第四夜「オオカミが来る」(Bパート)②
○
――
その名前を、出しておかなければならない。
それはぼくにとって、けして忘れることができない名前。
そして、今はきっともういない。もうどこにもいなくなってしまったひとの名前である。
全体としてはきわめてどうでもいいことながら、ぼくの生い立ちについては一度話の中で出させてもらっていたと思う。
どことも知らない場所で生まれ、物心ついた時には、件(くだん)の保護施設で育っていた。
その時期のはなしである。――と思っていただきたい。
一度か二度、そのころの人間関係も言葉の隅に出したこともあったのではなかろうか。
一緒にいることができたのは、今になって考えれば、一年に満たない程だったのだと思う。
その人は、少なくともぼくにとっては、どうしようもなく崇高で、かけがえのない人だった。
物静かで、穏やかで、居心地のいい人だった。
ぼくよりも10歳ほどは年上だったはずのそのひとは、体が酷く弱くて、やれ日差しが強かった、やれ冷たい風に当たった、と、ちょっとしたことで熱を出し、咳き込んで、床も上がらない日が何日も続いては、小康状態を取り戻す、と言うのを交互に繰り返していた。
周りの人間全員に、よく生きていられるものだ……と感嘆されながら、ベッドの上で生きているようなひとだった。
ぼくはそのひとのことを、妙な同族意識に近い物からくる親しみと共感と、……若干の同情を持って「にいさん」と呼んでいた。
最初は、ごく親しい年嵩の男性のことをそう呼ぶのだと、本か何かで呼んだのだったと思う。
それはもちろん子供心に冗談半分だったし、違うと言われたらそれは即座に取り下げるつもりではあったのだけど、
「君がそう呼びたいなら、そう呼べばいいよ」
と言って、そのひとは、特に否むこともなく、ごくごく平静に、鷹揚にそのひとは受け入れていた。
以来、一度も明確にその呼び方を撤回したことはなく、――今日までずっと、祇代マサトというのは、ぼくにとって、「にいさん」なのである。
次に体調を崩すまでの短い時間や、少し熱が下がり、多少起きていられるようになった時間の大半を、どういうわけか、そのひとは、となりに腰掛け、こんなことを聞いた、きょうはこんなことがあった、と、益体もないことを話すぼくの話に耳を傾けることに費やしていた。
だから、ぼくの記憶の中で、一番多いそのひとのすがたは、ベッドの上で、上体を起こして本のページをめくっているところだったり、ぼくの話に言葉少なに頷きながらにこにこと笑っているところだったり、そういうものだ。
気が合ったというのか、そうやって過ごす時間はそれなりに楽しいものだった。と、今振り返って思っている。
だからこそ「楽しい時間」は、往々にして、ある日突然、前触れもなく終わるってことも。ぼくは骨身にしみて理解している。
ある日、いつものように、病み上がりのそのひとに「今日はこんな本を読んだ」なんてことを話していた時だったはずである。
古びたドアが軋む音をあげ、幾人かの、背の高い大人たちが部屋に入ってきた。
見知らぬひとも、普段から世話になっている、施設の大人たちもいた。
用があるのは、ぼくではなく、にいさんにであるらしく、にいさんは病み上がりの体を床から起こして、別室へと向かい、追従しようとしたぼくは引き留められ、「えらい人が、マサトにだけ用があるのだそうだ」とだけ聞かされた。
「何か、おかしいよ」
と、ぼくは言ったはずだ。
「嫌なら行かない方がいいよ」
とも、言ったはずだった
けれどそのひとはいつものように、「そうだね」と、決して否定はせず、まず肯定で返した後に、
「でも、ぼくはきみのお兄さんだからな」
というのだった。
「何だよそれ」
意味が分からない。と、吐き捨てるようにぼくはそう呟いた。
そのひとは、いちど振り返ると
「きっときみも、いつかそういう風に言うようになると思うよ」
と答え、ばたんとドアを閉じた。
……そこでどんなやり取りがされたのか判らない。
ただ、それから急に、どういうわけか古びていた施設のあちこちが真新しく改装された。
どういうわけか、同級生たちのうちの何人かに、破格と言っていい好条件での縁組先が決まった。
どういうわけか、毎日の食事が急に豪華になった。
……みんな喜んでいた。
……ぼくの周りは笑顔で溢れていた。
……ぼくは笑っていなかった。
――その人は、その日のうちに施設を発った。
それきりだった。
祇代マサト、――マサトにいさんは、それきり二度と、帰ってこなかった。
○
――今日はよくよく、妙な夢を見る日だ。と、今思っている。
そう、――これは、夢だ。
それとも、ここが、正真正銘の地獄というところだろうか。
目の前に広がっているのは、そういわれたら納得してしまう、そうと思える、そんな光景だった。
どこまでもどこまでも、ただ果て無く続く、無明の荒野。
月も星も太陽も、光を放ち地を照らすものはおよそ見つけられない、灰色の空。
見渡す限り、動くものは何も存在しない、荒涼たる地平。
こんな場所では――花は芽吹いた瞬間に枯れ絶えるだろう、涙は流れた瞬間に乾くだろう。
止むことの無い乾いた風は、微細な多量の塵を孕んで、頬を打つ。
そして隙間なく地を埋め尽くしているのは、――塵、ただそれのみ。
かがんで手を伸ばし、ひと掬いを手のひらに乗せれば、指の隙間からさらさらとこぼれた。
砂。とも、泥。とも違う。
ああ、やっぱりこれは、塵だ。と思う。
何か色々な物が、経年と摩耗の末に朽ち果て、砕け散った、その果ての、塵芥だ。
そう思ってから、考える。
……では、この光景は、初めからこうあるものではなかったのか。
かつてはありとあらゆるものがここにあり。そして今、すべてが失われた、そういうものなのか。そんなことを考える。
どこか物悲しい響きで、風の音が鳴り渡る。
目を凝らせば、遥か彼方に見えるものがあった、
風が僅かに勢いを弱めると、砂塵の向こうに都市の影、立ち並ぶ高楼の姿。
……ちょうどぼくが立っている、このあたりを中心に、塵の地平は広がっている。
ならばそれらもいずれ、この塵芥の海に呑まれるだろう。
ぼくが意識を失っていた間に、――「ここ」を中心に、世界は終わってしまったのではないか?
そんな疑念が脳裏によぎる。
――ああ、そうだ、探さないと。
あの人たちなら、きっと、この状況でも、何とかしてくれる、打開策を見出してくれる。
くおんさん。
びゃくや。
狗戒さん。
塵にむせ、咳き込みながら、名前を順に叫ぶ。
呼び返されるのを待つも、かえって来る答えはついになく、風の音だけが虚ろに繰り返された。
――まず、状況が判らない、ここが何処なのかもわからない、助けが来るあてもない。
膝をついた、途方に暮れ、頭を抱えうずくまった。
ぴちゃりと、何かが滴るような音を聞いたのは、そんな時だった。
咄嗟に、聞こえた方に、目を向ける。
そうしてぼくは、それを見つけ出す。
小高く積もった
この、塵芥の地獄の王の姿を。
ボロボロの黒衣を纏い、膝をつき、手にした得物で身を支えて、辛うじて半身で立っている。
身の丈はさほど高くない、四肢はか細く、枯れ木と見まごうほどだ。
全身いたるところ、深手を負っているらしく、元々黒い色をしている以上に、その着衣は赤黒く、濡れたように染まっていた。
あまりに痛々しく、物悲しいが、その姿は周囲の風景の中にこれ以上ないほどに収まっていて、そして直感する。
この塵の世界は、ソレを中心に広がっている。
その影こそが、この塵の世界の王である。
一歩踏み出し、それに歩み寄る。足の下でがさりと塵が音を立てた。
まず、ソレがどういうものなのか、そもそも危険でないものなのかすらわからない。
けれど、視界の中で意思を持って存在し、およそ、それが良いものであろうとあるまいと、変化をもたらしてくれそうなものは、ソレだけしか見出せなかった。
だから、とっさに、声をかけようとした、
「あ―――――。」
風が吹いて、その髪が舞い上がり、隠れていたその
こらえきれず、言葉がほとばしる。
「――――――。―――――。」
二度、その名を呼んだ。
――にいさん。
――マサトにいさん。
「嘘だ」
首をもたげ、長い髪を風になぶられて、露わになった容姿は、10年前に見た、祇代マサトの、記憶の中に残るそのままだった。
「嘘だ嘘だ」
だからこそ、それが何よりも雄弁に、この光景が現実のものではないと物語っている。
――10年前に別れたはずのこのひとが、こんな、別れたその時の姿でいるはずがないし。
あのひとはこんな、地獄からねめつけるような、虚ろな眼差しをしてはいなかったはずだし。
たぶん、まともに遺体が残るような死に方を、このひとはできなかったはずだから。
それに何より、
「――こんなのは、嘘だ」
こんな、地獄のようなところに、いるはずがないのだから。
――ごめんなさい。
ああ、まったくもって申し訳がない。
あなたはぼくを生かしてくれたのに。
こんなところまで来て、ぼくはこのありさまだ。
ごめんなさい。
にいさん。
ごめんなさい。
あなたの選択は間違っていた。
ああ、――あなたは、ぼくを助けるべきじゃ、なかった。
「――くん」
……ああ、呼ばれている。
「――ち、くん」
ぼくの名を呼ぶ、声がする。
「朝ですよ」
○
「そろそろ――起きてくださいな」
困ったような声で、狗戒さんがぼくを呼んでいた。
「狗戒、さん」
「……んぁ、お目覚めですねえ」
どうやら、ぼくはたった今意識が戻ったらしい。
鼻腔を仄かにくすぐる、甘やかな香り。
顔全体が、暖かくそして柔らかなものに覆われていて、居心地はけして悪くない、悪くはないのだが。
何かが、おかしい。
試みに、顔に当たっているものに、顔を押し付けてみる。
「んぁっ? ちょっと、動かないでくださいな、くすぐったいでしょ?」
という狗戒さんの反応は、頭の上方からやってきた。
え、――ということは、この、いまぼくの頭が埋まっている、「これ」は……
「……ああ、すいませんけどしばらく「そこ」に挟まっててくれませんか?まずそこはこの場の中じゃ安全ですからね?」
ぼくは今、狗戒さんの胸の谷間に、顔面をうずめていると言う事か!
「ちょっと手が離せないんでねぇ……いい子にしててくださいよ?」
ぼくを、胸元に抱きかかえながら、狗戒さんはそう告げる。
――直後、豪雨が土を撃つような音を、聞いた。
否、もっと近い物をあげるなら、テレビで報道される、紛争地帯で放たれる、自動小銃の咆哮。
そしてそれに混じって響くのは、耳をつんざく、断末魔の叫鳴。
何だ?一体いま、どうなっている?
体感、足が地についていない。
腰に回されているのは、……狗戒さんの腕か?
……何か、前にもあったぞ、こういうの!
ようやく視力の戻ってきた両目に飛び込んできた光景、それは、想像を絶する凄惨な光景。
先刻の夢を、地獄みたい、とは言ったが、これもまた、地獄さながらだ。
狗戒さんは、ぼくを懐に抱えたまま、作業機械や保管棚が立ち並ぶ中、縦横無尽に地を蹴り、壁面をかけ、時には天井すら利用して立体的ににその肉体を躍らせて、視界すべてを覆わんばかりの人食いネズミの大群を蹂躙していた。
禍々しい爪と牙、ウィッチの証である赤黒い光点を備えたそれは、ネズミという生物に対するイメージに全力で喧嘩を売るような姿と言い、その数といい、万が一にも大挙して地上に出たら、モノの数時間で都市の機能を失わせるに足るものと容易に知れる。
だが――海の砂の如く見えたネズミたちが、徐々に数を減らしてゆく。
狗戒さんが腕を振るうたびに、その指先から放たれる煌めく鋼針が、一切の無駄撃ちなしにネズミたちを串刺しにしてのけ、断末魔の咆哮と共に炎上させて行く。
時には一匹一匹正確に羽虫を潰すように、時には集団をごっそりと抉り取る様に。
何しろ、狗戒さんが地に足をつけている、攻撃できる範囲にその身を置いているのは、一秒に満たない僅かな時間しかないのである。
これだけの群れに囲まれているというのに、むしろ狗戒さんの方が一方的に包囲しているかのような、獣の狩りのごときありさまだ。
初めて目にした際には、手首に袖箭なり短弓なり仕込んでいるのかと思ったが、こうして至近の距離で目にする限り、すらりと伸びた両腕にも、手のひらにも、人工物と見えるものは何もない。
何かしら魔法的な力によるブーストはされているのだろうが、本当に掌と指先の力と、手首のスナップだけであのニードル・ショットを放っているらしい。
どうやらやはり、あの針を用いて射貫く、撃ち落とす、狙い撃つ、そういったもの……〈射手〉というのが狗戒さんの得手とする戦闘スタイルであるようだ。
その戦いぶり。これまで目にしてきた戦う際のくおんさんが生きた剣と呼ぶべきものだったのと同様、まさしく彼女自身が弓そのものだ。
技量の高さとしていうなら、剣と針という違いはあれど、くおんさんに限りなく近い水準ではないのだろうか?
すでにかなりの犠牲を出し、数の有利を失い、地の利もむしろ狗戒さんに上回られて、ネズミたちは残った頭数を集合させ、より強固な一団を構成した。
次いで、砂埃を蹴立て、鏃のように一直線に、こちら目掛けて突撃を敢行する。
「ソレを待ってましたッ!」
狗戒さんが、叫んだ。
「来ぉいッ!〈ケルベロス〉」!」
返ってくるのは、鋼のマシンの放つ爆音。
横合いから突如姿を現したソレは、主の呼びかけに応えるかのように雄々しく咆哮しながら突進、一固まりの堅陣を組んでいたネズミたちを撥ね飛ばし、轢きつぶしてゆく。
これを持って、勝敗の天秤は決定的に狗戒さんの側に傾いたと言えよう。
もはやネズミたちは完全に統率を失い、ばらばらに叫び声をあげながら、不規則に攻撃を仕掛け、個別に射落とされるか、猛進するタイヤにかかるのを坐して待つかの的でしかなかった。
そんな中、狗戒さんが、針の絨毯爆撃を連打しながら、ぼくを懐に抱えたまま、ぽつりと問いかける。
「こーいち君、気づいてます?」
気づくって、何を。
「…
それは確かに重要ではあるものの、無論、ぼくの目ではそこまで追えないし、数など正確に把握できてはいなかったのだが、狗戒さんはそんなも意に介さず。
「ほら、あそこですよ、あそこ」
世間話でもするかのように、手にした針の先を、多数の機材やパイプの組み合わさり、複雑な形状をなす作業機械に埋め尽くされた構内の一か所を示す。
そこにはたしかに、赤黒い光点が駆け去っていくのが見えた。
この集団のリーダーででもあるのだろうか?
どうやら、さきほどの〈ケルベロス〉号の突進を受けた際に、群れから離脱し、退避を図っていたらしいが……狗戒さんの目は、それを見逃してはいなかった。
まずい、と考えた。
アレは、絶対に取り逃がしてはならない。しかし、射落とすには――遮蔽物が多すぎる、
「……この狗戒かなめさんから逃げられると」
手にしていた針束を数回に分けて放ち、地を這う群れを砕き、冷たく呟きながら、狗戒さんは、新たにソレを抜き放ってみせる。
「思ってるんですかねえ?」
狗戒さんの掌の中に、他のものより明らかに長く、先端に臓抉りの返しがついた、凶悪な造形の一針が、瞬時に姿を現した。
その左手には何もない、何もないのだ。
しかし、確かにそこには、正しき射法に則り、「引き分け」と「会」がなされていた。
「受けよこの一針、――南無八万大菩薩!」
弦の音を響かせず、針が飛ぶ。
放たれた鋼の閃光は、障害物の何もかもを掻い潜って、隙間を通過して、標的を捉えていた。
走る赤黒い光点が、白い燐光に呑まれて消えるのが、かすかに見える。
「はい、終わりっ!」
「倒した…ん、ですか?」
懐に抱えられたまま、おずおずと問いかける。
「生憎とまだ親玉はピンピンしてますよ、こいつらは偵察隊ってとこですかねぇ」
こともなげに、肩をすくめて狗戒さんはぼやいた。
「こーいち君も、お疲れ様でした!」
どうやら、紛れもなく「こっち」が現実らしい。
何しろ、狗戒さんがいる。
柔らかな両腕でぼくを抱きかかえ、にまりと、緊張感とは無縁の穏やかな笑顔を向けている。
地獄とか、煉獄とか、奈落とか、インヘルノとか、ヘルヘイムとか。
そういうところに落ちるなら、ぼくひとりであるべきだ。
○
狗戒さんによる、状況説明
「つまり、足元が崩れ始めたんで、咄嗟に君を捕まえたんですよ。斎月ちゃんも手を伸ばしてたんですけど、わたしの方が近かった」
「まあ、そういうことですよね」
〈ケルベロス〉というらしい、件のマシンに腰掛けて、一息ついていた。
……やっぱいいなあ、こいつ、勇猛で頼りになるし、どこかの誰かと違って嫌味を言わないし。
「で、向こうはまあ、それほど心配してません、何しろあの子空飛べますからね」
ひとつ、気になっていたことを、聞いてみる。
「あの……ぼく、フルフェイスのヘルメットかぶってたと思うんですけど、」
そのはず、だった、
「よかったですよねー、なかったら大けがしてましたよ、このラッキーボーイ」
「今ぼく、ヘルメットかぶってないですよね」
そう、せめて、せめてヘルメット越しであれば、ここまでの気まずさはなかっただろう。
ちなみに、いまださっきの体勢、狗戒さんに抱きしめられたままだったりするのですよ?
「いや、ね、とっさに抱えて着地したけど、気を失ってたから、どっかぶつけてないかなと思って、メット脱がせて、呼吸と脈拍の確認。そういう流れ」
「明らかに頭ぶつけてる場合は外しちゃいけないらしいですからね、それ」
ていうか、そろそろこの状態から解放して頂けませんか。
「……ところで、顔色わるいですよ、大丈夫ですか」
「すみません、夢見が悪かったもので」
判ってたけど再確認。
また随分、おかしな夢を見たものだ。
「まー、せっかくいい枕を用意してあげたって言うのに、それはご挨拶ですね」
「……枕が良かったのがプラス10、寝所がウィッチに囲まれた穴倉の中だってのがマイナス100ってところ、ですかね」
「ねえ、狗戒さん」
「んぁ?」
当面の生命すら脅かされる状況から解放されて、気が緩んだ。
それだけだ。
それだけがいけなかったのだ、と、思う。
「――う、して」
自制をかけようと思った、けれどそれよりも、脊髄反射的に、口は動き、
「どうして、ぼくなんか、助けたんですか」
そんなことを、口にした。
「んぁ?……いや、どうして……って言われましても」
……ああ、いけない。
こんなことを、彼女たちにはけしていうまいと、思ったのに……!
「ぼくなんか助けても、あなたたちの役には、立てない、でしょう」
「こーいち、くん?」
「……あなたたちは、早くウィッチを倒さないといけないじゃないですか、そうしなきゃ、社会が保てないんだから……だから、その為に優先するべきじゃない、足手まといになるようなものは、全体の為に、ほっといて…」
……言ってしまった。
――こんなものは、当分、しまっておこうと志したはずであったのに。
確かに、くおんさんに助けてもらって、励まされて、その在り方に惹かれた。
ほんの少し、前向きになったつもりでいた。ほんの少し、これまでの自分を恥じた。
……だから、何だというのだ。
何を自分まで立派になったような気に、なっていたのだろうか
立派なのはくおんさんであって、ぼくじゃない。
それは全く変わっていない。
くおんさんが、すぐ傍にいない。
どれだけ必死に
――消えたい、いなくなりたい。
ぼくを助けるべきじゃなかったのは、マサトにいさんと、狗戒さんだけでは、なかったらしい。
「――んぁ」
口癖なのだろうか、何度か彼女がそんな風に言うのと、まったく同じようにして、そう頭に置いてから、狗戒さんは言った。
「こーいち君」
その声音は、けして責めるような色はなく、
「……どしたんですか、キミ」
ただただ不思議そうに、狗戒さんは問いかけた。
何でもない事のように、
子供のころからずっとつるんでいる友人のように親しげに、
「あー……こーいち君、きみ、今日の予定は?」
――夏休みの朝「今日は何をして遊ぼうか?」と聞きに来たような顔で、言うのである。
「キミは、何がしたいですか?」
「……なにを、言って」
「ああ、人生の大目標とか、将来の夢とかたいそうなこと言えってんじゃありません。……今日これからの、ここから帰って、その後の予定です。見たいテレビがある、冷蔵庫にアイスがある。……そのレベルでいいです。言ってみて?」
「……今夜の」
胡乱な思考の中で、何か、思い出そうとする。
「今夜の、食事」
それを否む気力も今はろくになく、従順に、聞かれたことを、口にする。
「ぼくが作ることに、なってます」
出てくる答えは、やっぱり、そんな程度の事、ばかりだったけれど。
「何を作る?」
「……ハンバーグ」
「うんうん、どんな?」
「……煮込みハンバーグ、です。……あ……でも、トマトがいいか、ドミグラスがいいか、まだ、聞いてなくて……」
「じゃあ、聞かないとですね?」
「……はい」
それを聞くと、狗戒さんは大きな声をあげて、嬉しそうに笑って見せる。
「好きな女の子と一緒に、今夜の飯が食いたい! うん、いい! いいですねえそういうの。――結構な話じゃないですか!」
訳が分からず、ぽかんとしたまま、ぼくは狗戒さんを見上げていた。
「いいですか? キミは、この穴蔵から地上に出て、館に帰って、あの子にハンバーグを作って、一緒に食べるんだ、――何だ、いきなり何を言い出すのかと思えば、ちゃんと、これからすることがあるんじゃないですか?」
狗戒さんは、抱え込んだぼくを見据えて、言った。
「することがあるってことは大切です! それが残ってる内は、死んでも生きろ!」
そしてそこまで言うと、言葉を止めて、口元を引いて表情を崩して、
「……とまでは言いませんけどね、まあ、なるべく生きる努力を続けた方が、楽しいことが多いと思いますよ」
――いひひっ、と言う感じに笑って見せた。
「そう、なのかな」
「そうですよ」
その若干の品の無さは、けして感じの悪いものではなくて。
「……そうして、みます」
と、ぼくは、そう答える。
ああ、うん。……くおんさんに、夕飯を食べてもらわないと。
「――で」
「はい」
「君は今結構、すごいことになってるんですけど、何か言うことはありませんか?」
――あ、これ、アレか。
感想言わなきゃいけない奴か。
この
男子高校生には酷じゃないですかね?
「…やっぱりそれくおんさんに教えたの、あなたですか」
「何のことやら」
少し考えてから、口にした。
「すごい体験しちゃいました!今夜は思い出しちゃって眠れないかも!」
「――ならいい、許す」
満足げにそういうと、狗戒さんは両腕を解いてぼくを開放し、ケルベロスのシートから地に足を付けた。
からん、乾いた音がした。見れば、鉄のパイプがつま先に当たって転がっていた。
狗戒さんはそれをつま先で寄せると、拾い上げ、肩に担ぐようにして、ぼくに振り返る。
……何だか野武士が大太刀背負ってるような、ものすごい風格だった。
「さぁて、それじゃ次行きましょうか?」
○
「――133代ツクヨミ、斎月くおんである!」
淀んだ、生温い空気を切り裂いて、凛とした叫びが飛ぶ。
剣の刀身を覆う白い燐光が円を描き、舞い降りる光のカーテンがその身を包み、斎月くおんの全身は純白の戦衣に覆われていた。
暗い暗い、太陽も照らさない、月の光の射すことの無い、地の底のような場所で、白い孤影が閃く。
白刃が振るわれるたび、断末魔の叫鳴をあげながら、人食い鼠の群れが切り裂かれてゆく。
おくびにも出さないものの、斎月くおんは、苛立っていた。
何と言う事だ。
己には決して許されない失態だ。何という無様だ。
そう自責を続けながらも、聖剣を振るい、鼠の怪異を屠り続ける。
「……思ってイたよりも、冷静だナ」
人差し指で空中に円を描き、光輪を放って乱舞させながら、苦々しげな口調でびゃくやに答えた。
「……そう見える? 結構焦っているよ」
「剣が鈍っているようにも、士気が落チていルヨうにも、見えないのでね」
「そうならないようにって、思ってるだけ」
ネズミたちは群れをなし、巨大な一個の生き物であるかのような動きで襲い掛かる。
進路上にあった作業機材が、発泡スチロールの塊のように砕き散らされるのを見た。
指先を回し、再度光輪を生成、3枚を放つ。
「……昴一郎さんにも、言われたからね、自分を助けようとするために、他の人を助けるのを疎かにしないでほしいって」
「心配はいらないだロウ、狗戒も一緒だ」
「そうだけど」
光輪がネズミたちを斬り伏せ、八つ裂きに変えてゆくのを見ながら、びゃくやは重ねて尋ねる。
「そレとも、狗戒と一緒「だかラ」気になルか?」
それに対し、くおんはびゃくやが拍子抜けするほどにあっさりと、それを肯定する。
「そうだね、あんなに長く、昴一郎さんがわたしとびゃくや以外と話すところ見たの、初めてだ」
頭上から、甲高い叫びが聞こえてきた。
牙をむき爪を振り立て、壁面を伝い天井から、十数匹のネズミが降り注いでくる。
……二刀を使うほどじゃない。
「わたしとびゃくやだけの昴一郎さんだったのに、ね?」
言いながら、手首を返し、切っ先を躍らせた。
ネズミたちは白い燐光に焼かれながら、再び地に落ちてゆく。
「確かに、何なのだろう。この、落ち着かない嫌な気分は。――と、おもった。
こんな感情、わたしはしらなかったはずなのに――とも、おもった」
その場から飛び退り、びゃくやを腕に融合、「射撃形態」となって、上に向けて連射。
「でもその後、「ああ、そうか」って、「うん、そうだよね」って、おもったんだ」
あの人は、いつか必ず、館を去る。
……いつまでも自分の懐にいる人じゃない。
「納得した、あの人は、いつか、ここじゃないところで、ちゃんと幸せになるんだって」
その時隣にいるのは、自分じゃない。
びゃくやは内心思う。
もしも「これからも館で働いてください」とくおんが望んだなら。
昴一郎は、けして嫌とは言わないだろうと断言できる。
同時に、くおんは自分からはけしてそれを口にできないだろうことも。
「だから、もっと頼ってもらえるようにならないと、わたしは、強くないと」
「君は、強いサ」
――びゃくや、「射撃形態」を解除。
「まだ足りない。――さっきなんて「大丈夫ですか」って聞くだなんて、ふふ、……あんな風に、わたし達が手こずるんじゃないかって心配をさせるなんて、駄目だよね?」
「そノ……くおん、あレはな?」
言おうとしたびゃくやを遮るようにして、くおんは言い切った。
「びゃくや、わたしは何も変わってはいないし、揺らいでいない、強いままのわたしでいるよ、それでいいし、それが全部だ」
もしも、もしも自分が抱いている好意が、女の子が男の子に抱く様な種類のものだったとして。
それは必ず、ただの片想いで終わる。
「ねえびゃくや、わたしは、強いかな?」
改めて、相棒(パートナー)に、問いかけた。
「――斎月、くおんは」
一度つかえてから、びゃくやは大声で叫ぶ。
「――最強の魔法つかいデあるッ!」
「くおんッ! 行くゾォォッ!」
「ああびゃくや、――来い!」
白い翼が、くおんの背中と肩に出現する。「飛翔形態」。
「〈
熱でも刃でもなく広範囲に伝播し、特定の標的のみに作用する「音」を武器とするそれは、確かに現状最も効果的に、遮蔽物を通過して多数を殲滅できる魔法である反面、届いてから効果を発揮するまでに、若干のタイムラグを要する。
一匹たりともここから逃がさず殲滅する。……だから、その為にひと工程を加える。
「慟哭は」
伸ばした両手の掌の間、空気の渦を作成、強化、増幅、――放射。
「全てを」
烈風が吹き荒れ、地を這い壁を伝うネズミたちを捉え、舞い上がらせ、大渦の中心へとかき集めてゆく。
そう、逃げも隠れもできぬよう、一か所に集めてから、叩き込めばよい。
「裁く!」
大きく深呼吸をひとつ、……そして、放つ。
「――Raaaaaaaaaaaaaaッ!」
自らも破壊の歌声を纏った一発の弾丸となって、くおんは、大渦の中心へと飛んだ。
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