第一章 運命の交差点

第5話 夕景とはやぶさ

 予備校の授業というのは、なにも特別変わったものではなかった。テレビのCMで見るような、魔法にかかったように成績が伸びる感覚がしたり、突然やる気になったり、そんなことはなかった。

 ただ、自分のレベルに合わせた話をしてくれるのは非常にありがたかった。唯一の東大志望ということで、特別にカリキュラムを組んでもらっていた。マンツーマンで指導をしてくれる授業も珍しくなかった。そんな授業を受けて、下宿に戻って、夕食を食べて、また部屋で勉強して、その繰り返しの日々が、1か月、2か月と過ぎていった。

 

 今日は木曜日。東大地理の授業の日だった。授業と言ってももちろん、マンツーマンのものであった。自分一人しかいないうえに、一日5コマあるうちの5コマ目なものだから、毎回学校が締まるギリギリまで指導が続く。今日もその覚悟で、教室に入った。

 窓からは、盛岡駅に入ってくる新幹線がはっきりと見える。はやぶさとこまち。緑の流線形と、赤の流線形との間に夕日が入る一瞬を写真に捉えようとスマホを構えた。

 だが、ちょっと考えればわかりそうなものだが、逆光でうまく撮ることはできなかった。仕方がないので、茫然と新幹線を目で追っていた。

 ずっと同じような生活をしていると、早くここから抜け出したいという思いがどうしても湧いてくる。どこでもいいから、新幹線に乗って、遠くに。ここじゃない遠くに。そう思うと、窓の向こうの景色から目を離すことが出来なくなっていた。


 「ごめんごめん。お待たせしちゃったね。」


 地理の村井が教室に入ってくる。


 「どうしたんだい、そんなにぼーっと窓を眺めて。」

 「いや、夕日がきれいだなと。」

 「今日はよく晴れたからね。こういう日は出かけたくなる。君もそうじゃない?」

 「えぇ、まぁ…」

 「出かけるなら、どこに行こうか」

 「いやぁ、そういわれると、なかなか思いつかないですね…」

 「『思いつかない』か…本当に『思いつかない』のかな?」


 村井はじっと目を合わせようとしてくる。


 「鳴海くん、今までの人生で行ったことのある場所を、全部挙げてくれるかい?」


 何も言えなかった。言えないことはないが、青森県の各地と、盛岡と、修学旅行で行った京都くらいしか浮かばなかった。それを言ったところで意味がないと思った。


 「聡明な君なら、私が何を言いたいか、察しがついているんじゃないかね?」


 嫌味な奴だ。そう思った。


 「あぁ、馬鹿にしているわけではない。馬鹿にしているわけではないのだが、君は何も答えないだろうなと思って、今の質問をしたんだ。」


 何が言いたい?はっきりしてくれ。


 「気を悪くしないでほしい。そう言ったところで、もうすでに気を悪くしているのだとしたら申し訳ない。だが、僕も一介の教育者として、君にはっきり言いたいことがある。」


 いいから早くしゃべってくれ。聞くだけ聞くから。


 「君がどういう事情でここに通っているかは、君を担当する全ての講師に共有されている。みんな知っているんだ。なんで君が東大を目指しているのに、こんな地元でも東京でもない、盛岡とかいう中途半端な場所で浪人をしなければいけないか。そしてなんで君が東大を目指しているか。君の担任の吉沢くんから、すべて聞いている。」


 だから前置きはいい加減にしてくれ。というか、吉沢はそんなことまで全部話しているのか。


 「そりゃあ、どこかに連れて行ってもらった経験もないよね。それ自体は決して恥じる事じゃない。おそらく君は、たとえば小学校のとき、クラスの誰かが旅行に行ったお土産を持ってくるたび、それをうらやむばかりで、親に『自分も行きたい』などと言えない、そんな日々を送ってきたんじゃないかな。」


 ピンポイントで苦い思い出をえぐるのはやめてくれ。早く結論を口にしてくれ。


 「私が気にしているのは、なにも君の見分の狭さではない。それは仕方のないことだ。だが、それを口にできないことだ。素直に、『青森と盛岡しか知らないっすねぇ』と言えないことだ。なんでそう言えないんだ。」


 何も言えないだろう。そう言われては。さっさとお前の中での結論を教えてくれ。


 「君はもっと素直になったほうがいい。心をオープンにした方がいい。知らないことを知らないと、そう言えるようになったほうがいい。」


 なんでお前に何もかも洗いざらい話せようか。話せるわけないだろ。


 「私には何も言えないかね。玲央くん。」


 村井の言葉が、自分に沈黙を強いているような気がしてならなかった。


 「まぁ、この話はここまでにしよう。さて、楽しい地理の時間ですよ。」


 村井はそう言うと、何もなかったかのように指導を始めた。だが、今日の授業は、5コマ目の定時に終了した。木曜日は遅くなると、下宿にも夕食を取りおいてもらっているのに、いつもより2時間ほど早く解放された。もちろん、このまま帰って、皆と一緒に夕食をとるのもいいだろう。ただ、そういう気分にもなれなかった。書店にでも寄ろうと、大通りに向かった。

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