25.想い

 いったいどれだけの間そうしていただろう。

 降りしきる雨も気にはならなかった。夕陽を覆うように雲が現れても、夜に近づくにつれて周囲がどんどんと暗くなっていっても、大した問題ではなかった。


 雨足が強まるにつれて騒がしさを増す世界。雨の匂いに包み込まれる。

 戦いの後に残った血や土を洗い流していく。彼らがこの世界に生きていた最後の証明が消えてゆく。

 その中心に、司郎はただ佇んでいた。


「…………戻ろう」


 か細くなった喉から一言だけ絞り出し、彼は神器を軽く払う。血は付いていないし絶えず濡れ続けているため意味など全くない動作だが、長年の習慣で身に染みた動作は迷いなくそれを選択していた。

 そして、鞘に収めるように左腰に——もっともそこには何もないが——刺すようにして動きを止める。

 すると、彼の手の中で神器が淡く光るや否や、切っ先から溶けるように砂粒のような光になって消えた。


 その瞬間。

 司郎は大きく体勢を崩して地に膝をついた。上半身まで倒れ込もうとするのを、片手を付くことでどうにか堪える。


「はぁ……はぁ……っ」


 急速に体から力が抜けていくのがわかる。酷使に次ぐ酷使によって抑え込まれていた疲労が一気に解き放たれたのだろう。それに蓄えてあった魔力も一滴残らず絞り出してしまった。立つことすらままならないほど彼は消耗していた。


(城に戻るのも……無理か……)


 後先考えずに力を行使した代償がこれだ。自分でも気付かぬまま、どこかで冷静さを無くしたらしい。

 そのことに自嘲の笑みを浮かべながら、彼は体を支えるのを諦めて、道の真ん中に仰向けになって寝転んだ。そのまま大粒の雨に勢いよく打たれ続けることにする。


 全身に雨粒が強く打ち付けられる。一粒一粒が確実に四肢から体温を奪い、次第に感覚が遠ざかっていく。

 ただただ雨が肌を叩く小さい無数の衝撃と、石畳の道に跳ね返る小気味良い音だけが彼の世界だった。


(……地獄、ね)


 沈んでいく意識の中、脳裏に思い起こされるのは旧友が放った警告の言葉。


『お前はこれから地獄を歩むことになる』


 "地獄"とは恐らく、かつてこの世界であった戦いのことだろう。そしてそれを再び起こそうとしている者の存在をも彼は示唆していた。

 つまるところ、この言葉が意味するところは一つしかない。


(大戦の再来……それがお前にとって、何より優先すべきことだったのか)


 彼は最後に『悔いはない』と言った。

 間違いなく悔いがあって、それを利用されたからこそここにいたというのに。

 あいつらしい、と司郎は微笑を浮かべて。


(……でもな、シェイブ。俺にとっての地獄は……今だよ)


 握り拳も作れずに、そう心の中で吐き捨てることしかできなかった。




 ◇◇◇




 朦朧とする意識の中、ソレは唐突に現れた。


「——、——!」


 光の奥から誰かに呼びかけられている。


 雑音も抵抗もない。何の感触もない真っ白な世界の中央で、"彼女"が自分オレを呼んでいる。


(……ネル……)


 手を伸ばす。届きそうで届かないところに彼女がいる。まだ俺はそっちには行けないのか。


「——くん、——!」


 声は出ない。目も開かない。


 でも呼びかけるその声が、ひどく懐かしく、愛おしく感じられて——


 自分オレの中で、俺が『起きろ!』と叫んだのが聞こえた。




 ◇◇◇




「司郎くん、起きて、司郎くん!」


 何度も呼びかけられるその声に応じる代わりに、彼は疲労で重い瞼をゆっくりと持ち上げる。

 空は未だ暗く、雨も未だ止まず。しかし彼の顔には眩しいくらいの光が当たり、上半身だけは雨粒の襲撃を回避していて、その原因たる存在は彼の顔を必死の表情で覗き込んでいた。


「飛……鳥」

「司郎くん! よかった……本当に」


 それは異様な光景だった。

 頭の側にふよふよと浮かぶ光の球を従え、傘をさして自分の顔を覗き込む少女の図だ。

 しかし彼はもう限界で、頭だって微塵も回っていないため、その光景を目にしてもロクな感想が浮かんでこないし、何と声を掛けるべきかもわからない。

 動こうとしない司郎の腕を飛鳥は掴んで、無理矢理引っ張るように上体を起こさせ、肩を貸すようにして立ち上がらせた。しかし、ほんの僅かも力が入っていない彼の足では立つことすらままならず、完全に彼女に体重を預けてしまう。

 急にかかった彼の全体重を支えるには、彼女はほんの少しだけ非力だった。


「あうっ……!」


 片膝を付いて、さしていた傘が傾く。彼女の髪も服もその間でずぶ濡れになる。それでも、彼女は司郎を連れて歩こうとする。

 やがて歩かせるのは無理だと判断したのか、彼を背中にぶって、ゆっくりと歩き出した。


 司郎はこの間かろうじて意識を繋ぎ止めていたが、どうも今まで感じたことがないほど限界の境地に達しているようで、最終的に自分が彼女に背負われたこと以外は何をしていたかよくわからなかった。

 どころか、現在いまがいつで、ここがどこで、自分が何なのかの境界線すら危うくなっていた。


 ——何か、あるはずだ


 ——言葉が


 ——言わなければならないことが


 誰かの声が聞こえた。

 それは

 だが

 その声に導かれるまま、司郎は覚束ない口を小さく動かした。


「…………すま、ない」

「……え?」


 掠れた声だ。酷く弱々しい。今は喋るべきではないとさえ思うほど。

 それでも、一度出た声はもう止まらなかった。


「すまない……シェイブ……ヘンリー……」

「…………」

「……宗、治……ディアナ……達哉……キルト……佐那…………飛鳥……クリスティア……ルネリット……ネル……」


 雨が傘に跳ね返る音の中でも、彼の声はしっかりと飛鳥の耳に届いていた。

 彼女は足こそ止めなかったが、彼の言うことに耳をそばだてている。


「……俺は……皆を、騙して……いた。何も……何も正しくなんて、なかった」


「……俺には、力が、あった。……そう、力が、あったんだ。なのに……なのに俺は……」


「…………結局、何も、出来なかった」


「……皆を騙して、持て囃されて……何でもできると思い込んで……このザマだ」


「全部……全部俺の所為なんだ。ただ俺は……怖かった。だから、道を塞いだんだ」


「……誰も、辿り着けないように……」


 そこで彼の言葉は途切れる。

 飛鳥には、彼の言う言葉の大半も意味がわからなかった。彼の望む回答が何なのか、何に対してそこまで深く懺悔しているのか。彼女はそれがわかるほど長くは彼と共に生きていない。

 だがその言葉が彼女自身に向けられた言葉ならば、彼女は、彼女もまた言うべき言葉を持っていた。


「……ありがとう」


 司郎からの反応はない。

 それでも届いていると信じて飛鳥は言葉を続ける。


「私は、司郎くんに助けられた。司郎くんがどんな過去を持っていても、それだけは事実だよ」

「…………ぁ」

「だから今度は私の番。司郎くんが、何かを溜め込むのが辛いなら、ぶつけてくれてもいい。言いたくないことがあるなら、言わなくてもいいの。一人で居たいなら、それでもいい」


 でも、と彼女は続けようとして、ふと司郎の顔を肩越しに覗き込む。

 雨に当たって一見するとよくわからないが、彼女には確かに、彼の両目から溢れ出る涙が見えた。


「……でも、もし……もし、一人でいるのが辛いなら……私は司郎くんのすぐ側にいるよ。私だけじゃない。宗治くんも佐那っちも、達哉くんもティアちゃんも、皆が司郎くんの帰りを待ってる」


「理解はしてあげられないかもしれない。まだこの世界に来て二週間くらいだし、司郎くんの過去も……知ってるわけじゃない」


「だけど、私は信じてるよ。信じて待ってる。どれだけでも待ってるから」


「だから……司郎くんも、私たちを信じてね」


 反応はない。返事も、変化もない。

 ただ、押し殺した嗚咽だけが雨音にかき消されていく。


 ふと、飛鳥は視線を上げる。

 闇夜に聳え立つ巨大な石の尖塔が視界に映り、その根本から、腹の底に響くリズムのいい振動を響かせて接近する光源が見える。

 雨音に紛れてよくわからないが、それは間違いなく蹄が道を蹴る音で。


「……ここです! ここに居まーす!」


 飛鳥は顔横で浮遊させていた光球を頭上に持ち上げ、軽く振った。

 どんどんと音が近づいてくる。


 司郎の意識が完全に闇に落ちる寸前に、その音は止まった。

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