第10話 「頑張る」って、なに?

 木曜5限。村井の東大地理の授業であった。例のごとくマンツーマン指導。だが、今日は様子が違った。教室に向かうとすでに村井が待ち構えていた。いつもはいくらでも延長できるからと、時間から数分遅れてゆっくりやってくるのに。


 「今日は吉沢君が授業の後君と面談したいと言っていてね。延長はなしだよ。早速始めよう。」


 突然の話で驚いた。どうせ閉校時間ぎりぎりまでいる予定だったので帰る時間を考えれば変わらないのだが。


 「さて、今日は筑波大の問題をやってみよう。東大では出ない400字の論述だが、自分でストーリーを構築する訓練にはちょうどよい。東大世界史だとこれ以上の論述があるわけだしね。頭の中の世界地図から物語を書き出していくイメージだ。」


 地理の指導自体は、いつも通り進んでいった。



 授業が終わると、見計らったかのように吉沢が入ってきた。


 「鳴海君お疲れさん。この後時間いいかい?」

 「はい、村井先生から聞いています。面談ですよね。」

 「すまないね、急に。」

 「私も同席していいかな。玲央君。それと、吉沢く……先生。」


 吉沢との二者面談かと思いきや、なぜか村井も同席することとなった。


 「どうだい。ここで二か月あまり勉強してきて。」

 「はい、少しは実力がついてきたように思います。」

 「玲央君の地理みてると、書く力には目を見張るものがあると思う。ただ、今まであまり勉強に時間を割いてこなかったんだろうね。知識量が全然足りていない。時間をかけていかないとね。」

 「はい……自分でもそう思います。」

 「鳴海君。今でも東大を目指す理由は変わらないかな。」

 「はい。」

 「改めて口にしてごらん。村井先生もいるし。」


 村井は以前、「東大を目指す理由は吉沢君から聞いている」と言っていたはずだ。わざわざまた説明するのに意味はないはずだ。……そのはずだ。本来は。だが……


 「東大に入ることで、周囲を見返したい…それが理由です。」

 「なんか、入学してきた時より言葉に力がないね。……もしかして、揺らいでいるかい。」

 「………」


 何も言えなかった。せりかが腹くくって医者目指しているのを見ると、自分が勉強する理由が、卑小なものに思えてならなかった。


 「そうすぐ言葉にできなくなるのが君の悪い癖だよ、玲央君。他の仲間たちは聞いていないんだから、腹割って話してごらん。」


 そう簡単に口にできれば苦労しない。口にしたいと思っているはずなのに、なぜか口が開かないのだ。


 「……僕らはプロだ。君が何を考えているのかなんてもう見抜いている。」

 「村井先生の言う通りだ。だから、こうして面談をすることにしたんだ。僕が口にしてもいいが、君の口から話すことに意味がある。」

 「君ならちゃんと、言葉にできるはずだろう。玲央君。」


 そう言われて、自然と口が開いた。


 「……正直、誰を見返したらいいかわからないんです。見返したいはずの人は自分のことなんてそもそも見ていないだろうし。それに、いま下宿の仲間たちに自分が東大目指していることを認めてもらえて、応援してもらえて。こんなに自分のことを気にかけてくれる人なんてこれまでいなくて。誰かを見返すなんて、誰かを認めさせるなんて、どうでもよくなってきて。でもそれだけが自分の勉強する理由だったから……だから、はっきりとした目標があって、それに向かって勉強している人を見ると、自分がちっぽけに見えるんです。自分、いま何してるんだろうなって。なんでこんな場所にいるんだろうなって。なんで勉強しているんだろうなって。」


 自分語りが止まらない自分に気づく。


 「材木町のよ市歩いて、買い物して、商店街の皆さんに『頑張れ』って声かけてもらえて。先生方にも『頑張れ』って応援してもらえて。……でも、『頑張る』って、なんなのか、よく分からなくなってきて。……村井先生の地理受けていると、自分が何も知らないってことを痛感して。今まで本当に勉強してこなかったんだなって思います。『頑張って』こなかったんだなって。」


 村井が口を開く。


 「やっと君の本音が聞けて嬉しいよ。」


 吉沢も口を開く。


 「なるほどね。誰かを見返したいって思いは、君にとってやはり『頑張る』理由になっていなかったようだね。」

 「今思えば、自分で自分に『奴らを見返すんだ』って暗示かけて、東大にこだわっていた気がします。大した努力もしないままに。目指すものの大きさで、自分を大きく見せていただけなんだって思います。」

 「だから、見返す対象を見失っていることに気づいて、自分がいかに空っぽな存在なのかを実感しているわけだね。」

 「はい……」


 返す言葉もなかった。まさにその通りだ。自分を大きく見せることに必死なだけな、取るに足らない平凡な浪人生。それが自分の正体なんだ。


 「でも、玲央君。今でよかったかもしれないよ。この悩みに直面するのが。」

 「どういうことですか。」

 「『人の命を救いたい』と思って医者を目指したとしても、実際医者になって、人の命を実際に救った時に充足感を得られないかもしれない。『誰かの人生を変えたい』と思って教育者になったとしても、実際生徒を大学に受からせたときに喜びを感じられないかもしれない。玲央君には、他人に言えるような志や信念をもって努力する人間が眩しく見えるかもしれないが、努力の終着点にたどり着いたときに、『今まで自分何やってきたんだろうか』って、今の玲央君のように思い悩み苦しくことになるかもしれないんだよ。」

 「想像もできませんね。」

 「ねぇ、吉沢君。」


 生徒の前で後輩講師を君付けしないよう明らかに気を遣っていた村井だが、あえて君づけで吉沢を呼んだように思えた。

 

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