第四夜「オオカミが来る」(アバン)

 ――前回起こったこと、まとめ。

 と行きたいところではあるのだが。

 現在ちょっと、取り込み中である。

 自分は夢を見ているのだ、と、思う。

 ああ、そうだ。夢に決まっている。

 こんなコトが、現実であるわけがない。

「……昴一郎……さんっ」


 くおんさんが、いた。


 ……寝床で仰向けになっている僕の胸の上、覆いかぶさるようにして、くおんさんの小さな体が横たわっていた。

 微笑みかける彼女の顔が、息が当たるほど近くにある。

 紡ぎたての絹糸みたいな、さらさらの髪の毛が垂れていて、くすぐったい。

「――うふふふっ……。昴一郎、さぁん……」

 ぼうっとした頭で聞く、どこか熱に浮かされたような、うっとりしたような彼女の声が、ますます目の前の光景から現実感を希薄にしてゆく。

 けれど、すぅ、すぅ、と熱っぽい呼吸が規則正しく繰り返されるたび、くおんさんの体温と鼓動とが生々しく伝わってくる。

 きめ細やかで雀斑一つない、滑らかで白い肌。

 対照的に、星一つない夜空の様な黒一色でいて、まるで重たさを感じない長い髪。

 薄闇のなか、僕を見つめて炯炯と輝く二つの瞳。

 夢だとわかっていても、……こんなに間近で、それもこんなに長く彼女を見るのは、初対面のとき以来のことで、今更改めて思う。


 ――この子は、とても、きれいだ。


「……んっ……」

 ――赤い。

 抜けるように色白な肌に、唇だけが朱を塗ったように驚くほど赤いのだけど、唇からほんの少し伸ばされた舌先は、尚鮮やかな血の色で、息を呑む。

 そんな赤い色が、気付いた時には目の前にまで迫っていて、

「……ーっ?」

 ちろり、と。

 …唇を、舐められた。

「……んんっ。あははっ……昴一郎さん……いい匂いです…。昴一郎さんのくちびるは、おいしい、です」

 それは明らかに彼女らしからぬ振る舞いで、戸惑わない訳もなく、反射的に身をよじらせようとするけど、背中に回された彼女の両手で、その所作は簡単に制されてしまう。

「……ふふ……だめですよ……昴一郎さん?」

「ちょっと……くおん、さん……」

「逃げちゃ、だめ、です。昴一郎さんは、わたしの、もの、なんですよ?」

 ……幻とは言え、さすがに悪戯にしては度が過ぎる。

 知らず、息が止まった。

「ん……っ……駄目ぇ……息止めるのも、駄目、ですよ……?」

 耳が、頬が、首筋が、伸ばした舌先に、ねぶられてゆく。

「くおんさんっ……もう、悪ふざけは……」

「うふふっ……昴一郎さぁん……昴一郎さあん……あったかいよぉ……」

 ……あなたは、どうしてそんなにも。

 頬を摺り寄せ、鼻先をこすり付けてじゃれつく彼女の姿は、普段とはまるで違っていて。

 視線の交わるその度に零れる、蕩けるような微笑みに、いつもの大人びた凛々しさや、時に冷たくも感じられる聡明さは、まるでなくて。

 僕の体にしがみ付き離さない両手は、まるで……「大切な宝物」だの「大好きな場所」だのをようやく探し当て見つけ出した子供のようで。

 けれど、何度もくりかえしぼくの名前を呼ぶ声は、とても、……嬉しそうで。

 ……僅かでも、仮初めにでも、そんな物を彼女が得られるのというのならば……どうあろうと、それで、それだけでいいのではないのか、なんて感情が、ふいに湧き上がって。

「……くおん、さん」

 堪えがたくそうしたくなって……右手を伸ばし、くおんさんの頭を撫であげた。

「……くおんさん。……くおんさん」

 名前を呼び返す。額から頬へ、首筋へと、髪を梳き、櫛けずり、指の間を髪が流れてゆくのを感じながら、彼女の秀麗な輪郭をなぞり、確かめてゆく。

「……いいよ、くおんさん」

 ぼくは、ここにいる。

 あなたのもとにいる。

 あなたの手の届くところにいる。

 どうぞ、あなたの好きなように。

 ぼくの命はあなたに拾われたのだから、ぼくの物は、あなたの物だ。

 この髪も眼も、腕も脚も、血も、肉も、心臓も、……生命も、そんなものがあればだが、魂だって……

 何もかも。

 最後のひとかけらに至るまで、すべてあなたに差し出してしまって、構わない。


 ――というところで、目が覚めた。

「……何だよ、それ」


 ……御剣昴一郎ぼくが、斎月くおんさんの館に使用人として住まい、寝起きするようになってから、数週間が経っていた。

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