第16話 夏を制する者は
思えば、盛岡生活を始めてから3か月が経つ。街中の入り組んだ道にも、歩いていると盛岡一高の応援団の下駄の音が聞こえるのにもすっかり慣れた。そして、前期の授業が終わろうとしていた。来週からは夏期講習である。
全校生徒がホールに集められ、校長が檄を飛ばす。夏は受験の天王山。手垢にまみれた受験産業の常とう句である。夏期講習の受講につなげるために、そういった言葉で生徒を煽るのだ。
幸いにして、予備校から特待をもらっているので、夏期講習は6講座を無料で受講できる。それだけ受講できれば十分だ。多すぎる講座受講は消化不良を招く。これまでの学習の復習とバランスをとるには、6講座くらいでちょうどいいのである。そう、吉沢が言っていた。ちょうど、「東大」と名の付く講座が6講座あったので、それをとることにした。
夏期講習の期間も、いつも通り平日と土曜は食事が出るのはありがたい。夏期講習初日。食堂に向かうと、例によって智久が待ち構えていた。
「さぁ、今日も行くよ。…『カンタベリー物語』を著したイギリス国民文学の祖といえば誰?」
「セルバンテスだったか?」
「いやぁ、セルバンテスは『ドン=キホーテ』だろ?しかもスペインの作家だ。しっかりしてくれよ玲央くん。…次行くよ。活版印刷術を発明したとされるドイツ人は誰?」
「グーテンベルクだな。著作権の切れた作品を電子化して公開する英語版の青空文庫、『プロジェクト・グーテンベルク』の名の由来だ。それくらいは分かる。」
「まあ青空文庫よりプロジェクト・グーテンベルクの方が歴史は古いんだけどね。」
この後立て続けに3問ほど出題されたが、なんとか突破し、飯抜きは免れた。
「おっ、やってるやってる~おはよ、玲央!」
「お、せりか。おはよう。」
「玲央は今日の東大英語受けるの?」
「あぁ。」
「わたしも受けるんだ。いい練習になるから受けとけって。どうせタダだし。」
「そうなのか。じゃあ一緒に行くか。」
「玲央から誘うなんて初めてじゃん。どうしたの~?」
「わざわざ別々に行くことないだろ。」
「素直に『かわいいせりかと一緒にいたい』って言えばいいのに~」
「じゃあいいよそういうことで。」
翔太は起きてこない。今日は翔太の受ける授業はないのだろうか。何はともあれ、せりかと2人で登校することになった。
「ねぇ、最近、勉強どうなの?」
「一生懸命やってるよ。…せりかにも種市にも負けたくないし。」
「そう…かなちゃんにもなんか言われたの?」
「せりかが言えって言ったんだろ。めちゃくちゃボロクソ言われたぞ。」
「え、かなちゃん、私が黒幕だってしゃべっちゃったの?」
「ああ。自分からあっさりしゃべってたぞ。」
「そっか。…心配でさ。玲央が調子悪そうで。わたしが心配することじゃないけど。」
「ごめんな。心配かけて。」
「いやいや。私が勝手に心配してるだけだし。」
「そうか。」
「…玲央って最近、何思ってるか素直に話してくれるよね。」
「隠しても仕方ないからな。それに、話したらちゃんとみんな聞いてくれるし。自分のこと気にしてくれる人なんて、盛岡に来るまでいなかったから。」
「そっか……」
「せりかが羨ましいよ。尊敬できるおばあちゃんがいて。俺は、尊敬できる人はいるかとか、恩人はいるか、とか言われても答えが出てこないし。」
せりかは黙ってしまった。しゃべりすぎたようだ。
「なんか、玲央がなかなか本音で人に話せないの、分かる気がする。…別に玲央が悪いわけじゃないけどさ。…でも、私に話してくれて、うれしいよ。」
どこか照れ臭かった。そうこうしているうちに、予備校に着いた。教室に入ると、吉沢と、そして種市がいた。
「おはよ、玲央くん。」
「かなちゃん、なんでいるの?」
「玲央くんはわかるでしょ?なんでいるのか。せりかに教えてあげて。」
「どういうこと?玲央?かなちゃんは東大志望じゃ…」
吉沢が口を開く。
「鳴海君。種市さんは、今回の夏期講習、東大志望者向けの講座全部に参加だよ。……ここまで言えば、察しがつくんじゃないかな。本気だよ。種市さんは。」
「…そこまでして東大実戦で俺に勝ちたいのか。」
「当然じゃん。どこまでこの夏で受験勉強極められるか試したい……そして、東大志望って言ってる口だけのヒーロー気取りに引導を渡したい。」
「…狂ってやがる」
「鳴海君。女の子に向かって狂ってるとか言わないことだよ。」
「かなちゃん、何もそこまで頼んでないよ…」
「面白いじゃん。こっちの方が。…ほら、せりかは自分の勉強に集中しないと。おばあちゃんが見守ってるんでしょ。一緒に受けるなら一緒に受けるで、さ。」
「うーん、やりにくい授業だなぁ。…とはいえ、鳴海君も今は何も考えず、勉強に打ち込むって言ってただろう。種市さんとその点は同じだよ。さあ、みんなで切磋琢磨してがんばろう。」
種市には別の真意があるのは明らかな気がするが、ここは吉沢の言う通りだ。一心不乱に、アルファベットの海へ飛び込んだ。
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