14.懐かしき目覚め
「…………ん」
どのくらいの時間が経ったのか。
閉じた
ささやかな抵抗のつもりで彼は光から顔を背け——
「——いっ!?」
全身……主に背中と左腕に走った鮮烈な痛みによって無理矢理に現実へと引っ張り上げられた。
「つー……最悪の気分だ……」
カラカラの喉からどうにかそう独り言ちた彼——司郎は、電撃のように自らの体を走り抜ける痛みに耐える。顔を背けるだとか起き上がるだとか、そんなレベルの問題ではない。
彼はどうやら布団に寝かされているようで、背面は柔らかい感触で包まれていて、体が薄い布で覆われているのがわかる。後頭部には反発力の強い塊がある。
そして目を開ければ、様々な装飾が施され華美に彩られた天井が見えた。
「……あー、っと……」
ここが何処なのか。今は何時なのか。自分は何故ここにいるのか。
そんな疑問を抱こうとして——また痛みが邪魔をする。
「……くそ。何だってんだ一体……っ!?」
どうにか自力で上体を起こし、その発生源を目に入れようと視線を動かして、彼は固まった。
彼の体は見覚えのない寝間着を身に着けていた。それはいい。服の一つや二つを替えさせられていようと、とやかく言う気は無い。
ただ、その寝間着が包む彼の体は、明らかに足りない部分がある。
それは左腕。肩まではきちんとあるが、そこから先は寝間着の布が力なく垂れさがっている。肩から先が無い。腕との骨の結合部でバッサリと途切れている。
ここに至って、司郎の脳裏にようやく事の一部始終が薄らと浮かび上がってくる。
経緯から顛末、そして最終的に自分が何をしたのかまで思い出したところで、彼は深くため息を吐いた。
「……そうか。そうだった……」
もう一度、より深いため息。
腕を失った事への驚愕は既になく、罪悪感とも絶望とも違う硬い表情をつくる。
「……何て言って顔合わせりゃいいんだ」
無論、彼の中にそれらが欠片もないというわけではない。ただ、今さら自分がそんな物を抱いたところで何になるのか、という自責的な疑問が彼の頭を支配する。
もうそんなものは役に立たない、手遅れであると、彼自身が一番よく理解していた。
彼は、次第に自分が何にそんなに迷っているのかよくわからなくなってきて、無事な右手でガシガシと後頭部を掻く。
(……今更迷って何になる。過去は変わらないんだ、堂々とするしかねぇだろうがよ。なに、今までと同じことだ)
自嘲気味に、それでいてどこか諦めたような笑いを漏らしたその時。
唐突に、ガチャリという音が部屋に響く。
それは軽い金属音で、次いでギィ、という木材が軋む音。誰かが来たことを分かりやすくする為の仕掛けの音。
顔を上げると、栗皮色の、金色の丸いノブが付いた扉が開けられたところだった。
現れた人物は、一瞬この世のものではないとさえ思えるほどの輝きを持っていた。
白いドレスに白い肌、真鍮色のペンダントを身につけた、金髪蒼眼の美少女。見た目の年は司郎と同じか一つ下くらい。
「……あっ! よかった、お目覚めになったのですね!」
彼女は起き上がっていた司郎を見とめると、ぱっと笑顔を咲かせてそのそばに駆け寄る。
「お体はもう大丈夫ですか?」
ベッドの傍に膝をついて、司郎の顔を覗き込んでくる彼女を、司郎はただ呆然と眺めていた。
言葉は何一つ出てこなかった。まるで何かで締め上げられているかのように、喉がそれを許してくれない。
ただ、その少女の怪訝そうな顔が映る、彼の虚ろな瞳の奥で、もう一つの光景が重なる。
「——っ!!」
そしてそれがはっきりと形を持って、彼の頭の中で意味を持った時、強烈な吐き気が彼を襲った。
咄嗟に彼は口を手で押さえ、耐えた。
「だっ、大丈夫ですか!?」
誰かの慌てたような声が聞こえたような気がする。だが司郎にはそんなことを気にする余裕がない。
何かが、彼の中で息を吹き返した。
生え伸びる土塊の十字架。
吊るされるのは最愛の【——】。
紅く染まる視界。降り落ちるは光の槍。
伸ばされた白色の腕。一瞬の温もり。
青白い肌。動かなくなった蒼い瞳。
『お前の所為だ』
一瞬の光景が起こっては過ぎ去っていく頭の奥から、また別の誰かの声が静かに響いた気がした。
実に数十秒も要しながらどうにか吐き気を飲み込んだ司郎は、脂汗が滲む額を拭いながら、もう一度そこにいるはずの少女の顔を凝視した。
「…………」
「……あ、あの、本当に大丈夫で……?」
同じ顔だ。彼の頭に去来した光景の中にあった顔と、全く同じ。
だが、そんなはずはない。ありえない。
何故ならそれは、その顔の持ち主は、決して帰ってくることはないのだから。
「……ネル?」
「は……?」
呆然と、そう
瞬間的に強烈な痛みの走った頭に手を添え、目を瞑って呻く。そして次に目を開けた時、彼はようやくその瞳に光を取り戻した。
「……あれ、えっと、ルネリットさん、であってるよね?」
「え、ええ。確かに私はルネリットですが。……もう少し眠っていたほうが」
「ああ、いや、すまない。ちょっと今、頭の中がごちゃごちゃしてて。えーっと……失礼、今は何年だ?」
眉間を指でほぐしながら尋ねる司郎。
それに疑問顔をしつつも、ルネリットは素直に答えた。
「今は一九九八年の冬です。もうすぐ明けて一四九九年になりますが……それが何か?」
「あれ、二〇一八年じゃ……? ってそうか、世界が違うんだった。あーもう、何がなんなんだか」
余計に混乱する頭を抱えてう〜んと唸る司郎に対し、不意打ちで襲いかかるは腹の音。途端に、彼は背と腹とがくっついてしまいそうなほどの強烈な空腹感に支配される。
「あぁ……もう、踏んだり蹴ったり……」
一度に味わうものが多すぎて、彼の脳が悲鳴を上げているのがわかる。感覚が戻ったことで、それまでに感じるはずだった沢山のものを同時並列で処理しようとしているのだろう。そしてそれに失敗して、時間差とともに少しずつ押し寄せてきている。
しかも、簡単に抗えるようなモノでもないのだ。空腹感であったり、喉の渇きであったり、強い眠気や倦怠感であったり。
流石にこのタイミングでまた寝るのはマズいのでどうにか意識を保つ。
迫り来る様々な欲求に耐えながら、その傍らで何をすればいいのかわからなくなってあわあわとしているルネリットを見とめた彼は、恥を忍んで声をかけた。
「……あの」
「は、はい!」
「……悪いんだけど、その、何か飲み物とか食べ物をもらえたりしないかな、なんて」
◇◇◇
その後、運び込まれたお粥と水を綺麗に平らげ、勧められるまま再び眠りについた司郎が目を覚ましたのは翌日の朝だった。
快適とは言えないどんよりとした目覚めを迎え、何をするわけでもなくぼーっとしていると、不意にコンコンと軽い音が響いた。気持ち控えめなノックの音だ。
「どうぞ」と彼が応じれば、幾分かの間の後にゆっくりと扉が開かれ、訪問者が彼の前に姿を表した。
「……達哉」
司郎が名前を呼ぶと、彼はつとめていつも通りというように応じた。
「久しぶり、司郎。体はもう大丈夫?」
「まだ痛むし怠いけど、すぐに引く。……お前の方こそ、大丈夫か」
それが、司郎に出せる精一杯の明るい声だった。
達哉の表情は見た目上、普段通りの素っ気なさを張り付けている。しかし、それは彼の記憶にあるそれとはどこか異なっている。
何かを押し隠しているように、何かに蓋をするかのように、必死に表情を取り繕っているようにしか見えなかった。
「……うん、大丈夫」
「…………そうか」
二人の間に沈黙が流れる。長く、重い沈黙だ。いるだけで身も心も押し潰されてしまいそうな重圧が彼らにのしかかる。
何か話すべきだと、司郎はわかっていた。
それが何につながるかは彼にも全くわからなかったが、少なくとも"元凶"として、巻き込んだ言い出しっぺとして、聞かなければならないと思った。
「……皆は、どうしてる?」
彼がそう尋ねた時、達哉はハッとしたように顔を上げ、すぐまた気まずそうに視線を落とした。
「……無事だよ。少なくとも、外傷はなかったって。数日前に目を覚ましたんだけど……今は、そんなに話せてない」
「そう、か。そうだよな。あんな事があった直後だもんな……」
再び沈黙が下りる。
達哉は何を言うでもなく部屋の入口に佇んでいる。
司郎はどうにかその重苦しい空気を少しでも紛らわせたくなって、ベッドの脇に設置されていた椅子を指し示した。
「立ってないで、座れよ。話がしたいんだ」
「…………わかった」
しばらく視線を司郎と椅子の間で交互に動かして逡巡していた達哉は、やがて意を決したように小さく頷いて、ベッドのそばに椅子を持ち寄せて腰かけた。
「まずは、礼を言う。お前がいなかったら、俺も皆もここにはいなかった」
「え、っちょ、やめてよ。僕の力なんかじゃないんだ、本当に」
いきなり感謝の言葉を述べ頭を下げた司郎に、達哉は慌ててそれを止める。
「それがどんな力だったにしろ、お前が行動を起こしてくれたのは事実だ。それが俺たちを救ってくれた」
「……違う。僕たちも救われた側だよ、司郎、君に助けられた。お礼を言うのはこっちだよ」
そう言った直後、達哉は何か考えにふけるように一瞬だけ言葉を切り、今度は彼の方から口を開く。
「そうだ、僕にもたくさん聞きたいことがあるんだ。君が使ってた"神器"とかいう……それと、皆の体を乗っ取ってた人たちのこととか。知っているんだろ?」
「……ああ、覚えている。今この場で言うことも出来る。だがそれは、可能なら皆で揃って話したい。勝手なことを言うようだが」
「いや、大丈夫。うん。話してくれるならそれでいいんだ。今はまだ疲れてるだろうし」
すまない、と軽く頭を下げた司郎。
その時、ふと、彼の脳裏に見慣れた面々の顔が過ぎる。
「……皆とも、話さなきゃな」
「…………」
「言い出しっぺは俺だ。俺が巻き込んだ。その責任がある」
自戒するように言う彼に掛ける言葉を達哉は持ち合わせていなかった。
どう返そうかと思案していると、突然また部屋の扉が軽くノックされる。二人で顔を見合わせた後、達哉は立ち上がって扉を開けた。
「……あ、タツヤ様。いらっしゃっていたのですね。お邪魔をしてしまいましたか?」
「ルネリットさん。いえ、別に邪魔なんて。さ、どうぞ」
扉の先にいたのは、司郎の昼食をトレイで運んできたルネリットだった。彼女は一礼して部屋に入ると、持っていたトレイを机の上に置いた。
「……俺なんかのために皇女様が直々に来なくとも、召使いあたりに任せればいいのでは?」
「よく働きすぎだとは言われますが、これは私がやりたくてやっている事なので」
そう言う彼女は眩いほどの笑顔を振りまいており、本当に他者に世話を焼くのが好きと見える。
本人がそう言うならばまあいいかと司郎は深く詮索するのはやめ、用意された昼食を楽しむことに決めた。
数十分後には全ての皿の料理が綺麗に司郎の胃の中に収まり、彼は満足のため息を漏らした。
一方で、彼の食べっぷりに嬉しそうな顔をしていたルネリットは、片付けを終えると途端に表情を暗くする。
「……こんな話でお気分を害されるのは私の本意ではないのですが、私からも少々お話ししたいことが。皆様の今後についてです」
「あー、そうだ。それについて一つ言わなきゃならないんだけど」
達哉はそう言って二人の会話に割り込んだ。
「先生は、一足先に元の世界に帰したよ」
「……先生、だけ? どうして?」
「ほら、僕たち朝のホームルーム前にこっち来ちゃったじゃん。だからそのー、まとめ役の先生がいなくなったら他の皆が混乱しちゃうだろうし」
「……いや、それで先生だけ戻っても意味ないだろうよ」
冷静にツッコミを入れた司郎はルネリットに向き直る。
「で、それとどう関係がある話を?」
「あの、どうか皆様を責めないで下さい。その選択を強いてしまったのはこちらなのです。本当に、ごめんなさい」
「いや、いきなり謝られても困る。結局何が言いたいんだ?」
彼女は俯いて、肩をシュンと落とす。
さながら非を責められる子供のようで、見ている方が心配になる。
だが、司郎は彼女から出た答えを聞いた時、なぜ彼女がそんな態度を取ったのか深く納得した。
「私どもが皆様を"
「なるほど。つまるところ、そっちにとって必要なのは俺だけってことか」
ルネリットは慎重にこくりと頷いた。
だが、彼女の不安そうな表情とは裏腹に、司郎は「なんだそんなことか」とでも言いたげな顔を作る。
「なら話は早いな。帰ればいい」
「……え?」
「なんだ? 迷う必要なんかないだろ。お前たちはこの世界になんのしがらみも因縁もないんだから」
「……まるで自分はあるみたいに言うね」
「ある」
即答だった。
「俺にはある。この世界でやることが……やり残したことがある。思い出したんだ」
「あっちは、学校はどうするんだよ……それに君、弟いるんでしょ」
「そっくりそのまま返す。……まぁ、孝明に関して言えば申し訳ないと思う。それに間違いはないが、今の俺にとってはそれ以上に意味のあることがある」
考える前に言葉が口から流れ出る。
思考はいつもよりクリアで、落ち着きすぎているだろう。自分が喋っていることがどれだけ酷いことかを正確に理解していながら、どこか一歩引いた目でそれを見ている。
まるで、自分の中にもう一人の自分がいて、じっと見つめているような。
「それに、俺からすればお前たちは優しすぎる」
「……?」
「お前がこっちに残ろうとしてるのは優しさからだろ。俺一人だけ置いていくことへの罪悪感、みたいなさ。"義理人情"ってやつ?」
達哉は図星で黙りこくる。
それが本当に司郎の言う通り裏表のない"優しさ"からなのか、あるいは罪悪感を薄れさせたいだけの自己満足なのかは彼にもわからなかったが。
「ただな、この世界はあっちほど平和じゃない。常に戦いと、死と隣り合わせになる。お前たちが身をもって体感した通り、いや、それ以上の悲劇だって起こるかもしれない。そんなところに、俺はお前たちを置いておきたくはない」
達哉には、司郎が自分の中で明確に決意を固めているのが見てとれた。そしてその言葉が、今の彼なりの精一杯の優しさからきた言葉だとも理解した。
何故ならその目は、彼も、ルネリットも、何処をも見てはいなかったから。
ただただ己の手を眺め、何か嫌なことを思い出したようにそれを握りしめた。
「……もう二度と、失うものか」
達哉の耳に小さな呟きが届く。
しばらく、本当に長い間、それは彼の頭の中を反響し続けた。
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