24.死の救済・生の呪縛

 訪れた静寂は穏やかなものだった。

 終わってしまえば随分と危ない橋を渡ったような気もするし、むしろ呆気なかったようにも思える。いずれにせよ、過ぎ去った嵐ほど力の抜けるものはない。


 だが、彼にとってはまだ終わりではなかった。

 彼はまだ戦場にいて、その心は過去に囚われている。その自覚は彼自身にもある。原因は、自ずと知れよう。


「……どうしてだ、シェイブ」


 降り注ぐ雨も気にせず彼はソレに歩み寄る。

 腕も足も根本から断たれ、胴体と首のみになった怪物の元へ。かろうじてまだ命を保っているが、じきに死がその魂を連れ去るだろう。


 だが、ソレに向けられる司郎の瞳は穏やかで、むしろ悲哀すら感じさせるものだった。

 死に行くとはいえ敵に向けるものではない。


「どうして……もっと速度を出さなかった? お前ならあの状況からでも、俺の手足の一本くらいは持って行けたはずだ」


 彼には理解できなかった。

 彼の眼前にいるのは、本来なら決して諦めるような男ではない。例えそれが勝つことのない戦いであったとしても、その瞬間の自分にできる最大限で、せめて一矢でも報いようとするような男だった。

 それが原因で死んだ男だ。


「お前は何故、蘇った——?」


 心からの疑問が口を突いて出た時、不意に——声が聞こえた。


『——何故、戻ってきた。ラウル』


 確かに聞こえた。

 彼にとっては聞き覚えのある声。

 しかし決して聞こえるはずのない声。


「お前……」

『覚えて、いたとも。忘れられるわけがないだろう。親友とものことなら尚更な』


 穏やかな声だった。

 先程までは理性の欠片も感じられなかった怪物だが——しかし、もはや"彼"はただの怪物ではない。


『あの日から、ずっとこうなることを夢見ていた気がする。まさか本当にこうなるとは思わなかったが……久しぶりだな、ラウル』

「……ああ。変わったな、お互い」

『そうか? お前は変わっていないと思うがな。何というか、相変わらず不器用な奴だ』

「ほっとけ」


 互いが互いの言葉を鼻で笑い合う。

 ほんの一瞬だけだが、懐かしい、弛緩した空気が流れた。

 だが、それはほんの一瞬にすぎない。


「……答えろ、シェイブ。何故蘇った」

『蘇った、わけではない。今までずっと死に損なっていただけだ』

「なら言葉を変えようか。何故今になって"目覚めた"?」

『聞かなくてもわかっているんだろう?』


 彼、シェイブは司郎の記憶にあるより随分と起伏のない声を出す。何もかもを諦めているかのような——いや、事実そうなのだろう。どのような状態であったにせよ、千と数百年を生き続けたとあっては。

 それだけの時間が立ち塞がっているのだ。


『俺が目覚めたのは……半分は、お前の神器のためだ。自我が未覚醒だった時でさえ、千年以上続いていた潜在的な均衡関係が崩れたのを感じた』

「……もう半分は?」

『何者かの思惑。何者なのかは知らないが、俺を——いや、俺たちをその剣に押し込め、今に至るまで縛り続けた者がいる』


 それを聞いた時、司郎の胸によぎった小さな黒いものをなんと形容しようか。

 怒りか? それとも憎悪か? 彼自身にもそれはわからない。

 ただ彼は、それを表には出さないようにしながら、次の問いを投げかけるのみだった。

 今だけは自分の不器用さが有難いと思えた。


「……何のために?」

『さぁな。ただ、相当恨みを持たれているぞ。あの大戦の最中には既に行動し始めていたようだからな』

「敵は沢山いた。心当たりしかないな」


 司郎は心の底から苦笑した。いや、せざるを得なかったと言うべきか。

 それはシェイブも同じなようで、どこか遠くを見るように目を細めた。


『……気を付けろ』


 不意に、沈黙を破ってシェイブが言う。

 最初と比べて随分と細く小さな声だった。


『これからお前は地獄を歩むことになる』

「…………」

『お前のことだ、改めて言うまでもないだろうがな』


 異形と成り果てた英雄の戦友ともは、このわずかな時間でハッキリと認識している。

 目の前の青年に、かつての親友の面影がピッタリ当てはまることを。否、当てはまるどころではなく、"それそのもの"だとわかっていた。


『お前はまた再び、あの地獄に……戻る、ことに……なる……!』


 だからまだ死ねない。

 だからまだ話がしたい。

 誰にも殺せないこの男を、自分でさえ止められなかった千年来の親友を、またわけにはいかないのだから。


 だが……


「……ありがとうな」

『——!』

「俺はお前にずっと救われてきた。あの時お前にこう言われなかったら、俺はきっと、あの平原でお前と一緒に仲間たちの所にいる」


 唐突な感謝の言葉。

 それはかつて彼が親友に送った言葉。


「だから……ありがとう。お前はもう充分に生きた。もう、眠れ」


 言い終わるか終わらないか、という瀬戸際に。

 すぶり。と生々しい感触が異形の胸を貫く。

 気付けばそこには黄金の剣が生えていて、目の前には懐かしき旧友ともの顔があって。


『……そう、だな。もう……疲れた』


 彼は、自分にできることはもう何もないと理解した。


『……最後に一つ、頼まれて、くれるか』

「ああ」

『なに、そんな必死なもんじゃねえさ』


 何かを決意したような表情になる親友を笑い飛ばし、すぐに真剣な表情に戻して言う。


『この体……もう原型の面影もねえが……遺族に謝っておいてくれ。俺のことは何と伝えてもいい。頼む』


 それだけが最後の心残りだった。

 そしてそれも、旧友が小さく頷いたことで綺麗に拭い去られた。


『……あぁ、いい人生だった。長かったが……悔いは、無い……』


 言い終わらないうちに、彼の身体は、魂は、光の粒子となって空に溶けて消えた。

 儚く散ってゆく光を目で追いながら、司郎はただぽつりと呟くのみだった。


「……成仏してくれよ。頼むから」


 地面から神器を引き抜き立ち尽くすその姿は、抑揚のない声とは裏腹に、ひどく寂しげで哀しげに見えた。

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