第四夜「オオカミが来る」(Bパート)④
○
気を取り直し、ヘルメットをかぶり直して、〝ケルベロス〟の運転席にまたがる姿を眺めながら、
「……あの、狗戒さんって、もしかして、本当は結構まじめな人ですか?」
何とはなしに、そんな風に尋ねてみる。
「本当はってなーなんですかぁ?ごあいさつですねぇ」
「……すみません、つい」
……本当に、つい本音が出てしまった。というか、なんというか。
「……格好と雰囲気の割に、随分真面目なことを仰ると思って」
と、これではフォローになっていないか。
「いやその、別に悪い意味ではなくて」
「んー……ああ…これ、こりゃね、ポーズなんですよ、ポーズ。こういう格好は好きだし、動きやすくていいってのは確かなんですけどねぇ」
妙に言葉に間を挟みながら、ヘルメットの中の狗戒さんはぼくの方を見ずに答える。
つかみどころのないこのひとにしては珍しく、何というか、どこか答えにくそうな様子である。
「……わたしはちょこーっとばかり、経歴にこう、うしろ暗いとこがありましてね? 偉い人たちからはあんまり好かれてないもので」
言いながら、〈ケルベロス〉のハンドルを捻り、再発進。
冗談めかした物言いはそのままだけれど、……声の調子が、どこか違う。
……それは確かに、びゃくやにそういうことは言われたけれど、それはあくまで冗談ではなかったのか。
こうして見ている限り、狗戒さんに、彼女に、そんな要素は見受けられないのに。
「いや、はっきりいっちゃうと、だいぶ睨まれてますね。ただ、今はまだわたしが言うこと聞いてて、少しは役に立ってるから、今すぐどうこうしようって話になってないってだけで」
「あの……狗戒、さん……?」
「本気で、狗戒はもういらない、もう切るか。って判断されたら、もしくは、やっぱこいつ危ねえな、生かしちゃおけねーわって思われたら、わたしなんかひとたまりもない、だからできるだけ、「多少は役に立つ小物」っぽく振る舞って見せてるんですよ。わたしはこんなかっこで歩く、乳がでかいだけがとりえのアバズレです、大それたことを考えるような頭はございません。……そういう上の人へのアピールなんです。そのためだったら、しょーもない小遣い稼ぎもね、まーさせてもらってます」
……これは、もしかしたら、本来聞いてはいけない話なのかもしれない。
「そのせいで評判悪いってのも知ってはいますけど。わたしはね、わたしが一番大事です、死にたくない、生き汚いんですよ」
そう呟く姿は、……教皇院という組織の中で、彼女がどういう位置にいたのか、どういう扱いを受けてきたのかを如実に伺わせるもので。――あれほど生命力に満ちる人とはとても思えないほど、昏いものに思えた。
「いつ終わっちゃうかわからない。……だからわたしはね、やりたいことはやっちゃうんです、当面やろうと思うことがあるうちは、それにしがみつこうとも思うしね。……ああ、ちょっと、喋り過ぎましたね、すいません、胸糞なだけですよね、こんな話」
「狗戒さん」
「……んぁ?」
どうにもとても気まずい中、絞り出すようにして声を出す。
「……あの針なんですけど」
何もない掌から撃ち出される、変幻自在のニードル・ショット。
「アレは、真っ向から打ち合うための武器じゃない。ですよね?」
弓とか、槍とか、そういう狩猟や採集のための道具の発展系とも、刀や剣や銃砲のような、明確に「人間」を殺傷することを想定された道具の中でもひときわ特殊なもの。
……こっそり忍び寄り、敵意も害意もないかのように、にこやかに笑顔さえ浮かべながら近づいて、相手の油断と隙をついて…場合によっては後ろから、急所を一刺し。
確かに狗戒さんは遠距離からの精密狙撃や、広範囲への乱射なんてことまでやってのけてはいたが、それはあくまで狗戒さん個人の技量に依存した応用。基本的には、「そういう使い方」を、するものだ。
……そして、狗戒さんはさっき、ひとつ、おかしなことを口にした。
或いは、位置取りを間違えて名乗りの最中に攻撃される憂き目に遭う。
或いは、相手が名乗りを上げる最中に切りかかる。
或いは、名乗りを上げる相手に仕掛けて尚返り討ちに遭う。
それが恥となるとかならないとか。 よろしくない行いとされるとかされないとか。
では、裏表一体のそれが、何を対象とするか。
ウィッチ?
――いや、ウィッチの駆除にそんな美意識を持ち込んでいる余裕はないだろうからそんな誹りを受けることはないだろうし、ウィッチはそもそもそういう意識を持っていないだろうから……だから。
「なら、それを向ける相手って」
であるならば、彼女の敵手となりうるものは……
「魔法つかい、でしょ?」
――この人は……魔法つかいが組織だって行動する上で発生する――汚れ仕事を処理するための魔法つかい、だ。
「んー……やっぱりその辺気づいちゃいました?」
冗談めかした口調はそのまま、それでもやっぱりどこか気まずそうな声で、狗戒さんが尋ね返す。
「わざと、でしょう?」
ぼくがそれに思い至ったのは、狗戒さん自身が、言葉の端々にそれが伺えるものを忍ばせていたから。
いわば、ぼくがそれに気づくよう誘導されたからだ。
狗戒さんがそう期して言葉を選べば、ぼくにそんなことは想像もさせないだろう。
……それは、それはまあいい。話を戻せば、狗戒さんの流儀の件だ。
正面から戦わない、相手の油断を、隙を突く。
ある視点からはそれは、汚い、卑しい、劣っている。そうとも見えるのだろう。
ただ、それを言えるのは、……やっぱり、贅沢であり、持てる者の傲慢というものだ。
それが許されるなら、誰だって正々堂々やるだろう。
胸を張り、背筋を伸ばして、勇ましく名乗りを上げるくおんさんの姿は美しいと、気高いと思う。それは変わらない。
けれど、……誰もが斎月くおんになれるわけじゃない。
闇討ちだろうが騙し討ちだろうが、それこそ爆弾だろうが、
……ぼくにしてみれば、どうでもいいことだ。
このひとが、ウィッチから人間(ぼくたち)と、人間を守るための教皇院をを守ってくれていることに、変わりはないのだから。
「えっと、あの、狗戒さん」
そんなことを思いながら、口にする。
「――んぁ?」
「……ぼくは、あなたが不意討ちをしようが罠を仕掛けようが、……卑しいとか汚いとか、そういう風には思いませんよ」
それは、ぼくなりにせめてこの人に伝えておきたい言葉だったのだ、けれど。
「……よくないなあ、そういうの」
狗戒さんは、にっと口の端をあげて、そんな風に返す。
「あのね、こーいち君。キミは今、わたし個人のことが気にいってるからって理由だけで、わたしの
肩をすくめて、狗戒さんは言った。
「……それは、良くないことです。わたしみたいなのが冷や飯食ってる間は、組織はまだしも健全なんですよ。ほんとに駄目になったら、右も左も上も下も、わたしに恩着せがましく便宜を図って、おだててなだめて、わたしは大手を振って大活躍ですよ」
……まあ、そういうもんなのだろう。
確か、ミツヒデさんにも以前に聞いたことがある。
組織というか社会というか、広く、それぞれ顔と名前と人格と欲望を持った、人間の集団。
それが駄目になるときというのは、だいたいどこでも、上に立っている、集団の行方を左右するひとたちが、率先して倫理とか良識とか誠実とか、そういうものを露骨に見下し始め、それがある程度支持されたり容認されたりするものだそうだ。
これは規範や掟とはまた別の話で、そういう状況においては、なおさら熱心に些細な違反を見つけ出すこと、過酷な厳罰を与えることに血道をあげる。
本来であれば、倫理とか良識とか、もともとの組織の結成理念とかに即して行動しなければならない側が、せっせとそれをドブに捨てているわけだから、当然、結果的には不幸になるひとの方が多くなる。
……往々にしてそれがそもそもうまくいかなくなっている元凶だったりもする。……のだが。鶏が先か卵が先か。みたいな話だ。
「もし、おまえのいるところがそうなったら、とっとと見切りつけて逃げちまえ、綺麗ごともいえない組織に先はねえぞ」
ともミツヒデさんは言っていたっけ。ひとこと多いひとだ。
「今はまだそうなってない。今はまだね。……言ったでしょ? わたしは何でもアリだけど、何でもアリをありにしちゃうのは、やっぱり駄目だ。やっていいこと悪いことがあるってことは、いいことなんです。わたしのやってることは命の取り合いです。だから命の取り合いにルールなんざありませんが」
それでも、と狗戒さんは言う。
「卑劣な真似をする奴は、永久に軽蔑されるべきだ」
「だから、そんなことはあなたがあなたの中で勝手に思っていれば済むことです。ぼくはことさらそれを理由にあなたを蔑む気が無いってだけです」
「……寝込みを襲った、物陰から撃った、程度ならそうかもね」
そう言って、狗戒さんは笑った。
さっきまで何度か聞いた、「いひひっ」という感じの、軽妙な笑い声ではなかった。
「……あはは、キミは例えばわたしが、相手の家族、それも幼い子供をを人質に取って、拷問にかけて、その悲鳴を聞いて堪えられなくなって出てきた相手を狙い撃ったり、例えば子供のころから言うに堪えない聞くに堪えない虐待を受けてきた果てに狂っちゃった相手に「わたしはキミの味方だ、キミのお母さんになってあげる」って言って、にこやかに近づいてぐさりとやったりしたとして、それを目の前で見て、同じようにわたしと話せますか?「仕方なかったですよ、社会の為のやむを得ない犠牲ですよ」って言えますか? マキャベリだかクラウゼヴィッツだかりしませんが「目的の為ならあらゆる手段は正当化される」ってね。…はっ、文句だけは立派ですが、中身はそういうものなんですよ?」
「…それは」
「キミはそんなこと、言わなくていい。そんな事をする奴はクズだ、許しちゃいけない。……例え一番大事な相手のことだろうと、間違ってたらそれは言わないと、でも……」
そう言って、狗戒さんは、ぼくの肩に腕を回し抱き寄せると、
「……でも……ありがとね」
こつんと、ぼくのひたいに、ヘルメット越しに、自分のひたいを押し付けた。
「……とりあえず、ぼくは、背中を丸めるべきじゃないと思う人がそうしてるとイラッとするっていうあなたの気持ちが分かりました」
「わたしは、それを他人にとやかく言われるとイラッとくるキミの気持ちがわかりました」
「だったら」
ぼくたちは、同時に口にする。
「上等だ」
○
何とはなしに、周囲を改めて見回してみる。
……ここ、もともとは一体どういうところだったんだろう。
ろくに照明もない割に、〈活性〉がかかっている目のおかげで結構隅々まで見渡せるのだけど、天井は高いし、通路はサイドカーゴ付の二輪車が快適に走行できるほど余裕を持って作られている。
それに何に使うのか判らない機材や、山と積まれた段ボール箱。
閉鎖されたと聞いたけど、そういう場合なら、普通こういうの、撤去しないか?
……ただの倉庫や事務所……ではなさそうだし、工場?あるいは……研究機関?
聞けるような雰囲気であれば、一度聞いてみるか。
どうにも気まずいながらも、改めて〈ケルベロス〉の運転席とカーゴにそれぞれ身を落ち着け、揺られながらぼくたちは言葉を交わしていた。
「…まあ、何で最初にこいつを見せたのか、それからわたし達のうしろ暗ーいところをわざわざ見せたのかっていうとね?」
確かに少しは気になる、わざわざそんなものを、ぼくに伝えるには何か理由があるはず。
実際、くおんさんは基本的には、教皇院の冷徹な面や腐敗している面をぼくに見せたがらない。
「わたしは、きみにくらいは、魔法つかいっていうのを、「いいもの」だと思っててもらいたかったんですよ――魔法つかいは、魔法は、すげえんだぞ。ってね」
それは確かに、ぼくには効果てきめんだった。
しかし、いいよなあこいつ。
バイク(サイドカーゴ付)が、呼ぶと来るんだよ?
今はそのスペシャルなマシンのカーゴに身を沈めている。
人生においてこういう感動は大切にしなくてはならない。
「……その上で、そうじゃない方も知っといて欲しかったんですよ。……その方がきっと、強くあの子の味方でいてくれると思ったからです」
まあ、基本的にはぼくはくおんさんの味方ではあるのだけど。
……裏を返せば、くおんさん個人の支持者であって、教皇院の味方ではないし、魔法つかいの味方でもないということだ。
くおんさんの立場を鑑みれば、わざわざぼくに不信を抱かせかねないことに関しては、口にしずらいだろう。
「……でも、ぼくひとりが、魔法つかいって存在のことをどう思うなんてことが、そんなに重要なことなんででしょうか?」
「何言ってるの、あの子にとっては重要でしょうよ、それにわたしだって、こうして珍しく外の子とお話したりすると、自分たちがどう思われてるのか気になったりもするわけですよ」
狗戒さんは一度考えるようにしてから、
「まあ、これは例えですけど。……わたしはねえ、特別な力で世界を救っちゃったりした女の子が、最後にその力を失くしてこれからは普通の人間として自分の力で現実と向き合っていきますめでたしめでたしってオチのマンガやアニメが大っ嫌いなんですよ」
いい顔で、そんなことを仰った。
滅茶苦茶いい笑顔だった。
「だったら――わたし達はどうすりゃいいんですか?どんなにもがいても、それは特別な力に頼っているから、おまえは現実と向き合ってなくて、逃げてるって、甘えているって言われ続けなきゃならないんですか?」
ぼくはそういう風には言いませんけどね。
「あとはまあ、そうねぇ、どうにも「ヒャッハー!異物は排除だー!」って思想に通じるものを感じちゃってね?」
……確かに、それは厭だな。
「まあ、そのヒロインが、お約束なラインだと、みんなの声援浴びて、みんなの祈りを受けとめて、クラスの皆とか、世界とか、宇宙とか、全ての次元とか救っちゃうわけですよ。……その子が大人になって、「特別な力があったから」「普通じゃなかったから」その力に呑まれて溺れて惑わされて、駄目になるなんてことが、あると思いますか?」
その例えは、ぼくに、とある知り合いを思い出させて、
「……そんなことが、あっていいわけないじゃないですか」
そう答えるしか、ないのである。
「……でしょ?わたしも、そう思います」
何だろう?
……それは一瞬、ほんの一瞬だけのことだったけれど、
ケルベロスのハンドルを繰る狗戒さんが、この、「人生が愉しくて仕方がない」とでも言うかのような顔で生きているかっこいいお姉さんが、――声を涸らして全力で泣き叫ぶ、小さな女の子に見えた気がする。
さっきのとも少し違う、よくわからない、けれど、
「でも、でもね狗戒さん。ぼくが魔法つかいに対して否定的な感情を持つのを心配してるんだとしたら、それはいらないと思います」
我ながら、どう言えばいいのかわからないながら、少しづつ
「……だって、ぼくはくおんさんに助けてもらったんですよ? 初めて見た魔法つかいが、くおんさんだったんですよ?」
そう、……少しづつ、口にする。
くおんさんに出会ったこと、助けられたこと。
もちろん、すべては詳らかにできないから、部分部分は包み隠して。
「……そう。そうか、確かにキミにとって、あの子はヒーローでしょうね」
「でも、ちょっと、違うんですよ」
くおんさんはぼくを助けてくれた。傷を癒してくれた、守ると約束してくれた。
けれど、ぼくが、くおんさんに命だって魂だって捧げて構わないと心底から思うに至ったのは、辿ってみると、あの時に違いない。
「まあ、その時ぼくはかなり取り乱しまして」
――恥を忍んで、言葉にしてゆく。
「そりゃみっともないところを見せましたよ、もう駄目だ、こんな事したって意味がないってわめきました、仕方ないって、諦めようって言いましたよ」
大切にしまっておいたものを、密かに見せるようにして、
「その時に、くおんさんが言ったんです」
自分を生かそうとするつもりすらないような男に向けて、あの人は言ったのだ。
「〈あなたが仕方ないと思っても、わたしは仕方ないとは思わない〉って」。
それは、御剣昴一郎のついぞ知らなかった言葉。〈仕方がない〉〈やむを得ない〉を覆す言葉だった。
「「この世には、理不尽な悪意と害意が形を持って存在しているけど、それに抗う力はちゃんと存在する、わたし達がいる。そのためにわたし達は生まれてきた」。……そうも言ってくれた」
どこか面はゆいとも思いながら、そう重ねる。
「だから、その時、くおんさんの存在こそが、ぼくを生かしてくれたんだ」
「あの子が、それを言ったんですか?きみに?」
「……はい、くおんさんが」
頷き、次の言葉を待つ。……と、しばし間があいた。
狗戒さんから、言葉が返ってこない。
「……狗戒さん?」
何か、変な事とか言ってはいけないこととかを言ったのだろうか。
心配になって声をかける。
「え?……あ、ああ!」
と、ようやく、返事が来る。
何だかなまじからかわれるよりも、かえって顔が熱い。
柄にもなく、いいこと言ったみたいな気分でいたのに。
考えてみればのろけ話みたいなものではないかこれ。
「あの、狗戒さん、ぼくの発言に関してはあまり気になさらず」
取り繕うように言うぼくに対して、狗戒さんは、ヘルメットの中で、どこか遠くを見るようにしながら、
「……そう……かぁ……終わってない、終わってないんだ」
ぽつりと、そう呟いた。
――その瞬間、だった。
全身が、一気に凍てついてゆくような感覚に襲われる。
「……ッ?」
呼吸が止まりそうになる。背中に嫌な汗を感じる。肌が毛羽立って行く。
「狗戒さん、……これって、」
「それが判る様になったら、上出来です。……近いですよ」
狗戒さんはケルベロスを脇に寄せて停止させ、降車する。ぼくにもそれに倣うように示した。
「……そこから覗いて」
狗戒さんが示したのは、そこだけ妙に真新しい金属製の扉。
その先には大きな空間、見れば吹き抜けのホールだ。
どうやら、ぼくたちが来たこちら側の方が、脇からの通用口のようだ。
言われたとおりに隙間を覗き込んだ、その先に見る。そして、眼下に広がる、無数の……赤い光点。
つまり、その一つ一つが、
「……ネズミっ……」
「しかもあのネズミどもは、人を食います」
「……あいつら、全部ウィッチだ……!」
これまでぼくが目にしてきたウィッチの中で「大物」としてあげるなら、まあまずは最初に見た〈棘付き〉。
あとは古巣で目にした〈綱手姫〉あたりだろうか。
あの〈コラープス〉の脅威度は、〈綱手姫〉とほぼ同等ということだった。
もしもあのネズミたちと〈綱手姫〉が戦ったら。
……それが10や20のネズミであれば、あの大蛞蝓は即座に叩き殺してのけるだろう。
だが、……だが、この数である。
たとえ数百を叩き殺したとしても、それが数千数万のネズミだったら?
いつかは疲れ果て、動きの鈍ったところで体に取りすがられ、爪と牙を浴びる。
終いには、寄ってたかって齧り殺されるのではないだろうか。
まして、もしもアレらが大挙して地上に現れたなら…。
どのような惨状が現れるであろうことか。想像に難くない。
「……ほら、見て」
いつのまにか狗戒さんがすぐ傍に立っていた。
ほっそりした指でさす先はネズミの群れの一角。
そこだけ、特に多くの光点が集中し、一つの大きな発光源となっている。
「……あいつが……!」
「アレが本丸。あの中のどれかが、「コラープス」本体ってことでしょうね」
「ぼくたちがココにいるっていうのは……!」
「ここ、かはともかく、近づいてるのは気づいてるでしょうね、その上で、わたし達を迎え撃つ気でいるんだと思います」
――どうするんですか。
そう尋ねようとした。
くおんさんを待つのか、そうでないならば、この状態からどう動く。
「……さて」
腰に手を当て、肩をすくめて、狗戒さんは、
「わたしは今から、あそこに斬りこみます」
と、言った。
○
「……あの針、あとどのくらい残ってるんですか?」
「残念ながら、ほとんど残ってません」
「……自動的に戻って来るとかは?」
「そういうのもありますけど、「今回は」そうじゃない」
「……ほんとは持ってきてるんですよね?戦部式」
「ありません、そこは嘘はつきませんよ」
「〈ケルベロス〉は?そういう武器はついてないんですか?」
「…「今回は」そういう装備じゃない」
狗戒さんは扉の向こうへと歩みゆこうとするけれど、その足が進まない。
ぼくが、手首をつかんでいるからだ。
「……放してくれませんか?」
行かせない、行かせられるわけがない
だって……!
「だって! …こんなもの、……死ねって言ってるようなものじゃないですか!」
「みたいなもの、じゃ、ないんですよ」
どこか底冷えのするような、淡々とした口調で、狗戒さんは言う。
「……言ったでしょう? わたしはもう、随分前から、教皇院の厄介モノなんです」
「仮にそうだとしても!判っててそんなことをさせるなんて馬鹿げてる!」
全力で彼女の腕をつかみ、制そうとする。
今やぼくの腕力は常人の1.5倍だ。
狗戒さんが本気を出せばそんなものは誤差の範囲、這いつくばっって地面にキスをすることになるだろうが、易々と振りほどいてもらうわけには行かない。
「…
「知りませんよ、そんな業界ルール!――「村のならわし」だ、そんなもん!」
「……ま、なるべくわたしも死なないように戦ってみますよ」
――流石に、声を荒げる。意味がないとは百も承知だが。
「……こういうの、知ってます?」
狗戒さんが懐から取り出した、筒状のそれは、鈍く光る、金属製の筒状のケース。
「……ええ」
知っている。
半透明のカバーの内側に、赤黒い、小さな石のようなものが収められていることも。
そのカバーを開けば、ウィッチは狂奔し、その持ち主を破壊し尽くすまで止まらないことも。
それが、何であるのかも、ぼくは知っている。
「わたし達は、こういうものまで使ってる」
狗戒さんは、ぼくにぺこりと、こうべを垂れた。
「謝っておきます。あの子とはぐれた時点で、状況は最悪、当初の予定は不可能だ。わたしは途中まで、キミを巻き込んでこれを使うつもりでいました」
「……じゃあ、じゃあなんで!」
…それは彼女の役目と裁量のうちだ、それはいい、けれど、
「……どうして、あんな、励ますみたいな、勇気づけるみたいなこと、ぼくに言ったんですか!……それじゃあ、それじゃあまるで……!」
「それも言ったでしょ?わたしは、やりたいことはついやっちゃうんですよ、……背中丸めてる男の子に、偉そうにお説教しちゃうのも、ね」
と、狗戒さんは言う。
「……キミをこっちの都合に巻き込んで殺す、それを「やむを得ない」にするのだけは、やめておきます。わたしはただの一匹の、雌の獣にすぎませんが、……恥というものは知ってる。……知ってるはずだった……それなのに、とうとうそれすら忘れるところだった、危なく、とんでもない恥知らずになり下がってたところだったんだ。……ああ、そうだな、最初からこうしていれば良かったんだ」
そう続けると、いひひっ、と、笑い声をあげた。明るい笑い声だった。
手袋でも外すかのように、するりとぼくの手から、手首が抜き取られる。
〈ケルベロス〉のハンドルに手をかざし、何か操作すると、
「…正式なコード書き換えはできませんが、いま、期間限定で君を乗せるように設定しました。……まっすぐこいつで地上を目指してください」
ぼくに向けて、簡潔に指示を出す。
「今さら取り返しはつかないけど、わたしはこれ以上ろくでもない真似はしたくない」
「狗戒さん!」
「理不尽な悪意から、害意から、ヒトを守る、…わたし達は、魔法つかいは、その為に生まれてきた!」
鋭い声で、狗戒さんの口から放たれる。
……それはとてもきれいな、紛れもなく一度、ぼくに前を向かせた言葉である。
「……だけど」
であるからこそ、ぼくはそれを否定する言葉を持っていなくて、口をつぐんだ。
「……だから、だからね、さっきみたいなのほんとはすっげー不愉快なんですよ、この狗戒かなめさんは。……そうでしょ? さっきの、「あんたらは、その時の都合で、命の値段を量り売りして、気に入った相手だけ救ってればいいよ」そういってるようなもんですよ?わたしたちが優先するべきものの中には、ちゃんと君も含まれてるぜ」
でも……今は明らかに、狗戒さん自身が悪意と害意に晒されているじゃないか。
「わたしにはもういいですけど、あの子にゃあんまりそういうことは、言わないであげてくださいね?」
ごめんなさい、狗戒さん。
もう、散々言っちゃってます。
それから、にっこりと微笑むと、
「怖い思いさせて、ごめんなさい。――十三階段をとぼとぼ登ってるような気分でしたけど、キミのおかげで少しは気が紛れた。ここまで話し相手になってくれて、ありがとう、……じゃあ、ね」
言って、狗戒さんは、金属のドアを乱暴に足で突いて開くと、
その中に、身を投げた。
掲げた手の中で、小さな筒が赤い光を放った。
たちまち、ヘドロ色の床が波打ち、かなめさん目掛けて野火のように押し寄せる。
それらすべてが、〈コラープス〉ラットウィッチの子ネズミたちだ。
迎え撃つ狗戒さんには、――もう、針が残っていない。
それ以前に、ぼくが見ても判るほど、狗戒さんの動作が精彩を欠いている。
これまでついぞ掠めることさえなかったネズミたちの牙が、狗戒さんを捉えた。、
肌を露わにした、腕に、足に、牙を突き立て噛り付いてゆく。
艶やかな肌が、噛み裂かれ、血に塗れ、ズタズタに傷つけられてゆく。
無数のネズミたちが全身に這い上がりよじ登って、顔を、瞼を、喰いちぎる。
口から苦悶の声を、全身から血をこぼしながら、狗戒さんが膝をついた。
それを見て、敵の力が弱まったことを、今ならば、勝てる。と、そう読んだのか、群れの中から一匹のネズミが歩み出る。
――おそらく〈コラープス〉の〈本体〉だ。
そいつは、瞬く間に人間大にまでその体を脹れあがらせる、己の身を隠すため、他のネズミたちと大差ないサイズにまで己を擬態していたらしいが、もはやそれは必要でなくなった。
両眼には赤く火が灯り、絶対に逃がせない敵である狗戒さんを見据えている。
その視線には、勝ち誇ったような、嗜虐的な光さえ宿っていた。
狗戒さんは今一度己を奮い立たせ、身構えようとした。
だが、もうその足が動かない。
かつてしなやかにその両脚は、もうボロボロに噛み裂かれているから。
〝コラープス〟が地をけり、駆け抜ける。
狗戒さんの白い首筋から、鮮血がほとばしった。
喉笛を噛み裂かれた体はそれでも彼女の矜持を示すかのように、ヘドロ色の海の中に立ち尽くしていたが、やがてぐらりと揺らぎ、崩れ落ちて――
その僅かの隆起さえ、次第に小さくなり、呑み込まれる。
それが、最後だった。
○
……ああ。
ああ、くそ。
どうやら、ぼくには魔法つかいとしての素養だの才能だの、遺伝子だの、……そう言ったものがまるで備わっていないらしい。
どれだけ叫んでも、泣きわめいても、何も起こらない。
秘められていた力が覚醒することはない。
御剣昴一郎に、魔法つかいの素質は、微塵もない。
祈りを現実に変える奇跡の力は、宿っていない。
それはそうだろう。
何しろぼくは、望む結果を自力で引き寄せたことなど、
――ただの一度も、ありはしないのだ。
今度も同じである、それだけである。
自分の身の程の値踏みなんて、とっくの昔に済んでいる。
「いぬかい、さん、狗戒さん――狗戒……さんっ」
何も起こらない、何も変わらない。
どれだけ願ってもどれだけ望んでも、ぼくの欲望は何一つ力を持たない。
失いたくない、壊されたくない、奪われたくない。
これだけ、頭がおかしくなりそうなほど、ぼくは欲望で満ちているのに!
……今が、まさにそうだっていうのに!
骨を噛み砕く音が、未だ生々しく聞こえてくる。
エンジンの駆動音と、排気音が、鼓膜を震わせる。
〈ケルベロス〉が、早く乗り、この場を離れろ、そうぼくに呼びかけていた。
うるさいな。気が散るだろ。黙っていてくれ。
「……ぼくは、見てなくちゃいけない」
ああ、逃げるさ、お前に乗って地上を目指すさ、でもまだだ。
お前に乗れば、すぐさま地上を目指して一直線に走り出すだろう。
お前を使ってあのネズミたちに一矢報いてやろうとも考えたが、それはできないだろう。
あくまで「一時的に」乗せるようにしかされていない、狗戒さんがそんな手抜かりをするとは思えない。
狗戒さんが、どうやって戦ったのか、…どう死んだのか、
「ぼくは、全部覚えてなくちゃいけないんだ」
そして――今ならば、あのネズミの化物は、姿を見せている。
もしこの場で仕留められなければ、あいつらは、再び問題なく繁殖を開始する。
ぼくがいま味わっているような感情を、数知れぬ人たちが甘受するようになる。
狗戒さんの戦いが、無駄だったことになってしまう。
まだ、することがある。
御剣昴一郎には状況を打開しうる力は何一つない。
けれど。
ここにいるのが例えば、――133代目のツクヨミであったなら。
「くおんさん!」
その名を、叫ぶ。
「くおんさん! ぼくはここだ、ここにいるぞ!」
……これは、ちょっとした賭けだ。
今はまだ、狗戒さんの残骸を咀嚼するのに夢中になっているネズミたちが、ぼくを攻撃対象に切かえるのが早いか。
それとも、くおんさんがこの声を聞きつけるのが早いか。だ。
声を張り上げ、もう一度、叫ぶ。
「来てくれ!くおんさん!」
ネズミの群れの中の一群が、耳ざとくぼくの声を聞きつける、その先に、新たな獲物を見つける。
ネズミたちは、濁流となって、ちっぽけなソレを、呑み込まんと押し寄せる。
それは、予想よりもはるかに早く現実のものになった。
「――はい」
真上から、破砕音と共に、天井を突き破って、――くおんさんが姿を現した。
左腕には、びゃくやが姿を変えているのだと思われる、大型の
右腕には、これもびゃくやの一形態であろうと思しき、刃を鋏状に組み合わせた、猛禽の鉤爪があった。
右手で体勢を保持し、左手のブレードで岩盤を抉って、最短速度でここまで来たと思われる。
射撃、飛翔に続く、初めて見る形態。――いわば〈穿孔形態〉か。
砕いた天井で圧死させ、右手の鉤爪と、左手のブレードを振るい、瞬時にネズミの群れを微塵に粉砕。
「遅くなってすみません、昴一郎さん」
くおんさんは、そう声をかける。
「――っ、せいぁァァァッ!」
ついで、一瞬にして、視界一面に緋毛氈が広がる。
そう錯覚するほどの速度で、くおんさんが〈穿孔形態〉を解除、その右手の聖剣による斬撃の嵐を見舞い、続けて躍りかかるネズミの大群を斬り伏せたのである。
「……あなたが、無事で良かった」
こともなげにそう言うくおんさんの、その姿を見たことで、こらえてきたものが、噴出しそうになる。
「ぼくは……でも、狗戒さんが!」
カラスの形状に戻り、びゃくやがくおんさんの肩に舞い降りる。
「…ほウ、あいつが〈コラープス〉か」
「狗戒さんが、食われた、あいつらに食われた」
……それを聞いたくおんさんは、最初、僅かに、当惑したような様子を見せた。
――そんなはずがない、そんなことがおこるわけがない。とでもいうような。
ぼくが何か見間違いをしたとか、騙されているとか、事実の誤認を疑っているような感じだった。
「…焼かれたとか、溶かされたとかではなく、食われたんですね?」
だがそれもわずかのこと、冷静に問い返す。
「だろうな、そノ手の能力はないハズだ」
「なら……まだ間に合うかもしれません」
くおんさんが、まなじりを引き締め、一歩退く。
「……もしもあなたたちがただのネズミだったなら……群れをなそうと誰かに率いられることもなく、ただひたすら一定のペースで野火のように目前のものを平らげ続けてゆくだけなら、わたしではお手上げだった、けれど、今はそうして、勝てる相手をあえていたぶる為に姿を見せているな。……なまじ知性を身に着けたから、そんな風におびき出される」
冷ややかな声で、くおんさんは告げる。
「……あなたたちは、とても哀れだね」
ふぁさりとくおんさんの戦衣の袖が翻り、親鳥が雛を庇うようにぼくを包み込む。
「――気を付けた方がいい、あなたたちの怖い物が、来るぞ」
ぼくを抱きかかえると、くおんさんは、跳んだ。
「――魔法つかいを舐めるな、わたし達を舐めるな」
そして、どこか底冷えのするような声で、告げる。
「喉笛を噛み破った? 千の肉片に噛み裂いた? 魔法つかいは、そんなものじゃ死なない!
――帰ってこい!わが友よ、狗戒かなめよ!」
澄んだ声が、次いで、ぼくに向けて飛んだ。
「……昴一郎さん、狗戒さんを呼んで!」
何を言っているんだ、だって、狗戒さんは、たった今。
「……わたしを呼んでくれたみたいにッ!」
「狗戒さんッ!」
くおんさんの求めに応える形ではあるけれど、その声は、驚くほど自然にぼくの喉から放たれた。
「……狗戒さん…ッ! 戻って来ぉぉい!」
あなたは断じて、いなくなっていい人じゃない。
「――くふっ」
獣の笑い声。
同時に、異常な事が起こった。
立て続けに、群れなすネズミたちの悲鳴が、悲鳴が上がる。
それは、そう、ネズミだ。
ネズミたちが、次々に同胞に襲い掛かり、爪と牙をたてて…隣り合った仲間同士で、噛みあい、食らい合いを、同士討ちを始めていた。
――何だ、何が起こっている。
「――ネズミの分際で、誰の許しを得てそのように蔓延っている、誰がそのような乱行を許した」
朗々と響き渡るその声は、――ネズミの群れの中から聞こえてきた。
「――自傷せよ、自害せよ、自壊せよ、自滅せよ。
牙を振るえ! 爪を立てよ! 同胞を殺せ、同胞を食らえ、その血肉で腹を満たせ!」
朗らかで、聞くものを高揚と狂奔へ誘う、その声は…
「狗……戒、さんっ?」
紛れもなく、ついさっき、ぼくの目の前で地上から消えた人のものと寸分違わなくて、息を呑む。
「……悪い子の所には、オオカミが来ますよ?」
重ねて、どこからか聞こえるその声が謳う。
そして、凄惨な共食いを繰り返していたネズミたちにも、変化が起こるのが見えた。
体中真っ赤に染まった、一際先んじて、同胞たちに食らいつき、結果として自らも反撃の牙を無数に浴びた、血まみれの数匹。
――その体が、爆ぜた。
数匹のネズミが、体内に爆竹でも仕込まれていたかのように、はじけ飛んだ。
その結果として、かなりの広きにわたって床を赤く染め上げる。
数匹分の、血の湖。
あくまで、床の表面を薄く覆い、染めているだけ。 せいぜい数ミリのものでしかない。
けれど、その奥から、それは聞こえてくる。
「あおおおおおおおお――んっ!」
「あおおおおおおおお――んっ!」
「あおおおおおおおお――んっ!」
「あおおおおおおおお――んっ!」
「あおおおおおおおお――んっ!」
「あおおおおおおおお――んっ!」
「あおおおおおおおお――んっ!」
「あおおおおおおおお――んっ!」
獣の叫び、吠え声。
到底ネズミのものではない、荒々しく、勇ましく、生と死の境界を塗りつぶさんばかりに猛々しい、それも一つではなく複数の、群れなす獣たちの咆哮が遠い残響を伴って轟いた。
荒い息遣いと共に、姿を見せるのは、4足の獣。
三角形の輪郭、尖った耳、全身を覆うのはしなやかな毛皮。
無数のオオカミたちが、血の池から這い出るように、次々と上がってくる。
そして、オオカミたちの群れの中で、あらたに変容が起こる。
床面を染めた真紅の中から、赤い霧が立ち上る、ゆらぎ、たゆたいながら、それは一か所に収束してゆき、おぼろげなその姿が、はっきりと像を結んだ。
傷一つない、優美なその姿は――
「ただいま、こーいち君」
「……なっ……!」
艶やかに、優雅に笑みを浮かべ、狗戒さんは、そう答える。
状況についてゆけず、戸惑いっぱなしのぼくに、くおんさんが静かに告げた。
「……昴一郎さん、およそ生き残ること、最終的に生存することに関しては、――狗戒さんは、教皇院でも最強格です」
「昴一郎、アれが、狗戒の本来の流儀なノだ」
「……ニードル・ショットなど、己が能力に枷を宛て、自制しながら戦う際の護身術」
「多数の相手には種を滅ぼす病として集団を滅亡へと導き、強靭な少数の敵はそれを殲滅するためノカらだを作り上ゲる」
「それは効率的に群れを滅ぼすのに最も適した」
「生き残ルこと、生存スるコとに特化した魔法」
「――〈
「さて……理解できてるか判りませんが、一応やっときましょう、形式は大切です」
腰を低く落とし、膝を折り、背骨を弓のように撓ませて大きく前傾姿勢を取る。
片手の掌を地に着けて、地に伏せるように身構える。
「――
狗戒さんが、魔法つかいが、改めて、己の名を告げる。
それが意味することを、今のぼくは知っている。
「御命、頂戴しに参りましたッ! ――エンジョォイッ!」
叫び、爪を立てるように五指を広げた掌をもって空を裂くのと同時に、狗戒さんの姿が、戦うための「ソレ」へと変わる。
狗戒さんの頭部には、三角形の、尖った耳が、
形良い唇の隙間からは、鋭利な剣歯が、
あろうことか、腰には大きな尻尾が。
しなやかなその肢体を覆うのは、黒光りするレザーのコート。
さらにその背中や腰回りには、たっぷりした獣の毛皮。
「――食らい尽くせ、滅ぼし尽くせ、
無数の狼たちを従えて、狗戒さん〈狗の魔法つかい〉は、高らかに告げた。
「――目を覚ませ、わたしの獣!」
そして――来る。
獣が来る。
オオカミが、来る。
あたかも作業のように、家畜を屠殺してゆくかのように。
一方的な殲滅戦が、開始された。
地を埋め尽くさんばかりのネズミの群れは、オオカミたちによって、瞬く間に駆逐されようとしていた。
いかに大群であるとしても、ネズミとオオカミである。
ことごとく、狼たちの爪と牙にかけられ、胡麻粒が擂鉢ですりつぶされる様に、赤い光点が弾け消えてゆく。
――何のことはない、「圧倒的な数」で強者たる地位を獲得していたネズミたちだったが、それは見方を変えれば、「数」意外に拠り所となるものをなんら持たないということだ。
その「数」の内のかなりをごっそりと引き抜かれ、同等以上の数をそろえられ、まして一頭あたまの質でも大幅に上回られたら、こうなるのは当然と言えよう。
火炎だの爆薬だのを持って当たるより、遥かに「効率よく」ネズミたちはその数を減じてゆく。
それでも、〈コラープス〉は公平に見て奮戦していたと思う。
叫び声をあげ士気を奮い立たせ、前足を振り上げて群れを統率しようとする。
狗戒さんが持っている例のアレの力もあるのだろうが、ココに及んで逃走を図るものがいないというだけで、大した統率力だ。
だがもう駄目だ、もうおしまいだ。
動員できる兵力数、統率力、そして単独での武勇。
純粋に〈狗戒かなめ〉は〈コラープス〉よりも優っている。
「…手伝わなくて、いいんですか?」
と、くおんさんに尋ね、
「必要そうであれば、そうしますが」
と、返される。
「あんまりバカな事訊くんじゃないよ」とでもいいたげな目でびゃくやに眺められる。
ああ、そういえば、あまり一回の戦闘に複数人はつぎ込まないとも言っていたな。
さもあろう。
……いわば今この眼下は、狗戒さんの
「コード・ラクシャス!」
その口から出るのは、くおんさんが使っていたのと同じ、加速の魔法。
さらなる神速を以て、狗戒さんが駆ける。
その手には、一際長大な、鋼の針。
いや、2メートルはあろうかというそれはもはや、投擲用の長槍と呼んだ方が適切だろう。
それを引っ下げ、獣が地を這い駆けるような軌道で、一直線に突き進む。
「――〈烈風地獄〉ッ!」
その掌から、闇をつんざく咆哮と共に、二段加速により凄まじい速度を得て、白銀の長針が、放たれる!
断末魔の絶叫が上がり――
次の瞬間、ぼくが目にしたのは、胴をを穿たれ、風穴を開けられ、倒れ伏して炎上する〈コラープス〉の姿だった。
「――はい、終わりっ!」
○
――さっきまで、ぼくの目の前で起こったこと、まとめ。
「つまり、さっきのがわたしの魔法です」
「狗戒は、体の中に100体以上、ああイッた狼たちを抱エていル」
「それをウィルスのように感染させ、内側から乗っ取って同士討ちを誘発し、その上で勝負をかける――ところまでが、一応策だったんですよ」
「最初やられっぱなしだったのは?」
「出来るだけまんべんなく、わたしの血肉を行きわたらせないといけなかったから」
「何かもう死んじゃうようなこと言ってたのは?」
「単に確率の問題で、あのままほんとにやられちゃう可能性はありました。あとえらい人たちはわたしの能力を実際より低目に認識してます」
「……だったら最初からそう言ってくださいよっ!」
声の調子が少し荒くなったのは、おそらく責められることではあるまい。
「んはは、まあここまでうまくもとに戻れるかは、ちょっとしたギャンブルでしたけどね」
〈ケルベロス〉のシートに腰掛けて、ちょっと品のない、どこか親しみやすいあの声で笑いながら、狗戒さんは言う。
「ちょっとバストが縮んでないかなあ?確かめてみます?」
両腕で、件の立派な胸部を抱えるようにして、そんな風に。
というか、さすがに着衣はボロボロになっているのだ、目のやり場に困る。
確かに、あの胸が縮んだり形が崩れたりしたら人類文化史的に大きな損失だけどさ!
……すっかり元のペースである。
偉い方々のわけのわからんお気持ち事情のせいで割を食って捨て殺しにされかけたことには変わりないであろうに。
命は拾ったとはいえよくそうしていられるものだ。よほど器が大きいのか、もうそれはそういうものと見切って、何も期待していないのか。
――それとも、こんなのは、今に始まったことじゃないのか。
「……心配しました?」
「しましたよ」
「わたしがいなくなったと思って、悲しんだりしました?」
「しますよ」
「そっか……そっかぁ……」
「そうですよ」
と、ぼくは言い、
「ごめんね」
と、狗戒さんは返す。
「もしかしてわたしに惚れちゃいましたぁ? ちゃーんと聞こえてましたよ、キミの声も」
「あなたは、くおんさんの友達で、くおんさんのことを心配してくれる人じゃないですか、」
あまりぼくっぽい物言いではないけど、
「だから、失いたくないと、奪われたくないと思ったんです」
そう思ったので、それはそのまま口にした。
「おおぅ……!」
何だろう、狗戒さんが数歩後ずさっていた。
ばさばさと羽音を立て、びゃくやがぼくの肩へと降りてくる。
片足で立つと、反対側の脚を縦横に動かす。
「書くものをよこせ」らしい。
言われたとおりにしてみた。
ノートが返される。
「その重い、揺るぎなし」
と、書いてあった。
「おいびゃくや、おもいの字が違うぞ」
「…キミの場合はこれでいいんだヨ」
「ナニ言ってるのかわからないぞ」
「――昴一郎さん」
そんなやり取りをしていたところに、くおんさんが戻ってくる。
流石に疲弊が著しいであろう狗戒さんをぼくに任せ、ネズミの生き残りが一匹もいないことを確認しに行っていたのである。
「わたしの腕はもう見知って頂いています、狗戒さんも、この通りの腕利きです。……心配されていたようですが、討伐は完了しました」
「……心配?」
「舘を出る前、わたしに、大丈夫かとお尋ねだったではないですか」
「…ああ、でも、あれは」
「わたしたちが後れを取ることはありません。だから…だから
そう言って、くおんさんは穏やかに笑いかける。
「…ああ、そう…ですね」
…うん。社会の護り手としては、理想的な所作と言葉である。
それは、本来ぼくの欲しかった言葉では…「
「狗戒卿」
居住まいを正して、くおんさんが改めて、
「役目、大儀でありました」
と、狗戒さんに向き合って言う。
「い、いえ」
狗戒さんはあわててシートから腰をあげ、立位で正対しようとした。
やはりそういうところでは形式に則るらしい。
「どうぞ、そのままで」
「……何のこれしき、どうぞお気遣いなく」
おっとりと答える狗戒さんに、くおんさんは
「……体を噛み千切られて、平気なはずがないでしょう」
と、重ねて告げる。
「あなたがあんな戦いを強いられて、わたしが平気でいられると、すました顔をしていられると、どうしてそう思うのですか」
いっそ、冷え冷えとしてくるような口調だ。
どうやら、事の経緯を察したらしく、かなりご立腹である。
「まあ、これがわたしの稼業と言いますか。ほら、わたし、汚れ専門ですし」
「それ以上言うと怒りますよ」
……目を見るに、本気である。言うとおりにした方がいいぞ、狗戒さん。
「……これほどまでに身を切って、魔法つかいの使命に殉ずるひとを蔑む言葉を、わたしは持っていません。わたしの目には、自ら身を切って血を流しながら人のために立ち続ける人の姿しか、映っていませんから」
「――っ」
狗戒さんが、息を呑んだのが、ぼくにも判った。
「……わたしはあまり、こういうことを口にする方ではありませんが。あなたは、わたしのほんとうに大切な友達です、尊敬できるひとです」
一度そこで言葉を切って、くおんさんはついと歩み寄る。狗戒さんの背中側に回ると、
「ここからは、斎月くおん個人として申し上げます」
短くそう言って、くおんさんは羽織っていた白い長丈の上衣を脱ぎ去って、ふぁさりと、狗戒さんの肩から被せた。
「よく、頑張ってくださいました、よく、耐えてくださいました、ありがとう、狗戒さん」
「おイオい……その羽織は」
「よく、お似合いです」
教皇から直に下賜される、ツクヨミの羽織。
それはそういうものであるのだと、以前にくおんさんからぼくも聞いていた。
「……ここは冷えます、それに、せっかくの功労者がその装いでは格好がつかないでしょう」
「あ……あはは」
狗戒さんは、照れくさそうに、鼻先をこすりながら、ぼくの方に目線をよこす。
それはいつものちょっと品のない、悪戯っぽい笑顔とも、皮肉っぽくて底の方に暗い物をたたえた笑いとも違っていて、この人のこういう顔(表情)は初めて見たけれど、悪くない、とぼくは思う。
冷やかし半分で言ってみる。
「もう、何をそんな年下の女の子相手にデレデレしてるんですか、みっともない」
「エっ?」
「どうしたのびゃくや、何かぼく変なこと言ったかな?」
「いヤ、そノ、オま」
まあ、くおんさんがその王子様みたいなムーブしてるのが原因なんだろうけどね。
何となく、見てるだけのぼくもちょっとむずがゆい。
「狗戒さん」
と、一つ声をかけ。
「ぼくも大体、くおんさんと同じ気持ちです。良かったですね、似合うじゃないですか」
そう言ってみたのだが、どうも狗戒さんはぼんやりと、上の空のような顔をしている。
「狗戒さん?」
「……え?あ、あー」
つっかえながら、どうやら狗戒さんは我に返ったようで、
「その……帰ってきて、よかったなーって思ってたとこですよ」
しみじみと、ひとつそう言ってから
「ふたりとも、ちょーっと、失礼しますね?」
「ふえ?」
「おっ?」
「ありがとう、ふたりとも」
言って、狗戒さんは、右手でくおんさん、左手でぼくを、ぎゅうっと抱きしめた。
――ちょっとちょっと、当たる、いろんなとこ当たってる。
「もう、どうしたんですか?」
「ちょっとだけ、このままで」
反対側からは、そんなとてもきれいなやり取りが聞こえてくる。
くおんさんはそれでもいいかもしれませんけど、ぼくは些かこの状態問題あると思うんですよ?
ふっと、狗戒さんの息が、耳にかかる。
くすぐったくて、思わず少し身をよじる。
「アー……そうそう」
という声が、耳に入り込んだ。
ささやく声が、続ける。
「きみ……」
ぼくにだけ聞き取れるほどの、小さな声で、
「ココに面白いの、くっつけてますよね?」
狗戒さんのしなやかな指先が、ぼくのドレスシャツの胸元をなぞっていた。
「え……っ」
まずい。
「あ、あの、何の、こと、でしょうか?」
「どうしたんですか?」
「い、いやっ、だからこれはっ」
「怯えることは、ないじゃないですか?」
――あ、――これ、まずい奴だ。
――くおん、さっ
○
・
・
・
天井全体がぼんやりと光を放って照らす渡り廊下を、ひとりで歩く。
さて、今日も一日、狗戒かなめは良く働いた。
色々あったが、まあまずは悪くない一日であったと思う。
と思った矢先、聞きたくない声が耳に飛び込んでくる。
「…おお、狗戒やないか」
――嫌な奴に遭ってしまった。
どうか気づかずそのまま通り過ぎてくれれば良いのに、と思っていたのに。
「恰幅のいい」「威厳のある」スーツ姿の男性が、反り返ってこちらをよびつけていた。
……そう、この世には、「こいつが生まれてきたのは何かの間違いじゃないか」と思ってしまうような相手というのが、存在する。
サムライの時代の終わり辺りに教皇院に参列したらしい、御大層な身分の御大尽だが、主観的にはその類だ。
……せっかくうまいハンバーグを御馳走になってきたのに、いい気分が台無しである。
この連中に対し敬意を抱ける要素は何一つないが、一応偉い人と言う事になっている。
無視して立ち去りたいところはこらえて、とりあえず頭くらいは垂れてやらねばならない。
「これは、ご無沙汰しております」
取り巻きもぞろぞろと大勢連れて、相変わらず景気の宜しい事だ。
こちらは毎日カツカツだというのに。
「……まァだ生きとったんかぁ?」
開口一番、これである。
「ええか? おまえ、誰がまっとうに帰って来い言うた? どんな汚い手ぇ使ったかしらんけど、そんなに命が惜しいんか?」
ああ、そうですか、つまりあなたは、わたしを捨て殺しにするつもりで鉄火場に送り込んだ一派なのですね。
少しは隠したらどうだ。
……「狗戒かなめは、八つ裂きにしても死なない、十年前に比べても、弱体化していない」ということを、こいつらは知らないのだから、無理もないが。
見れば、ごてごてと麗々しく装飾された腕時計をはめていた。
彫金の技術は大したもののようだけど、これ見よがしに飾り付けられた宝石がわざとらしくて品がない。
もったいない、職人の技術がもったいない。
……今日び、子供番組のヒーローが付ける変身ブレスレットでももうちょっと趣味がいいだろうよ。
「……いえ、そのように仰られましても、……狗戒は困ってしまいます」
「そろそろ死んだらどうや?」
「…ご容赦を」
「いつまでも生きとって、申し訳ないとはおもわへんのやろか、ほんまに、」
「ご容赦を」
……よく喋る。
寄ってたかってあの人を嬲り殺した蛆虫の分際で!
その首噛み切ってやろうか。やらないけど。
「ほれ、何ちゅうたかな、おまえが以前に居った……ああ、忘れてしもうた、かめ…かめ、なんやったか」
「――祇代隊でございます」
取り巻きたちからどっと笑いが上がった。
本当におもしろいか、それ。
「おお、そうやったそうやった! ……もうアレの生き残りかて、お前だけやろ……ああ、もう一人おったけどな」
――出た。
おもしろいことを言おうとすると、誰かを蔑む、見下すという方向にしか頭が働かん連中にありがちな、これ見よがしに相手のことを間違えて、それを訂正させて、自分だけが面白がっているという、あのパターンである。
……この手の連中が我が物顔で跋扈するようになってから、教皇院はまことにつまらん場所になってしまった。
亡くなった戦部卿……ユウスケさんが口癖のように言っていたが、今ならその気持ちがよくわかる。
……あー、もうほんと無理。……帰りたい。
そう、思った時だった。
「まあ……楽しそうなお話ねぇ」
場違いにのんびりした声がその場に響いた。
「わたしもご一緒してもいいかしら?」
知っている声であった。
……随分永い事、宮に籠りきりと思っていたのに、御簾の向こうから出てくるとは珍しい。
「この子に、死ねだの殺すだのと物騒な言葉を浴びせていたようだけど」
着物姿の、老婦人。
表現するならそうとしか言えない、白髪の、老いた女性。
痩せて小柄な、供もつれていない身だというのに、彼女の登場によって、さっと空気が冷え込んでゆく。
目の前の御大尽も、その取り巻きも怯えきっているのがこちらにも伝わってくる。
こいつらは畜生の部類であって、人と接するに、誰に対しても節度と敬意を持って接するという高等技術は身に着けておらず。
とどのつまり自分と同じなので考えることがよくわかるのだが、ようは、この場にいる全員が束になって殴りかかっても、このお婆さま一人に及ばず、組織の方便としての位階の上でも楯突けないのが判っているのである。
「……て、手前はそのようなことは」
「そう、この子はわたしの昔からのお友達なの、あまり無体はしないであげて頂戴ね」
……まあ、このひとも古くからの知り合いといえば、実際そうなのだけど。
「たとえば今、同じことをその口でわたしにも言えて?」
「そ、それは、その……」
「あらまあ、小さなかわいらしい女の子には好き勝手が言えても、わたしには言えないのかしら?」
器が違うな。などと思う。
言い訳としては、単に指導していただけ、とでもなるのだろうが、この状況で、ましてこの人相手ではそれも通じまい。
「上に立つ人がそういうことだから、あなたの所は弟子が育たないのではないの?」
「ぐ、ぐぐ」
「……少しは恥というものを知った方がよろしいのではなくて?」
ああ、もうサンドバックだな。これ以上恥をかかないうちに引き上げた方が利口だぞ。
他人事ながらそんな風に思ってしまう。
「た……立て込んでおりまして、手前はこれで」
「お待ちなさい、まだ話は終わっていないわよ」
今日たっぷりと聞いた、ドブネズミのような悲鳴が上がる。
藤色の小紋の袂から伸びるか細い指先が、掴んだ、否、軽く手を添えたそのスーツの袖口と、派手な腕時計とが、見る間にひび割れ、砕け散り、塵となって足元に落ちたのであった。
「ひぃぃっ!」
「あら嫌だわ、……安物をしているわねえ、それとも今日がその腕時計の寿命だったのかしら」
おーおー、結構本気でご立腹でいらっしゃる。
スーツ姿の御大尽と、その取り巻きたちは潮が引く様にその場を去り。
そして、狗戒かなめと、老婦人だけが残される。
「おひさしぶりね、かなめさん」
「……このような場所で拝顔の機会に恵まれるとは、幸いでございます」
――少なくともこのひとは、さっきの連中と違って、明確に自分の命を左右できる。
「まあ、そんなに畏まらないでちょうだい。わたしはあなたのこと、本当にお友達だと思っているのだから」
……たとえそう言われても、そうですかというわけには行くまい。
「ですが……こればかりは」
「苦労を掛けてばかりね、あなたには。……今日も、とてもよく勤めてくれたと聞いているわ」
「いいえ。このたびの戦果は全て、当代のツクヨミ(くおん)様ありきのこと。……この狗戒のみでは、とても生きて還ることまかりならず、ご恩情、ありがたく存じております」
顔をふせたまま、かなめは彼女の名を呼んでみる。
「……
と。
……この老婦人は、単独で向き合うのは何としても遠慮したい相手である。
そう、どこから見ても老婦人には違いないのだが、背筋はしゃんと伸びているし、肌も色つやが良くてきれいだ。
常に穏やかな中に妙な色気と華やかさがあるところなど、昭和の大女優という佇まいだ。
少なくとも60代以下ではありえないのだが、どうも実際の年齢は誰も知らないらしい。
本人の言もその時によって大正時代に女学生だったとか、満州で必死に馬賊から逃げたとか、
浦賀に黒船を見に行ったというのは流石に荒唐無稽な与太話だろうが、繋ぎあわせると明らかに経歴が矛盾と齟齬の塊と化している。
歴史上のあれこれや知っているはずがないことを、まるでその場に居合わせたかのように語って見せ、真偽を問われると、
「……ああ、それはね、女学生時代にお友達からそう聞いたのよ」
などと宣う。
このひとがごく当たり前の女学生だったわけがないから、「女学校」は何かの特務機関。「女学生」はその機関の決戦兵器だったのではあるまいかという笑えない笑い話は、誰もが一度は耳にしている。
つまりはそういう、――どこか得体の知れないあいてなのである、
この場所では一瞬たりとも油断は見せられない。
が、この人が怖いのは、この人と対面し会話していて、油断しないものはいない。
人柄も物腰も温厚そのもの。他者を害するものなど何一つ持ち合わせていなそうにしか、全く見えないのである。
「そう……あの子の様子はどうだったかしら? わたしはあの子のことが気になって仕方がないの、もっとまめに逢いにいってあげたいのだけど、なかなかそうもいかなくて」
「何も変わりは、ありませんでした。……ああ、変わらず凛々しく賢明でいらっしゃるという意味で」
「最近、新しく館の中のことをする人を雇い入れたと聞いているわ」
「……っ」
心臓が止まりそうになる。
情報が早いじゃないか、嵯峨さま。
「一度、暮らしぶりを見てみたいから、その男の子にも伝えておいてもらえるかしら」
……言い訳を、考えておかなければならない。
そう、御剣昴一郎のために。
第四夜「オオカミが来る(the wolf is coming)」
了
「次回、第五夜」
「さらば、わが涙」
「超えろ、自らの限界を」
「越えろ、光を」
「
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