第四夜「オオカミが来る」(Aパート)③
○
……ひとまず、その後何が起こったかを、簡潔に述べさせてもらいたい。
くおんさんはきわめて冷静に、
「この場は、私が預からせて頂きます。二人とも、それでよいですね?」
と、ぼくと、件のイヌカイさんに告げた。
おもわず顔を見合わせるような形になり、見合わせた顔のその下、例のボリューミーな双球に視線が行ってしまいそうになるのを必死で抑制するぼくに対して、イヌカイさんはにいと唇の端を悪戯っぽく釣り上げると、申し訳程度に胸元を覆っていた掌を動かして……その柔らかさと弾力とを見せつけるように、ぐにゅりと指先をくいこませ、変形させて見せた。
……いや、何やってんのこの人。何やってんのこの人。
どうやら、こんな事をしてみせるくらいだからぼくが既に脅威でもなんでもないことは判っていただけたみたいである。
が……しかし、……こうしてみると……何と大きいことか……。
再度、感嘆の念を抱かずにはいられない。
とか思った矢先。
「…よろしいですね、かなめさんも」
冷たく静かな声が耳に届いた。
浴場なのでよく反響した。
「…ひィィッ!」
ついで、イヌカイさんの喉から、絞め殺される寸前の小動物のような声が漏れた。
…その視線の先、ただ無言で佇むくおんさんのその背後に、絶対零度の猛吹雪と無数の剣群とを幻視する。
以前に、何があろうとくおんさんを怖いと思ったりはしないと約束しているし、くおんさんがぼくに対して危害を加えることはないと信じているので別段怖いとは思わないが、言いようのない威圧感である。
訳のわからない殺伐とした空気が漂う中、「まあ、とりあえず服は着てもらおうよ」ということで一度ぼくは退出させてもらい、廊下に出たところで腰から下の力が抜け、緊張が解けてへたりこんだ。
うずくまって肩で息するぼくの頭上に、羽音と共にばさりと降りて、びゃくやが片足を宙で縦横に動かして見せる。
いつもの、「書くものをよこせ」らしい。
「……それ使わなくても、今は話せるけど?」
言いながらも、とりあえず要求に応え、ズボンのポケットから携帯ノートとペンを取り出して手渡す。
びゃくやは器用に片足で掴んだペン先を走らせると、
「……ねエネえ、君、こレしってル? こレ、読めル?」
と言いながら、ノートを嘴先で寄せてよこす。
「過ちて改めざる、これを過ちと言ふ」
と、書いてあった。
こいつ、論語を嗜んでいるのか。
「知ってるよ。読めるよ」
「……まあ、災難ダったな、大丈夫か」
ああ、おかげさまで腕も足も肋骨も背骨も折られていないけどさ、
「……っていうか君さあ、ぼくを見捨てて自分だけ逃げたよな?」
「怒ってルノか?」
……これが怒らずにいられるだろうか。
「……ぼくはねびゃくや、なにも別に君が自分だけ逃げたことを責めてるわけじゃないんだ」
間近な危険から身を遠ざけようとするのは、生物として当然の行為だろう。
それを責めるのは筋違いだ。
「でハ、ナぜ怒ってルノだ」
「……自分はしっかり安全圏に身を置いておきながら、コトが済んでから白々しく大丈夫だったか、って声をかけてくるその精神性を責めてるんだよ! いたよ、知ってるひとに一人そういうの!」
「あア、ゴめん、くおんを呼ぶのが一番手っ取りバやいと思って」
というか、この場合くおんさんが一番訳が分からないに違いない。
自分の家の浴室で、知り合いが全裸で自分の使用人の腕をねじりあげて鎮圧していたのだから、誰だって首を傾げるのではなかろうか。
ああ、まったくぼくは何と愚かなことをしてしまったのだろう、ぼくの間の悪さには際限がないのか。
というか、十分注意していたはずなのに、どうしてやらかしてしまったのか。
まるで目に見えない何者かの力によって行動を操られてしまったかのようだ。
そう思いつつも、悪びれる様子が皆無のびゃくやに詰め寄るぼくの背後、
「……あーびっくりした、あー怖かった、毟り取られるかと思った」
という声と共に、濡れた長い髪をわしゃわしゃとタオルで乾かしながら、巨乳の美人さんが、脱衣場から姿を見せた。
「……毟りません」
ついで、常になく冷たく言いながら、その後ろからくおんさんが後ろ手に引き戸を閉めながらやって来る。
くおんさんが事情の説明と状況認識のすり合わせをしてくれていたのだろうけど、思ったより早かったな……と思いつつも、とりあえず謝罪だけはしておかなければなるまいと思いだす。
先方もさっきの金串みたいなのは手にしてないし、いきなりぐさりとやられることもあるまい。
「……あ、あのっ!」
「……んあ。……その、さっきは、どうも……」
「すいませんでした!」
「ごめんなさい!」
あ、あれ?
ぼくとイヌカイさんの口から、同時に似たような意味合いの台詞が飛び出していた。
「いやあ……本当にごめんなさい、わたしはてっきり……」
となれば、ぼくにできるのは精々、
「いえ、こちらこそ……どうか、ご容赦を」
と、調子を合わせ、態度を軟化させて平身低頭し合う程度だ。
一度は必ずやこの人の寿命を縮めてくれようと誓ったことは、忘れた訳じゃないが。
「あ……」
そうして、多少平静を取り戻し、相手の身なりに意識を向ける余裕も出てきて、そして……
絶句した。
「あの……」
「な、何ですか、ちゃ……ちゃんと服着てきたじゃないですか!」
確かに服を着ていた。着てはいたが、何というかその。
下半身は濃緑のカーゴパンツ。それはいい。スポーティで活動的な印象の彼女にはよく似合っている。
問題は上半身。
外へ出歩くときには一番上に纏うのであろうモッズコートを片手に持って、肩に担ぐようにして引っ提げている。
つまりそれを羽織っていない現状。例の凶悪な破壊力を有する胸部の武装を備えた上半身には、黒いレザーのチューブトップ。のみ、だったのである。
みぞおち辺りまでしか丈がなく、無駄なく引き締まった腰回りは露わなままで、ちらちらと見える形良いおへそが眩ゆい。
そして何より、みっしりと窮屈そうに押しこめられた大質量が、その偉容をなお誇らしげに披露していた。
……この人普段からこうなのか。
まだ表は寒風吹きすさぶ日が続いている時節だというのに。
そのモッズコート羽織っても、体感温度はそんな変わらないだろ。
「……どうしました?あんまりちらちら露骨に目を反らされても、いい気分じゃないんですけど」
そう言われても、目のやり場に困る。
――何しろ、さっきの、今だ。
「昴一郎さん」
その時、ついと歩み寄り、くおんさんがぼくの前に立った。
ああ、このイヌカイさんも教皇院の魔法つかい、という意味では、けして隙は見せられない相手ではある。くおんさんは、「ぼくとイヌカイさん「のみ」で対しているという状況を作りたくないのだな。
……と、その行動を自分の中で位置づけていたのだが、何を思うのか、くおんさんは、イヌカイさんの豊かな胸部に一度目をやり、ついで、その視線を、同年代の中ではかなり発育のいい部類であるとはいえ、それとは到底比ぶるべくもない自分のその箇所へ落とし、最後に、――ぼくの顔に、目を向けた。
その眼差しはいつもと何も変わらない、澄んだものであったけれど、その奥に、何かが籠められているようで……。
何だこれは。
「……ふう」
くおんさんはどこか物憂げなため息をひとつつくと、
「こちらは、教皇院の、イヌカイさんです」
「どうも、イヌカイ……イヌカイかなめと申します。」
と、イヌカイさんを紹介する、
「ええ。……この斎月家で働かせてもらっています、御剣昴一郎です」
と、ぼくもそれに応じて改めて正式に名乗った。
ぼく自身、何度も肝に銘じておいているのだけれど、魔法つかいは正義と社会の味方であっても、御剣昴一郎の味方ではない。
くおんさんが非常に特殊なだけであって、本来の流れなら、ぼくは社会の為の、彼らの駆除活動の対象である。
今回もそうだけど、この間も結構ヒヤッとする場面があったわけで。
ので、実はくおんさんと一度相談しておいたのである。
「……そうですね、名を聞かれたら、「斎月家の者」……そう「斎月家の昴一郎である」と名乗ってください、わたしに縁を持つ者、わたしの元で一緒に戦う者であると。それで、そうひどい扱いを受けることはまずなくなるはずです」
ふむ。
「斎月家の昴一郎」
なかなかいい響きである。少し面はゆい部分もあるが、気に入った。
「判りました、それで行きましょう」
くおんさんの決めたことに否も応もあるわけがなく、ぼくも快諾したものである。
「……ドことなク、不審なものガ感じラれル」
びゃくやだけは、訝しげにそんなことを言っていたのだったが。
「オい、くおん。他意はないのか」
「ありません」
「変な言い方しないであげてよびゃくや、くおんさんが嘘ついたりごまかしたりするわけないじゃないか」
――
回想、ここまで。
「ええと、さっきのノートとペン、貸してもらっていいですか?」
と乞われたので、その通りに手渡すと、イヌカイさんはさらさらとペンを走らせ
「ああ、わたしの名前です。ちょっと珍しい苗字かもしれませんけど」
真新しいページに「狗戒かなめ」と、書き付けたのを見せた。
「君は……ええと、御剣昴一郎だから……こーいち君でいいですか?」
それでは二文字しか略せていないし、あだ名としてどうかと思わないではないが、
「まあ、お好きなように」
ひとまず、それは言うまい。
「あー……教皇院の方……ということでよろしいでしょうか」
「はい、状況を説明すると、このかなめさんとは、以前から親しくしている間柄です」
と、くおんさんが、脇から説明してくれた。
「昨日までは別のところでお仕事だったんですが、そっちが片付いて一度報告に戻ったその足で、次のお役目に向かわなければならないことになりまして……斎月ちゃん、あ、いえ……ツクヨミ様には以前からよくして頂いてまして……」
「あア、ちょコチょここうしてやってきては寝泊りしてゆくノだ彼女は、ここのところナリを潜めていたので、君にも伝えていなかったナ」
「つい、その辺の甘えがありまして、お風呂場を使わせてもらっていたんですが……あんなことになるとは、いや、びっくりです」
……左様でございますか、ええ、まあ、そういうことなら。
「いえ……こちらこそ、とんでもない非礼を……どうかご容赦を」
どぎまぎしながらも、そう謝罪の言葉を重ねて返す。
もうお互いこの件は流してしまいたいというのは共通のしているのだが、それだけに、こうしてお互いにその意思表示をし合うことは大切である。
狗戒さんはそんなぼくににやりと笑うと、告げた。
「はい♪ わたしは心が広いので、今夜寝る前に思い出して、一晩幸せな気分に浸るくらいは許してあげますよ!」
――最悪な許され方だった。
「あの」
なお、この間、どういうわけかずっとくおんさんがぼくの挙動をじっと見ていらっしゃいます。
何の拷問だ。
「だってほら、わたしを、わたしの体を見て、不格好だとかみっともないとか、キミそういう風に思いましたか?」
「……いや、そうは思いませんでしたけど」
むしろ大変おきれいでした、隣で見ている|ふくらみかけ(くおんさん)の手前、口には出さないけど
「ならいい、それでいいんですよ」
そういって、狗戒さんはあははと屈託なく笑って見せる。
……つまり、この人にとってはそういうことなのだろう。
「……見られて困るような、みっともない体はしていないつもりですからね」
ある意味、非常に気高い矜持と自負の発露と、言えなくもない。
そのノリでくおんさんに要らんことを吹き込まれたのかと思うと、この野郎というのはあるが。
というわけで、さて。
改めて、姓は狗戒、名はかなめ。狗戒かなめさん。
はっきり言っておこう。あらためて見てみれば、掛け値なしに息を呑むような美人さんである。
一時は手足を叩き折られ目鼻を毟られなぶり殺しにされるのではないかと震え上がったものだったが、こうして改めて向き合えば、口調も物腰も穏やかで親しみやすい物だ。
それに、今一度、くおんさんの名を、ツクヨミ様でも、斎月様でもなく、友人に呼びかけるようにして、斎月ちゃん、と口にして、くおんさんも、それを悪く思うことはないようで。
……そのあたりも、少しだけど気に入った。
あと、胸も大きいしね!
くおんさんが、ぼくの主で保護者で同居人であるという贔屓目抜きでも一日中眺めていても飽きずにいられるレベルの絶世の美少女であることは言うまでも無いが、そういえばメイドのみやこさんやその相棒のあのなんとかいうひとも結構お綺麗ではあった。
教皇院には、並とかそれ以下はいないんだろうか。
「それで、斎月ちゃ……あ、いえ……」
狗戒さんが、少しだけ口調を改めて、くおんさんに声をかけた。
「……あの、ぼくの前では、それ結構ですよ、ぼくも、くおんさん、と呼ばせてもらっていますから」
どうやら、おおまかな話は既に先ほど済ませているようで、くおんさんは、
「……ん」
と短く応じ、ぼくの方に向き直って言う。
「昴一郎さん、ええと、今日はこれから、かなめさんと一緒に、外に出ることになりました」
「……また、ウィッチ退治ですか?」
というぼくの問いにこくんと一つ頷いて、くおんさんは答える。
「わたしは支度を整えてきますので、少し、かなめさんと話していてください、判らないことがあったら、びゃくやに聞いてくださいね」
○
まあ、廊下で立ち話というのもなんだし、ということで、ぼくとびゃくやと、狗戒さんで、応接間へと移り、お茶など出させていただく。
いやー、何かわるいですねー、いえいえ、ぼくはこの館の奉公人みたいなものですからね、なんて、内容のない会話を交わしつつ、目線をびゃくやに送り、
(――間がもたない、何か話題を振ってくれ)
とサインを出してみる。
びゃくやが無言のまま、視線を返してくる。
(応)
と言う事のようなので、彼が切り出してくれるのを待った。
「……そう、イヌかい、カなめ」
少しの溜めをおいて、彼女の名を呼ばう。
ところどころイントネーションがおかしい辺り、名前を用例登録していないのかもしれない。
しかしこのイヌカイさんは魔法つかいであり、びゃくやの音声機能についても知識があるだろう。
してみると、……ただの嫌がらせか。
「伝えておこう……教皇院にその名の轟く小物の悪党だ」
「……おい、失礼だろこんな人に……」
「ちょっと、わたしを紹介するならもっといいところ紹介してくださいよ」
不満をあらわにする狗戒かなめさんに、びゃくやは冷たく返す。
「ふむ……ダがきみの魔法つかいトシての実力のほドや戦闘スタイルは、軽々しく語ることではあるまい?この昴一郎は嘘が嫌いでね、わたしもうかつに嘘はつけない、彼に嫌われてしまう」
君がぼくに、そんなことを気に掛けるのか?
「……カト言って君の人となりをありのまま語るなどという残酷なことはわたしにはできない、ならば当たり障りのなサソウな話しかできなイデはないか」
「聞きましたかこーいち君、この言いようってなんでしょうね!」
……というか、この人が悪党? ……今一つピンと来ないぞ。
そりゃ一度は半殺しにされかねない勢いだったけど、状況が状況だったし。
今はこうして、屈託なく話をしている。
切り替えが明確過ぎるというか、両極端というかそういう感じは受けるものの、むしろ一度打ち解けてしまえば情の深い
「……というかさ、もういっこ、気に食わない点があるんだけど」
「ン?」
「んあ?」
「……この狗戒さんのこと、そんな人は知らないって言ったろ!嘘をついたな!」
「んなー…そんなこと言ったんですか?」
「うむ……確かに、私は、事実に反するこトを君に伝エタ。そレハ認めヨう」
「事実に反するというかそれを嘘というんだよ、君は一体どう落とし前つけてくれるのかなあ」
「ダが……私はともかく、このヨうな輩と面識があると思わレテ、君のくおんに対すル信頼がゆらグのが怖かったのダ。……だから、許してくレルね? きット君は判ってくれル、私はそウ信ジテいる」
と、びゃくやはわざとらしく首を傾け、問いかけてくる。
「ええー…… 白々しい… 何て白々しい……」
流石に自分のことだからか、狗戒さんも面白くないようで苦虫を百万匹くらい噛み潰したような苦りきった表情を隠そうともしていなかった。
だが……そうか、〈くおんさんを思ってしたこと〉か。
……ならば、それに対するぼくの答えは、
「水臭いぜ、相棒!」
「おオ、我が心の友ヨ!」
「びゃくや!」
「昴一郎!」
ぼくたちはひしと抱き合った。
びゃくやの羽毛が顔に触れて柔らかかった。
「……んぁ。……仲の宜しいことで」
狗戒さんは、と見れば、……つまらんくだらん、自分は一体何の罪を犯してこのような茶番に付き合わされているのか、と己が不運を嘆く様な顔をしていた。
「……でもまあ、わたしも確かにちょっと驚きました」
そんな渋い顔を、解いて、
「……随分大切にされていらっしゃるようで」
狗戒さんは、悪戯っぽくにっとひとつ笑うと、そうぼくに言う。
「さっきの聞きました? その人はわたしのとても大切なひとですってさ、あっはっは」
胸の内で舌打ちする。……こっちに来たか。
「……ええ、まあ、……大切にはしてもらってると思います。身に余る厚情をかけてもらってるようで、かえって心苦しいくらいですよ」
そこのところは、思うところをストレートに口にしてみる。
我ながら、ぼくはどうも、自分では真っ当に、当たり前に生きてとっとと上がりまでたどり着きたいと思っているはずなのに、正反対のタイプのくおんさんから見ると危なっかしくて仕方がなくみえるようで。
「なるほどねえ、あの子、そういうのに口うるさそうですもんね」
……いや、口うるさいというか、くおんさんの場合、変な言い方だガ、淡々と過保護なのである。
――過保護系クール、くおんさん。
「まあ……血のつながらない年下のお姉ちゃんが、突然ぽっと出来ちゃったみたいなものだと思って付き合ってあげてもらえると、わたしとしてはホッとするんですけどねぇ?」
何それ。
「……びゃくやにも、何かそういう意味合いのこと言われましたよ」
というか、もしも本当にあの人が姉だったり、子供のころから姉弟みたいに育っていたら、確実にぼくは駄目になると思う。
劣等感で恨みがましく卑屈に生きていくか、依存しきって斎月くおんの弟であるという以外に自分を自分たらしめるものを何一つ持たない、姉の付属品みたいな人間になるか。たぶん。そのどちらかだ。
そんな風に思うと、言葉にした。
「ふぅん……けど……」
黙って聞いていた狗戒さんだったけど、ぼくが言い終えるのを待って、そう問いかけてきた。
「君たち、本当に、そんなダメになりますかねぇ?」
「なりますよ、きっと」
「わたしは、ならないと思う。あの子は一生懸命弟のお手本になろうとするし、君はお姉ちゃんの誇りに思える弟になろうと努力すると思う」
「なんですかそれ、……根拠は?」
「特にありませんが…あえて言うなら」
ほう、あえて言うなら。
「あえて言うなら、……そっちの方が、わたしがニヤニヤしながら見てられるからです」
臆面もなくそういうと、狗戒さんは声をあげて笑って見せた。
何だろう、なんかむずむずする。
と、ひとしきり笑った後、
「……でもまあ、…実際あの子、あんな感じでしたかねえ……?」
不思議そうに狗戒さんが口にした。
ふむ。
この狗戒さんは、以前からの知己であり、以前からのくおんさんを言うのを知っているわけだ。
つまり、それはぼくが知り合う前のくおんさんだ。
まったく気にならないと言ったら、それは嘘になる。
「随分明るくなったっていうか……可愛い感じになりましたよね、うん」
「えっ?」
明るくなった、…そうなのか?あれで。
暗いとか可愛くないとかは言わないにせよ、ぼくのくおんさんに対するイメージは、物静かとか、大人びている、とか。高潔で誇り高いとか、そういう感じなのだが。
「ええ、何か、心当たりあります?」
「……いえ、特に何も、面白い本でも見つけたんでしょう」
そう、そんなに目に見えて明らかな、急激な変化が起こったとは思えないし、そうなるに至る原因なんて、もっと想像がつかない。
「この辺も、ちょっと見ない間に……何かこう……急に女の子っぽく」
ついで、自分の恵まれた胸部を突出し、手でその形をかたどる様にしてみせる狗戒さん。
ああ、それに関しては同意できる。調子を合わせておこう。
「ええ、確かに、あの年にしては発育がいいですよね!」
「……んあ?」
一瞬走る、緊張感。
「……何か、心当たり、あります?」
「いえ何も」
「何か、心当たり、あります?」
「いえ、断じて何も、単に成長期なんでしょう」
「……ふうん」
「……あ、お茶などもう一杯如何ですか?」
「いただきましょう」
一瞬だけ、妙な雰囲気になりかけたが、そこはまあ、なあなあで。
だから、ここまではいい、ここまでは良かったのだが、
「まあいいや。……できれば、あの子のこと、守ってあげてくださいね?」
次に口を開いたとき、狗戒さんは、妙なことを仰った。
「……誰、から?」
御剣昴一郎が、斎月くおんを護る?
これは異なことを言う。
今の所、そんな絵面は想像もつかないが。
「誰ってそれは……ああ。あの子だけ見てたら……そうなるか」
しくじったかなとでも言うように、狗戒さんは一度目を反らしてから問う。
「まさか、
「基本的には、そうだと思ってます…あくまで、基本的には」
びゃくやをちらと見た狗戒さんに、彼は問われる前に応える。
「狗戒、昴一郎には、その辺は伝えてイない」
「そう……なら、それは半分正しくて、半分は間違ってる」
さっきまでの朗らかな雰囲気が掻き消え、狗戒さんは声の調子を落としていた。
「教皇院の、偉い人たちが、あの子に婿でも宛がって来ようとしたら、そのとき、その押しつけから、庇ってあげてください」
そして、その言葉の意味するところは、内心、考えなくはないけれど、同時に湧き上がる嫌悪感から、頭の外にやっていたようなもので。
「婿って…くおんさん、まだ11歳ですよ?」
「11歳でも、5年経ったら16歳です」
5年か。……それは確かに、長いようで、あっという間である。けれど。
「やっかまれる、妬まれる、粗を探される、足を引っ張られる。11歳の女の子が、実力ナンバー1の位置にいるってのは、そういう事なんですよ。あの子はそういうの全部はねのけて、133代ツクヨミを名乗ってます。わたしもそれなりに使う方とは自負してますが、正直、あの子にゃわたしもかないません」
思い返す。
初めて会った日の成り行きを。
勝手に撤退したサポートスタッフを。
ああ。なるほど。
では、要は、御剣昴一郎は、そういうもののせいで死にかけたのか。
「……それが全部駄目だったから。……だったら何とかして、自分のとこの若いのをあてがって、とかゲスなこと考えちゃうお馬鹿さんが沢山いるのも、不幸にして、生まれて来ちゃいけなかったクラスの下衆野郎が地位と権力だけは得ちゃうことがあるのも、どこの業界もうんざりするほど同じなんです。それも、上にいっちゃうほどにね」
狗戒さんがそう続けるのを、ぼくは黙したまま聞いていた。
「……わたしはそれなりにあの子とは仲のいいつもりですし、あの子がその手のお馬鹿さんたちの、自分たちだけは立派な事してるつもりのごっこ遊びのネタにされるのって、いい気分じゃなくてね」
ごっこ遊び、と来たか。
魔法つかいというのは、基本的に血縁を基とする一族を束ねて運営されているということは、くおんさんから聞かされている。
だったら、その当事者からしてみれば、一族の序列だの階位だのと言うのは、大義名分より人命より、元々の組織の存在意義よりも重視されるものなのかもしれない。
部外者の立場から言わせてもらえば、自らを慰める行為以下という感じもするけれど。
「だから、君があの子のそばにぴったりくっついてれば、そういうのが少しは緩和されるんじゃないかと思いましてね」
「……昴一郎はその手の輩に目の敵にされルダろうがな」
たしかに、それは多分、ぼくにとってとてつもなく危険な行為だ。
あの胡乱な男はなんだ。どこの馬の骨だ。
身の上を調べろ。身分は、血筋は。などと掘り返されようものなら。
……それこそ一巻の終わりである。
「もちろん、無理にとは言いませんけど」
彼女を派閥ゲームの道具にする人たちの存在に吐き気を感じつつ。
彼女の存在に縋るしかない立場の人たちの存在も、同時にぼくは忘れられなくて。
案外、その相手だって、そう悪人じゃないのかもしれないし、その偉い人たちだって、いくら何でもそう酷い相手を押し付けてこようとは考えないんじゃないかと思いたくて。
けど、組織を動かす人たちというのが時としてとんでもなく醜悪になるってことも、忘れられなくて。
それを彼女が仕方ないと思ったとして、それをぼくは、仕方ないと、そう思えるのだろうか。
そう、いつだったか彼女が、ぼくに言ったのは……
一度、びゃくやを見ようとして、ぼくはそれを止めた。
「……できる範囲で、やってみますよ」
そう答えたぼくに、狗戒さんは
「ありがとう、君は、やさしいですね」
言って、手を伸ばし、ぼくの頭を一つ撫でると、柔らかい感じに、笑って見せた。
少しの間、ぼくは何も喋らなかった、狗戒さんも、どこか申し訳なさそうに、口を開かなかった。
何だかびゃくやまで物憂げに見えて、ぼくは、くおんさんが早く来ないかなあと思っていた。
「……おお、そうだ!」
突然、撥ねるようにソファから身を起こし、狗戒さんが結構な勢いで大きく上体を乗り出した。
不意の挙動に、あっけに取られ、呆然としているぼくを覗き込んで、顔の脇で人差し指を立てて、告げる。
「実はですね……すげえモノがあるんですけど、見ます?」
目の前、十センチと少しの距離で、すげえモノが、ぷるんと揺れた。
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