第三夜「彼女の護るもの」(Aパート)②
〇
手順を一通り教えてもらいながら掃除を済ませ、いったん部屋に戻る。
ここでの暮らしの一日目でもあるし、次は台所のどこに何があるか教えてもらいつつ、朝方仰せつかった、今日の食事の支度のことを考えなくてはいけない。
……さてと、どうしたものか?
と、思っていたら、部屋のドアが数度ノックの固い音を立てた後、室外から声が聞こえた。
「御剣さん、よろしいですか?」
慌てて居住まいを正して出迎える。
「え……?あ……ど、どうぞ!」
「失礼します」
「どうかしましたか?斎月さん」
見れば、肩の上にびゃくやを乗せ、その手には白布に包まれた細長いものが握られている。
昨日見たのと同じ白い上着も羽織っているので、外出するのだろうか。
「あ……その恰好からすると」
……という予想は、まあその通りだったみたいで。
「はい、少し外しますので、伝えておこうと思って」
「ああ……何だ、それだけだったら、一声呼んでもらえれば、どこにいてもすぐ来ますよ」
それにしても律儀な人だな。これではどちらが使われている方か判らないではないか。
「はハは!まるデくおんの飼い犬だね、君は」
うわぁ、ペットにペットって言われちゃったよ、いやな世の中になったもんだ。
と、彼の物言いに関してはともかく、帰宅時間の予定でも聞いておくかと思った、のだが。
「どこにいても。……ですか?」
斎月さんは、何が気になるのか、そんな風に尋ねてくる。
ン?……ああ、確かにまあ、そんなことも言いましたけれども。
「……ええ、まあ。〝活性〟かけてもらったおかげで耳も良く聴こえるので、ちょっと大きめに呼んでもらえれば、この館の中ならどこにいても聞こえると思いますし」
それになんというか、斎月さんの澄んだ声は、聞き取りやすい。
さほど大きく叫ぶまでもなく、彼女の声だったら、ぼくが聞き漏らすということはないだろう。
「……はい、何処にいても、ぼくはすぐに参ります」
そうはっきり言っておいても、問題はないだろう。
「……どこに…いても……?」
掌を口元にあてて、何か思案するようにしてから、小さく、こくんと頷く斎月さん。
「……そう。……そうなんだ」
ん?……何だろう。
そんなことがさほど重要とも思えないが。
「あの、それで、お帰りはいつごろになりますか?」
「……はい。夕方には戻れると思いますが。何か御剣さんがお困りのことはないか今のうちに聞いておこうかと思って。……必要なものがあれば、わたしが買ってきます」
「いえ、朝、冷蔵庫の中見せてもらいましたけど、大抵のものは揃ってるみたいですし。
それに、ないならないなりに何とかしますよ。
「そうですか。ではそれと、退屈してしまうでしょうから、話し相手にびゃくやを置いていきますね。判っているでしょうけれど、館の外に出ることだけは許可できませんが、それ以外は好きにやっていて頂いて構いませんよ」
「言っておクガ、これかラ毎日とはいカんぞ、わたしもそウソう君のお守りばかりしてはいられんからね」
「……判ってるよ」
「びゃくや、御剣さんにあまり意地悪を言わないでね?」
……まあ、気遣いの上でのことであるなら、甘えておこう。
正直、一人でいると自分でも自分を持て余してしまいそうだ。
こんな相手でも……いや。
斎月さんとずっと話しているのが嫌というわけではないが、彼女はぼくに対してあれやこれやと気を使ってくれているというのがひしひしと感じられるが故に、罪悪感ばかりが肥大してしまいかねない。
きわめて主観的なものであるにせよ、せめて多少なりとも自分の中で彼女に対して何がしかの報恩が果たせたと思えるような言い訳のネタができるまで、そう、食事の支度の一回でも済ませるまでは、彼と愚にもつかない会話をしていた方が、まだ気は楽だろう。
「では、早目に戻ってきます、夕食は一緒に取りたいですから」
「はい、お帰りを待ってます」
それから会話を交わすこと、二言三言。
びゃくやを再び斎月さんの肩からぼくの頭上に移動させ、玄関前まで斎月さんを見送った。
〇
斎月さんからは夕方までは好きにやっていてもらってかまわないと言われたので、昼は適当に済ませてしまえるからともかく、夜はそれなりの物を食べてもらわなくては、それこそ申し訳がたたない。
用意してもらっていたらしい割烹着を羽織って厨房に向かうと、冷蔵庫の中身を確認する。
「ふむ…何を作っテくれルノだ?」
「…そうだねぇ…斎月さんは嫌いなものとかあるのかな?言ってくれればそれは避けるけれど」
「特にこレト言って嫌いナモのはなイナ、くおんは何でもよく食する」
なるほど、確かに朝食の時も良く召し上がっていた。
僕はどちらかというと元から人よりも食が細い方だし、カラスであるびゃくやが食べる量など多寡が知れているから、二人と一羽分とはいってもさしたる量にはならないだろう。
一緒に食事をしていて、この館では斎月さんが一番健啖であることに驚いたくらいだった。
何もライトノベルにおいて記号として大食いという設定になっているキャラのように、山のような食べ物を瞬く間に平らげるというわけではないが、静かに、行儀よく、味と香りを楽しみながら、時に同席者と会話を交わしながら、それでもいつの間にか随分な量を平らげていらっしゃる。
まあそれだけなら、まあ彼女の仕事は体力勝負だし、育ち盛りの十一歳でもあるのだからしっかり食べないといけないよね、で済むけれど、どうしたわけか斎月さんの方はそれではすまないようで、
「御剣さん、あまり箸が進んでいないようですが?」
「お嫌いなものを出してしまいましたか?」
「味つけが好みに合わないですか?」
「体調が悪いのですか?」
「ちゃんと召し上がっていますか?」
「たくさん食べないと、活力も出ませんよ?」
と、僕の小食を、いたく気に掛けていらっしゃるのであるった。
別に料理に不満があるわけではなく、気分も悪くない。同年代の男子と比べれば食べない方ではあるかもしれないが、それは昔からのことで、ちゃんと十分に食べているから気にしないでくれ。心配をさせるのは望むところではない。――と納得してもらうのにも、ずいぶん難儀した。
まあ、そういうことはさておき。
「強いて言ウナらバ、くおんは肉類ヲ好ム、ただまあ、先も言ったように特に偏食はない。食えん程まずくなければ何を作ろうと構わンゾ?」
ふむ、肉か。
「うーん、でもまあ、せっかく作るなら、喜んでもらいたいしね、後はまあ、斎月さん育ち盛りだろうし、栄養のバランスもそれなりに考えないとかな」
自分一人で食べるものなら時と場合によっては朝食の残りなり、缶詰なりを温めなおしたご飯にかけてかき込むのでもいいけれど、人に、特に斎月さんの口に入るものではそうもいくまい。
「朝御飯は和食だったけど、特に戒律とか、そういうのはないんだね」
「嗜好とシて和食といウか米が好きではあるようだな。だがまあ、和食でなければならないというわけでもない」
ふむ……
ツクヨミさま:彼女の称号。
そういう名称を用いているということは、一応、組織としては日本神道の系統、なんだろうか。
となれば、神道は確かに比較的生活面における縛りが少ないはず。
その辺と、冷蔵庫の中身から実際にできそうな献立を考えてゆく。
朝も目にはしたけど、斎月さんが自分で買い物に行くようなことがあるのか、出入りの業者さんでもいるのかわからないものの、牛豚鶏肉、野菜に穀物、調味料に缶詰、日持ちのしない鮮魚類以外は凡そのものが揃っている。
「よし、決定」
「ほう?」
「肉じゃがと、白菜の汁物にします。後、君の分はどうすればいいかな?」
「心配いらナい、わたしもくおん同様食べらレナいものハナい、きみらと同じものデイいよ、今きみの言った、肉ジャが、モ、くおんと食したことガアるぞ、それは君の得意料理か?」
「いや?特に得意も苦手もないな、何で?」
「まア、最初の日だシ、君も自信のあルノを出してくるだろうト思ってネ」
「自信の有無はあんまり関係ないかな、作れるものしか作れないし、できるかできないか、それだけ」
まあ、自分で言っていても、なんてつまらん理由だとは思う。
「言い訳すると、父が行事ものとかあんまり好まなくってさ、前、暮れに七面鳥買って帰ったりしたら反応いまいちだったことがあってね。そのせいかあんまり特別っぽい物は作ったことないんだよな」
「君も配慮ノし甲斐のなヰ奴だな、こっチハ、君が何を作ろうが褒めちギる心づもリでいるというのに」
「……へえ」
まあ、何にせよ、それはありがたい話なのかもしれない。
「何だったら、君にマヨネーズ一本つけようか?」
まめ知識:カラスはマヨネーズの脂気を好んで漁る。
「……ン?……ああ、別にそれでもいいが」
おや、サービスのつもりだったのだが、あまり気のない返事である。
「……もっと喜ぶかと思ったんだけど…」
「まア、あノ脂気は嫌いでハないが、目の色変え飛んで撥ねテ大喜びするほドデはない、かな」
だ、そうだ。
まあ、嫌いでないというなら、とりあえずその程度のサービスはしておいてもいい。
「ところで……さ」
この流れなら、世間話のような感じで言えなくもなさそうだ。
恐る恐る、という感じに、気になっていたことを切り出してみる。
「アレ、どう思う?」
「アれ、といウのは?」
「ほら、斎月さんが言ってただろ?」
思い出すのは、数分前の、そう、斎月さんを玄関から送り出す際のやりとり。
ほんの穏当な、二言三言。
というわけで、以下、回想。
「――ところで、御剣さん」
「はい?」
「まだ、わたしに対して、その、敬語を使うことを止められませんか?」
「でも、斎月さんはぼくの恩人ですし、今は雇い主でもありますし」
「あなたの方が歳も上ですし。できればせめて名前くらいは、例えば、くおんとか、くおんちゃんとか、呼んでいただけると嬉しいのですが」
回想終わり。
まったく他愛のない差し障りのない特別なところなんてない会話。
例えばこれが、選択肢選んで物語を読み進めていくようなスタイルのゲームか何かだったとしても、選択肢すら表示されない。それ以降の展開には一切かかわらない、その程度の話題のはずだ。
「斎月さんはああ言ったけど、流石に抵抗あるよ、何か馴れ馴れしすぎる気がするしさ」
「その辺はまあ、君に一任すルよ。第三者がいル間はそレなりに畏マった方がいいだろウが、それ以外の、私と君シカいなイナんて時なラ、くおんちゃんだロウがくおんたんダろうガ、くおんさまダろウが、好きなように呼べバよかろう」
「それでいいなら、考えないことはないけど」
「君らにとって、呼び名というのがウェットな思い入れの対象であることは知らないではないが、こレマで、下の名で呼び合う異性の一人や二人、いなかったわけではあるまい?」
「いや、いたことないけど」
「へェ」
とりあえず、考えておくとしよう、そんなことで斎月さんの心象を損ねたくもない。
「せめて…くおんさん、かなあ」
それはそれで、切り出すのに勢いというか、思い切りが必要そうだ。
〇
りん、と。どこかで鈴の音が鳴った。
さほど大きな音ではない、けれど、かならずそれには気付くであろう。
近い物をあげるなら、斎月さんの囁くような声、…そんな音。
「ン?」
少し早いガ、斎月さんが戻ったのだろうか?
そう思い、びゃくやに目で尋ねる。
「ああ、ダがこれは」
階段の踊り場に上がり、窓から外を見る。
館の駐車場でやがて、車が停まる。近づいてくる足音、そしてがちゃりと玄関のドアが開錠されて。
「ただい……」
この館の主であるところの、長くて艶やかな黒髪の、かわいらしい女の子のご帰還である。
そうしない理由もないので、とりあえず、出迎えの声をかける。
「お帰りなさい、斎月さん」
「……っ」
ぼくの眼前で、妙なことがあった。
上、下、左、右。それからもう一度、上、下。
斎月さんが、息を大きく吸った後、あろうことか、目を空中で泳がせていた。
「あの、御剣さん、今、何とおっしゃいましたか?」
そして、尋ねられる。
いや、何と、と言われても。
何かまずいことでも言っただろうか?
「いや、その、出迎えなので」
「もう一度だけ、おっしゃって頂けますか?」
それ以外に、かける言葉は思いつかないのだけど、
「お帰りなさい、斎月さん、と」
「……っ」
「言っただけの……つもり」
だったんだが。
斎月さんを見る、おかしなところは何もない。
さらさらの黒髪も、ふっくらした白い頬も、口元を覆うようにしている掌も、パリッとした白い外出着も。朝見送った時のまま。
大人びたその立ち姿も、どこか囁くように聞こえるその透き通った声も、昨日知り合って以来、見てきているものだ。
ただなんというか、強いて言うなら。
特徴的な、黒目がちで、澄んだ水面のような双眸が放つ視線が、落ち着かずに踊っていた。
昨夜、大量のウィッチの動きを最小限の動きだけでの同時に捕捉し把握し続けていた視線の動きとも、また違う。
不意討ちを受けたように、取り乱したように。控えめに言ってもたじろいだように、見える。
「ええと、どうかしたんですか?斎月さん?ぼくは何か変なことを言いましたか?」
何か彼女にあったのだろうか。そうであるにしても、まさか、今のぼくの出迎えは関係あるまい。
御剣昴一郎に、斎月くおんを狼狽えさせるなんて、そんな大それたことが、できるわけがないのだから。
「くおん、くおん」
バサバサと羽ばたきをして、びゃくやが止まり木からぼくの頭へと移動する。
「あ……びゃくや、いま、今ね、御剣さんが…」
「そんな、ことは、どうでも、よくは、ないか?」
びゃくやが、突き放すように、それだけ言葉をかける。
「……」
斎月さんが、小さく息をのむ。
それだけだった。
次の瞬間には、斎月さんの纏う空気は、あのいつもの、どこか冷たくも感じられるものへと戻っていた。
またしても、今のはなんだったんだろうと、ぼくが考えを巡らせているのよりも早く、斎月さんが、さっと、背中を向けて、ぼくの前に立った。
「ええと……人が来ます、御剣さん」
簡潔に、そう答える斎月さんに、重ねて尋ねる。
来る?
「もしかして…来るって…「敵(ウィッチ)」?」
「そういうわけでは、ありませんが…」
「察シろ!」
敵、でなければ必ず味方であると言えるほど、この世は単純ではないわけで。
現在の所、明確に直接ぼくを狙って襲い掛かってくる敵であるウィッチ以外で、それと同様に警戒するべき相手。
それはすなわち。
……「教皇院」からの訪問者か。
「……堂々としていてください、却って勘ぐられます」
短く、凛然として、斎月さんはそう告げた。
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