第四夜「オオカミが来る」(Aパート)④
○
……すげえモノ。
何やら見せて頂けるらしいが、はて…何であろう。
まさか、眼前にそびえるこの巨大な双球のことではないだろう。うん。
……確かにすげえと言えばすげえのだが、それはもう、すでに一度、直にその瑞々しさを目にした、というか、目にしてしまったというか。
今は一応黒いチューブトップに包まれているが、これ見よがしに目の前に突き付けられ、その奥から響く鼓動とその温もりすら伝わってきそうであった。
「きっとこーいち君にも気に入ってもらえますって、さあ、さあさあ」
狗戒さんは妙にはしゃいだ口調でそう言いながら、ぼくが気乗りしなそうにしていると見たか、ぼくの両手首をつかみ、軽く振る様にして、力を込めた。
ただそれだけで、ぼくの腰から下、両膝から足首が、ばね仕掛けでそうなったかのように、脱力していた状態から一瞬で硬直し、ぴんと伸びる。
「……あ……あれっ?」
気づいた時には、ぼくはソファから腰をあげ、狗戒さんに両手首をつかまれたままの状態で直立していた。
無理やり立ち上がらされたというよりも、自然にそうなった、まるで自分の意思で立ち上がったという感覚しか残っていない。
合気道とか整体に近い、人体の構造の理解と把握による〈そういう技術〉なのだろうが、いきなりされると面食らう。これだって十分魔法の域なんじゃないかと思ってしまう。
……そういやさっきも、こう言う感じに無力化されたんだっけ。
と思いつつ、
「あの……こういうの使うときは、事前に通達してもらえませんか、びっくりしますから」
そう言いながら、ふと、ある違和感に気づく。
肩甲骨から背骨にかけてを中心とした、背中全体。
「あの、狗戒さん」
「んぁ?」
「その、何かしました?」
おずおずと尋ねてみる。
……普段意識しない、姿勢、立ち方、そういったもの。
日ごろついぞないほどに、背筋がぴんと真っ直ぐに伸び、多分、言うなればこれが健康的な、正しい姿勢、なのであろうと思われる、そういうポジションに整っていた。
「……ああ、したっちゃしましたけど。ちょっとね、だって君、何か背中丸めてる感じなんですもん」
「いけなかった、でしょうか?」
尋ねたぼくに、どこか苦笑いするような顔で、狗戒さんはそう答える。
「何であの子がそこまで君に入れ込んじゃうかは、わたしはしりません。興味はありますけどね」
まあ、どういう経緯でぼくがここにいるかというのは、どこまでいっても口には出せないことなんだけど。
「……でも、あのお堅い子にあんなに大事にされるっていうのは、もうそれだけでそれなりに大したものなんですよ。だから、そんなに背中を丸めなくてもいいんじゃないかって、ちょっとお姉さんんぶってみました」
なるほど、だから、姿勢を正すツボだか何だかを突いて、背筋を伸ばさせた、胸を張らせた、そういうことか。
「もっともだなとは、思います」
そう、狗戒さんは多分、真っ当なことを言っている。
ツクヨミ様が何を気に入ったか、おまえを生かして傍に置いてやろうというのだ。
居住まい正して、真人間に生まれ変わるのが礼儀であろう。
「思います、けど」
けれど、ぼくはずっと、こうしてきたのだ。
そううまくはいかない。急には、変われない。
「背中丸めるとか伸ばすとか胸を張るとかくらいは、自分で決めたいかな、って」
些か感じの悪い物言いになったかもしれないが、ぽつりと答えるのは、そんな言葉だった。
「……なるほど、近頃の若いひとはなかなか洒落たことを言う」
機嫌を損ねてしまったかなと一瞬思うものの、少し考えるように首を傾げ、狗戒さんはそう返してくる。
「きみがほんとのところどういうこなのか、わたしはまだ知りませんけど。……結構、言うじゃないですか。……んぁ、そうだな、わたしもきみくらいのころは、そんな感じだったかも」
そう付け加えてから、狗戒さんは口の端を引いて、ひとつ笑って見せた。
何だか、彼女の色っぽい造作の容姿からすると、随分幼い感じの笑顔だった。
「いえ……口幅ったいことを言いました、ご容赦を」
思えば、今朝方びゃくやにも言われたことではないか。
――家人を見れば、主が判る。
ぼくにたいする評価は、くおんさんに対するそれとなる。
なら、この狗戒さんくらいには「天晴流石は当代ツクヨミに仕える男よ」と思われるように努めてもいいかという気がする、
それにまあ、少なくとも健康にはいいだろう。
「健康志向のウィッチの呪い持ち」。
我ながら、気の利いたとはいえないジョークであるけど。
「……以後、姿勢位は、気にしておきます」
参ったなあ、何か、着々と梯子が外されてゆく。
「さ、それじゃま、行きましょうか」
狗戒さんは、いい加減すっかり乾いていた長い髪を一度大きく広げ、それから首の後ろに回した両手で一まとめに紐で結える、先に立って軽い足取りで歩き出すと、軽い髪質のようで、腰くらいまである長さの束が、獣の尻尾のようにふぁさりと波打った。
ぼんやりとそれを見ていたぼくが気になったらしく、びゃくやに尋ねられる。
「どウした昴一郎、狗戒がマっていルぞ?」
「いや……狗戒さん、そういう髪型だったんだなぁって思って」
「はーい、こっちですよー」
手をぶんぶんと振りながら、先に立って歩く狗戒さんの後について、とりあえずついてゆく。
おお、後ろから見ていると、獣の尻尾みたいな後ろ髪をはじめ、歩くたびに色んなところが揺れる。
さすがは狗戒さん。背中のラインも優美である。
○
前後に並んで、廊下を歩きながら、狗戒さんに声をかけてみる。
「そろそろ、何を見せてくれるのか教えてくれてもいいんじゃないですか?」
「んー、そこはついてからのお楽しみってやつですよ、でも驚くのと喜ぶのはカタいですよ、こーいちくんきっと「すごい!かなめさん最高!抱いて!」って言いますよ?」
いひひ、と笑いながら、狗戒さんはそんな風に言う。
何それ。
一つ目と二つ目はともかく、最後のはどうかな。
しかしまあ自信たっぷりに言うものだ。
ぼくとてここ最近、想像を絶する光景を何度も眼にしている。
この御剣昴一郎、ちょっとやそっとじゃ驚きゃしませんよ。
「えっと、庭に出るんですよね?」
「そうですよ?いけませんか?日光に当たると灰になる体質とか?」
「いや、そういうことは一応ないんですが」
……以前にくおんさんから、件の隠蔽については、「舘の敷地から出なければ問題ない」、と聞かされているが、ちらりとびゃくやに視線を送る。
白い嘴がわずかに上下した。
「かまわない」ということらしい。
……ああ、ネタをばらしてしまえば、さっきからぼくがかなめさんの前でやたらとびゃくやと大げさな芝居を繰り返しているのは、それが通常の状態、つまり、ぼくがカラスとアイコンタクトを取り合うのが「いつものこと」であるという印象を強く与えておきたいのである。
やたらとびゃくやと目配せしあっていても、ああ、こいつはこのカラスしか心を許せる相手がいないのだな、と思ってもらえれば、御の字だ。
いつのまにやら、結構ぼくの生命線である。
○
何しろ、わざわざ用もないのに外に出ようとも思わなかったので、久しぶりに見る気がするような昼下がりの空の下。
露出過多の格好をした巨乳のお姉さまに連れられて、つま先を大地に着けた。
周囲を見回してから見せてもらえるらしいブツはここにあるらしいが、ひとまず狗戒さんの出方を待つことにする。
やがて、
「……じゃーん!」
という声と共に、片手を腰にあて、掌で、「ソレ」を――舘の庭の片隅に留め置かれた二輪車(サイドカーゴ付き)を示して、狗戒さんが得意満面の笑みを浮かべているのを見る。
あー……これさっき窓から見えた奴。
……そうか、これは狗戒さんの持ち物であったのか。
良くわからないが、ハーレー・ダビッドソンとか、陸王とか、そういうブランド付きのもののような、重量感と高級感のある外観だ。
かなり年季が入っていそうだが、相応にしっかりと手入れの行き届いているもののようで、黒光りする装甲が、落ち着いた印象の中にも確かな力強さと機能性を感じさせる。
見せたいものというのは、これのことなのだろうか。
だが、だがである。
ぼくは別段二輪車に詳しいわけでも、自前で持っている愛機に入れ込んでいるわけでもない。
蕎麦屋のバイトをしていた時を除けば、わざわざ免許を取ろうとか、その暁にはどんなマシンを購入したいとか思ったことすらろくにないのだ。
これだけでは何がどうすばらしいのか素人さんには判りづらいのだが。
それとも、男だったらメカには目がないはず、って、そういう事なんだろうか。
教皇院の精鋭・狗戒さんとも思えぬ買い被りである。
何ともどういう態度をとった物かわからずにいるぼくを狗戒さんは見ると、
「ちゃんと見ててくださいね?」
鼻先でふふんと笑い、件の二輪車に向き直ると、
「〝来い〟!」
一声、そう叫んだ。
ブロロロ……ン
と、エンジンの駆動音をあげ、縦にも横にもでかいバイクが、無人のまま……走り出した。
そして無人のまま砂塵を蹴立て、庭を横に突っ切って疾駆する。
「なっ……!」
息を呑み、目を見開いらいてその光景を見る。
力強い排気音と共に主たる狗戒さんの目の前まで走行した二輪車は、あたかも忠実な猟犬であるように、そこで停止した。
「………」
「……へへー、どうですか?」
「いヤ、狗戒、こんなもンデ昴一郎は驚かンだろう」
……ああ、狗戒さんが何か喋っている、
……びゃくやが何か喋っている。
が、
そんなことはどうでもよろしい。
「……わああ……!」
思わず、感嘆の声がほとばしる。
「……あ、あの、狗戒さん、今の、もう一回やってくれませんか?」
気づいた時には狗戒さんに詰め寄り、そう頼み込んでいた。
「いいですよー」
狗戒さんは一つ頷くと、高らかに声をあげる。
「〝行け〟!」
放たれる叫びと共に、それに応え鋼鉄の駿馬は再度走りだす、
「〝戻れ〟!」
重ねて命じる、瞬時に急制動をかけてUターン。
再度砂塵と風切の音を撒きながら、ぼくたちの目前までもどってくると次の指示を待つかのように沈黙する。
「……感想は?」
「……わああああ……っ!」
「ド……どうシた昴一郎?呼べバ来ルくらい、キミや私デもできルぞ?」
……うるさい、外野がうるさい。
「えっと、あの、狗戒さん」
「何でしょう」
「ひとつ、試してみたいんですが」
「どうぞどうぞ」
狗戒さんの了解を得て、庭の反対側まで駆け足で移動すると、さっき狗戒さんがやっていたように叫んでみる。
「〝来い〟!」
……かなり大きな声で呼んだ。
が、それは空しく空に消え、件のマシンは狗戒さんの側に忠実に侍っている。
「……そう……そうだよ……!」
そうだよなあ…こうじゃなくちゃいけないよ!
知らぬ間に荒くなっていた呼吸を整え、それから判ってない方に、改めてそれを教えてやる。
「いいかびゃくや? …いいか? 二輪車(・・・)が…バイクが「呼んだら来る」から凄いんだよ!」
このシンプルな凄みと素晴らしさが判らないとは!まったく素人さんはこれだから困るんだ!
「男の子って、こういうの好きですよねえ?」
ぼくの反応に満足いったようで、狗戒さんは、左右にゆらゆら身を揺らしながら、そんなことを言う。
なお、この際、組んだ両腕に、重そうに「乗っている」のだが。今はそれも気にならない。
それよりもこいつだこいつ。
「ええ、大好きですこういうの!」
掛け値なしにそう答える。
いいなあ……
こいつ…いいなあ……
「ワクワクしました?」
「はい!ここにきてから二番目にワクワクしました!心が躍りました!」
「ほウ、一番は私かネ?」
「ハァ? 何言ってるの君? やる気あんの?」
「さっきかラ何ダ! 喧嘩デも嘩売っているのか君ハ!買うゾ!いくラだ、明日の教皇院日報載っタぞ!」
あしらうぼく、食って掛かるびゃくや。あわや嘴がぼくの頭頂に降り注ぎかねないというところに、
「びゃくや」
静かな声がして、間一髪それは阻止される。
「……ム」
「……もう……わたしが見ていないとすぐ昴一郎さんと喧嘩をするんだから」
困ったように幽かに柳眉をひそめ、ぼくたち共通の主がそこに立っていた。
外出するときはいつも羽織っている白い長裾の上着と、乾いた寒風に吹かれながら尚水に濡れたような長い黒髪をなびかせ、手にもいつもの長モノを携えて、お出かけ支度は整っているようではある。
「ダってこいつが……」
「ああ、いまのは確かにぼくが悪かった、ごめんびゃくや」
「君は……くおんの前ダと急にいい子になるよナ……」
「……そうしていつも仲良くしていてくれれば、わたしは何も言わないよ」
ぼくは当然だが、びゃくやもくおんさんにはそう強くは出られない。
こういうところを見ると、本当にお姉さん気質というかなんというか。
「その格好を見ると、もうすぐに起てるようですが…」
「はい、お待たせしました」
ひとつぼくに首肯して、くおんさんはぼくの顔から足もとまで、さっと視線を走らせた。
何事もなかったのを確認するように、瞳で「大丈夫でしたか?」と問いかけてくる。
「え……ええと……」
「安心せよくおん、別に、狗戒には何もさレテいない」
「わたしだって、斎月ちゃんのお気に入りに手を出すほどトチ狂っちゃいませんよ」
口々に、そんな声が上がる。
寡黙で表情の変化が少ないくおんさんだけど、ここにいるのは彼女と親しいひとばかり。
こうなると、結構感情の機微は丸わかりである。
「ついさっきあんなことがあったのだから、心配もします、だからびゃくやをつけました」
静かで淡々とした中にも、底の方には妙に力のこもった声でそう返すくおんさん。
狗戒さんはそれを見ると、ぼくの方をちらと眼を向けながら
「ほんとに大事にされてますねえ」
と、にやにやと笑みを向けた。
「……昴一郎さんには、傍にいて守ってくれる人が必要です」
と、くおんさんは狗戒さんの戯言を切って捨てるように言った。
「……今はわたしですが」
と、前置きした上で、
「きっと、ずっと隣にいてくれる人が現れます。ですので、それまでは、その女性のためにも、いまはわたしが責任もってお預かりしなければと思っていますから」
あくまで平静な口調のまま、そんな風に続けた。
……何だか、とてもつもなく面はゆい。
これ、多分狗戒さんだけじゃなくて、ぼくにも向けても言われてるんだろう。
「観ました?あの顔」
「おウ、みタみた」
「いいこと言ったとでも思ってるんですよアレ」
……言葉を選ばない人だな。
いや、選んだうえでそのコメントなのか。
いいこと言ったつもりで、周囲の反応がそれというのはかなり辛い。
少なくとも、ぼくだったら泣いてしまうぞ。
……さて、狗戒さんのさっきいっていたことは、判らないでもない。
まあ、さっき言われたような、そういう事情があるならば、この館の浴場に見知らぬ男が足を踏み入れているという意味で……狗戒さんが神経質になり、瞬時に沸騰するのもさもありなんというものだ。
縊り殺されたり、あの手に持っていた金串みたいなものでずぶりとされなかっただけでも、狗戒さんはまだまだやさしさと慈愛に満ち溢れていると評してもいいくらいだ。
何しろ、腕折ろうとする前に折ってもいいかと打診してくれたし。
もしもあれがみやこさんだったら、まず者も言わずに片方の腕を折るか毟るかして、しかる後に上品に微笑みながら、思い出したかのように、
「うふふふ、みやこ、残りの片方も頂戴したいのですが、よろしいでしょうか? 頂けないなら、代わりに、あなたが何処のどなたか伺いたいのですが……それも厭と言われてしまったら……うふふふ、みやこ、困ってしまいます……」と、多分こうだ。
うわ、だめだ、あの人の顔と声思い出したら、鳥肌が立って来た。
少し話がそれた。
たかが「共通の脅威」程度で組織が一枚岩になれるようであれば、苦労はないわけで。
少なくとも教皇院は正義の機関かもしれないけれど、組織を運営するとなれば、綺麗ごとばかりではいかないんだろう。
くおんさんの周りにいる大人が、そういうことを目論んでいるような種類の人であれば、ぼくごときが防波堤たらんと志したところで、それはどれほど効果を発揮し、有効に働くものか。
狗戒さんはこともあろうに、ぼくに、くおんさんと親しくなって、それを周囲に伺わせて、過度の干渉を自粛させる、とか、そういう役回りを望んでいるらしい。
というか狗戒さんも、そういうことはぼくの側に現在交際中の相手だの思いを寄せる女の子がいないということを確認してから言ってもらえないだろうか。
いやまあ、いないしいたこともないからそれは別にいいんだけど。
確かにそういう意味で言うなら、現在のところ恋人はおろか母も娘も姉も妹もいないぼくにとって、一番大切な異性はと聞かれたら、それはくおんさんということになる。
だって、彼女が居なければぼくは死ぬしかないのだから。
……しかしまあ、買いかぶられたものだ。
そういう役割を果たすものが必要だったとしても、それは果たして御剣昴一郎か?
もしも、せめてもう少し年が近かったとしても……自分がくおんさんくらいのころと言ったら、どこに出しても恥ずかしい、みすぼらしい青白い小僧っ子だったし。
同じクラスにいたりしたら、ぼくなど彼女に話しかけることもできまい。
で、ぼくは立場上、どうしてもさっきのような話を聞かされてしまえば、くおんさんが意に反して交換を持てない相手を婿として宛がわれることを悲しみ、嫌悪の情を持っているという状況を想像してしまう。
…だが、ここで、狗戒さんが言及していなかった要素が意味を持ってくる。
何かと言えば、くおんさんの意思。
くおんさん自身が、それをどう捉えているかである。
くおんさんが、自分はいずれ、魔法つかいとしてすぐれた男性を夫とするし、そうすべきであると、心からそう思っているなら、それこそぼくなど端から出る幕はないのだ。
それにそもそも、その相手というのが、くおんさんが心から好意を持てるような相手であれば、何の問題もないのである。
くおんさんを幸せにしてくれる相手というのが第一に違いないが、くおんさんから見ても敬意を持てる人格と能力があり、その上で、くおんさんの後ろ盾となってくれる家柄だの財産だのがおまけでついて来ればその方がいいには違いない。
あるいはいっそ、くおんさんに思い人でも出来てくれれば話が早い。
それに当たって、そう、例えば、ぼくから見ても、くおんさんと将来を共にするあたり、ふさわしい男性であると、そう思えるような相手であればいいのだ。
容姿が美しく、才気に溢れ、高潔で優しさに溢れる、魔法つかいとして並はずれて優れた、そういう相手に、くおんさんが恋をするというのなら、
――この御剣昴一郎、主の恋の成就のため粉骨砕身、尽力しようじゃないか。
その為だったら、その男性の手前ぼくはここにはいられなくなるが、それだって甘んじよう。
ただ、もしも、もしもそうでなかったら。
……後はまあ、そのゲスな方々がどの程度ゲスなのかによるということになる。
ある程度弁えているのなら、そう強硬なやり方で現在11歳の女の子に婿をとらせようとはしないだろうし、現在慕う相手がいるらしい、というようにふるまって見せるのも、周囲の手前、ある程度は効果を持つだろう。
もし、その限りでなかったら。
もし、なりふり構わず、いかにも政治工作というような汚い手口で蹴落しあった末の汚物みたいなのを押し付けてくるようだったら。
もし、権力と家門に物を言わせて、彼女を道具として所有しようとしているのなら、
――みしりっ。
妙な音がして、ふと手の中を見る。
握りしめていた金属製の万年筆が、二つに折れていた。
「おイオい、ドうした昴一郎?」
「……あ……うん、どうしたんだろうね?」
「アー……君今常人の1.5倍くらいの身体能力は出てるからな、気を付けてくれよ?」
「……そうなの?」
「……〈活性〉がかカッていルダろう?」
「でも、今までこんなこと」
「……普通にしていレバな? 何を考えていた? 我を忘れルようなことカ?」
「……いや……別に」
咄嗟に、そう言葉に詰まる。流石に口には出しづらい。
「……だったら、もっとくおんさんの役に立てるようなことないのかな」
「そうイウ水準にはまルデ達しておラン、馬鹿ナ考えヲおこスナよ」
「くおんさん」
声に出して呼んでみる。
「――はい」
久しぶりに見る、空の下のくおんさん。
振り返り、応える彼女に、重ねて尋ねる。
「その――大丈夫、ですか?」
慮外であったろう問いに、くおんさんはきょとんと虚を突かれたような、そうするときに見せる、幼い表情を見せた。
思い出す。
この館に連れてきてもらった、最初の夜の、最初のやり取りを。
「斎月さんの家族の人とかは?」という問いかけと、
「いませんよ、この館にいるのは、わたしとびゃくや、それと今日から御剣さん。その三人だけです」という答えを、思い出す。
そして、ぼくを守ると言ってくれる、この
狗戒さんに、守ってあげてくれと頼まれたこの子が。
133代ツクヨミ、剣の魔法つかい、現代の英雄、ぼくの
そういう色んな付加要素をすべて取り去ってしまえば、「身寄りのいない、11歳の女の子」でしかないことを。思い出す。
「何だか、いつもと逆ですね」
「そうですね、すいません」
「――はい、大丈夫ですよ、昴一郎さん」
言って、くおんさんは、いつものように、口の端を少しほころばせ、
ぼくを安堵させるための、年上の女性みたいな笑みを、向けて見せた。
…腹くらいは、括っておかなければならないかもしれない。と思う。
それがはっきりするまでは、様子見である。
まあいいさ、
あの夜、社会の為に、多数の為に、切り捨てられても仕方がないと、自分のことさえ見捨ててしまった、きっと誰のことも救えない、そんなぼくに向けて、
「それでもわたしは、あなたを助ける」って、くおんさんが、――ぼくなんかと比べ物にならないほど崇高なひとが言ってくれたことだけは、――少なくとも、嘘じゃない。
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