第四夜「オオカミが来る」(Bパート)③
○
〈ケルベロス〉くんのヘッドライトだけが前方を照らす闇の中を、狗戒さんとふたりで行く。
いや、正確には光源はもう一つ。
狗戒さんがさっき拾った鉄パイプ、今なおハンドルから離れた彼女の手に握られたソレは下に向けて引っ下げられ、地面との摩擦で時々火花を散らせている。
何かの示威行動だろうか……と思ったが、あえて口にはするまい。
ちなみに、今度はサイドカーゴ部分に乗せてもらっている。
だって、カーゴが空いてるのに二人乗りする意味ないですし。
これ以上お肌の触れ合いを重ねるのは流石に気まずいですし。
途中、何度かの戦闘はあったものの、ネズミたちは狗戒さんのモッズコートの裾を噛むこともできなかったし、雨あられとばらまかれる針の弾幕は逃走すら許さず、今のところは、遭遇即殲滅に徹している。
「――で、どうですか調子は? ちょっとは、落ち着きましたかね?」
ハンドルを繰りながら、鉄パイプのよく似合う美人さんが、そう尋ねてくる。
「……すみません」
俯き気味にヘッドライトの照らす前方を見ながら答える。
「んー? 何かわたし、キミに謝られるようなことしましたっけ?」
「みっともないところ、見せてしまって」
「……なぁに、キミはさっき、わたしのいうことに逆らう気力もなかったでしょ? だから命令したんです、まずは生きることを考えろってね」
そうだったのかも、しれない。
他人にいちいちそういってもらえなきゃ、そこから一歩も動けない。
つまるところ、ぼくはそういう奴だ。
「……もしもわたしがさっき、「自分の意思と信念を貫けず、他人に依存し流されるお前みたいなやつはどうせ腑抜けた生き方しかできないに決まってる! お前は社会の敵だ死んでしまえーしまえーしまえー」とか言ってたら、君多分「わかりました」ちゅーて死んでましたよ。……わたしはそんなきもちわるい事言いませんけどね?」
そのしまえーしまえーってのは何ですか? エコー?
「あー……否定できませんね」
「いや、そこは否定しましょうよ?」
「みっともないところ見せちゃったのは、確かですから」
「一生涯に一度たりともみっともなくなかった人なんていないでしょう?」
「……狗戒さんも、ですか?」
「わたしですか?」
尋ねてみると、少し考えるように間をおいてから
「……わたしなんて、みっともなさもここに極まれりですよ。……いい?意思だの信念だのそういうのを持てて、それが良いものだと思えるのなら、その時点で相当マシな状況なんです。……もしそんなセリフを素面ではける人がいたら……その人はよっぽど恵まれたんだろうなあって思いますよ。……まあ、君にこれから先、そういうこと言ってくる人はいるでしょうけど」
苦笑いしながら、狗戒さんは言う。
「そーゆーのはね、多感な年ごろの青少年が夜のテンションでウタっちゃったポエムみたいなもんですから、相手にする必要はナッシング!」
高らかにそういって、狗戒さんは右手の鉄パイプを地に叩きつける。ひときわ強く火花が散った。
若干気休めっぽいけど、実際気休めにはなった。
そうはいうものの……アレでは、狗戒さんもさぞ心証を悪くしたに違いない。
優しくなだめ、励ましてはもらったが、もう、この男にくおんさんの為の「害虫よけ」を任せようとも、任せられるとも思っていないだろう。
「ああなっちゃうのって、初めてですか?」
「……ああなっちゃうって?」
鸚鵡返しに聞き返す。
「だからほら、さっきみたいに、効率がどうのーとか、その実何かもう、何もかもどうでもいい、自分がココにいることさえどうでもよくなっちゃったみたいな」
「……ぼくは元から、割と、そういう考えをする方です」
「斎月ちゃんはそれ、知ってます?」
言葉に詰まる。
思えば、ぼくはもう、くおんさんにはこれ以上ないってくらいに、みっともないありさまを晒してしまっていることを思い出す。
「……割と最初に会った時に。……それからは引っ込めてたはず……だったんですけど」
「ふむふむ」
考え込むように押し黙りながら、狗戒さんは鉄パイプの先端を撥ねさせた、火花が散った。
しばらくそうしてから、狗戒さんは、
「……なら、あの子は君の、そういうところ知ってて、その上で傍に置いてるんでしょうね」
と続けた。
「あの子はまじめで優秀で頭も切れる、11歳とは思えないほどね。で、誰かを切り捨てる、やむを得ないコストだと断じる。全体の為なら少数の犠牲は歓迎する。少しでも標準からずれた健常でないものは多数の為に予め排除する。そういう考えに対して神経質(ナーバス)なところがある。それは気づいてますね?」
「……ええ、何となく」
「それ自体は好き嫌いはともかく、生きてる限りついて回るもんです。一概に否定することはできないはず。…はず、なんですが、どうもあの子にとってはそうじゃないらしい」
何しろ、そういった論理を嫌うがゆえに、教皇院の力に頼らず、自分だけでぼくを護り切ろうと思うほどだ。
それはくおんさんにとっては、よほど根の深いものであるらしい。
そのくおんさんが、ぼくのそういうクソみたいなところを知ってて、それでも傍に置いてきたいと、そう望んだ。
そういうことに、なってしまう。
「……狗戒さんは……どう思いますか?」
ふと、そんな風に尋ねてみれば、
「わたしは……そうねぇ、どうでもいい、かな」
と返される。
「わたしはわたしが一番大事です!」
明るい声でそう告げる狗戒さんのすがたは、生きる力とでもいうべきものに満ちていて、
「わたしが一緒にいて居心地がいいと思えるひとたち、ってのが、それに続く。……あとはまあ、そんなに」
……もしもこんなふうに言えるのなら、その時見える景色は、どんなものだろうと思うのだった。
「……ああ、一応キミも、そこにカウントされているぜ」
――光栄なことである。
「……あのね、誰でも欠点の一つや二つあるでしょ?キミは知り合いに何か気に食わない点があるたびにクズ認定して縁切りします?」
返す言葉が見つからず押し黙ったまま首を横に振るぼくに、狗戒さんは言う。
「……わたしも同感。「おおよそいいやつ」で「おおよそ居心地のいいやつ」だったら、だいたい多少の欠点くらいは目ぇつぶりますよ。そもそも、こいつが生まれてきたのは何かの間違いじゃないかって思うような相手にだって、不幸にしてちょいちょい出くわすんですから。「おおよそ好きになれる相手」ってのは、それだけで貴重でしょ?」
妙に実感がこもっている。
そういう知り合いばっかりなの、狗戒さん。
ちょっと気の毒。
「……つまり君は、そんなに胸を張って背中丸めて「人間失格御剣昴一郎ここにあり」みたいな顔してなきゃいけないほどのクズじゃない訳です、少なくとも、あの子にとってはね。……だから、さっきも言ったけど、そんなにならなくてもいいんじゃないかと思う次第ですよ、おねえさんはね」
「そうなのかもしれませんけど」
「……例えば、キミの料理は結構おいしいらしいじゃないですか」
「素材のおかげですよ」
と、言っておく。
実際斎月館に納められている食材は、肉類、野菜、穀物、調味料から嗜好品、どれも一級品なのである。
卵や牛乳なんて、毎朝産みたてしぼりたてが届くのだ。
これで最低限食べられるものを作れなかったら、ぼくはどれだけ役立たずなのだ。
「またまた、いやー、あの子から聞きましたよ? 肉じゃがでしたっけ?わたしも今度は是非ご相伴に預かりたいもんです。それに、今夜はハンバーグ? あの子の好物?」
「いや……くおんさん、いつも、肉料理だと、喜んでくれるから」
「……ふうーん?ふむふむ」
狗戒さん、愉快そうに何度か頷く。
「――どうも君はあの子の欲望を刺激するのがうまい、君がそばにいれば、あの子はちょっと、凄い事だってやってのけちゃうんじゃないかなって、思うんですよね」
……買被りもいい所であると思う。
けど、それともう一つ
「あの。くおんさんもそうでしたけど、もうちょっとこう、別の言い方というか、綺麗な表現はできませんか?」
「……同じことですよ、今はそうじゃない、そうなってない何かを、こうであってほしい、こうなったらいい、そう願う、望む、欲する、焦がれる、それは「欲望」です」
ましかば――まし。
反実仮想。
「たとえばこの場合、キミがハンバーグを作ってくれて、一緒に楽しく食べるっていう未来を、現実に引張りよせようと思う。立派な欲望じゃないですか」
と、狗戒さんは言う。
「……そういえば、くおんさんいつも戦うとき、まず自分の名前名乗るんですよ」
そんなことを思い出して、尋ねてみる。
「あれって、絶対しなきゃいけないんですか?」
それは半分冗談交じりではあったのだけど、意外なことに、
「んーっ ――まあ、そうなりますね」
と、返される。
「そこ説明しようとすると長いんですけど……聞きます?」
片手でハンドルを切り、障害物の隙間を器用に通過しながら、狗戒さんはそう言った。
「ええまあ」
「わたし達の使っている魔法については、どのくらいご存じですか?」
狗戒さんは首を捻って、考え込むように口をつぐんだ。
一応、一通りのことは、館に保護を受けた最初の日に聞かされてはいたけれど、
「まあ、触り程度は。――確か、思考を現実化するとか」
「そう、望みをかなえる技術であり、手段です。……極論すれば、こうしたい、こうなりたい、こうであればいいのに、こうじゃないなんて認めない……そういう頭の中の妄想を、現実の世界に持ち出す技術、そういうことになります。つまり、「制御できなくなった欲望の力」ですね。」
あの、本当にもうちょっと、言葉を選びませんか? 実際そういう事なんでしょうけど。
「……そんなことができる人間が、例えば2人、例えば3人、同時に同じ場所に存在する。――するとどうなるか?想像してみればわかるでしょうけど、…まあちょっとばかりよろしくないことになるんですよ。その内容によっては、最悪の場合魔法の力が、互いを打ち消し合い滅ぼし合う。キンキンに冷えてる冷凍庫の中で、ストーブをガンガン焚くようなもんです」
「――ええと、意味、ないですよね? それでは非効率的だし、迷惑だろうし」
「はっきり言っていいです、バカですよね」
どこか突き放すように、狗戒さんは言った。
「で、わたしたちがあんまり一度の戦闘に大人数を投入しないしできないのは、そのせいです。もちろん気の合った同士、共感しあえる親友だの恋人だのなら遠慮しあうこともできますし、魔法つかいとして熟練すればするほどむやみやたらにおっぴろげないようエチケットも覚えます。ただそうなるとどうしても、単独での火力爆発力が低下することもあるんで、良し悪しと言うか痛し痒しと言いますか、難しい所なんですよね。わたしだって戦部さんはまだ許せましたが、どうしてもアウトって人は存在しました」
戦部さんって、……件の戦部卿のことか? 面識があるのだろうか。
確かに、ひとりひとりの能力が高すぎる、先鋭化し過ぎているがゆえに、同時に運用するのが難しいっていうのは、想像がつく。
それに、同士討ちだって怖いだろう。
「こっからが本題。――で、その都合上、一定以上強力な魔法つかいには、自分で自分にセーフティ(安全装置)を掛けることが義務付けられます。常時出っ放しっていうのは、いささかまずいわけです」
「ああ、うん。……そう、ですよね?」
「その安全モードを解除して、戦闘モードに入るのが、あの名乗りです。抑制とその解放、あれ憶えない内はどんなに才能あっても、大技は使わせられませんし、教えません」
……ということは、昔、とんでもなく才能あって、かつその辺が理解できないっていう超ド級のおバカさんがいたとか、そういうことがあるんだろうか。
少なくとも、並々ならぬ苦労があったんだろうと言う事が伺われる。
「それがだいたい「自分がどこの誰で、何をするのか、したいのか」ということを宣言するって形になるわけです、匿名でぶん殴るってのは、やってもいいけど推奨はされませんね」
「だけど、理屈としては判りますが、それ、不利になりませんか?」
例えば不意の襲撃。例えば遠距離からの狙撃。例えばトラップ。
理屈はわかるし、必要なことなのだろうけど、そう言ってはいられない、いくらでもそんなことはあるだろう。
「そこはそれ、ある程度それがリスクになるってことは判ってます。だから、相手の名乗りの最中に攻撃することは別に悪いことではありません、位置(ポジション)取り間違って名乗り中に攻撃される奴が間抜けなんです。逆に名乗り中の相手に殴りかかってカウンターで切って落とされる。これも恥ずかしい」
そういえば、くおんさんなんか、名乗り中だろうが変身の為の動作中だろうが、問題なく攻撃に対応して返り討ちにしてたっけな。全員にあの水準が求められるわけか。
「さっき言ったテレビのヒーロー。わたし、最近あれ見て感動しましたね、多分あれうかつに名乗り中に殴りかかるとカウンターでボコボコにされるんですよ。かくあるべきなんだろうなーって思いました」
……確かに、何度か見たなあ。
全力で一気に距離を詰めながら変身するとか、戦いながら名乗るとか。
「……まあ、もちろん基本的には何でもありのやったもん勝ちですよ? 命かかってますからね? ……けどね、それを認めちゃった結果。わたしたちの世界はどうなった?」
若干の毒を含んだ口ぶりで、狗戒さんが言った。
……言わんとすることは、まあ判る。
「何でもありのやったもの勝ち」
それは、別の意味で「魔法の言葉」だ。
――酒を飲ませて殺す。毒を盛って殺す。
女装して近づいて殺す。降伏してきた相手を殺す。
非戦闘員を殺す。
親を殺す子供を殺す。
主君を殺す部下を殺す。
味方を殺す友を殺す。
ぼくたちの歴史は、そんなのの加害者と被害者でいっぱいだ。
行きつくところは、それこそ――さっきみた、悪夢のような世界じゃあなかろうか。
塵塵塵塵、塵塵塵塵。
もちろん、より強大な脅威を退けるために、苦渋の判断の果てに、ってことだってあるのかもしれない。
だけど、それを際限なくよしとするのと、どこかで一線を引いておくのとでは、自然と違ってくるだろう。
だから、魔法つかいは腕利きになればなるほど、度を越した夢想家であり、同時に行き過ぎた現実主義者になるに違いない。
「結局、どっちが性格悪いこと考えつくかってことになっちゃう。やっぱり、どっかで一分の自制ってものがないとね。どこかで縛りがないと。際限なく……何でもできちゃう。だからこそ自制は必要です」
そう言って、狗戒さんはどこかさびしそうに、ふふっと笑った。
そんな姿を見て、ふと、「いまだったら、聞けるんじゃないか」とおもって、
「魔法つかいについて、ですけど。」
まあ、ついでだ。
以前から一度聞いておきたかった、けれどずっと機会を逃し続けてきた、くおんさんやびゃくやにはどうしても聞きづらいことを、少し声を落として、聞いてみる。
「例えば、ぼくがなることは可能ですか?」
「……ふむ?」
狗戒さんが、「ケルベロス」に急制動をかけた。マシンは甲高い音を立てて停止する。
「――少しお話、しましょうか?」
言って、狗戒さんはヘルメットを脱いだ。
長い後ろ髪が、獣の尻尾のように、ふぁさりとゆれる。
ぼくもそれにならって、ヘルメットを外した。
「教皇さまいわく……魔法つかいへの第一歩は、信じること。それができれば、如何なることだって可能です」
そういうと、にまりと笑みを浮かべて、問いかける。
「……って言っても判りづらいか。まあ、そうねぇ、例えば、こーいち君が想像できる限りの、遠い場所を想像してください」
言われたとおりに応えてみる。
「……沖縄とか北海道」
「君の想像力はその程度ですか」
「アメリカとかロシア」
「もっと遠く」
「月」
「おしい、……もっと」
「……太陽」
「もっと」
「冥王星」
「……まあ良しとしましょう。――仮定、君はワケあって、冥王星まで行かなくちゃならなくなった。――さて、どうする?」
迷わず答える。
「……できません」
「できない?」
「不可能です、できるわけがない」
「どうして?」
「……どうしてって」
「そのできない理由を、考えていきましょうか。シャチョーさんとか、ダイヒョーさんとかはよく、「できない理由なんか考えるな」なんてことを仰いますが、それはこの際ゴミ箱に捨ててください、できない理由が100あるなら、それを覆す100の理屈をでっちあげるんですよ」
「……まず、冥王星までは、確か距離にして54億キロくらいあります。それこそ光の速さでもなければ、とても行き来できる距離じゃ……」
「じゃあ、超えてください、光速」
あっさりと、狗戒さんはそんな風に答える
「――そう、マッハ1万そこら程度じゃ当然足りませんが、およそマッハ89万、秒速30万キロメートル、その速度なら、……およそ5時間半、何だ半日で問題なく行けるじゃん、ちょっとした旅行程度なもんですよ」
「5時間って……そんな簡単そうに」
「ああ、5時間もかけられませんよね? なら時間止めちゃいましょう。時間停止、然る後に光速で冥王星に出発、もどってきたら時間停止解除、行こうと思った瞬間には、行って帰って来れるじゃないですか」
何だか思考実験みたいになってきたが、一応付き合ってみる。
興味がないと言ったら、嘘になる。
「……いや、でも」
「でも?」
「地球には重力があって……人間はそれを突破できません」
「重力を振り切れ、成層圏を突破しろ、キミの両脚はそれができる」
「……宇宙空間には酸素がありませんし、有害な宇宙線が降り注いでいます」
「空間を支配しろ、キミがいる限りそこはキミの王国だ、真空状態も、いかなる力も、キミに仇をなすことはできない」
ぼくが口ごもるのを見て、狗戒さんはいたずらっぽく、重ねて尋ねる。
「後は? ……どう? キミは光を超えられる、キミは時間を止められる、キミは空間を支配できる、それでも、行けない?」
それ、だったら……? いやでも、……もしかしたら、それなら、或いは……?
もしもそれらすべてを、超越できるのなら……?
その時は――?
「――いま、行ける、と思ったな?」
ありえない、できるわけがない。そんな当たり前のことが、ほんのわずかな時間、確かに、揺らいだ。
狗戒さんの目は、それを見逃さなかった。
「おめでとう。――今君は、冥王星に、冥王の座に坐した!魔法つかい御剣昴一郎の誕生だ!」
嬉しそうに笑いながら、狗戒さんはたからかにそう宣言すると、両手を広げ、ぼくを抱きしめる。
苦しい苦しい!息ができない!
「では――重ねて訊きましょう。
何のためだったら、キミは炎を呼べる?
誰のためなら、キミは空を飛べる?
何を得るためだったら、キミは光を超えられる?
何を拒むためだったら、キミは空間を支配できる?
キミの中にその理由はある――若者の18番、自分探しってやつですよ」
「い…嫌だ」
嫌だ嫌だ、そんなことしたくもない。
そんなもの、見つけたくない。
そんなろくでもないものと対峙するなんて、ぼくには耐えられない。
けれど、狗戒さんは容赦なく問いかけてくる。
「キミは、何が一番嫌ですか?」
「――のが」
どういうわけか、普段だったら、口には出さないような言葉が、何故か自然と、口をついて出て、
「失うのが、奪われるのが、一番、嫌です」
「……ほう?」
その答えは、どうやら興味を十分に惹くものであったようで、狗戒さんは……
「じゃあ、キミは何を一番奪われたくない? …お金?自分の命? たとえば……」
ひどく意地の悪い口調で、それを言葉に上げる。
「……愛しの斎月くおんさんだったら、どうですか?……もし冥王星に行けなければ、キミは永遠にあの子を奪われ、失うことになる。それだったら、どう?それでもいけない?」
「――無理、かな」
……若干の意趣返しじみた感情を込めて、返す。
「いけないと、思います。…その程度で光速なんて出せちゃったら、大事ですよ」
苦笑いっぽい表情を作りながら、いうぼくに、、
「……ふうん? ……その程度?……本当に、そう?」
妙に含みのあるような口調で言うと、喉の奥の方で
「くくっ」
と、狗戒さんは笑うのだった。
「魔法つかいってのは、なっちゃったもの勝ちですよ、こーいち君。」
まあ、少しくらいは、考えてみる。
……例えばこの先、ぼくがくおんさんに嫌われるとか、愛想を尽かされるとか、相手にされなくなるとか、見放されるとか、そういうのであれば、どんなに悲しくても、どんなに情けなくても、それは、所詮こんなものだと、いくらでも受け入れられる。
そんなのはどうせ、最初からいつかはそうなると、決まっていることだ。
それに、男女の平均寿命の点で考えても、高確率でぼくの方が先にいなくなるのだし。
――それは、想像するだけでもおぞましい事ではあるけれど、
たとえば、あのひとが、いつかどこかで、否定されて、侮辱されて、嘲笑されて、嫌悪されて、憎悪されて、その果てに、
あのひと自身が、自分の成してきたこと、信じてきたこと、尊んできたこと、それらのすべてを、無駄で無意味で無価値な事であったと断じるような、
自分を憐れむことすらまともにできない、惨めで、無様で、哀れで、全くもって、記憶に残すに及ばない、つまりはぼくのような奴に成り果ててしまったとしたら。
ぼくが、くおんさんを失うとしたら、――その場合だろう。
逆に言えば、そうでなければ、記憶の中のくおんさんは、眩く尊い存在であり続けて、ぼくがくおんさんを本当の意味で失ったことにはならないのだけど、それは、本来なら不可分であるはずの生身のくおんさんと、くおんさんの持つ輝きや尊さを都合よく切り分けて、後者だけを愛でているようなもので。
……結局、ぼくはひどく、自分勝手だ。
とっととこの厄介物を使い切って終わらせてしまいたいという感情は、今も変わらずぼくの中にあって。
いつか、ぼくはどこかで、くだらなく、みっともなく、ただ当たり前みたいに終わるのだろうけれど。
きっとその時は
「自分の人生は我ながらくだらなくて無様なものだったけど、彼女と知り合ったことだけは、まあ、悪くなかった」、と、そう思って目を閉じることが出来る。
一生の中のごく短い間、彼女と知り合って、一緒に時間を過ごしたことは、いいこと、だったんだろうと、そういう風に思い返す。
それだけでも、ぼくにしては上出来、満足するべきところじゃあないだろうか。
……まあ、もちろん生身のくおんさん個人の幸福を望まないというわけではないし、
狗戒さんが危ぶんでいるような、不幸な婚姻なんぞさせられたら、確率は極小であるものの、そうなってしまう可能性が僅かにでも生じてしまうかもしれないという意味で、そんなのは確かに避けたいところだ。
……どうも、他人の幸福を望むということが、ぼくにはうまくできない。
命の恩人相手にこのありさまとは。
所詮御剣昴一郎は、兄と慕った相手を売って、腹を満たした人間だ。
益体もない思考を巡らせるのを一度やめて、狗戒さんとの会話に意識を戻した。
「……何か、煙に巻かれたというか、ペテンにかかってる気がします」
というか、詭弁もいい所だ。本当に、一瞬だけど、冥王星まで行ける手段が存在するのかもしれないと思ってしまったではないか。
「詭弁はわたしの特技でして、詭弁士・狗戒かなめを名乗らせてもらってもいいと思ってるくらいです」
「そこまでですか?」
「半分詭弁、半分本気。頭は生きてる内に使わないとね」
――どこまで本気なんだろうか、この人は。
○
「……へぷしっ」
「どウシた、くおん?」
「何でもない、どうも空気が悪いね、ここは」
「仕方あるマイ、地の底だ」
「昴一郎さん、大丈夫かな?困ってないかな、……心配」
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