第二夜「魔法つかい、斎月くおん」(Bパート)①
「いま、何と言いました」
考えるように少し間をおいてから、斎月さんが固い口調でそう言った。
彼女のぼくを見る目に、静かな怒りの色があった。
「答えてください、それはどういう意味ですか、御剣さん」
それはそうだろうな、と思いながら、ぼくは答える。
「言葉通りです。ぼくを斬ってほしい。できるだけ苦痛が少ない方法がいいから、相手は貴女がいい。そういいました」
彼女はいま、とても傷ついている。
端からそんなことなど望んでいたわけではないのだが、そう答えながらぼくは後悔していた。
してはいたが、ここでその言葉は翻すわけにはいかない。
「……何故です。ついさっき、あなたは、わたしの申し出を受けてくれると、そう言ったではありませんか」
けして、声を荒げることこそない物の、怒りと、そして悲しみが斎月さんの声の底から感じられる。
無理もないとは、思う。
「さっきまでは、確かにそう思っていました」
彼女の話を聞き、自分が置かれている状況の詳細を、知るまでは。
「マあ、大声を出スナくおん、彼が怯えルだロウ?」
見かねたように、びゃくやが斎月さんに声をかけた。
「わたしにハ気持ちがわかルゾ、そレは嫌味の一つも言いたくナロう」
言葉の内容と裏腹に、その口調は固い。
「だが、あまり上等ではなイナ」
どうやら、斎月さんのみならず、彼の機嫌まで損ねてしまっているらしい。
とっさに謝ってしまいそうになるが、それだけはかろうじて思いとどまる。
「もしヤ、君はあれカ?くおんが、ただ自分の立場をかわいガッて、保身と名利のために君を助けようトシている、そウ思っているノか?」
「正確に、伝わっていないみたいですね」
ここはけして、謝るところじゃないし、ぼくが斎月さんをそんな風に思うはずがない。
「斎月さん、ぼくはけして、あなたを責めているわけじゃない」
けれど、その間違いだけは正しておかなければならない。
「ただ、そうですね、あなたが平気で人を斬るのだと、そんな風に言ってしまったことに関してだけは謝ります。けれど、駄目です」
出会ってからまだ少し、数時間程度しかたっていないし、彼女についての知識など、一度見た戦っている姿と、今こうして話をしてもらった内容程度だが。
少なくとも斎月さんは少なくとも、テレビのヒーロー番組をまともに見たことがほとんどない人がイメージとして持っているような意味での、「正義のヒーロー」
――「自分もしくは自分の陣営〝だけ〟が正義だと主張して」
――「正義である自分に敵対するもの、自分に賛同しないものを悪として断じて」
――「いかなる犠牲を出し、どれほどそれによる被害を出そうとも些かも恥じない、全く顧みるということをせず己の信念を貫く」
という、この世のどこにも存在しない、邪悪そのもののような代物ではない。
そんな、叩きやすい悪者の名札をつけ替えたような滑稽な物じゃない。
あの戦闘能力でそのメンタリティだったら、ただの危険人物だ。
むしろ正反対。
彼女が体現しているのは、そういった物語で理想として描かれている通りの「正義のヒーロー」だ。
理不尽には、きっと怒るだろう。
不要な犠牲には、きっと悲しみもするだろう。
場合によっては、多分だけど、涙だって流すだろう。
ぼくは間違っても、彼女のその在り様を貶めるつもりはない。
助けてもらった、救ってもらった。感謝している。
その恩人である彼女を誹る?そんなことは許されない。
けれど、ヒーローとして描かれる存在がヒーロー足り得る最低限の条件というのが存在する。
それは、守られている対象が、守られるだけの価値を持っていること。
ヒーローが自らの血肉を切り売りするような行いの果てに見合うかどうか。
罪を犯さず、人を傷つけず、平凡な日常を一生懸命生きている。
善良な一般市民……なんて表現される、ヒーローが守るべき存在。
いっときそうであったとしても、そういう存在であり続けるのは、多分、本当はとても難しい。
そして、それにてらすならば、御剣昴一郎はどう転んでもそのカテゴリーには含まれてない。取るに足らない人間だ。サッカーの試合を控えた小学生でも、もうすぐ結婚するカップルの片割れでも、これから子供が生まれることになっているお父さんでもない。
そう思った。だから。
「そこまでしてもらうことはできません。あなた自身がさっき言ったはずだ、リスクが大きすぎると」
常にウィッチの攻撃目標となる護衛対照。
それは間違いなく、重大なウィークポイントになるに違いない。
どう考えても、彼女がそこまでして守りきるには見合わない。
「御剣さん、あなたはわたしの腕をもうご存じのはずです」
斎月さんが改めて、諭すようにそう言った。
――だから、自分を頼ってくれ。自分の庇護を受けてくれ。そう言いたいのか。
「確かに、あなたの強さは知っています。けれどあなたは、ぼくがあそこに居合わせたのは手違いによるものだった。そう言ってましたよね」
さて、ここからはいささか、感じの悪い物言いをすることになる。多少気がとがめないことはない。
「どんな手違いだったのか、それを教えてもらってもいいですか?」
「それは、何を言っても言い訳になります」
「言い訳を聞かせて欲しいんです。責めたいわけじゃないんだ」
「……わかりました」
組んだ掌をテーブルの上につけて、斎月さんは、話しづらそうではあったが、それでもけして口をつぐむことはなく、その続きをぼくに語ってくれた。
「本当だったら、あなたがあの場に現れることすらありませんでした」
とりあえず、その言葉自体はおかしなことではない。斎月さんの性質上、無関係の素人を戦闘に巻き込むことを忌避しないということはないだろうと想像がつくし。
「わたしの他にもう一人、あのウィッチを討伐する指令を受けていた子がいました」
それもまた、むしろそうである方が自然なことだ。彼女がどれほど単体で強力であるといっても、他にも同様の人材がいて、物理的に投入可能ならばわざわざそれをしない理由は何もない。
「わたしたちは基本的に一族を単位として行動します。当初の予定では、わたしはその子と共同で戦うことになっていて、周囲の警戒や機密の確保には彼女の家に仕える衛士(えじ)が当たっていました。だから、例えウィッチの声を聴くことができる状態になっていたとしても無関係のあなたが迷って入り込むことはできない…そうなるはずでした」
はず……だった。
だが、ぼくの目の前で起こった出来事、それとは明らかに食い違う。
「……なら、予定にないことが起こった。そういうことになりますよね」
「そうです」
「その相手というのは、まだ経験が不足している、くおんほどではないが年若い魔法つかいでナ、経験を積むために同行させてほしいと申し出テきおッタ」
補足するように、びゃくやが口をはさむ。
「違ったのは、その相手が、予定よりも早く、ソれも単独でウィッチに遭遇しタコと」
「結果的に彼女は敗れ、バックアップに当たるはずだったスタッフは彼女の保護と搬送のために撤退。わたしは単独で指定の地点に到着し、びゃくやと共にウィッチと交戦することになりました」
ああ、これでまた一つ、彼女の好意に甘えることができない理由ができた。
つまりそれは、端的に言えば組織としての運営上の都合。
魔法つかいの集団、教皇院。
たぶんそれは、例えて言うなら警察組織ではなく軍事組織、戦うための集団なのだろう。
彼らは、否、ぼくたちは、敵性種族との戦争中なのだ。
その状況下で、例えば現在のぼくは、ウィッチにとって最優先の破壊目標である。
では、それに対して魔法つかい側、強いては人間側が、最優先で守らなければならないものは何か。
たぶんそれは、……魔法つかいだ。
魔法つかいを一人失えば、それはすなわち大きく戦局を不利に傾けることとなる。
何をおいても、ウィッチと戦うことが可能な、魔法を使える人間は何をおいても、最優先して保護されなくてはならない。
話としては、筋が通っている。
組織だって敵対勢力と争うというならば、まず不利を避け、有利を生かして勝ちを目指さなければならないし、その戦いが、個人の能力によってしか戦えないという種類のものであるなら、まずはその能力の保持者を継続的に確保しなければならない。
顧みて、――斎月さんは人間で、女の子で、まだ子供だ。
もしも彼女が、その組織の構成者、指導者によって、例えば肉体的な苦痛とか精神的な重圧を与えられ、本意に反して消耗品のように戦わされているような気配がうかがえたなら、ぼくは、ならどうすればいいのかという代案もなしに「そんなのは駄目だ」と、言っていたかもしれない。
だがどうやら、こと何かと戦うということに戦士として投入される少年少女の扱いはそうなってしまいがちであると言うコトに反して、少なくとも彼女らは大切に扱われているし。その行動は彼女と同様の能力をもつスタッフで構成された組織のサポートを受けている。
戦士としての斎月さんは確かに並はずれて優秀だ、それは間違いない。
しかし、それが有効に発揮されるには、その支援母体としての所属組織の保護とバックアップが必要だ。
それがなければ、どういうことになるのか。
本来ならば、そんなことは起こらない。……けれどその、あるはずのないという事態が起こったのが、今のぼくのありさまだ。
教皇院も、ほかの魔法つかいも、ぼくを助けようとする彼女の意思を支持してくれないし、彼女の行動を支えてはくれない。
彼女が十分なバックアップを得られなかったという、今回のケース。
もしもぼくがいま、彼女の善意に甘えることを呑んだとしたら、その状態が恒常的に続くのだ。
そもそも、最初から分かっていたことだ。
人間の天敵・ウィッチによる年間の犠牲者。それがどれほどの数なのか知らないが、少なくとも、交通事故の被害者とか、自殺者と比しても劣らない程度の筈だ。
彼女たちのような魔法の使い手が大昔から何人も存在して、組織だって抗戦していなければ社会と秩序の維持に支障をきたすほどだというのだから。
そしておそらく、自殺や交通事故で命を落とす人がゼロになることがないのと同じように。
ウィッチの犠牲者がゼロになることまでは、求められていない。
規模と危険度が違うだけで、それは青信号で突っ込んでくるトラックと変わらない。
あるいは冬籠りに失敗した熊や、民家の近くに巣をつくった雀蜂はどうだろうか?、
その存在が同時にメリットも産んでいる道具と、最初から敵対の意思を持って攻撃してくる種族という違いはあれど、本質的に人間にとってその意味は変わらない。
生態系の一部であるという意味において考えるならば、ウィッチというのはたまたま人を食らう種族であるという以上のものではないし、その点では熊や蜂と同じなのだ。
毎年何人かが犠牲となっているとしても、熊や蜂を皆殺しにしようと言い出されることはないし。
例え年間で数万人が死んでいたとしても、自動車を滅ぼそうと戦いを挑む人はいない。
たぶん、そういった犠牲は最初から織り込み済みで戦略を編まれている。
不運にしてウィッチの呪いを受けた、ごく少数を切り捨てる。それは必要な行為の筈だ。
そういう、ものだ。
極論してしまえば、
地上からウィッチが滅びる日は来ない。
ぼくたちは、すでにしてウィッチと共存している。
「あなたたちは、いつウィッチを滅ぼせる?」
「……それは……」
斎月さんが、初めて口ごもる。
「あなたたちの戦いは、この世の終わりまで続く、そういう種類のものなんでしょう?」
そんな中で、斎月くおん。彼女はその必要悪さえ認めないという。
やむを得ない犠牲すら認めようとしない、正義の味方。
とても綺麗だ。非常に共感できる。
けれど、それは彼女が子供だから持つことができる純粋な正義感。
子供の正義感だ。
そして、それはもう、ぼくがその恩恵を受ける必要のないものだ。
「しかし、それではあなたが……」
悲しそうに目を伏せ、斎月さんがぽつりと呟いた。
「どうして、あなたはそんな風に物わかり良く言ってしまえるのです」
そしてそのままに、ぼくに問いかける。
「リスクとか、見合うとか……そんな風に。……あなたの……自分の命のことではありませんか」
「自分のことだから解るんです、あなたは、ぼくのためにそこまでするべきじゃない。そして、あなたたちに定められた掟があって、あなたが使い走りのただの子供ではないからです」
こんなことは、出来れば言いたくない。
これでは「あなたはぼくを助けてくれたけど、それは意味のない事だった」と言っているに等しい。
それでも、言っておかなければならない。
ぼくが嫌な物言いをすることで彼女が意を翻してくれるなら、そうするとしよう。
規律は、守られなければいけない。
その魔法教会だか教皇院だかが正しいことをするための組織なら、なおのこと、組織が存続すること自体を優先しなければならないだろう。
「……そんな風に、言わないでください。呪いの波長を遮断することならできるんです、この館にいれば安全だし、短時間なら、外に出ることだって」
「それは、隠すことができる。というだけの話だ。何かあればそれは露見する。その時どうする、あなたはどうなる? 何らかのペナルティや、罰則があるのではありませんか?」
身体的な苦痛を伴うものか、もしくは、彼女の言っていた称号の剥奪か。
或いは、裏切り者として追われる身となることすらあるのではないのか。
彼女がそんな目に遭うことなどあってはならない。
そして、断じて彼女にそんな危険物を抱え込ませてはいけない。
それが、彼女に、斎月くおんに救われた人間としての、ぼくの最低限の、そして最後の矜持だ。
「あなた達の指導者が決めた掟として、斬るべきだとなっているなら、そうしてくれてかまいません」
だからそれを、改めて、間違えようもないように、はっきりと言葉にする。
「あなたがぼくを助けようとすることで、他の誰かを助けられないということだって、あるだろうと思います」
きっとその時でさえ、彼女はどちらも切り捨てようとはしないに違いない。
きっと、両方を助けようとするだろうし、自分にできる無理なら、どんなことだってするのだろう。
……けれど。
「そんなリスクを負ってまで、あなたが助けようとするだけの価値を、ぼくは自分に見だすことができない。例えそれができたとして、あなたにはその後何が残る?ぼくを助けるってことは、あなたにとって、本当にそれに見合うほどの、重要なことですか?」
……そうじゃ、ないはずだ。
「それを埋め合わせる、貴女にしてもらったことを返す。ぼくはそれをしてあげられない。一回助けてもらったし、納得のいくように説明もしてもらった、あなたは自分たちにとって都合が悪いことだって、ちゃんと話してくれたじゃないか」
そこまで言って、できるだけ平静で穏やかな口調であるように心がけながら、付け加えた。
「だから……それでもう、ぼくは十分なんです」
「くおんヨ。……こイツハ、頭がおかシイゾ!」
悲鳴のような声が、びゃくやから上がる。
ああ、そう思ってくれて構わない。
「斎月さん、あなたはとても優しい人だと、とてもまじめで、強い人なんだろうと思います」
「……御剣さん」
「だから、その優しさを向ける方向を、どうかけして間違えないでほしいんです。あなたがその身を危険にさらして護らないといけないのは、間違っても、ぼくじゃないはずだ。自分で手を下すことに抵抗があるなら、……教皇院と言いましたか。そこに引き渡してもらえればいい」
「……あなたはそれで、納得できるのですか?」
ぼくが納得する?
いや、だから、もう、そういうことになっているなら、ぼくが納得するかどうかは、どうでもいい事でしょう?
「だから、最初からそれは、仕方ないことだって、あきらめて」
「……御剣さん」
静かなままの声で、斎月さんが、ぼくの名を呼んだ。
「あなたが、わたしにそれを言うのですか?」
俯いていた顔を上げ、ぼくを見る。
「本当にそれは、あなたの心からの言葉ですか?」
「それは、……もちろん」
問いかける斎月さんに、ぼくは何故かたどたどしく答える。
そうだ、ぼくは、嘘などついていない。
「わたしに、少し考える時間をください」
そう言う斎月さんの表情は、ただ、凪の海の様に静かで。
さっきまで、確かにあった怒りの色も、今はない。
けれどそのどこまでも穏やかな声を遮るのだけは、はばかられた。
「あなたがそれで良いのならば」
「では、しばらくここで待っていてください。この館の中にいる限りは、あなたは安全ですから」
もう、事務的と言えるほど、落ち着いた口調で、簡潔に指示だけを伝えながら彼女は席を立つ。
「びゃくや、御剣さんに着いていてあげて」
そう言い残して、斎月さんは退出された。
○
がらんとした食堂に、ただぼくとびゃくやだけが残される。
「……あの」
「君にハ一応我々の言い訳を聞いてモラった、ダが、だからといって我々には君の言い訳を聞く義理はない」
けんもほろろ、というか、案の定とりつくしまもない声が返ってくる。
「何カ、私の言葉が必要カネ?」
強いて言うなら、彼に嫌味でも言われていた方がまだ気が休まったかもしれないけど。
「いや……駄目だな。って」
「駄目、とハ?」
「ああ、……もっとうまく、感じの悪い物言いをして、斎月さんが、罪悪感持たなくてすむようにしたかったんだけど、できなくて。あの程度が精いっぱいだった」
言ったぼくに返ってくる言葉はなく、びゃくやは表情としては伺えないながらも、何とはなしに不愉快で仕方がないという雰囲気が漂ってくる。
また、カラスの声だけで返事をされるのだろうか、あれだけは止めてほしい、と思っていたのだが。
「ため息が出ル、とデモいフのか?こイウう場合?」
しばらく待っていると、そんな風に尋ねられる。
「君ハ、少なクトももう少し生きるというこトニ対して誠実ダと思ッテいタぞ、昴一郎」
「買い被りもいいところだよ」
「くおんを見くビるなよ、彼女は本物の魔法つかいだ。嘘も誤魔化しも通用せんからソウ思え」
それはもう、わかっている。
「そして君は、うそをついているわけでも、冗談で言っている意味でもない。――本当に、自分の命を仕方がないリスクと切り捨てルつもリデいるな?」
「だって、……そうするしか、ないんでしょう?」
ぼくにだって、ちゃんとわかっている、
さっきからぼくが口にしていることは、理屈として成り立っていない。
年が若い方を生かすだけ、数が多い方を生かすだけ。
全体の繁栄の為なら少数の犠牲はやむをえない。
それでは結局、この世のすべてが結果の為の過程であり、全ての人間が代替可能な消耗品に過ぎないということになってしまう。
そしてその末に辿り着く結果とて、呼び方を変えた過程でしかない。
言ってしまえば、効率というものへの屈服。人が生きることの価値そのものの否定。
偽善というものよりなお悪い。
現実主義っぽく聞こえて耳触りがいいだけの、大勢(どこかのだれか)にとって都合のいい危険思想のようなものだ。
ぼくとて別に、その理屈を至高の真理と崇めているわけではないし、幼い時から強圧的にその趣味を叩き込まれてきたというわけでもない。
何か、それを神の教えと盲従するに追い込まれるような、特筆するほどの惨たらしい悲劇を経験したわけでもない。
けれど、気が付いた時には、ぼくはもうこういう考え方をする人間になっていた。
何か判断というものをしようとすれば、こういうものでしかなくなってしまう。
それだけのことだ。
「どうかな、君から、斎月さんに言ってもらうことはできないかな、速く教皇院に引き渡してしまえって」
彼の立場からすると、斎月さんに不要な行為をさせないというのは職務上正しいと思うのだが。
「生憎、わたしニ、そノ機能はナヰ。わたしは補佐をすルダけで、監督でも顧問でも教師でモナいぞ」
「そうか」
「君の生殺与奪の権は、くおんにあル」
つまり、助言を求められれば答えはするけど、こうしろと命令したり、それはならぬと禁止したりはできないと言うことか。
となれば、後は斎月さんが賢明で理性的であることを期待するしかない。
ぼくが何も知らずにいたのなら、ただ彼女を頼り、彼女に助けてもらうのでもよかった。
けれど、もう駄目だ。
彼女の個人的な頑張りによってなされているものであるなら、いつかそれには限界が訪れる。
ぼくの命を諦めざるを得なくなるか、ぼくを助けようとするが故に、他の誰かを助けられなくなるか。
それは、かもしれないではなく、必ずそうなる。
いつか必ず訪れるその時、彼女が、どんな風に思うか。
想像してみたくもなかった。
……って、これではまるで、ぼくが、斎月さんを悲しませたくないという理由で、こんなことをぐちぐちと思いめぐらせているようではないか。
そんな人間らしい、上等な感情が、御剣昴一郎に残っているものかよ、と思う。
「ああ、それから、そのぼくの名前の用例登録、早く削除しといたほうがいいと思うよ?これから、使うコトないと思うよ」
「そレハ、わたしが決メることだよ、要らヌ世話だな」
そのままばさりと羽ばたいて、
「今、十一歳の小娘が君の命の処遇を決めている。せイゼいそこでビくびクしながら、己の来し方行く末を顧みテいるガイい」
吐き捨てるように言うと、びゃくやは彼の出入り用にあると思われる小窓から、部屋の外へと出て行ってしまう。
斎月さんに、ぼくを見張るように言いつけられたんじゃなかったのか?
ぼくがフラフラとどっか行ってしまったらどうするつもりなのだろうか。
案外、忠義にあつい、というわけではないのかもしれない。
○
とうとう一人で置き捨てられてふと思い出す。
――そう、ミツヒデさんに連絡をとるのを忘れていた。
連絡は取っておいてくれる。とさっき言われてはいたが、今更それは頼めない。
いくつも登録されていない電話帳の中から一つのアドレスを選び、コールする。
「……もしもし、ミツヒデさん?」
数回の呼び出し音の後、電話の向こうから、聞きなれた声が聞こえてくる
「もしもし?――何だよ昴一郎。いつまで外歩いてんだよ?」
相変わらず、天下泰平そのものの口調だった。
「早く帰ってきて晩飯作ってくれよ。……俺もう腹減っちまったよ」
「……ああ、ごめんなさい。でも、ちょっとまだ、帰れないっていうか……」
……さっきまでは、一晩泊まりになる、くらいのつもりでいたのだけど。今やそういう話ではなくなった。
「……ミツヒデさん、もしぼくが、戻らなかったら……どうしますか?」
「何だ?泊りになるのか?」
「あー、まあその、大体そんな感じ」
「いま、どこだ?」
「……同級生の家」
「おお……お前、本当に嘘つくのが下手だねえ。そんなだから彼女もできない」
「悪かったですね」
それ関係あるのかよ。
第一、それは仕方がないだろう。嘘をつくのが嫌いなのだから。
「そういう時はな、同級生じゃなくて友達っていうもんなんだよ」
確かにそうかもしれないが、そもそも同級生ですらない斎月さんを友達と呼ぶのは流石に図々しいのではないか。
「……なら、友達です。友達の家」
「お前にいつ友達がいたんだ?そんな奇特な方がこの世にいらしたとは知らなかった、今度連れてきなさい」
「………………可能であればね」
あんまり、斎月さんにミツヒデさんを見せたくないので、多分そういうことはしないだろうけど。
「おまえ……何かあったのか?」
「まあ、ちょっと、大したことじゃないですけど」
時々、ミツヒデさんはそういうところがあるのだが、相変わらず妙に読みの鋭いオッサンだ。
「……ま、世の中に迷惑になるようなことは、しないようにしますよ」
「世の中、だァ?……ハッ!」
受話器の向こう、ミツヒデさんが鼻で笑い飛ばす声が聞こえた。
「いいか。昴一郎?お前は仮にも俺の息子なんだから、そんなセリフを恥ずかしげもなく口にするもんじゃあないぜ?」
「何が恥ずかしいんですか」
「世の中?世間?そんなもんは存在しねえんだよ。そんなもん、ありはしねえ、ただ、俺とかお前とかがいるだけだよ。どっかの誰かが好き勝手言ってるってだけのことだ、相手にすんな」
一刀両断、まるで、切って捨てるように、ミツヒデさんはそんなことをほざいた。
「お前の場合、友達も彼女もいねえんだから、まずお父さんの幸せを考えなさい」
「……ああ。……ああ、うん」
一気に、力が抜けた。
ああ、このひとは、たぶん大丈夫だ。
「まあ、それはともかく。何か迷ってるんだったら、俺のことは別に心配しなくていいからさ。腕っぷしの強い知り合い何人もいるし」
「そうさせてもらいますよ。じゃあね、ミツヒデさん」
「おう」
「どうか、元気で」
「ああ、じゃあな」
それだけ言って、通話を切った。ちょうどその時だった。
コン、コン、と。
ドアをたたく音が聞こえた。
「御剣さん、わたしです」
話し終えるのを待っていたのだろうか、斎月さん、相変わらず気配りの利くことだ。
自分の家なのだから、そう下手に出ることはないだろうに。
「どうぞ?」
静かにドアを開け、斎月さんがぼくのところまで歩み寄ってくる。
「待っていてくれたんですか?」
「はい、ご家族と話されているようでしたので」
そして、彼女が戻ってきたということは、
「決まりました?」
「はい」
どうやら、ぼくの運命も決まったらしい。
と、間近まで来た斎月さんが
「その前に、見せておきたいものがあります、ご一緒願えますか?」
と告げた。
拒む理由もない。頷いて立ち上がり、歩き出そうとした、その時だった。
……ええと、ぼくは傷こそ塞がっているものの、その前に大量に失血していることは確かなわけで、その状態で、しばらく椅子に座っていて、急に立ち上がったということで、目が眩んでしまっても、それはぼくの責任ではないところであろうと思う。
足がもつれて、ぼくはその場に膝をついていた。
そしてそのまま前のめりに倒れこんでしまいそうになっていて…
が、床に顔面をたたきつける羽目にはならなかった。
「…大丈夫ですか?」
斎月さんが素早く駆け寄り、ぼくの上体を抱きかかえていた。
彼女の顔が、近い。
「あ、あのっ!」
あわてて、彼女から身を離し、立とうとする物の、もう一度、今度は後ろにつんのめってしまった。
「っ痛……す……すみません、斎月さん」
ぼくが転げまわるさまを見ていた斎月さんは、ふぅ、と困ったように息をつくと
「あなたは……少し簡単に謝り過ぎると思います、御剣さん」
と呟く。
「歩きにくい……ですか?」
「少し」
「あまり、無理をなさらずに。それならば、どうぞ、手を」
と言ってから、斎月さんはぼくの手を取った。
彼女の掌は、相変わらず少しひんやりとして、けれど、滑らかでやわらかくて、そして小さかった。
長い廊下を、歩いてゆく。
彼女に救ってもらった時のように、この館に連れてきてもらった時のように、手を繋いで。
固く口をつぐみ、ぼくの少しだけ前を歩く斎月さん。
何か言おうと思ったのだけど、かける言葉が見つからなくて、ぼくも口を無言のままでいた。
彼女の背中を見る。
その肩は心なしか落ち込んでいるようで、さっきこうしていた時よりも、ことさら小さく見える。
何だか痛々しくて、こんな子を困らせてしまっていることに、今更申しけなく思う。
「斎月さん」
「なんでしょう」
頭撫でたりしたら、怒られるんだろうなと思った。
きっと、とんでもない狼藉を働いたみたいにびゃくやから言われるに違いない。
「……いえ、なんでもありません」
「そうですか」
斎月さんが、――この子が、けして折れることなくその気高い使命に従事し、彼女の手で一人でも多くの人が救われることを、ただ望む。
今のぼくにできるのは、せいぜいその程度だ。
「――君たち、それ好きだナア」
…手をつなぎながらホールに降りてきた僕と斎月さんのふたりを見て、びゃくやが呆れたように声をかけた。
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