第8話 ヴィオレタと日記と思い出
ヴィオレタ・クリステスクが賢者の石を精製した偉大な錬金術師ニコラ・フラメルに造られて六百年が過ぎようとしていた。
ヴィオレタは彼の死後、ニコラ・フラメルの親類を名乗り、貴族たちに金の貸付けを始めた。錬金術師が残した研究資金がそれなりの金額だったから出来たことだった。
さらにはフラメルは、上流階級に多くの人脈を持っていた。それを利用すれば客はいくらでも見つけることができた。
近年に近づいていくと金貸しは投資に変わり、相手は個人から組織に変わっていった。それは極めてスムーズに移行できた。
やがて投資だけでなくいくつかの有望な会社を所有し、自ら運営した。
当然のようにそれも成功していく。
だが問題もあった。
成長しないヴィオレタを不審に思う者も出てくることだ。
そこで、彼女は、ある年代から周囲から不審に思われないように特別な策をとった。
それは偽の両親を仕立てることだった。雇った両親の娘、あるいは孫を演じるのだ。世代が変わるごとに新しい両親を雇い、それを繰り返した。
こうして六百年が過ぎていく。
そして、このヴィオレッタの正体を知る者はいまだ少ない
彼女がオートマタだと知っているのは執事長と一部の特殊な裏社会の者だけだ。
それに吸血鬼であり裏社会で恐れられるエージェント“レッドアイ”が加わった。
雇い主であるヴィオレタから自動人形である事を告げられた“レッドアイ”ことミッシェル・ナイトは、自身も吸血鬼という存在故か、その事実も動揺なく受け止めていた。
正体を知った後もミッシェルのヴィオレタへの態度は変わらない。最も最初から彼女の態度は素っ気ないないものではあったのだが。
その夜は満月だった。
多くの使用人が帰宅した後、屋敷には一部の使用人とブラック・シー警備会社の人間たちだけになっていた。
護衛のついた部屋の中でヴィオレタはベッドの中で静かに目を閉じていた。
自動人形であるヴィオレタに睡眠が必要なのかはわからないが彼女はベッドに入ると朝まで目を閉じたまま横たわる。
彼女は、この習慣をずっと長く繰り返していたが、その日は違っていた。
窓から差し込む月明かりがヴィオレタの顔を照らした時、彼女はベッドから起き出したのだ。
暗闇に潜んでいたミッシェルはそれに気づき声をかけようとした。だが、ミッシェルの存在がないかのように彼女は部屋の隅に歩いていった。そして壁にそっと手を触れると隠し扉が開いていった。
その様子にミッシェルは眉をしかめた。
まるで夢遊病者の人間の様に見えたのだ。
ヴィオレッタはそのまま隠し部屋に入っていくのでミッシェルは慌ててヴィオレタの影に入り込む。そして影に入り込んだミッシェルはそのままヴィオレタについていった。
暗闇の廊下をしばらく歩くと別の部屋に出た。
そこは十四世紀のそのままの部屋だった。並んだ装飾品、壁にかかった誰とも知れない肖像画。すべてが時が止まったようだ。
ミッシェルは影の中から部屋の様子を興味深く見渡した。
そしてある事に気づく。
ヴィオレタが泣いている?
自動人形であるヴィオレタが涙を流していた。
常に変わらなかったヴィオレタに悲しみの表情があった。
たまらずミッシェルが影から姿を現すとヴィオレタに声をかけてしまう。
「どうしたの?」
ヴィオレタは、驚いた表情でミッシェルを見た後、すぐにいつもどおりの顔つきに戻った。
「そういえば、あなたがいたわね。忘れていたわ」
「自動人形なのに?」
「人形だってたまには忘れる」
「忘れられない事もあるのでは?」
ミッシェルはヴィオレタの頬につたっていた涙を指で拭ってやった。
しばらく黙っていた後、ヴィオレタは口を開いた。
「忘れられないの……いえ、忘れたくない」
「意外……あ、ごめん。違うの」
「気にしないで。私は自分が何なのかよく知っている」
「本当にごめん」
ミッシェルはヴィオレタの肩にそっと手を置いた。
「ここに来るとね、この14世紀の様式に装飾された部屋に来ると忘れかけていた記憶が呼び覚まされるの。あの時代のこと……マスターのことを。可笑しいわ」
「何が?」
「この気持……切ないというか悲しいという感情。あまり好きではない筈なのに、それでも思い出したくてここに来てしまう」
ミッシェルはヴィオレタの言葉を黙って聞いていた。
錬金術師が造りだした“賢者の石”製のコアが生み出す思考は果たして“心”と呼べるものかはわからない。魔法か錬金術による術法というプログラムによって模倣された感情に似たものが再現されているだけなのかもしれない。
だがそんなことはどうでもいい。
その姿を見てミッシェルが感じた事がすべての事実でしかなのだから。
ヴィオレタが机の上に置かれた本を手に取った。
ページを開くと古いインクで書かれた文字が連なっている。
「それは?」
ミッシェルは尋ねた。
「これはマスター……ニコラ・フラメルの日記。私の記憶を引き出す大事な鍵」
「見せてくれる?」
興味を持ったミッシェルはそう頼んだ。ヴィオレタは無言で日記を差し出した。
ざっと目を通すとある事に気がついた。
そこには日常の様々な事、愚痴や不満が書かれてい。十四世紀の生活が分かるのも面白かったたがそれだけではなかった。
錬金術の新しいアイデアや革新的な方法。ただの日記ではない。これはいわば錬金術のネタ帳だ。
「これ……すごい。錬金術や魔術の専門家というわけではないけど、これはすごい価値があるものだわ」
「そうね。すごく価値がある。錬金術を学ぶものにとっては特にね。だから秘密にして」
ヴィオレタはミッシェルを見上げた。
「私にとっても大事なものなのだから」
ミッシェルは黙って頷いた。
だが秘密にはできなかった。
この様子を気づかれずに見ていた者がいたからだ。
そいつは壁に貼りついた小さな虫。
正体は虫に似せた自動人形だ。
その作られた目を通し、全てを死の錬金術師フォマ・チャーノックに伝えていたのだった。
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