聞こえるはずのない、ここにはいない義父ミツヒデさんの声を聴いた気がした。


「……これは、知り合いの爺さんの話なんだけどさぁ」


 ふと、そんなことを思い出した。

 ……同じような状況、似たシチュエーションだったから、脳が関連する記憶を誤って再生した。

 そういうものだろうと、判断する。

「……ああ、そういや、そんなこともあったっけ」

 あれはそう、やっぱりこうやって、食器の片づけをしていた時のことである。


 我が家の炊事担当というのは、まあ基本的にはぼくである。

 気が向いたときにはミツヒデさんが手伝ってくれたりもするのだが、その時はそうではないらしく。

 もう片付けてもいいのかと尋ねるのに対する返事も「ああ、うん」とそこそこに、何やら小難しいテレビ番組に見入っていた。

 それはそれで別に構わない、2人分の食器の片づけなど大した手間でもないし、こういう作業は黙々とやった方が結局早い……のだが、予想に反して、視線はテレビ画面に向けたまま、背中越しに、ミツヒデさんはそんな風に声を変えてきたのである。

 見たところ、今見ているテレビ番組とも何ら関係はなさそうである。 

 こういう時の、こういう世間話というのは往々にして、面倒くさいと言うか、話があらぬ方向に二転三転し、結局最後には「もともと何の話だっけ」となるような、謎の虚無感に襲われる羽目になるのが大概である。

 なので、気のなさそうな返事が我知らず出る。

「……はあ、光秀さんの知り合いってのはおじいさんですか、孫の方ですか?」

 そう、今の言いぐさだと、知り合いであるおじいさんなのか、知り合いであるひとのおじいさん、なのかが判然としない。

「爺さんの方だよ、孫の方も知らなかねえけど、親しかったのはうん、爺さんだな」

「で、だれですかそれ、ミツヒデさんのお父さんですか?あ、それならぼくのお爺さんになるなあ」

「いんや? 名前言えば聞いたことあるかもしれないけど、俺の知り合いってだけで、おまえとはまったく縁もゆかりもない人だよ、……何となくこれっぽっちも興味なさそうだが、それは俺も承知の上なんで、つづけるぞ?」

 それほどまでの覚悟か、ミツヒデさん。

 ならば、多少は付き合わないと流石に悪かろう、洗い物の手を止め、三角巾を頭から外して向き直った。

「まあ、年取ると話がくどくなるってのはどこも同じでさ、爺さんも若いころは頭の切れる人だったんだが、その辺は例にもれなくってなあ」

 特に珍しい話でもない。

 話のくどい老人くらい、どこにでもいるだろうよ。

 いちいち差し挟んでも益体がないので、あえて口にはしないけど。

「最後の年の正月だったかなあ、家族だの使用人だのの居並ぶ中で、毎年恒例の新年を迎えるにあたっての心得みたいなのを、滔々と垂れてくれるのが習わしだったわけさ」

「それで、そこにミツヒデさんもいたんですか?」

「……ああ、それでな、昔はああだったこうだった、俺は苦労した、おまえらはなっとらん、不満なんか持つな、上から言われたことは疑いを持たず必死でやれ。まあ例年だったら、そういう話をしてたんだよ」

「……あまり、聞きたい話ではないですね」

 いったいその話をどう活かしたら良いのやら、それではただの愚痴ではないか。

 ありがちなこととはいえ、年の初めからそんな話を聞かされなければならないその場の面々の胸中が察される。

「……まあな、だが、その時に限って、じいさん変わったことを言ったのさ」

 そこまで言うと、ミツヒデさんは重々しく声音を変えた。

「このなかには、まあいろんなものがいると思う、仲の良い悪い、好き嫌いはあると思う、損得勘定でいがみ合っているものもいるかもしれん」

 一度、言葉をそこで切って、

「……だけど、どんなに周りからはぐれた、おかしなやつであっても、誰か一人くらいは、そいつのことを判ろう、思いやろう、そう思うものがいないといかん。どうかみんなもそう心がけてくれ。……そう言ったのさ」

 どこか、名文を諳んじるように、畏まった風に、ミツヒデさんはそこまでを言った。

「……それで?」

「前の年まではバリバリ働いてたんだけど、じいさんはそれから少しして急に体調を崩して、春先に亡くなりました、まあだいぶ高齢だったからな、おしまい」

 それは何とも……何とも、とりとめのない話である。

「……何か為になるような話でも聞いたって、ぼくに聞かせたいのかと思いましたよ」

「為にはならんか? おまえはそれを聞いてどう思った?」

「言わないと駄目ですか」

「どう言っても俺は怒らんから」

 なら、まあ、と思い、

「……まあ、聞こえはいいかもしれないけど、主流にはならない考えですよね」

 とだけ、応える。

 確かに、ある意味で理想論としてそうであるべきなんだろうと頷くことはできるものの、

 理屈で、本当にみんながそう考えるようになったら、そもそも最初からのけものになるようなひとはいないと言う事になるし、それに……

「そりゃそうだ、それにまあ、そう思って、思いやって、その結果、やっぱりろくでもなかったてことだってあるだろうしな…ああ、でも、それはいい、そこまではまあいいんだ」

 苦笑いしながら、ミツヒデさんは続ける、

「そこまでは……? じゃあ、何かそれ以外にあるんですか?」

「うーん……ふと、何でじいさんはその時そんな話をしたのかなあって、今になって思ってさ。あの人は、……本当は何を言いたかったんだろうなぁ?」

 もう、テレビは見ていない。

 隣に腰掛け、尋ねてみる。

「そのおじいさんは……どんな人だったんですか?」

 そう、言葉というのは常に、それ単体ではなく、誰が、どんな人物が口にしたかでその意味合いも重みも変わって来るものである。

「いや、その爺さん自身も、結構癖の強い人ではあったのさ、何しろ誰も逆らえないような立場の、いってみりゃ絶対権力者さ、その上頑固で意地が悪くてな、え?あんたがそれ言うの?って俺も思ったよ」

 ……何だ、どちらかと言えば、ミツヒデさんが一番嫌いなタイプの人種ではないか。

 でも、誰かが、――でなければならない。なんて言葉を使うのは、おおよそ知れていて、自分がそうしてほしいってところから出てくるのだ。

 つまりそのおじいさんは、のけもの、つまはじきになって見捨てられるものがいない、そういう世界を望んでいたということになる。 

「年取って、遅ればせながら弱者を思いやろうって気になったんですかね?」

「さあてなあ、生きてりゃ色々あるわけだしさ、そういうシチュエーションで、……味方になってやれなかったのかもしれない。味方になってもらえなかったのかもしれない」

 そういうミツヒデさんの声は、いつもの軽薄そうな口調とは微妙に異なっていて、

「それともあるいは、案外、単に年取って老い先短くなって、弱気になって、自分の評判が気になっただけってこともあるかもなぁ?……そう、一番に思いついたのは「ええ格好しい」なんだが……だけど、な、知ってる限り、その爺さんに、のけ者になってる奴に味方してやる、手を差し出してやるってのを「ええ格好」だと見なす感覚ってのは、なかったのさ」

 だから、そいつが、いまになって不思議でなあ。

 そう言って、ミツヒデさんは、天井に視線を向けた。

「まあ、……そう思う人が一人もいないって集まりよりは、一人でも二人でも、そんな考えの人がいた方が、居心地のいい集まりなのかもしれない、ですよね」

「そう思うか? ……まあ、いつか、気の利いた答えを思いついたら、教えてくれな」

 ミツヒデさんは、そう言って、手を伸ばし、ぼくの頭をわしゃわしゃと、子供にするように、撫でた。 

 というか、ぼくが気になるのは、

「それで……ミツヒデさんは? ミツヒデさんはどうしてぼくにそんな話を聞かせようと思ったんですか?」

 と、いうことである。

 よそのご家庭で、こういう会話が親子の間で普通にあるものなのかどうか知らないが、その時その場に立ち会っていた当人であるミツヒデさんが考えて判らないことが、ぼくに持ちかけてみてどうなるものでもないだろう。

 現に、ぼくが思いつくのは精々……

「……いや、な、その話聞いたのも、覚えているのも、多分もう、この世に俺一人さ。もう、あの話を聞いた時、同席してた人たちは残らず墓の下だし、俺だっていつどうなるか判らないし、もし俺が居なくなったら、この話は俺の脳味噌と一緒に灰になって、それっきりなんだよな、って――」

 天井を見上げたまま、ミツヒデさんは答える。

 まあ、どんな話だって、そんなものだろう。ほとんど、そんなことばかりなのだろう。

 どこかの誰かにとって、どれほど重い葛藤だろうと、それが別の誰かにとって、どれだけ意味を持っていようと……何かのきっかけがあって、それが言葉なり文章なり行動なりにならなければ、誰かの頭に死蔵されて、消え去ってゆく。

「死んじまった後じゃ、他人に何を言われてもどうする事も出来ねえしさ。死んだ人間は、何も思えねえ、何も感じられねえ、何かを憶えとくこともできねえ。……そう思ったら、誰かに話してみたくなったんだよ、本当にそれだけ、だからこれは……」

 それだけの話なんだよ、昴一郎

 と、ミツヒデさんは、言うのだった。

 そんなやりとりが以前にあったのを、ふと思い出していた。

 だから、ほんの少し、ほんの少しだけ、椅子に腰かけ休憩するつもりだった。

 一休みしたら、風呂を使わせてもらい、仮の自室に引き上げて、就寝するつもりだった。


 だけど、どうしてだろう。


 いったい、どうしてこんなことになっているのだろう。

 どうしてはっと我に返った時には、窓の外は明るくなっていたのだろう。

 どうして、表からは、スズメたちのさえずる声が聞こえてくるのだろう。

 どうして、ぼくは台所で目を覚ましたのだろう。

 ……そして、どうして目の前には、くおんさんが、いるのであろう。

「――おはようございます、昴一郎さん」

「え、あれ……あの、くおん、さ」

「返事」

 冷ややかな声でぼくに言ってから、くおんさんは口をつぐんで、ぼくを見る。

「……おはようございます、くおんさん」

 思わず座ったまま気を付けの姿勢になりながら答える。

 ――しまった。

 ――やってしまった。

 くおんさんの肩の上、白いカラスが、

「クワァ」

 と、ひとつ鳴いた。

 いま、〈活性〉はまだかかっていない。

 びゃくやの声は当たり前のカラスの鳴き声としか聞こえないが、それでも言わんとしていることは判る。

 メモ帳を介しての、筆談の必要すらない。

「カー、カー」

 要するに「バカか」と言ってるに違いない。

 返す言葉もないよちくしょうめ。

「……行き違い、もしくは、何かのにんしきのふいっちであったのなら、ごめんなさい」

 くおんさんは、少しづつ、言葉を選ぶようにしながら、切り出した

 平静そのもののように、見えた。いかなる感情にも、冷静でおとなびた、いつものくおんさんである、と、いいたいところなのだが、

「……わたしは昴一郎さんに、夜休むための部屋を用意させてもらったと思っていましたが、あれはわたしの勘違いもしくは手配洩れだったでしょうか」

 穏やかな、居心地の良さは、今はなかった。

「……それはわたしの間違いだったでしょうか」

 ただ、彼女が怒りに身を焦がしているふうかというと、そうでもなくて、

「……いえ、ぼくには、くおんさんに借りている部屋と、ベッドとがあります」

「それであなたはその部屋に帰らず、こうして台所の椅子に腰かけたまま一晩眠りこんでしまっていたのですが、それは判っていますね」

「ええまあ、流石に」

「こういうところで、ちゃんと横にならず、腰掛けたまま眠るのは体に悪いです」

「存じております」

 言葉も尋ね方も理路整然、口を差し挟むのも憚られる、ましてやいいわけのしようもない。

「それとも、あの部屋は使い心地が悪い、あの部屋で寝るくらいなら台所の方がましであるとか、そういう意思表示なのでしょうか」

 ええと、くおんさんの無表情には、何パターンかあって。

 ……ぼくは知っている。

 ……これは、ほとほと困り果てた、いったい自分はどうしたらいいのか判らない、という葛藤を内包している無表情である。

 まったくもって、申し訳がない。

「……もしそうであるのなら、わたしとしてはこういう婉曲的な表現ではなく、言葉で伝えてもらいたいというのが、正直なところです」

「滅相も、ございません」 

「それと、これも、何かの間違いであってほしいと、わたしはそう思っているのですが」

「……はい」

「もしかして、あなたが体調を崩しでもしたら、わたしが心配する、というのは、あなたに伝わってはいないのでしょうか」


 ――ええと、これは全部。

 ――全部、ミツヒデさんのせいだ。

 ぼくは、そう思うことにした。

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