第三夜「彼女の護るもの」(Aパート)①

第三夜「彼女の護るもの―Her keeping’s―」

 悲しくて流す涙はもうありません。

 傷ついて痛む心ももうありません。

 かくて、斎月さんが焼き魚の解体まで世話を焼こうとするのを必死に遠慮したり、彼女は頼みさえすれば隣に座ってぼくの口元まで箸で食べ物を運ぶことすら辞さないのではあるまいかと別の意味で戦慄したり、この状態に慣れてしまったら人間として終わりだと思ったりしながら食事を終えた、その後。

 今後のことについて、色々と打ち合わせをしておかなければと思ったのだが、ではまず、と切り出した斎月さんによる、第一声。

「御剣さん、貴方のことを教えて頂けますか?」

「……はい?」

 この子はいきなり何を言い出すのか。

「はい、あなたにここで暮らして頂くうえで、情報の共有と相談が必要ですから」

「あ……ああ、はい」

「だから、相談をしましょう」

 うー、でもまあそうですよね、そりゃそうだ。

 今斎月さんが知っている知識のみでは、ぼくがとんでもない前科もちの極悪人じゃないなんて根拠は、何もないのだし。

 仮に、ぼくが斎月さんに危害を加えようなんて思ったところでそれは物理的に不可能なのだけど、考えてみれば、いくらほっとくと死ぬ相手といっても、合って間もない人間をこうして自宅に招き入れ、一晩の宿を貸し、庇護者となるのを買って出るというのも随分と無用心な話だ。斎月さんがそういう性格の人だというだけで済む話ではない。

 そもそもぼくがほっとくと死ぬという現状だって、元はといえばそれを招いたのはぼくの後先を考えない行動が原因であって、余計なことをされていま現在迷惑しているのは斎月さんの方であるはず。

 あの公園で、初めて会った時だって同じことだ。振り返ってみれば、ぼくは斎月さんに迷惑をかけてばかりいる。

 聞かれたことには、できる範囲で包み隠さずお答えしよう。

 ……突然に、あなたのことが知りたいだなんていわれて、不覚にもときめいてしまいそうではあったけれど。

 中学生かよ。


「名前は御剣昴一郎、年齢はだいたい18歳。身分は高校生、過去の賞罰は特になし。それ以上の情報は必要ないと思いますが」

「……あ……」

「後は……家族構成。ミツヒデ、という名前の父がいますが、血縁はありません」

 今のところ、言う必要がありそうな情報。おおよそ、大体、以上。

「それは、もう聞いていますが……」

 ……一応正直に言ってみたのだが、どうも斎月さんの反応が芳しくない。

 何か不足があったろうか?

「あー、もっと正確なことをというなら、履歴書作るなり、在学証明送ってもらうなりしますけど…」

「カア! カァッ!」

 ――甲高い声に振り向いてみれば、びゃくやが羽をばたつかせ、しきりにこっちを見ろとアピールしていた。

 食事中にやられたら羽が舞って仕方なかったろう。彼なりに一応気を使ってくれていたということらしい。

「あ……いけない、忘れるところでした」

 斎月さんは、上品な所作でついとぼくの側まで歩み寄ると、

「御剣さん、手を」

 といい、掌を上に向けてぼくに差し出した。

 はて、何だか「お手」みたいだなと思いつつ、素直にそれに従い、おずおずと手を差し出す。

「……こう、ですか?」

「はい」

 象牙細工のような掌が上下から、それよりは一回り大きいぼくのそれを包み込んだ。

 少しひんやりとした、滑らかな感触が伝わってくる。

 ――と。

「オい……おい、昴一郎」

「……わっ!」

 突然に、さっきまで当たり前のカラスの鳴き声にしか聞こえなかったびゃくやの声が、はっきりとした意味を伴って聞こえてくる。

 どうやら、今ので〈活性〉をかけてもらえたということらしい。

「あれ……?聞こえる」

「もう、びゃくやの声が聞き取れるでしょう?〝活性〟をかけておきました」

「あの…ここじゃなくていいんでしょうか?」

 握られていない手で、額を指して尋ねる。

 昨日、彼女が触れ、〈活性〉をかけてもらった際に触れたのは、額の、今はもうすっかり真新しい皮膚に覆われてはいるが、石礫を投げられて擦りむいていた箇所の近辺だったはず。

 少なくとも、そうだと聞かされていた。

「直接どこか、体の一部に触れることができれば、〈活性〉はそれだけでかけられます」

「ああ、てっきり、ここじゃないといけないものかと」

「そちらの方が、良かったでしょうか?でも、もし、この3人以外の人が居合わせていても、軽く掌に触れるくらいなら不審に思われることもないでしょうし。それに……」

「それに?」

「わたしはそれでも構いませんが、毎朝頭を撫でられるというのは、御剣さんとしても抵抗があるのではないかと、びゃくやが……」

 ちょっと、想像してみる。

 毎日、朝起きるたびに、小学生の女の子に頭を撫でてもらう自分の姿を。

「……悪く、ないかもな」

「御剣さん?」

「……? あ、ああ、いや!なんでもないです!」

 ……確かに、何ともいえないがいかがわしい雰囲気がついて回る。いかがなものかという気がする。

「うむ、昴一郎にも、最低限のプライドというもノガアろう?」

 プライド、か。

 ……ぼくは、もう随分前に捨てた、けれど。

「そういう配慮の上でのことでしたら、ぼくはどちらでも構いませんが」

「では、明日からは、毎朝わたしの処まで来てください、こうして「活性」をかけなおしますね」

「かけたままにしておくってことは、できないんですか?」

「それにはあまり賛成できません。「活性」は、あくまで身体機能の増強とそれによる認識阻害の破却です」

「……むやみに増強すると、その分体力を消耗するってことですか?」

「ええ、昨日はあれだけの事があったのに、ぐっすり眠れたでしょう?それだけ体力を大きく消耗して疲労していたということです。睡眠時には解けるような設定にしていますから、一晩眠った後には……」

 なるほど。「願えばそれが現実になる」という、彼女の使う魔法にも、色々と法則とか規則性みたいなものはあるわけか。

 当面一番影響があるのはびゃくやとの意思の疎通だけど、さっきみたいに筆談という手もある。

 多少不便な場面もあるだろうが、何とかなるだろう。

 魔法がらみのことともなれば、ぼくはほとんど何も知らないわけで、その辺りも織り込んで斎月さんが考えてくれたことであれば、間違いはあるまい。

 斎月さんの言うことは、絶対だ。


「……もウ、話を再開させテもラッてもいいだロウか?」

 妙な、――表現するなら苦々しげに、びゃくやが嘴を上下させた。

「……くおん。もウ昴一郎を放しテやれ」

「え?……ん」

 彼が付け加えると、斎月さんは僕の手を掌の上に乗せたままであったことを思い出したようで、そっと手を引いた。

「この館にハ、くおんの立場上、教皇院に縁持ツ者が、シばしば訪れる。その際、不用意な発言でボロヲ出す羽目になるノハ避けたい。状況次第で口止めできなイこともないダろうが、限度があル」

「あー……ああ、ごめん、そうだったね。何処まで話していたっけ?」

「……昴一郎、悪いガな、今聞いたことは、わたしたちはもう知っている。昨日の段階で、君の経歴に不審な点は何もないことも、君の義父に連絡しガテら確認させてもらった」

「え……? 話したのか?ミツヒデさんと?」

「勝手なこトヲしてすまなイがな、眠っている君をたたき起こすのモ気が引けてな。持ち物を見せてもラッタ」

「……別に、見られて困るわけじゃないし、いいけど」

 例えていうなら、それは車に撥ねられて意識不明の負傷者に対して、身につけているものから身元を確認して家族に連絡するのと同じことのはずだから。殊更それをとがめだてはしないけど。

 しかし、

「ご子息がウィッチという怪物に襲われて負傷しました。私たちはそれと戦っている魔法つかいです。ご子息は我々が保護しています」

 なんて説明は流石にできまい。どういう説明をしたものやら。

「とコロでくおん、昴一郎の現実的な社会での詳細が必要というなら、書面でも作ってから、頭に入れておけばよかロう」

「じゃあ、そうしますか?午前中くらいには用意しましょう」

「ん。……だけど……」

 斎月さんが珍しく、言葉じりを澱ませる。

「…まア、そウだな、君から聞きづライというなラ、わたしカラ聞いておいても良い、さシヅめ、君ガ聞きたいのは、現在特定の異性との交際はあルノか。とか、何歳年下マで異性としテ見られるか、トかか?」

「びゃくや」

「その手のジョーク、面白くないからな」

 声のトーンを落としてびゃくやを見る斎月さん。

 その眼光は、ちょっとだけ本気マジだった。

「あー……何か……それが当面必要な情報だというのであれば、特に答えない理由はありませんけど」

「……わたしは」

 つまらないジョークを終わらせる為にそう言ってみたぼくに、一つ息をついてから、斎月さんは妙に気まずそうに答えた。

 困ったように呟くその口調は、それでも静かなものだった。

「わたしはただ、……ただ、そういう相手が御剣さんにいるのであれば、尚更その女の子の為にも、あなたをしっかり守らなければと…そう思うだけです」

 ……あー。そっちですか。

 斎月さんは、ほんとうに真面目だなあ。

「ええと、いません。はっきり言っておきます。どうも、ぼくは話しかけづらいみたいで、今いないだけじゃなくて……そういう相手がいたことすらないです」

 友達と呼べるのだって、子供のころ「兄さん」と呼んでいた相手程度。

 後はせいぜい、7つになるかならないかの頃に別れたあいつだけど、さすがにそんなのをカウントはできないだろう。

 たったひとりの縁戚上の父親とだって、いつか別れる時が来る。

「昨日も言った通り、だから、ぼくの命は、ぼくひとり分の重さしかない」

「……御剣、さん」

 長い黒髪に指を当て、斎月さんはぼくの名を呼んだ。咎めるような響きがあった。

 少し失言だったなと思いながらも、答える。

「……ぼくが言いたいのは、過剰に気負わないでほしいってことです。だって、それじゃ、ぼくにまつわる、ちょっとでも関わったことがある人間を残らずあなたの手で守らなくちゃいけないみたいじゃないですか。仮にそういう相手がぼくにいたとしても、それは関係ないですよ」

 真面目でやさしいこの女の子がそこまでのものを背負い込む必要なんて、ありはしないはずなのだ。

「それに、ぼくは確かに昨日言ったようなことを思っている……そういう奴なんだけど。あなたがそれも承知でぼくを守ってくれるつもりでいる以上、その間、少なくともここにいる間は……ぼくの考えよりも、あなたを信じるってことを上に置いておきます」

 これで十全に伝えることができているかどうか心細いが、今のところぼくの考えているのは、大体こんなところだ。

「……言い訳っぽいかもしれないけど、当分その考えはしまっておくことにします。簡単に死のうとしたりはしないし、ぼくを見捨てろとか、あなたにとって認められないような駄々をこねてあなたを困らせるようなこともしませんから」

「……それなら、いいです」

 こくんと一つ頷いて、斎月さんは素っ気無く、でも冷たさは感じられない声で答えると、

「あなたには、どうか……普通のひとの、平和な生活の中で幸せを得てもらいたいですから」

 と、付け加えた。


 ――また、難しそうなことを言ってくれる。


 斎月さんは、この子は、ぼくとは違う。

 自分のことすら簡単に見捨ててしまうぼくのような人間とは、違う。

 昨晩見せてもらった彼女の強さとか決意の程以上に、斎月さんが見せる、こういう普段接することの無い子供故の優しさとか正義感みたいなものに触れたせいだろうか。

 どうも「何とかなるのではないか」なんて、ぼくらしくもない考えになりつつある。

 この子は一言だって「大丈夫です」なんて楽観的な言葉は、口にしていないはずなのに。

 まったく昨日一日で、色々なことがあったけど、何が一番大きな変化かと聞かれれば、この子がぼくの隣にいることだ。

 もしこの子と知り合っていなかったらどうなっていたか、なんてことが、もうぼくには想像できない。

 確かに、彼女と逢わなかったら、そもそもウィッチの前に立つようなことはなかったのだろうけれど、彼女が助けてくれなかったら、今頃挽肉になってウィッチたちの胃袋の中だ。

 それなのに、目だって耳だって一個もなくなっていない。手足は四本、両手の指だって10本揃ってる。

 ほんの少し何かが違っていただけでも、今こうしてこんなことを考えていることすらできなかったのだ。

 結局のところ、現在の状況の原因を彼女と知り合ったことに求めるのは無意味なのだ、と、ぼくは思う。

 ……ただし。ただし、である。

 たぶん、ぼくでなくても、誰かが通りかかったら、もっとうまい形で、あの場を収めてくれただろう。

 いや、たぶん、彼女だったら本当は成人男性の一人や二人、自分でどうとでもできただろう。

 けれど、もしも、ぼくがあの公園でびゃくやを見つけ、足を止めていなかったら?

 もしも、ぼくの胡乱な思考が、わざわざ人様の会話に首を突っ込もうなんてしなかったら?

 もしも、子供を相手にわけのわからないことを喚きながら自分だけは「正論」を吐いているつもりでいい気になっている人を、いけすかねえな、如何なものか、と思うことをしなかったら?

 もしも、口をつぐみ目を伏していた彼女の姿を、これ以上見たくないなんて思わなかったら?

 ……そうだったら、斎月さんは。

 どれだけほんの極小の可能性のものであろうとも、彼女が夕暮れの公園で、好き勝手に罵声を浴びせられ、悲しげに立ち尽くしていたなんてことも、ありえたのだろうか。

 ぼくが、一切彼女の戦いに関与することなく、今日も普通に自宅で目覚め、人外の化物とそれよりもっと強大な魔法つかいたちから息をひそめるようにしていなくてもよい、と言う条件と引き換えに、そうなっていたということでもよかったか?と聞かれたら。答えは、やっぱりノーだ。


 ――だから多分、これで良かったのだ。


 既に、そうなってしまったのならば、後はその中で取りうる手段を模索していくだけだ。


 そうして、ふと思う。いや、気になっていたことを今になって思い出した。

 戦う彼女を初めて目の当たりにした、ビルの中。

 あの時だ。

 まさしく超人といっていいほどの技の冴えを見せる斎月さん。

 完全に視覚の外からだったはずの攻撃にも容易く対応してみせた、斎月さん。

 そんな彼女が、あの一瞬、〝シーアーチン(海栗)〟の首をはね、とどめを刺したものと判断し、後ろに立っていたぼくに話しかけようとしたとき。

 あの時だけは、彼女は完全に動きを止め、警戒を解き、まるで無防備だった。

 まるで昨日今日ウィッチと戦い始めたばかりの、ただの女の子のようだった。……ように、見えた。

 ……アレは一体、何だったんだろうか?

「それで、……ええと、いつまでもこうして只飯食べてるのも何なので、屋敷の中の仕事を手伝おうと思うのですが、…もともと、そういう約束、でしたよね?」

 少し重たくなった雰囲気を振り払うように、そんな風に切り出してみる。

「おお、君にも少シは人の心というものガあッタカ…いや、残り少なくなったが、今世紀で最大の驚きだ」

 ひどい言われようだった。

「びゃくや、すこし黙って」

「その……ここに来る、斎月さん以外の人たちに対しては」

「はい、あなたのことは、新しく雇い入れた、館で働いてもらう人、として正式に申請しておきました。わかっていると思いますが、この館でわたし以外の人に会った時に何か聞かれたら、そのように振る舞って、それで通してください」

「主な仕事、っていうのはどうなりますか?」

「昨日言った通りです。掃除や、たまに食事の支度をして、後はせいぜい、わたしの話し相手を務めて頂ければ、それで結構です。あなたは被害者なのだから。それに、もちろん給与もお支払いしますし、仕事をしないでいい日も設けますよ」

 いや、助けてもらって、リスクを背負い込ませて、こちらからできることがそれだけしかないというのは随分心苦しい。

 そんな心情を見透かしたように、斎月さんは幽かにくすっと笑い、

「御剣さんのお料理、楽しみにしてもいいでしょうか?」

 と尋ねた。

「あー……まあ、できるだけのことはしますが、食えなくはないという程度だと思います。あまり過度の期待はなさらないように」

「それは気にしないでください。わたしだってこの程度ですから」

 奥ゆかしくもそういう斎月さんだけど、いやいや、…こんなおいしい朝食を食べさせてもらっては、ぼくの作った食事を提供するというのは恐れ多いほどだ。

 そう、斎月さんの作った料理は、微妙な塩加減、素材への包丁の入れ方に至るまで細やかな気遣いが感じられて、とてもおいしい。

 将来彼女の夫になる男は幸せだろうな。なんて愚にもつかないことを思ったりもする。

 あれに比べれば、ぼくの作ったものは、ただ空腹を満たす為だけの食事だ。

 はっきり言って料理の味にはさほど自信がない。

 収入源が判らないくせに口の奢った義父に及第点をもらうのも随分苦心したものだ。

「まア、そう重く考えルナ、食えなくはなヰのだロウ?わたしもくおんもそう口うるさクハ言わンよ」

「あー……そう言ってもらえると、気が楽なんだけど」

 …料理に関しては、ぼくの腕が斎月さんの許容範囲であることを祈るしかないか。

 と、思っていると。 

「……では、部屋での仕事着を用意してもらいました。どうぞ、これを着て下さい」

 斎月さんから、紙袋を手渡される。

 昨日もらった寝間着の入っていたものと同じ、都心に本店を構える高級百貨店の呉服屋のロゴが入ったものだった。

 手を突っ込み、中身を引き出してみる。

「……へえ?」

 袋の中身は、上等の生地で仕立てられた、本格的な黒い燕尾服だった。

 ちょっと驚いた。

 まあ、これだけのお館だ、使われてる方もそれなりの身なりでいなければ格好がつくまい。

「……さあ、袖を通してみてください」

 促されて、一旦退出させてもらい、別室で一揃い、とりあえず広げる。

「……これ、着るのか……」

 上着とワイシャツにズボン。ネクタイと白い手袋、ソックスまで一式そろっている。、

 袋の中で折り畳まれてるのを見たときから伺えたが、出所から言ってももこれはかなり値の張るものであるらしい。

 汚してしまいでもしたら、とても弁償できまい。気を付けよう。

 一通り身に着けてみてから、背筋を伸ばし、鏡の前に立ってみる。

「ごきげんよう!……って、何か違うよね」

 その時だった。

 背後から、ぼとり。と、何かが床に落ちる音が聞こえた。

 何事か。振り向いて、後ろを向く。

「ぷ……くっ……クく……!くる、シ……」

 絨毯の上にびゃくやが落下し、苦しそうに痙攣していた。

 

 見られた。

 見られた。びゃくやに見られた。

 見られた見られた見られた。

 ――脱兎。

「待テ、ドうしタ昴一郎!」

「さよなら、びゃくや」

 ――窓際まで全力疾走、然る後に窓枠に足をかける。

「おチツけ!」

「昴一郎は出て行った。って斎月さんに言っておいてくれ、それから、ごめんなさいって」

「悪かっタ!わたしが悪かったカラ!」

「……落ち着いた、カ?」

「……はい、だいぶ」

「……まッタく!君という奴は…!」

「だってアレは取り乱すだろ誰だって!」

 黙って入ってきて見ている方が悪いと思います。

 ぼくが平静を取り戻すまで待ってもらってから、斎月さんのいる食堂へと戻る。

「随分、着替えるのに時間がかかりましたね……?」

 怪訝な顔でぼくとびゃくやを迎える斎月さんに、

「い、いえ!慣れない服だったので手間取ってしまって……」

 と、取り繕っておく。

「ばたばたと騒いでいる音も聞こえましたが」

「あ、ソ、それハダ、昴一郎が呑み込みが悪いものでな!」

「……駄目だよ、御剣さんに意地悪しちゃ」

「し、していナい、なア、昴一郎」

「え、あ、うん、そうだねー……」

「わたし達はもウスっかり、仲の良いものダよ」

「……ふうん?」

「そ……それよリモだ、くおん、昴一郎をみてやリタまえ」

 斎月さんの視線が、さっとぼくの頭頂から足もとまでを通過する。

「あ……良く、お似合いだと思います、ね、びゃくや」

「……あ?あ、アあ!……ウむ……思っタよリはサマニなっているナ……」

「そ、そうかな?」

「ほウ……」

 戸惑いながらもそう答えるぼくに、びゃくやが冗談めかした口調で言う。

「……時に、昴一郎「くおんお嬢様」ッて言っテみたマエ」

「びゃくや?」

「……ほンの遊びだから」

 ――ふむ、さっきはつい取り乱してしまったが、調子を合わせてみるのも、悪くはないか。

 以前に外国映画で見たように、胸の前に白い手袋をはめた手を当てて。

 言われた通りに、口にしてみる。


「…くおんお嬢様?」


「………!」

 百戦錬磨の武人であるはずの斎月さんが、たじろぎ、後ずさった。

 ……ように、見えた。

 いや、気のせいだろう、一瞬確かにそう見えたが、今はもう、大人びたポーカーフェイスだ。

 あー……ほら見ろ、斎月さん引いちゃってるよ。

 こういうのは、それなりの見た目とそれにともなう実績に裏打ちされた信頼というものがないと無様なだけなんだということがよくわかった。

「……もういいかな?」

「デは「何なりとお申し付け下さいませ」っテ言ッテミたまえ」

 再度、言われたとおりに口にしてみる。


「何なりとお申し付け下さいませ!」


「………!」

 斎月さんは、口元に手を当て、考え込むようにして、目線をそらす。

「これでもう終わりにしようよ」

「「お嬢様に何かあれば、私も生きてはいけません」ッテ言っテみたマエ」

 みたび、言われた通りに口にしてみる


「お嬢様に何かあれば、私も生きてはいけません!」


「………くっ!」

 一度だけ、一度だけ、両手できゅっと自分の体を抱きしめてから、何かを振り払おうとするように鋭く、斎月さんは、厳しい口調で、告げる。

「御剣さんで遊ぶのを止めなさい、びゃくや。御剣さん、も、べつに、付き合わなくて、良いですから」

「あ……なんか、すみません」

「気にスルナ、アレでくおんモ喜ンデいルから」

「びゃくや、後で話があるから」

 クールな、けれどどこか底の方に力のこもった声で、斎月さんが呟いた。

 顔を背けていてぼくからはその表情は見えなかったけど、抜けるように色の白い首筋や頬の中で、艶やかな黒髪の間から除く耳が妙に仄朱かった。

 さしあたり、一通りモップで館の廊下を磨き、ごみを一まとめにするところまで済ませてから。一息入れて……よく考えれば、朝起きてから、父に連絡を取っていなかったことに気づく。

 携帯を取出し、「ミツヒデさん」のナンバーをコール。

 数回の呼び出し音とともに、欠伸交じりの聞きなれた声が聞こえてくる。

「……ふああ…おはよう、俺だけど」

「もしもし、昴一郎です」

「おお……おまえ、本当に帰ってこなかったなあ」

 どうやら、ミツヒデさんはいつも通りのようである。ちょっと安心する

「それで……ちょっと、言いにくいんですけど…」

「……ああ、もう聞いてるぜ?住み込みのバイト始めたんだろ?」

 ――あれっ?

「お前が帰ってこないからさァ、お父さん自分で牛乳買いに行く羽目になっちまったよ」

「ちょ、ちょっと待って、ぼくがしばらく帰らないって……」

「牛乳屋のおっさん、息子さんには世話になってるからいつもいいの渡してるけどあんたには、って言うんだもん、参ったゼ」

「いや、牛乳の話はあとで聞くけど、もう聞いてるって……」

「ああ……朝方電話があったぞ。ちゃんとした所みたいだったし、あーさようですかって言っといたけどな。ついでに、学校の方にも、しばらく休ませますって言っといたからさ」

 ……物わかりが良すぎるぞ、ミツヒデさん。

「おまえ今まで、ずっと真面目だったしさ、まあそういうことがあってもいいかなと思って」

 まあ、話が通りやすくて、助かるといえば助かるのだけど。

「伝わってるなら……まあ、そういうことなので、何か変化があれば、連絡しますよ」

「ああ、こっちも特に変化はねえよ、せいぜいおまえに郵便が来てたぐらいさ」

「郵便? なに、勝手に開けないでよ?」

「開けるなちゅうても、ハガキだったからな。…ほら、ちょっと読もうか?」

「なら、……お願いします」

 電話越しに、ハガキの文面を、読み上げてもらう。

「えーと…、――――――――ってお誘いだとさ。で、どうする、何て答えとく?参加するにしとくか?別に、そこ離れられない訳じゃないんだろ?」

 そういうことなら……答えは、最初から決まっている。

「いや、止めておきます。行かない」

「いいのか?、たまにはこういうのも、いいんじゃないかと思うがね」

「ぼくは、そういうのを楽しめる方じゃないって、ミツヒデさんがよく知ってるはずです」

 受話器の向こうが、急に静かになる。

「ミツヒデさん?」

「ああ……そうか、じゃあ、そう返事をしておくよ」

「…すいません」

「なあ、お前、さ。……いつが一番楽しかった?」

 適当な答えを探したのだけど、それは思いつかなかった。

「あー……すいません。……思いつかないや」

「そうか」

「じゃあね、また連絡します」

「ああ、じゃあな、昴一郎」

 通話終了のボタンを押して、ふう、と息を吐く。

 ――ばさり。

 羽音がして、振り返った。

 そこには案の定、びゃくやがいた。

「……何だ、聞いてたのか?」

「すマンね、盗み聞きする気は、なかッタのダが」

「別に、いいけど」

「ご父君か?」

「まあ、そうだけど」

 ……ああ、彼は、昨日ミツヒデさんとは電話で話したのだったか。

「昨晩、くおんが彼と話をしてね。君の人となりも多少聞かせてもらった。……拍子抜けしタホどだぞ、なんだ、君は」

「……どうせ、碌な事を言われてないだろ?」

 ――普通の人間じゃないか。

 その声は、最初、そう聞こえた。

「……え?」

 とっさに、問い返す。

「……君は、普通の人間ジャないか」

 けれどびゃくやの口から響くそれは、聞き違いでも空耳でもなんでもなくて。

「普通?」

「ああ、経歴も素行も、まともそノモのではないかね。どうシてああも、自分が普通ではないような思い上がった考えに至れたのか不思議だヨ」

「思い上がってなんか、いないよ」

「自分が特別に価値があルト思イ込む。自分が特別に無価値だと思い込ム。ソれは本質的には同じこトだ」

「そう、かな」

「そうダよ、まあ、多少の違いがあっても、私にはその細かい機微まデハ判らなイトいうのは、確かダがネ」

 彼は、びゃくやは。……そう、言ってくれるのか。

「そうか、ありがとう、びゃくやは優しいね」

 ふと手を伸ばし、びゃくやの真っ白な嘴を撫でる。

「な、何だ急に。気味ガ悪イぞ」

「何でもないよ」


 と、一つ、彼に聞いておきたかったことを思い出す。

「ところで話は変わるけどさ」

 ちょうどいい機会だと思い、聞いてみる。

「…斎月さんの事なんだけど……あの人は……前からあんな感じなのかな?」

「あんな感じ、というノハ?」

「……だからその、クールでしっかりしてそうなのに、時々変なところで過保護というか」

「……甘い、とイうか、か?」

「そんなところ」

「いや、誰にでもアあではなイシ、数日前までは、もう少しまとモダった」

「それは……今がまともじゃないみたいじゃないか、いくら何でも失礼だろ」

「……君のことを、さシヅめ自分の弟か、息子のようにでも思っているのだろうな」

 ――弟?

 ――息子?


 せめてぼくが彼女と同年代の少年だったら判らなくもないのかもしれない。

 だが、ぼくはだいたい18になろうかという年なのだが…

「いくらなんでも、それは……」

「アレでは親鳥が雛を護るようだ、正直わたしもアレはどうかとおもう」

 斎月さんがもし、姉だの母親だったら……

 思わず、年少の子の手を引いて歩き、時折振り返っては微笑みかける斎月さんの姿を、ほわんほわんと幻視する。

 きっと、彼女は時に優しく悩みや悲しみを受け止め、時に静かに誤りを正し諭す、さぞ良き姉、良き母になるだろう。

 つい「それはどれだけきれいな光景だろう」なんてことを――


 ……ああ、いや、ならば、それはやはりいけない。

 そういう愛情は、本当の弟だの息子だの、それに等しい相手に注ぐべきだ。

「斎月さんに言っておいてくれよ、あんまりぼくに感情移入したりし過ぎるなって!」

「ああ、干渉され過ぎるのは君も気分がよクナいだロう。…だが、あレデも本人はかなり自制ヲしテイるつモリだぞ?」

「あれでか?」

「昨日の君の入浴の時、背中を流すノを手伝うと言い出した時にはさすがに止めテオいた。わたしは結構君の為に尽クシていると思うのだが」

「おお、心の友よ!」


 当面のところは、せめて彼女がぼくを助けたことを後悔してしまわないように。

 彼女の手で助けられた者として恥じないように振る舞うしかないと。――そう思う。

 ――まあ、時間の問題だろうとも、同時に思うのだけど。

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