第5話

環さんが入ったのは私のとなりのチームで、私の席からは働いている背中が見えた。背が高くて細身である以外は、特段特徴もなく、やはり煙草を吸うので、あまり話をする機会がなかった。前にもふれたが、私の職場は男女問わず煙草を吸う人が多いため、休憩時間にはみんな喫煙所に行く。休憩室はがらんとしている。あまりに人がいないので、自分も煙草を吸おうか悩んでいると、大村さんに止められた。

「タチバナさん、ここはもうすぐ全面禁煙になるから、今更吸い始めても無駄ですよ」

「え? そうなんですか?」

「どう考えたって、時代は禁煙です」

「そんなことしたら、辞める人も出てきません?」

「冗談です。でも、自分も吸わないから、タチバナさんも吸う必要はないです。話し相手がいなくなる」

大村さんはそう言ってくれたが、そもそも大村さんは休憩時間も事務所でパソコンに向かっているから、話をする時間はあまりなかった。昼休みだって、どこまでちゃんととっているのがあやしい。鹿山さんのお説教が、昼過ぎまでかかることも、しばしばあるのだ。そのくせ、我々社員が休憩をちゃんととらないことに関しては、かなり細かく監視していた。

「休憩時間に仕事するなんて、不正するのと同じですからね。コンプライアンス違反です」

一度ミーティング中に、真面目な顔で説教をしたことがあった。生産数の途中経過の集計が間に合わなくて、古賀さんが休憩時間に電卓を叩いていたことを咎めたのだ。名指しにこそしなかったが、かなりしつこく言っていた。「休憩をサボるな」なんて、みんな最初は冗談だと思っていたが、大村さんが眉毛をつり上げているので、徐々に真剣なんだとわかった。大村さんは滅多に怒ることはなく、例えば誰かがミーティングに現れなくても

「仕事に夢中になってるんですかねぇ」

と意に返さなかったり、時には自分から来ない人を迎えに行ったりした。さすがにそれは、甘すぎるんじゃないかと思い、あるとき遠まわしにそのことに触れたら

「まあいいじゃないですか」

とたしなめられた。

「自分だったら、怒っちゃいそうです」

「怒ったら、ドツボにハマるだけですよ。相手に理由をあたえちゃいます」

「理由?」

「学生の頃、親に『勉強しろ』て言われて、勉強しろって言うからやる気なくなった、て言いませんでした?」

「言いましたね」

「それと同じです。少なくとも、怒っちゃいけない」

「だけど、じゃあ言うこと聞かない人にはどうすればいいんですか?」

「わかりません」

「え? そんなんで、いいんですか?」

「お願いするか、放っておくしかないんじゃないですか?」

「だけど、そしたら鹿山さんに怒られませんか?」

鹿山さん、というワードが出ると、大村さんは一瞬おどけて見せ

「別に、鹿山さんに怒られないように仕事してるわけじゃないですから」

と、わざと強がって言った。私は触れてはいけない部分に触れたことを悟った。

「そうですけど」

「だけど、評価はしますよ。ダメな人には仕事は任せないし、チャンスがあれば辞めさせます。だから、自分は冷たいんです」



このままでは職場内で孤立してしまうと考えた私は、休憩時間に合わせてトイレに行くようにし、その帰りがてらに喫煙所に寄ることにした。喫煙所はトイレのそばにあったから、トイレの帰りに立ち寄ることは、何ら不自然ではなかった。


近寄ると喫煙所には人があふれかえっていた。最初の頃よりも明らかに人が増え、ひとつだった灰皿も、いつのまにか2つに増えていた。イスの数が足りなかったため、ほとんどの人が立って、各々の銘柄の煙草をふかしている。地べたに座っている人もいる。喫煙所は事務所にくっついているため、窓から大村さんの姿が見えた。今日は鹿山さんは不在だったが、大村さんはいつもそうしているように、無表情でパソコンの画面を見つめている。一部のパートが「死んでいる」と表現する佇まいだった。鹿山さんが来てから、大村さんは明らかに元気がなくなった。


事務所のドアが開き、ひとりのパートが大村さんに声をかけた。大村さんが入り口の方へ近づく。環さんだった。大村さんは腰に手を当て、環さんの話を、真面目な顔で頷きながら聞いている。環さんはこちらに背を向けているから、表情はわからない。身につけたエプロンは、明らかにサイズオーパーで、背中の部分がだぼついている。休みの相談でもしているのだろうか。と、思ったら大村さんの表情が崩れる。何か冗談を言ったのだ。環さんの肩も揺れている。大村さんが環さんの手から何かを受け取り、頭を下げた環さんが振り返って事務所から出てきた。


その様子をずっと見ていた私は、当然ながら背中で扉を閉めた環さんと、思い切り目が合ってしまった。反射的に私が会釈すると、向こうも同じことをする。気まずくなった私は、そのまま場を離れようとしたが、環さんはまっすぐにこちらへ向かってきた。

「はいこれ。良かったら」

そう言いながら私の手を取り、何かをそこに押し込んだ。見てみると、個包装のウエハースだった。

「今ね、大村さんに渡したら『ビックリマンチョコみたい』て言ったの。知らないでしょ? ビックリマンなんて。タチバナくんは若いから」

そのとき私は、環さんと、まともに話をするのは初めてだったが、環さんはまったくそれを気にする様子はなかった。私は「ええ、まあ」と返すのが精一杯だった。


考えてみたら、工場内でいちばん若いのは私だったが、社員だったせいか、私のことを、君付けで呼ぶのはパートでは誰もいなかった。環さんのなれなれしさに、私は面食らってしまったが、よく見ると、環さんは誰に対してもそういう態度で接しているようだった。いつのまにか環さんは、工場内で人気者になってしまった。それは大村さんでも例外ではなく、仕事中に大村さんの大きな笑い声が聞こえてきて、そっちを見てみると、大抵そこには環さんがいた。見方によっては、大村さんが環さんとばかり仲良くしているように見えたが、私はリラックスをしている大村さんを見るのが嬉しくて、環さんのおかげで、この工場がうまくいっているような気さえした。

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