第四夜「オオカミが来る」(Aパート)②

 びゃくやとの一悶着の後、ぼくがおそるおそる一階の食堂に降りてみれば、くおんさんは既に朝餉の支度を整え、エプロン姿のままで自分の席についていた。

「……なかなか来られないので、また体調を崩されたのではないか、様子を見に戻ろうかと心配しました」

 いつもの無表情とも、憮然とした顔とも表現できる、何とも言えない顔だった。

「……あの、くおんさん、もしかして、怒ってますか?」

「いいえ? そう見えますか?」

「……その、すみません、心配かけて」

「そう思うのでしたら、もっとわたしを頼ってください、少しでも体の不調や、館の中の生活で困っていることがあるならすぐにわたしかびゃくやに相談すること。でなければ、まだわたし達を信じてもらえていないのではないかと不安になります」

……それこそ、いらない心配というもの以外の何物でもないと思うのだが。

 まったく、どうしてたかがぼくの信頼を得ると言う程度の事が、こうも彼女の中で重いのだろう。

「……本当に、もう大丈夫ですから、目眩も収まったし、体に不調はありません。これ食べたら、いつも通り働かせてもらいますよ」

 ちなみに、(これはくおんさんには言えないが)前回一身上の都合により脇差の切ッ先でちょっと引っ掻いた首筋の傷は、くおんさんの戦闘が収まるころにはきれいに塞がっていた。

 代謝を速め身体機能を向上させるという〈活性〉の魔法のおかげらしいが、自分の体の傷が見る間に癒えてゆくというのはなかなかに新鮮な感覚だった。

 ……まあ、余談だけど。

「ああ、それで、なんですけど」

 何となくなあなあのままでここまで来てしまったが、やはり改めて謝罪しておいた方がいいだろうというのはびゃくやとも話した結論だし、そのつもりでいたのだが。

 ……流石にその先の言葉につまる。どうしたって、口に出しづらいものがある。

「……そのっ……」

「……くおん、昴一郎は君に過日の入浴中の一件ヲ改めて詫ビタゐそうダ」

 ……もっと、何かこう、マシな切り出し方はなかったのだろうか。

「ああ、そんなことでしたか」

 ……まあいい、さすがにぼくからは微妙に口にだしづらかったし、いつまでたっても踏ん切りがつかなかったであろうことは確かである。

 これもまた、彼(びゃくや)なりの気遣いなのだろうととらえることにしよう。

「この間は、すみませんでした。ちゃんと謝れても、いなかったし……」

「あの時、昴一郎さんはひどく恐縮し、畏まってわたしに許しを乞うていたではありませんか」

 と、困ったように眉をひそめながら、くおんさんは言った。

「昴一郎さんが邸に来てくれてから、あなたのおかげで助かっていることばかりだとわたしは思っているくらいなのですから。……そんな風に謝られたりへりくだられてばかりでは、わたしのほうが困ってしまいますよ」

 小さく肩をすくめ、くおんさんはそう続ける。

「確かに、あの時はわたしも驚きましたけど……、だから、この話はこれまでにしましょう。」

 どうやら、今回ばかりはぼくが気にし過ぎ、却って困らせてしまっただけだったようだ。 

 ……心から、ああ、よかった。と安堵せざるをえない。

 くおんさんが、そういうのをあまり引きずるということをしない人で本当によかった。

 当面あの一件を掘り返されて気まずい思いをすることもなく済みそうだ。

 後は、ぼくが変に気にしなければそれでいい。

 それは確かに少しはもったいない気もするが、

 ……水に濡れた黒髪がきれいだなと思ったこととか。

 ……染みひとつない柔肌の、これまで一度も日の光を浴びたことがないのではないかと思ってしまうほどの、痛々しいばかりの白さに息を呑んだこととか。

 ……現在進行形で、からへ変わりゆこうとする、これからもより優美に成長していくのであろうということを伺わせる、華奢で儚げで、けれどところどころうっすらと女の子らしい丸みを帯びた、奇跡の様な四肢のバランスに、(これは一切ぼくの個人的な趣味趣向とは関係なく、客観的に考えても何らおかしいことではではないはずであり、身贔屓や、ましてやけしていやらしい意味ではなく)まるで芸術品のようなその美しさに、しばし目を反らすことさえ忘れてしまっていたこととか、

 それから……それから、今朝のあの夢で見た、唇の血に濡れたような鮮烈な赤い色とか。

 そういうことはもう忘れよう。

 うん、そういうのはきれいに全部、記憶の奥底、墓石の下に沈めておこう。

 心の中でそう決めた、けれど。

「……それとも、昴一郎さんはわたしの裸に何か特別な印象を持たれたのですか?」

 ……え。

「……わたしのからだは、どこかおかしかったですか?」

 くおんさんは、淡々と、そんなことを仰った。

 ……ええー……

 …終わったんじゃなかったのか、この話題。

「……どうなのですか?昴一郎さん」

 いや、そう言われては、答えないでいるわけにもいかないのだが。

 ついさっき記憶の底に手厚く埋葬したはずのあれやこれやが、再び脳裏に鮮明に蘇ってしまうではないか。

 ……それこそ、どこかおかしい、どころか、大変におきれいでいらっしゃったとは思うものの、それはあまり本人に言う事でもないだろう。

 くおんさん小学生相当のお歳だし。

 そもそも、お世話になっている女の子の入浴中に闖入するという不始末をしでかした間抜けに対して、その感想を求めるって、流石に酷ではありますまいか。

 ……くおんさんにその気がなくても、この状況自体がぼくに対する刑罰と化していた。

 とっさに、助けを求めるようにびゃくやを見るけれど、僅かに期待した助け舟はなく、喜怒哀楽が判らないはずのその瞳その嘴は、愉しげに見えた。

(……面白がっているな、貴様!)

 と、そちらに気をやったのもつかの間。

「あの……昴一郎さん?」

 名を呼ばれ、振り返る、その先。

 いつの間に足音も立てずついと歩み寄っていたくおんさんが、少し腰をかがめて、ぼくの顔を覗き込むようにして、立っていた。

「答えづらい……のでしょうか」

「……っ!」

 ……いや、今は判りにくいのですけど……貴女、結構ある特定の部分の発育がいいんですよ……

 もしあんなだと知っていたら、以前に抱きかかえられててビルの上を飛び回った時など、気が散って仕方なかったろう。

「い……いや! ど、どこもおかしくなんてありませんでした!」

 咄嗟に、そうとだけ答える。

「……バかだナあ……適当に、綺麗でした、いいもの見せてもらいました、とデモ言っておけバいイモのを……」

 ……という、無責任きわまるギャラリーのコメント。

「……よし、わかったびゃくや、今日こそ長きにわたるぼくたちの因縁に決着をつけよう」

「私はいズれこの日が来ルと思っていたぞ昴一郎、来い!」

 ぼくは拳を固めて決然と立ち上がる。

 びゃくやが威嚇するように大きく翼を広げる。

 交錯する視線。互いに敵手の全身にくまなく注意を払い、その挙動すべてを用心深く観察する。

 まさに一触即発の空気である。


 そんな緊迫した雰囲気は――

「……びゃくやは、いいね、……昴一郎さんといろいろおしゃべりできて」

 という、くおんさんの寂しげな声に遮られて、霞んで消えた。

「……え」

「いヤ、そンナうらやましガルようなものでモナいぞ?」

「おい…一人だけシラフに戻るなよな」

 ……混ぜっ返すようなびゃくやの軽口にはかまわず、くおんさんは重ねてぼくに尋ねる。

「……それで、どうなんですか?」

「……あ、あの、くおん……さん?」

「わたしの体は、おかしくはありませんでしたか?」

 ……まだ食い下がるんですか!

「え……ええ!ぼくが、そんなことおもうはずがありませんよ!」

「本当ですね」

「ぼくは、嘘が嫌いです」

 ……何か、気にしてることとか、思うところでもあるんだろうか……?

 いや、そりゃ年頃の女の子なんだろうけどさ。

「えっと、その、くおんさん」

「はい」

「何故そうぼくの感想を聞きたがるのか、教えてもらえますか」

「……異性に肌を見られたら、感想を聞いておけと……知り合いの、イヌカイさんという方に以前聞いたので。……特に他意はありません」

「本当になヰのか」

 ……それは一体どういう知り合いだ、もしもどこかで顔を合わせることが有ろうものなら命を縮めてやろうと心に誓う。

 確かにピンポイントで特効だよ、ちくしょう。

「……なので、特にないなら、ないで結構です」

 と、くおんさんはいつもの平坦な口調でいい、

「斎月くおんは、御剣昴一郎に湯浴みを見られたことを、怒ってはいません」

 と、続けた。

「……もう支度はできていますので、ご飯にしましょう」

 くおんさんにご飯とみそ汁をよそってもらい、席に着く。

 相変わらず、くおんさんの作る料理はおいしい。

 …が、その食卓に、今日ばかりは会話がなかった。

 気まずい、気まずすぎる。

 普段はまあね、もともとくおんさんもぼくもそう口数が多い方でもないし、こう差し向かいで、黙って箸を繰りながら、時々言葉を交わしながら、時々、ぼくがちゃんと食べているか様子を伺うくおんさんの視線が向けられているのに気づいて、面はゆく思いながらも咀嚼を再開する、みたいな感じであることが多くて。

 それはそれで居心地のいい時間だし、特にことさら話題を探して無理に話さなくてもそうして過ごせるという辺り、やっぱりぼくにとってのくおんさんは得難いひとではあるのだけれど。…今回のは、それとちょっと異なる。


 しばし、引き続いて沈黙が流れる。

 さっきの話はもう終わった。なら…そう、別の話。

 ここは意を決し、別の話を、しよう。

「――聞かれたくなかったら、別にいいのだけれど」

 と、予め断りを入れ、予防線を張っておいてから、

「……くおんさんは、趣味とかありますか?」

「……はい?」

 そんなことを口にしてみる。

「……趣味……ですか?」

 そう……趣味、Hobbyの話だ。

 こんなことを僕が口にしたのは、何のことはない、この館に住まわせてもらい、くおんさんと、びゃくやと一緒に寝起きすることになって。

 朝方、くおんさんとびゃくやが

「デハ、イッてくるぞ」

「留守の間、宜しくお願いします」

「ああ、気を付けて下さいね」

 というやりとりの後で出かけるのを見送ってしまってから帰ってくるまでの間は、ぼくには特にすることがない。

 この館の外に出ることはできないし、暇をつぶすようなものも持ち込んではいなかった。身の回りの整理や、食事の支度、邸の掃除といった仕事で暇を潰すのにも限度というものがある。

 ぼく以外に館で働く人でもいれば別だろうけど、生憎と館にいる人間はぼくとくおんさんの二人きりだ。

 これではほとんど軟禁状態だ。

 一日の役目を終え、戻ってきたくおんさんを出迎える己の姿を思い返してみる。


「あー、……最近、どうですか」

「さ…最近、ですか?そう、ですね、特に変わりはなく……」

「――ですよね」


「――ただ、いっさいは過ぎてゆきます」

 ふと、そんな言葉が口をついて出る。

 あまり長くそういう生活をしていると、人間というものは頭が狂う。

 要は、話題が欲しかったのである。

 普段は口数が少ないくおんさんだけど、例えば以前に魔法について語ってくれた時なんかは、結構饒舌だった。

 彼女の無口はどちらかというと思慮深さとか生真面目さ、ぼくに対する気配りに所以するものであるみたいだし、好きなことについてだったら、気兼ねせずに話せるのだろう。

 だから、趣味。余暇の過ごし方を聞いてみたかったのである。

 現在同居中の11歳のすごくかわいい女の子と、楽しくおしゃべりがしたかったのである。

 先刻のくおんさん同様、特に他意はないのである。

「……うん、まあ、休みの日とか、どうしてるんだろうって思ったんです。剣術の稽古とか、魔法の練習とかしてるのかなとも思ったんですけど」

「ああ……わたしだって、好きなことをして過ごすことくらいありますよ」

 苦笑いして続けようとする斎月さんに、

「くおんよ……ソレは止めテオイた方が……」

 と、びゃくやが口を差し挟む。

「……ああ、あなたはわたしの趣味が嫌いだったね。びゃくや」

「そウイウ訳でハないガ……」

 どちらもどことなく、奥歯に物が挟まったような口ぶりだ。(びゃくやに奥歯はないけれど)

 ……何だろうか、この空気は。

「そう……ですね。では、当ててみてください」

 怪訝に見ていたぼくに、

「昴一郎さんがわたしのことをどういう子だと思っているのか気になるというのは、おかしなことではないと思うのですが」

 ……ええと、生真面目で必要のないことはあまり話さない、という印象が強いくおんさん。こういう反応は珍しい。

 まあ彼女を逆さにして振るっても、派手に遊び歩いているというイメージは出てこないけれど。

「……和歌とか、詠んでたりして」

 とりあえず、長い黒髪と色白の容姿から、それらしいことをとりあえず想像してみる。

「……あとはそれこそ……剣の稽古、とか……?」

 自分で言ってて、何てつまらん答えだとも思うが。

 ……だって、勢いで口にしてみたのはいい物の、11歳の女の子の一般的な趣味ってどんなのがあるのか、知らないし。

「……確かにそれらのことはよくしますが、どちらかといえばそういったことは、生活の一部というところ、ですね」

 とまあ、とりあえず、という感じのぼくの答えに対するのは、そんな言葉だった。

「特に剣の稽古。……この前は、久々に代行とお会いできましたので」

「代行?」

「教皇院のトップである、教皇猊下の代理人というこトダ」

「普段多忙な方なのですが、久しぶりに稽古をつけて頂いて。……代行は、とても立派な方ですよ。わたしもまだまだあの方には及ばないと思っています」

 ほう、そういう方がいるのか。

 しかも、何だかべた褒めではないか。くおんさんの技量だって、ぼくから見れば超人としか言えないレベルあるというのに、そのくおんさんがここまで言うなんて。

 どんな方なのか、ちょっと気になる。

 もっともくおんさんがそこまで賞賛するような方では、ぼくはお目見えもかなうまいが。

「和歌の方は……魔法つかいとして学んでおくべき教養の中に古文もありますので、気に入っているのをいくつかそらんじることはできますが、……わたしは詠む方はどうも」

「……君の作を昴一郎に見せテやレばいいじゃないか、ほラ、アの……」

「びゃくや」

 びゃくやの挟んだ一言に、くおんさんが声のトーンを下げた。

「……黙って」

 ……和歌の方は、どうもあまりお得意ではないご様子である。

「……あの、わたし、本当に下手で」

「あ……ああ……まあそういうの、機会によりけりですし。……そうですね、いつか、これはと思うのができたら、聞かせてくれたらいいなとは思いますけど」

「そ……そう、ですか……では、その時に」

 と、少し話がそれた、

「ええと……じゃあ、降参します。教えてください、くおんさんの趣味」

 あっさりと白旗をあげたぼくに、くおんさんは、「仕方ないですね」みたいに微笑むと、

 それを、告げる。


「わたしの趣味は、……読書と、音楽鑑賞です」


 ――沈黙が流れた。

 気の利いたコメントが思い浮かばなかった。

 …いや、あえてはっきり言ってしまおうか。

 一般的には、それは趣味とは言えなかった。

 これといって、打ち込むことも、情熱を向けられる対象も持たない、つまるところはぼくのようなくだらない人間が、趣味をと聞かれたときに仕方なく言う答えだ。

 これも、とてもぼくの口からは言えない。

 だから、沈黙が流れた。

 そして、ぼくとくおんさんは、まだ、言葉などいらないとはっきり言えるほどの仲ではなかった。

「……へー、斎月さんの趣味は読書と音楽鑑賞なんだ、実は僕もなんですよ」

 とりあえず、もうそこからは話題がつながらない。はいはい、この話これで終了。

「……っ」

 短く、小さく、息が飲まれた。

「……あの」

 彼女の目が、常になく大きく見開かれていた。

 驚いたときとかに時々見る、そうしてるとわりに年相応に幼く見える顔だった。

 びゃくやの方を向いてみる、白いカラスは窓の外を向いていた。

 小さな背中が何ともいえず、寂しげだった

「……昴一郎さんも、読書と音楽鑑賞がご趣味なのですか?」

 ……やはり、そう来ましたか。

「そ、……そうですね、読書と音楽鑑賞は好きです」

「ご趣味、なのですか?」

 いつも通りの静かな口調、と言える範囲に収まってはいるのだが、それでもその声にはどこか、いつにない熱がこもっていて。

「……そ、そう、ですね」

 ぼくは、つい、

「ぼくも、読書と音楽鑑賞が趣味です」

 そんな風に、答えてしまう。

「……ねえ、びゃくや、聞いた?」

 誇らしげに、慎ましやかな胸を張ってそう告げる斎月さんだった。

「……前にわたしに言いましたね、「一般的に言っテそレハただの時間つブしダ、趣味とは言わンダロう。私の前ではそレでモよイガ、他デは言うナよ、馬鹿にさレルぞ」と」

 ご丁寧に、びゃくやの癖のあるイントネーションまで真似ていた。

 結構似ているのが、何だか悲しい。

「わたしだけではなかったよ。――どう思う?」

 …今日はウィッチ討伐の予定はないとのことで、斎月さんは外出することもなく。書庫に籠って調べものらしい。

 そして僕はと言えば、ひとり、広間での箒がけに勤しんでいた。

 ばさばさ。ばさばさ。

 羽ばたきの音とともに、肩の上に重みが加わる。

 ……こうして、肩の上に彼を乗せるのも、いつの間にかすっかり慣れっこになってしまった。

「……どうしたの、びゃくや」

 振り向かずに、返事だけする。

 前置きなしに肩の上に飛び乗ってくる知人なんて彼しかいないのだから、問題ないだろう。

「……先刻ハアりがトウ、昴一郎。くおんもイイ気晴らシニナったダロう」

「さっきの、あのやりとりが?」

「うム、あれほど上機嫌な姿は、久方ぶりに目にする」

 確かに、普段大人びて、落ち着いた態度を崩さない彼女にしては割に楽しそうではあったけど。

「気を回させてすまなかッタな、君の主は、あアイう娘(こ)なのだ」

「……別に」

 何だか可笑しくなって、苦笑しながらそう答える。 

「君も大概、あれこれ気を回す方だよね」

「……マあ、私の役目はくおんのサぽーとだからな。精神面デのケアもフクマれるさ」

「そういうところ、似た者同士ってぼく辺りからは見えるけどね」

 ……何の気なしに言った言葉。……だったはずなのだけれど

「君はくおんのこトハ何もしラナいよ」

 何が気に障ったのか、びゃくやからはそんな答えが、淡々とした口調で返される。 

「ああ、そうだね」

 まあ、言われてしまえばその通りだけれど。

 ぼくが、くおんさんについて知っていることなど、本当にごく一部だ。

「知らないから、だかラ君はあんな風にくおんに接する、」

「……びゃくや?」

「知っテイる、私は知ッテいる。君が心から彼女のことを考えてくレテいることを、そしてそレハ何を知ろうと変わらないだろうことを、知っている、だガソれを、その手の葛藤ヲ、これ以上君に強いタクはない」

「何だよ、何か変だぞ」

「アあ、ドうかしていルト、自分でも思う」

 何か様子がおかしいので、彼を肩に乗せたまま、箒を壁に預け、壁際に移動させていたソファに腰を下ろす。

「君を助けタのがくおんだったのハ、いい事ダッたのかな、君たち、双方にとって」

「……それは」

 ぼくにそれを聞くのか、冗談にしては、ちょっと笑えない。

「それを言ったら、最初からぼくなんか助けない方が良かったって、決まってるじゃないか」

「社会ヤ教皇院にとってデはない、君たちにとっテダ。……君はそうやってどこまでもくおんの為に、他者の為に、自分を軽んずる。いツカ、くおんは、そんな君を、君という「大切な人を守るため」に戦うようになる」

「……でも、びゃくや、それは、いけないことなのか?」

 ぼくは戦ったことなど一度もないし、戦うための武器も力も持たないけれど、自分にとって大切な存在を、その象徴として、守り抜き戦おうという意識を保つ原動力とすること、それは……むしろ、人間らしいあり方と……言えるのではないか。

 まあ、ぼくの場合は、そんなもの、得た端から失くしたり、壊れてしまったりしてきたから、戦う云々というところまですら至っていないから、あくまで、そういうものではないかと漠然と思うだけなのだけど。

「ツクヨミノ称号が、十二人くらいもらえるもノナらな、それならひとリクラい、別にいイダろう、だガ、斎月くおんは一つの時代にたった一人のツクヨミ。たった一人の「最高」だ」

 望むと望まないに関わらず、常にくおんさんには、そういうものがのしかかっている。

 ああ、それはぼくだって、十分に承知している。

「率直ニ言ウ。私は君ガ一日も早くソの傷を癒してこコカら出ていけることを、その時に君たちニトッて、お互イガ、重い存在になリスギないこトヲ――切に、願う」

 そこまで語ると、びゃくやは一度羽ばたき、肩から移動すると、ぺこりと頭を下げた。 

「すまンナ、妙なことを言った」

 少し考えてから、

「別に、いいけどさ」

 とだけ、答える。

「まあ、確かにちょっと心配かな」

 知り合ってまだそう間もないけれど、斎月さんは、頑張りすぎるところがあるし。

「……人間って、結構簡単に壊れちゃうからさ」

 ぽつりと、そうつぶやいた言葉を、びゃくやは耳ざとく聞いていて、

「そレハ……君の経験ニよるモノか?」

 と、尋ねられる。

「まあ、そこは、察してくれるとありがたいかな」

 それ以外に、答えようはない。

 びゃくやが、斎月さんの抱えてるものを僕に持たせたがらないならば、それと等しく。

僕もまた、斎月さんやびゃくやに自分のソレは持たせたくないし、わざわざ知らせようとも思わない。

 所詮、僕は彼女たちの人生における、一つのエピソードの中の、それも脇役に過ぎない。

 脇役が、主要人物のバックボーンまで足を踏み入れようなどと思ったら、それはただの傲慢というものだ。

「……そうか、すマナい」

「まあ、…うまくやるよ。びゃくや」

 言って、びゃくやの嘴の下を一つ撫でた。

「くおんさんも、びゃくやも、優しいしさ」

 彼が謝る必要は、ない。


「……トころデ、だ昴一郎」

 少しそのまま休息して気を取り直し、掃除を再開しようと、箒を手に取ったぼくの肩に再び舞い降りて、

「君の趣味ヲ、教えてクレまいか?」

 びゃくやが、そんな風に尋ねる。

「――はい?」

 はて、また意外なことを言う。

「どうして、また?」

「さっキのハ、君個人ノ思いヤリと雇い主に対する義理で、くおんに合わせテクレたのだろう? 君の、君自身ノ趣味ハナんなノダ?」

 という問いだった。――ああ、何だそんなことか。

 迷わず答える。

「読書と音楽鑑賞」

「イヤ、そレハわかってイル」

「読書と音楽鑑賞」

「それデハなく……君の「本当の」趣味だ。気になルデはなイカ」

「……変な言い方をしないでくれないかな」

 それじゃあまるで。

 まるで、ぼくが、本当は「読書と音楽鑑賞なんて趣味とはいえないよね」と思っているみたいだし。

 まるで、ぼくが、本当は「読書と音楽鑑賞が趣味だなんて友達いない奴のセリフだよね」と考えているみたいだし。

 まるで、ぼくが、本当は「読書と音楽鑑賞が趣味だなんてつまらない人間だよね」という偏った思想を持っているみたいだし。

 まるで、ぼくがくおんさんに嘘を吐いたみたいじゃないか

「……ホ、ほラ、私も暇ナトきならつきアッてやレルかもしレンし。 君ガこノ館の暮らシヲ心安らかに送れるよう、私も協力すルゾ?」

「おっと、自慢じゃないけど、こう見えてもぼくは、イヤホンでCDを聞くのが好きなんだぜ?」

 ――ぼくは、嘘は言っていない。

「いや、ダカらな昴一郎…」

「……学校行ってた頃は昼休みは良く文庫本を読んでたし、休みの日は自分の部屋で本を読んで過ごすなんてことはしょっちゅうだね」

 ――そう、ぼくは、別段、嘘は言っていない。

「……ア……」

 ――嘘は言っていない。

「いヤ、ごめン」

「いいよ、別に」

 聞かれたから、本当のことを答えただけだ。

 それで十分だ。

 ……彼が謝る必要は、何ら、ない。

「本当、ゴめン」

「いいよ、別に」

 ぼくがそれだけ言うと、びゃくやはなぜか申し訳なさそうにうなだれ、嘴を閉ざした。 

 ……少し会話に間が開いたので。ひとつ気になっていたことを尋ねてみる。

「そういえば…さ、イヌカイさんって、知ってるかな?」

「いや?一度も聞かない名ダガ? すまナイガそんな人は知らン」

「ほら、さっきくおんさんが言ってただろ? 教皇院のひとかな。……くおんさんは、その人とはあんまり親しくしない方がいいと思うんだ。それとなくびゃくやから言ってくれないかな」

「……わかった、今度言っテおこう、話しかけられてモ無視するように」

「うん、その方がいいと思う。……悪いね」

「……何を言ウ、……私と君の中でハナいか」

 そう答えるびゃくやの声は、相変わらず、バラバラの発音をつなぎ直したような奇妙なものだったけど、その響きには、生暖かく、やさしいものがあった。


 ふと、窓の外に目をやった。

 大きなバイクが一台、庭表に停まっていた。

 ……ん?

 あんなの、昨日まであっただろうか?

 一通り、普段使うスペースの掃除は完了した。

 後は、あそこである。

 その性質上、他の箇所とは別に準備をすることとなり、そして、毎日使うがゆえに常に清潔でなければならない水回り。

 つまるところ……浴場だ。

 ドアノブを前にして、流石にちょっと躊躇する。

「ドうしタ、昴一郎?」

「……いや、ちょっとね」

「……流石に警戒し過ギダ、くおんは部屋で書き物をしておル、しっていルダろうが?」

「そ……そう……うん、そうだよな!」

 びゃくやの言うとおり、びくつきすぎだろう。この館には人間はぼくとくおんさんしか住んでいない。――そう、2人きりだ。

 だから、くおんさんの所在さえはっきりしていれば、不幸な事故は避けられたはずなのである。

 先日の一件の折はともかくとして、今日はくおんさんがこの中にいるはずがないとはっきりしている。

 ゆえに、何の問題もないはずなのである。


「……よし、ゆこう」

「ゆこウ」

 そういうことになった。 


 脱衣場に足を踏み入れて、ちょっとした違和感を覚える。

「……ん?」

 いつも使い終わった後、寝る前には湿気が床板を侵さぬように巻き上げ、畳んでいたはずの足ふきマットが敷き詰められていて、

「……妙……だゾ、昴一郎」

「え、そう?」

 その奥からは、さらさらと、水の流れる音がして、

 ボディソープの、こころよい香りが漂っていて……

「……あれー?おかしいなー、蛇口閉めるのわすれてたかなー?」

 特に問題なくそう判断し、

「……おィ、待て、昴一郎!」

 ぼくは、擦りガラスの引き戸を勢いよく、開けた。

「……あ」

「……ばァーか」


 ――ああ、これが……

 これが、女性の体というものなのか。

 そんな、感嘆の声さえ出そうな光景が、そこに広がっていた。

 

 まず最初に目に入ったのは、抜けるように白い、すっと真っ直ぐに伸びたラインがきれいな背中。

 形よく丸みを帯び、柔らかな曲線を描く腰から下、対照的に引き締まったその上の胴回り。

 健康的に、伸びやかに、無駄のないバランスで機能性と優美で柔らかな印象を矛盾せず併せ持つ四肢。

 ……そして、それこそは、視線をそらそうにもそらし切れない、丸く、大きく、身じろぎするたびにふるりとゆれて、その柔らかさと質量とを、視覚からの情報のみでまざまざと伝えてくる、肌色の双球。

 先日、同じくこの場所で、愚かにも目の当たりにしてしまったソレとは、どこまでも対照的。

 どちらが上と言うのではなくあくまで印象として、くおんさんの裸身がまるで美術品のような華奢で繊細なものであるならば、……これは、鋭利でしなやかな、野生の獣の四肢に通じる、過剰も不足もない、生命体としての美しさがあった。

 ぼくとてそういうものを見ないわけではないが、例え本職のグラビアアイドルでも、これほどの肢体の持ち主はそうはいないだろう。

 ……否、この人がモデルであれば、それが写真集であれ、DVDであれ、その日のうちに驚異の売り上げを叩きだすはず。

 ……やったね。こんなもの見せて頂けるなんて、ぼくってしわわせもの。


 当然ながら、そんな時間は、長くは続かなかった。

「……んあ?」

 〈彼女〉は、怪訝そうな声をあげ、水にぬれた髪をたくし上げる。

 ああ、振り向き、瞼を開けたその顔もまた美しい。

 年齢こそ判別できないが、ぼくよりいくつか歳上だろうか?

 艶めかしくぽってりとした唇、綺麗に整えられた眉に、切れ長の瞳。

 そして、その視線が、ぼくを捕捉していた。

「あっ……あの……!」

「ほう」

 うわ言の様にうめくぼくに対し、その声はどこまでも秋の日の様な穏やかさに満ちて、ノーブルささえ感じさせた。

「どうも、こんなかっこで失礼します」

 一言、そう呟いて。

 そして、獣のように獰猛に、嗤った。

「でも、――あんまり裸の女をジロジロ見るのは、関心しません」

 刹那、その麗しき裸身が、視界から消失する。

 そして、衝撃が襲ったのは、背後から。

 瞬く間に、ぼくは圧し掛かられ押さえつけられ、体重をかけ腕をとられて壁へと押し付けられていた。

「おっかしいなあ……この館、そうそう入って来れるようなもんじゃないはずなんですけどねえ……」

 痛みは、さほどない。

 首に左手が軽く巻きつけられているものの、実際抑えられているのは、驚いたことに小指の先をそっと抓まれ、かかとに足先を添えられているだけだ。

 しかし、いかなる技術によるものか、それによってぼくの五体は完全に支配下に置かれていた。

 身じろぎひとつすることもできず、軽く体重を寄せられるだけで呼吸することさえ左右されるようだった。

 ……ぼくの体とて〈活性〉によって強化されている。力任せにふり解こうとすれば、できないことはないはず。

 だが、それはできなかった。下手にもがこうとすれば、自分の力で自分の四肢をへし折るのに近いことになるにちがいないだろうというのが伝わってくる。

 現在ぼくを無力化しているのは、そのレベルのワザである。

 なお、背中には、かの巨大な双丘が、薄布一枚にも隔てられずに押し付けられ、その弾力とか温もりとかが、ダイレクトに感じられて――

 

 否、いま重要なのはその点ではない。

 この動き、この力、この技術。

 この人――!

「魔法つかい――かっ!」

 苦しい呼吸の中で、そう叫ぶ。

「はい、そうですよぉ? ていうか、あたり前でしょ」

 ――まずい。

 ただ一人の例外を除き、現在ぼくにとって魔法つかいは、見様によってはウィッチ以上に警戒し、不要な接触を避けなければならない相手だ。

 しかも、こんな間抜けな形になるとは、流石に思ってもいなかったよ。

「やっ……びゃくやっ!」 

「五月蠅い、静かに、Be silent。」

 藁にもすがる気持ちで呼んだけれど、帰ってくるはずの返事はなく。

 かろうじて自由になる目を泳がせて巡らせた視界に、白いカラスの姿はなかった。

 ……あ、あいつ、逃げたな。

「――元気いいですねえ、君。……で、どこの人? 葵? まさか京都の方?」

「な、何の、話……」

「言いたくなるよう、腕の一本ももらっときましょうか?」

 脅しではない。軽い口調で言ってはいるが、その裏には「遊び」が全く感じられない。

 そして、今ぼくをするのに用いている技術をに転用すればどうなるかというのは明白である。

 ほんの僅かに彼女が重心を移動させるだけで、ぼくの手足は一生使い物にならない破損を受けるだろう。

「3つ、一緒に数えましょうか」

「数える、数えるって何を……」

「3」

 ……それは何だ、ゼロになったら問答無用でへし折られるということか。

 冗談ではない、何か誤解があるのは確からしいが、その誤解というのが何なのか判らないのでは、どうにもならない。

「2」

「待って、待ってください!ぼくはっ……!」

「1」

 必死にそれを伝えようとしてはみるが、こういう状態で、待てと言われて待つ人がいるわけがないのである。

 妙にゆっくりと感じられる間の後、そして、ゼロがカウントされる、その瞬間――

「――っ?」

 突然に、ぼくの体は全ての負荷から解放されていた。

 その場にへたり込むように膝をついたぼくから離れ、彼女は飛び退り、大きく距離を取って、半身に構えている。

 そして、一糸まとわず、寸鉄すら帯びていなかったはずの、その手の先には、30センチほどの、金属質に輝く細長く鋭利なものが、数本手挟まれていた。

「……止めてください、かなめさん」

 彼女のむける視線の先、何枚かの白い羽が舞い落ちる中、この館の主が、肩の上に供を乗せて、そこに立っていた。

「……ちょ、ちょっと、ちょっと待ってください斎月ちゃん!いまあなたわたしのこと斬ったでしょ!?斬りましたよね!」

「斬ってません」

「いや、斬ろうと思ったでしょ!絶対!あなたの斬ろうと思うは斬ってるのと同じなんですよ!」

 ……ああ、どうやら助かったようではあるけれど、展開に全くついていけす、呆然と座り込んでいるぼくが、ここにいる。

 しかしまあ、ぼくの主をあまり恐ろしげな人切りみたいに言わないでいただきたい。

「……何? 何なのこの男の子? だってわたしは……」

 状況を把握し切れていないのは、どうやら同じらしく、くだんの巨乳のおねえさまは、全裸のまま、首をせわしなく左右させて、ぼくと、そして面白くなさそうな顔を隠しもしていないそのひとを、交互に見ている。

「いイカら、その手のもノヲしまいタまエ、いぬかイ」

「……その人は、わたしの大切なひとです」

 どこか底冷えのするような声で、くおんさんが、そう告げた。


 …そうか、こいつか。

 こいつが、イヌカイか。

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