第四夜「オオカミが来る」(Aパート)①

 オオカミが、あなたの前に姿を現すであろう。

 ――やりきれない。

 何だか判らないが、ものすごい罪悪感だった。

 英語で言うと、アイキャンノットスタンドイットだった。

 命の恩人。……しかもまだ年齢で言うと小学生の女の子を相手に、一体なんて馬鹿げた夢を見たのだろう。

 加えて、その、あまり言いたくないが。…結構気持ち良かったというのが、また自分で自分を許せない。

 ……一体何だったんだろうあれは、ぼくの隠れた願望か何かか。


 ……改めて一人さびしく目を覚ましてみれば、当然のように、そこは何事もなく、眠りにつく前と何も変わらぬ、斎月舘の中の現在間借りさせてもらっている個室の寝床で。

 尊敬してやまない雇い主どのが同じ布団の中にいて寝息を立てていた、なんて恐ろしいことになっていなかったことにまず安堵した。

 ――そう。何も起こっていませんでした。全部夢でした。


 なお、どこからが夢だったか、というと、結局、寝床の中でうとうとと目を覚ました所からであった。

 いっそのこと、数日前、自宅で目覚めた最後の朝からこっちのできごとは、ずっと夢、全部夢で、あの真っ白な少女の存在自体、孤独なぼくの寂しい心の産物だったということであったほうがまだよかったのに、なんてことすら思いもした。

 この館のスケジュールとしては、今日の朝食はぼくが作る順番になっているのだが、……一体、どんな顔をしてくおんさんの前に立てばいいというのだろうか。


 そんな風にしながら洗面台の前で頭を抱えていると、――背中ごしに、朝の挨拶の声。

「――おはようございます、昴一郎さん」

「……ぎゃああぁぁっ!」

 思わず反射的に飛び退り、洗面台の鏡に背中を貼り付ける。

 恐る恐る声のした方に顔を向ければ、予想したとおりの、そしてできればこんな姿を見られたくなかった相手――くおんさんが、ぼくの顔を見上げていた、

「……昴一郎さん?」

「あ……ああ……あ……」

 つい、間抜けな声を出してしまう。

 まあ、この屋敷に「人間」は僕と彼女の二人しか住んでいないから、それも朝のこんな時間に他人と会えば、それは彼女以外ではありえないのだけど。

「え……ええと……おはようございます、くおんさん」

 ひとまず気を取り直し、そう挨拶を返す。

 軽く流し、「はい、わたしは下に行っていますので、早く着替えて降りてきてくださいね」

 とすませてもらえればそれが一番なのだけど、くおんさんの性格上、それは望むべくもなく。

「どうか、なさいましたか? ……顔色が優れないようですが」

「あ……あれ……そう、ですか?」

「はい、小刻みに、赤くなったり青くなったりを繰り返しています」

「……あははは……信号機やリトマス紙じゃないんですけどね」

 言葉すくなで感情をあまり表に出さない、いつもの彼女だけど、その声音とぼくを見る眼に、今は心配そうな色が浮かんでいる。

 ……こんなぼくの事を心配してくれている!

 ああ、くおんさんはなんてすばらしい、心の優しい女の子なんだろう!

「……気分が、すぐれないのですか?」

 まったく、ぼくがこの館に身を寄せるようになってからというもの。

 一緒に暮らし、館の中のことをしながら彼女のおしごとであるウィッチ退治の手伝いをする為に同行すること、数回。

 ぼくは何度彼女にこんなふうに細やかに気遣いをされ、怪我はないか、痛むところはないかと言葉をかけられたろうか。

「え、ええと……ですね、その」

 ――選択肢!


 ≫その一・今朝見た夢のことを話す。

  その二・何もなかったとお茶を濁す。


 仮定:その一を選んだ場合。

「……いやあ、今朝方、妙な夢を見て、……あ、寝てたらいつの間にかくおんさんが僕の上にのしかかってて、鼻息荒くしながら僕の首筋だの耳だの舐めてたんですけど。ああ、案外僕の願望だったりして」

「……トっとト館を出テいきたマエ」

「どこかで勝手にのたれ死んでくださいこの変態男」

 ……と、なるよな。

 うん、きっとそうなる。

 なしなし今のなし

 ここは、

 〈何もなかったとお茶を濁す〉。

 だ。

 嘘をつくのに近いことになるけど、ごめんなさいくおんさん。

「うあ……い、いや、何でもないです。うん、急に立ち上がったから、ちょっとくらっとしたみたいで」

「そうですか、館の暮らしにまだ慣れていないのでしょうし、疲れが出たのかもしれませんね」

 うんうんと首肯し、痛ましげな、まっすぐな眼差しでぼくを見るくおんさん。

 ああ心が痛む。

 しかし、ぼくの言うことをこんなに簡単に信じてしまうのか。

 この子は本当に、これで大丈夫か。

「あ、でも本当に、たいしたことは無いんです! だから、そんなに気にかけるようなことでは……」

「けれど、さっきはあんなに頓狂な声をあげて…気分が落ち着かないのではありませんか?」

 これでは何だか、弁解に弁解を重ねているようだ。しかも微妙に精神状態を案じられている。

 あたふたと取り繕う台詞を探すぼくと対称的に、くおんさんは冷静な態度を些かなりとも崩さなくて。

「……ふむ」

 少し考えるように、そう、いってから、

「……くおん、さんっ?」

 ぼくに止める隙も与えず、黒墨で染め抜いた絹糸のような前髪をたくし上げ、吹き出物一つない、真っ白な額を晒すと。

 ――ぴたりと、ぼくのそれへと重ねた。

 隙間なく押し付けられた額(それ)は、少し、ひんやりとしていた。

「……なっ!」

「んっ。……うん、特に熱はないようですね」

「あの……あの……」

 ろくに言葉も出ない、息だって止まりそうだ。

 頭の大部分で、これはあくまで、ぼくの体調を気遣ってそうしてくれていることだというのが判っている。

 11歳の女の子を相手に何を狼狽えているのだと、滑稽にも思っている。

 だがそれらすべてを吹き飛ばし、ぼくの平静を失わせるには十分なほどに、顔が……薄く目を瞑った、くおんさんの顔が、近い。

「くおんさん、……あの、何を……っ」

「熱を測りました。こうするものだと、以前に聞きましたので。」

 こともなげにそう答えるくおんさんは、まったく落ち着き払ったもので、確かにぼくが勝手にあんな夢を見て、勝手にうろたえているのだから世話はない。

 ……けれど、さすがに今、あの寝覚めの直後にこれはあんまりではないか。 

「あの……それは、もっと、こう、小さなこどもにたいして、するものです」

 彼女から目をそらし、切れ切れにそういうのが、精一杯で。

「それはわかっていますが」

 ……では何ですか、あなたにとって御剣昴一郎(ぼく)は小さな子供と同じと言うコトですかくおんさん。

 現状ぼくが彼女の庇護対象であるという意味ではそれは事実なのですけど。

「……けど、あまり誰にでもこういったことをするのは感心しません」

 苦し紛れに、負け惜しみのようなことを言ってはみるけれど、

「いえ、誰にでもするわけではありませんが」

 と、これまた冷静に返される。

「……今一番つらいのは昴一郎さんでしょうし、それでは、食事もわたしが滋養のあるものを用意しますね、今日は館の中のことも休んでいて下さって結構ですから、……では」

 いつもしているように、白い指先をぼくの掌に一度そっと触れて、冷静な口調でそういうと、くおんさんは小さく会釈をして、そしてスカートのひださえ乱さぬ楚々とした足取りで廊下を歩み去る。


「……よ、良かった、ばれなかった。ばれたら変態だと思われる」


 あんまりいつまでもこうして廊下で丸くなっていても仕方がないというのは重々承知してはいるが、どうにも、次の行動に移ろうという意欲がわかない。

 洗面台の姿見の前でうずくまること、しばし。

 ……しかし、何で今になってあんな夢を見たのやら。

 ……夢の中のくおんさんは、まったく妖しいほどに綺麗だった。

 確かにくおんさんのことは日々美少女だと思っている。4、5年もすれば、さぞ美人に育つだろう。

 毎日良くしてもらっているし、くおんさんと話すのは楽しい。そもそも彼女は命の恩人だ。

 だから、好感を抱いているにせよ、それはあくまで恩義に感じている、感謝していると言うことが第一だ。

 もし必要となれば彼女に命も差し出すつもりではいるけれど、その気質から彼女が積極的にそれを望むことは、当面まずないだろうと思う。

 ……それに、僕がいい匂いだなんて、それじゃあ……まるで。

「くおんニ何かさレる夢デもみタよウダナ」

「あ……いたんだね、君」

 気付けば、雪みたいに真っ白な羽毛に全身を包んだ大鴉が、窓辺でじっと僕を見つめていた。

 ……人間で言えば生暖かい眼、という感じなのだろうか。何とも形容しがたい表情である。

 よりによってニ番目に知られたくない相手に知られてしまった。

 ……ちなみに、一番はくおんさんなのだけど。

「……何でばれたんだ」

「フん、図星か。男子高校生が朝早クかラ悶々とスる理由など凡そソのアたリだ」

「くっ……!僕としたことがそんな手に引っ掛かるとは!」

 ……しまった……シラを切り通していればよかった…

 御剣昴一郎18歳前後は、嘘が吐けない男です。

「マあ……君はそレ故柄にもナイ罪悪感に責め立テラれて苦しンデおリ、マたそれガ不審な挙動ヲトラせてヰル……ということか」

「……そうなんだけどさ」

「フむ……コうハ考えらレナいか?」

「こうって?」

「……君は、先日以来、数度にわたッテウィッチの脅威に晒サレタ…命を落としかけタ」

「……まあ、そうだね」

 ――そう、ウィッチは、人間を食する。活動の為のエネルギー源として食らう、危険な敵性生物。

 その上現在のところ、ぼくは〈ウィッチの呪い〉というもののおかげで、そこに存在しているだけでウィッチの攻撃と捕食の衝動を刺激するという、ぼく以外の全ての人間にとって厄介極まりない代物と化している。

 通常はくおんさんの処置によって辛うじて生きながらえているが、それすら本来ならば、ヒトを脅威から守り良き方向へ導く正義の組織である教皇院の掟において、許されないはずの条項である。

 くおんさんという庇護者と、この斎月邸という仮初の安全な場所がなければ、ぼくは一時間だって生きていることができない。

 もしそのどちらか、あるいは両方を失ったなら、ぼくにできるのは、できる限り他人様に迷惑をかけないよう、人里離れた場所でウィッチの牙にかかるか、教皇院に処理してもらい、後に遺るものを役立ててもらうかどちらかを選ぶ。せいぜいその程度だ。

 間近に見た彼らを、そして、獲物であるこちらを視界に収め、愉快そうに口角を歪めるその形相を思い出すだに、背筋が冷える。

「ウィッチに襲われル夢にウナされたことがなイカ?」

「……あるよ」

 まあ、印象的なできごとではあったから。

 何もかも覚えているし、何度も思い返す。夢に見ることだって、何度もあった。

 初めての、あのビルの中で起こったことも。

 その後保護されたこの邸でくおんさんと交わした言葉も。

 ぼくとちょっとした因縁のある、あの場所での戦いも。

 それ以外に何度か立ち会った、くおんさんの戦いぶりも。

「何故かくおんも現れず、追い詰められ、命を落とスに至ったことハ?」

「……何度かは、あったと思うよ」

 眠りから覚め目を開けて、やっぱりこれが今自分の置かれている現実であると確認し、まだ自分の体があるということに、ほんの少しの安堵を覚える。

 そうして、その度に、今だにぼくが命をつないでいるというこの状況が、どれほど偶然と、くおんさんの個人的な好意によって成り立つ、薄皮一枚、蜘蛛の糸一筋で繋がるような、頼りないものであるかってことを、思い知る。

「ウィッチは、君を食ヲウとすル、ツまリ……君は、食料トしテ、餌とシテ扱われた、……夢の中でコんナ風に言わレタハずダ「うまそうだ」「いい匂いだ」「食べさせろ」」

「……言われたと、思う」

 夢の話だからうろ覚えだけど、流れからはそうなるだろう。

「これマデノ君の人生ニハアリ得ナイ……アッてはナラない事態だ。奴ラニとっては、君は牛や豚と同ジダ」

 ――会話の余地もない、彼女らが特段に残虐であるわけでもない。

 ――単に僕は、彼女らにとってはそういう存在だ。

「怖い、コワい、恐怖でドうにカナリそうだ、キミが君でアるこトが、損ワレた……」

 言いながら、くちばしをねじ込むようにして顔の前にその先端を向けられる。

「……そうだけどさ、やめてくれないかなくちばしを向けるの。」

「わざとヤッテイるのだ。……厭ナ感じ、ダろウ?」

「ああ。――厭だ。とても」

「ソれカら逃れル為に、君の臆病ナ心ハ、対象ヲ信頼デきるもノ、安心でキルモのの象徴デアるくおんニ置き換エルことで、安定を図ロウトした……」

 ばさり。羽音がして、目の前からびゃくやが消える。

「アリソうな話ダロう?」

「……なるほど」

 優雅な羽ばたきとともに、彼は僕の頭上へと移動していた。

「……例えばさっキノ……「食ってやる」だノ「食わセロ」ダの、くおんに言われタノダト想像してみタマエ」


 ふむ。

 想像してみる。

 組み敷かれる自分。

 非力な、奪われ食われるだけの自分。

 狩りの成果に満足したように頬を染めて微笑む、くおんさん。

 果敢(はか)ない抵抗を容易く押さえつけ、そして、獲物にその運命を告げるように、囁く。

「昴一郎さん……? 食べてしまいますよ……?」


 うん。

「そんなに、嫌じゃないかも」

「だロう?……どうだ?結局、ヒトの精神反応ナド、ソんなものダ」

 一応、心配してくれたのだろうか?

「ああ、ありがとう、少し楽になった」

「……マあ、また何かアッタラ言うガいい。……適当な気休メヲ考えてオコウ」

「何か……悪いね、」

「なに……使用人ヲ見れば主がワかルと言うかラナ、君へノ評価はくおんヘの評価トナル。ダかラ……チャんト、シていタマエ」

「ああ、ちゃんとするよ」

 ――このカラスさんは頭が良い。博識だし、物言いも皮肉っぽくはあるけど、僕なんかよりよほど理論的だ。

 くおんさんとの付き合いも長いようだし、きっと身内のような存在なのだろう。

 人間のくせに自分よりバカな僕とか見てると、「あーあ」とか思うものだろうし、くおんさんの身内と言う立場からは、僕は彼女の抱え込んだ厄介者だ。……そう思った上でなおあれこれ僕の世話を焼いてくれているのだから、感謝もしている。

 この館の家人としては同輩でもあるのだし、それなりに敬意を払わねばならない。

「……マあ…君ガ単にくおんに対シて、異性に対する種類の関心ヲ抱いテいルという可能性も否定はでキンのダけどな?」

 ――このカラスさんは頭が良い。博識だし、物言いも皮肉っぽくはあるけど、僕なんかよりよほど理論的だ。

 くおんさんとの付き合いも長いようだし、きっと身内のような存在なのだろう。

 人間のくせに自分よりバカな僕とか見てると、「あーあ」とか思うものだろうし、くおんさんの身内と言う立場からは、僕は彼女の抱え込んだ厄介者だ。……そう思った上でなおあれこれ僕の世話を焼いてくれているのだから、感謝もしている。

 この館の家人としては同輩でもあるのだし、それなりに敬意を払わねばならない。


 そう思っていた。


 ……だがそれもぶち壊しだった。

 全部台無しだった。

「そんなことあるはずがないだろう!」

「……ジョーくだ、何故ムきニなって否定スル?」

 こうしてカラスを相手に日常会話が出来るのも彼女に助けられたからこそだし、今はこの館で働く身である以上、彼女は雇用主でもある。尊敬だってしている。

 そんな目で彼女を見るなんて有り得ない、有り得るはずがない。

 第一、この年で小学生の女の子を恋愛対象として見ていたら、ただの馬鹿じゃないか。

「……たダ君ニは……数日前の件ガあルカラなァ…」

「数日前?…ああ、……アレね」

 数日前の件というのは、まあ、つまり……


 というわけで、以下、回想。

 あるかなしかのぼくの尊厳の為に断わっておくと、けしてわざとではなかった。

 ……そう、わざとでは、なかったはずなのだ。

 この館の雑務を行うただひとりの家人として、特に一日のスケジュール、作業順序を定めているわけではなく、片付いた順に次の作業に移っていた。

 たまたま、くおんさんが朝早くから出かけてゆき、一日館の中で留守居役として掃除や整頓を行う中で、その日は「それ」が後回しになっていた。

 それだけならばまあ、咎めを受けることではなかったと思う。

 平時ならばぼくは、帰還を知らせる主(くおんさん)の声がすれば、何をおいてもまず出迎えに玄関に出て、手荷物でもあるのならそれを受け取らせてもらう。

 ――はずなのだが、その日に限っては、それがなかった。

 それもまた、どちらかに非があるというほどのことではない、不幸な行き違いに当たる出来事だった。 

 ぼくは何の気なしに、作業道具をそろえ、その場所に足を向けた。

 「その場所」――浴場の掃除をするために。


 引き戸を押し開けたとき、さらさらと水の流れる音は耳に届いていた。

 それなのに。

 足を脱衣場に一歩踏み入れたとき、仄かに甘い、石鹸の匂いが、鼻につたわっていた。

 それなのに。

 あれー?おかしいなー?

 と、思わないではなかった。

 しかし、この館のぼくを除けばたった一人の住人であるくおんさんは、外出中のはずである。

 帰宅を知らせることもせず、シャワールームに直行するなんて、くおんさんがそんなことをするだろうか?

 くらいは、考えたかもしれない。

 それでもそのときのぼくは、昨夜シャワーの蛇口でも閉め忘れただろうか?……まあいいだろう、問題なかろう。と思ったまま、足を踏み入れ、歩を進めていった。

 ……手で軽く湯気を払った、その向こう。


 そこに、ぼくの目の前に、真っ白い、人影があった。


「昴一郎さん……?」


「――く、く、くくっ、くおんさんっ?」

 そう、湯気の向こうに、くおんさんが、立っていた。

 湯あみの最中であるという以上、必然的に、その身には何も身に着けておらず。

 くおんさんは、最初、首を少し傾げ、ただ不思議そうに立ち尽くしていた。

 怒りも、嫌悪の情も、仄かに赤く染まった美しいかんばせの浮かべるその表情からは伺えず、赤い唇は金切り声をあげることもなく、それでもまったく恥ずかしくないと言う訳ではないのか、思い出したようにそっと片手で胸元を覆うその仕草で、ぼくは知る。

「(…ああ、これは、凡人が見てはいけないものだ)」

 そうして思い出す、彼女の背負う称号(ツクヨミの名)を。

 国の違いこそあれど、月の女神の沐浴を覗き見た男は…どうなった?

 ――やってしまった。

 とうとうやってしまった。

 11歳の女の子と同居するなんて、これまでの人生からは想像もつかないことになって以来、こんな真似だけはすまいと気を付けていたのに。それなのに。

 いつ:まだ日もそう落ちていない、平日の午後。

 どこで:斎月邸の浴場。

 誰が:18歳相当の男子・御剣昴一郎。

 どのように:愚かにも。

 どうした:恩人であり保護者である11歳の少女の入浴中にお邪魔しました。 

 主観的にも、客観的にも、危険極まりない、言い訳の聞かない絵面(シチュエーション)である。

 

「……キみハ馬鹿カ」

 呆れたような声で冷たく浴びせられる言葉を甘んじて受けながら、どうにか多少なりとも平静を取り戻そうとしながら、

「く、く、くおんさん、なんっ、で」

 切れ切れにそう叫ぶ。

「外出中じゃ、なかったんですか……」

「……あ……すみませんでした、だめですね、声もかけず」

「……キみハ馬鹿カ」

 呆れたような声で冷たく浴びせられる言葉を甘んじて受けながら、どうにか多少なりとも平静を取り戻そうとする。まったく、みっともないどころではない。

「……い、いつ戻られ……!」

「それは、予定よりずいぶん早く要件が済んだもので」

 ……くおんさんは、特別声を荒げることもなく、淡々とそう告げる。

 むしろ、ぼくの狼狽えている理由すら、測りかねているかのように。

「ついでに、少し練兵場で、稽古をしてきたんです。……だいぶ汗をかいてしまったので……においが、気になるだろうと思ったもので、声もかけなかったのですが……」

 そ、そんな、そんなことの、ために?

 大体くおんさんときたら、これまでの目にしてきた限り、複数のウィッチを同時に相手どろうが、壊してもいいはずの建物を壊さないようにラージサイズのウィッチを仕留めるという縛りプレイだろうが、汗などろくにかいていなかったではないか。

 その稽古相手というのは一体どれほどの腕前だというのだ。

「ぼくは、くおんさんの汗のにおいだったら全然嫌じゃないですから!」

「そう……ですか?」

「……おイオい」

「だ、だから、ご、ごめんっ! ごめんなさい! すみません! 許してください! 誰もいないと思ったから……!」

 とりあえず。……とりあえずこの場を退かねばならない。後ずさりしようとするその足が、お湯とボディソープの泡で上滑った。膝が折れて、腰を床に打ち付ける。

「……痛っ……!」

 くおんさんはそんなぼくを前にして、肩をすくめるように苦笑すると、

「……何も、そんなにうろたえなくても良いですよ…それに昴一郎さんだって、こんな体を見てもうれしくもなんともないでしょう?」

 言って、ぼくを引き起こそうと、胸元を隠すのに使っていない手を伸ばす。

 あ、待って! どうかもう少しそこにいて、湯気から出ないで!

「いいい、いいから何か着てください、早くせめて巻いて!バスタオルかなにかでもっ!」

「……こんな、ろくに胸も膨らんでいない子供の裸を見て何を思うと言うんですか、おかしな人ですね」


 回想、終わり。

 ……つまり、そういう出来事が、つい先日あったのである。

「……くおんは、マダ十一歳だかラナ?」

 肉眼で、至近距離で、しっかりと目の当たりにしてしまった。

 重ねて断っておくが、けしてわざとではない。わざとなどで、あるものか。

「だからあれはわざとじゃなかっただろ!」

 色、白かったなあ……。肩も小さかったし……腰も細かったなあ……。

 ……いやいや。

 そうじゃない、何を反芻しているのだ。

「今度……もう一度、改めて謝っておくよ」

「ああ、ソうしテおいた方がイイナ」

 頭上からの声を聞きながら――

 夢の中で見た、くおんさんの唇の、鮮やかな紅とか。

 ついさっき間近で目にした、瞳の、澄んだ黒とか。

 そして、白く滑らかな肌が水滴を珠の如く弾いていた様子とか。

 本人の申告に反して、それなりに将来性を感じさせるサイズのものをお持ちであったこととか。

 そういうものを克明に再生しようとする自分の脳を強制的に黙らせながら、ぼくは、くおんさんへの詫びの文句を考えていた。


 ……そういえば、昨夜は随分遅くまで、何匹もの犬が、血に狂ったような声でけたたましく鳴いていた。

 野犬でも住み着いているのか、びゃくやにも気を付けるよう言っておこう。

 ひょっとしたら、そのせいだろうか、あんな夢を見たのも。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る