13.英雄の帰還
目の前を光が過ぎ去っていく。
赤、青、黄、緑、白、黒、紫……
幾つもの光景が、肌を撫でる風が、鼻につく煙の臭いが、流れゆく赤色の大河が、折り重なった異形の山々が、呼び起こされては消えていく。
彼、雷電司郎はそれを知らない。
しかし”彼”は知っていた。
それは記憶だった。決して忘れてはならないと、己に、そして友に誓った凄惨な過去。
二度と思い出すはずの無かった記録。
永遠に闇に閉ざされるはずだった歴史。
だが、今再び、光は瞬く。
溶けかけた意識の中、彼は万感の思いを込めて呟いた。
——あぁ
——帰って、来たんだ
◇◇◇
もはやそれをどう言い表せば良いのか、達哉には全くわからなかった。
そして恐らく、その場の全員が達哉と全く同じ衝動に駆られただろう。
即ち、恐怖。
絶対的な、尋常な努力や人並みの才能などではどうやっても覆しえない隔絶した差。それを示す圧倒的な威圧感と、対照的にどこか力が抜けた人形のようにも見える不気味な立ち姿。元は黒かった瞳はどうしてか金色に輝き、形と相まって鋭く睨みつけられているように思える。
「……腹ぁ膨れちまったようねぇ」
「あと一歩届かなかったゼ」
「…………」
特筆すべき変化はそれだけではない。
現に、今までさんざん達哉を妨害してきた三人の視線、そして言動は常にその一点のみに集中している。
達哉もまたそれに気付いていた。いや、気付かないはずがない。
なにせ、今まで石のまま小さな反応しかすることの無かった彼の剣——神器が、色を取り戻したのだ。それだけでなく、その表面を幾筋かの極小の雷が踊っている。
達哉は司郎とフィールら双方が無言で対峙しているのを、部屋の壁に寄りかかりながら観察していた。体は既に疲労感と倦怠感でほとんど動かない。
それでも意識だけはどうにか繋ぎ止めて、事の一部始終を見届けようとしていた。
(お疲れさま)
達哉はすぐ側にあった、今まで抱えていた本に手を置いて心中で話しかけた。
彼の錯覚かもしれないが、ほんの少しだけ指先に熱が生まれた気がした。
「……仕方ないねぇ。いいかぁアンタら、"いつも通り"に、やるよ」
「オウ」
「…………了解」
そして遂に、フィールの号令の下、戦闘が再開される。
先頭はフィール、その後ろにレンとユルがついて、一斉に床を蹴りつけた。
司郎と三人の距離は見る間に縮まっていき、二秒とかからずフィールの短剣が司郎の喉元へ、躊躇なく完璧に突き込まれる。
しかし当たらない。刃が彼の肉を断つ寸前、彼はフィールが突き出す剣とまったく同じ速度で後ろに重心をずらした。ただそれだけ、傍目から見れば軽く背後にステップをしただけで彼は瞬速の一撃を躱す。
その後も顔面、胸、腕から腹へと連撃を繰り出すが、その全てを彼の体は自然に揺れて回避する。
連続の攻撃を全て躱されたフィールは舌打ち一つ、大きく腕を振りかぶって刃を薙ぐ。司郎はそれをも最低限の動作で躱してのけ、
「おらァッ!」
フィールの陰から飛び出したレンの蹴りを左腕で受けた。
レンは素早く足を戻し、続いて刀を大上段から振り下ろす。またしても司郎はそれを後ろに下がって回避する。
レンはそれ以上追わず、次にはフィールが司郎の視界端から飛び出す。
右からフィール、左からレン。姉弟二人がかりの交互連携攻撃。一撃一撃が本気で、確実に致死を狙っている。
だがその刃は届かない。じりじりと後ろに下がりこそすれ、司郎はその身に僅かな傷すら作らない。その金色の瞳は全てを見透かすように小さく細められていた。
「はぁぁッ!」
「食らえッ!」
やがて幾度目ともしれない打ち込みの後、二人同時に裂帛の気合いを吐き出し、二つの刃は二筋の閃光となって司郎に伸びた。
「…………」
もっとも——彼は反応らしい反応を殆ど見せない。その一撃が、今の彼女らが出せる全力、致命の一閃であったとしても。
軽く半歩足を引くだけで、首の皮一枚のところを斬撃が通る。寸分でも狂いがあれば間違いなく取り返しのつかないことになる筈だが、彼がそれを心配するような素振りはない。
もはや、ただ"繰り出される攻撃を躱す"、これを繰り返すだけの機械にでもなってしまったかのような。
(…………、あれ?)
達哉もまたそれを見ていて、ふと気付いた。
確かに司郎に向けて「剣を使え」だとか「もっと余裕を持て」だとか言いたいことは色々ある。がしかし、そんなことはどうでもいいとさえ思えた。
司郎ではない。彼ではなく。
飛鳥が——ユルが、いない。
咄嗟に辺りを見回しても、それらしき人物は見当たらない。武器棚はほとんどが序盤の戦闘の余波で吹き飛んでいるから隠れるような場所もほぼ無い。
一体どこに……、と考えて、その視線は自然とまた司郎たちの方に向く。
(……さっき、
それが作戦会議のようなものだとは誰でもわかる。加えて、その後にフィールとレン、それにその時にはユルも司郎へと駆け出し、二人は司郎と交戦していることから察するにユルもまた何かしらの攻撃を仕掛ける……少なくともその意志はあるはずだ。
(じゃあ、絶対にどこかにいるはず。何してるのかはわかんないけど)
何もしてこない司郎にかえって焦りを感じたのか、レンが先行して真正面から攻撃する。今までより更に速く、鋭く。
司郎もまたそれに対応するように速く動く。ただし最小限、見ている方が不安になるほど小さな動きで。その目は常にレンが振るう刃に張り付いて忙しなく動く。
彼はその動きを全て目で追っていた。
目で見てから回避していた。
(……す、凄い。あれじゃあ、本当に一人で全部……?)
達哉もまたそれを見て心中で感嘆の声を漏らした。
だがしかし、その興奮もすぐに冷める。
(そうだ……そうだよ。司郎は強い。なんでかわかんないけど、すごく強い。地球にいた時は運動神経の塊みたいで、さっきは短剣の女の人と切り結んで、今は二人を相手に傷一つ受けていない……)
司郎に起こった変化を彼は知るべくもない。前と今の司郎の行動の差異、その理由など、知る由もないのだから。
ただ、何もわからない彼でも、一つだけ思うことがある。
(……なんで、逃げなかったんだろう。戦ってたんだから、強さ自体はわかってた筈なのに)
先の司郎——石の神器を握った直後の司郎は、動きが鈍かった。それだけでなく、表情も態度も今と大分異なる。
だがそれだけでフィールが見誤ったとは、達哉には思えなかった。そうでなければ、司郎の元へ到達せんと走った達哉をあそこまで必死に止めようとはしなかった筈なのだ。
つまりフィールは、ともすればその仲間全員は、司郎がどういう存在なのか既に知っていた。
(……その上で倒せると思ったのか? 四人のうち一人は無力化されて、一人は武器を手放したのに——)
と、そこまで考えて、
(——ぁ?)
彼の頭に電流が閃いた。
なぜ今まで気付かなかったのか。
彼はそう自分を責めたかったが、そんな事をしている場合ではないことを彼自身が一番理解している。
(そうだった……っ! あっちに気を取られてすっかり見落としていた……!)
達哉は少しずつ動くようになってきた体に鞭打って、寄りかかっていた壁から背中を剥がす。
震える手でどうにか体を支え、床に片膝をつく。そして視線を目の前の戦闘から移し、
(……やっぱり、無い!!)
向こうの壁に刺さっていたはずの、ユルが使っていた薄刃の剣が無いことを確認した。
跡が残っていることから何者かが既に抜き取ったことは明白で、その人物はもう間違いなくユル本人だ。
であればその目的も——と司郎の方に視線を戻した瞬間、戦況が動いた。
「くゥおラァ!!」
"司郎が全く反撃してこない"。
その先入観を植え付けられたレンは、少しずつ大振りの攻撃を増やしていった。
だから、その左で「あのバカッ!」と姉が零した時にはもう遅かった。
強烈な踏み込みから放たれるリーチの長い横薙ぎ。体の外側に大きく刀を振り抜いた渾身の一振り。
それは命中さえすれば絶大な威力を誇ったであろう一撃。
命中さえすれば。
「なにッ!?」
その一振りをそれまで通り見切ってのけた司郎は、後ろについた足を強く踏ん張って、後退を止めた。
次の瞬間、彼の身体は光の速度で動き、大きく空いたレンの懐に飛び込む。
レンがそれに対応する前に物理的な速度で圧倒した司郎は、何も持っていない左手でレンの首を掴み、持ち上げた。
「……う、グゥ、ォォオ……!」
食いしばられた歯の隙間から呻き声が発される。しかしそれでも司郎の手の力は緩むことなく、むしろ段々と強くなってゆく。
それを救出すべく襲い掛かったフィールとは、彼は今度は右手に持った神器で切り合い始めた。
「チィィッ!」
司郎とフィールの持つ剣がぶつかり合う度に火花と紫電が飛び散る。雷光はやがて強烈な破裂音を響かせながら、徐々に神器へと蓄積されてゆく。
それに呼応して剣は激しく瞬く
「ぐゥ!?」
鍔迫り合いになった途端、神器は雷に共鳴するように振動し、フィールを吹き飛ばした。
雷は剣のみに飽き足らず、使い手の右腕から肩までをも侵食する。
(なんて威圧感だ……!)
このままいけるか、などと達哉が思った次の瞬間。
纏った雷によって延長された刃が、レンの首に突き立てられんとしたその刹那。
……その光景を達哉だけが目にできた。
何もなかった虚空から——文字通り"滲み出る"ようにして出現したユルが、着地ざまに背後から司郎の左腕を切り落とした。
「司郎っ!!」
たまらず叫んだ。
体の痛みも怠さも気にならなかった。
ただ、また友が死にかけるのではと、結局ダメだったのかという疑問が彼の心を押し潰そうとしてくる。
きっと、遠巻きに見ている巴やルネリットもこの一瞬はそう思ったのではなかろうか。
追撃せんとユルが体を縮ませる。次の一瞬でバネのように飛び出し、司郎の体により多くの傷を負わせるだろう。
反対側では体勢を整えたフィールが待機している。ユルの背後には倒れ込んでいるがレンもいる。
この一瞬が命運をわける。
この場の全員がそれを理解した。
傍観者も、当事者も。
そう——彼自身も。
「…………!?」
その一瞬で、彼らが予想したことは何一つ起こらなかった。
ユルが司郎に飛びかかることは無かったし、レンが倒れ込んだ床から起き上がることも、疑問を感じたフィールが時間を稼ごうとすることもなかった。
「……【
初めて司郎の口が音を紡いだ。
それは力ある言葉だった。達哉も用いた、現実を書き換える
幾本もの雷が、彼らの体を縛り付けていた。
まるで鎖でぐるぐる巻きにしたように、全く動けなくなるまでガッチリと。
「…………」
彼はそのまま、無言で動き出した。
まず彼は一番近くにいたユルの首に刃をあてがい、切り抜いた。実際の刃は触れていないが、確かに雷が彼女の首を切る。
”雷獄”を解除され倒れ伏した彼女の首からは、真っ赤な鮮血が噴き出る——なんてことは微塵もなく。
むしろ、何も無かったかのように安らかな寝息を立て始めた。
「……クソ、ここまでか。だが……これでいいなァ」
次に司郎はレンの元へと歩み寄る。
それを見て、自らの最後を悟ったのか、レンは乾いた笑いと共に司郎を
「しっかし……コイツらも可哀想だなァ……全く躊躇されずにカラダ貫かれン——」
彼が最後まで言い切ることはなかった。
その前に、雷の剣が脳天に突き刺さった。
司郎は体を反転させ、達哉に倒されたリュウを一瞥だけした後、遂にフィールの元へと近づいた。
「…………く、くくく」
首に剣を突きつけられ、何もできなくなったフィール。
だが彼女は、何がおかしいのか、喉の奥を鳴らすようにして笑い始めた。
「くく、ふふふふふ……ははははははは!!」
狂ったか。
その場の誰もがそう思った。
彼以外は。
「テメェってぇ奴はァ! サイッコウだなァ!? ええ、"雷帝公"ォ!? ははははは! まぁーたテメェだったのかぁ! どーぉりで見たことある動きだと思ったなァァアア!! テメェだったかァこんチクショォォ!!」
足掻くように、もがくように、あるいは何かに訴えかけるように。
挑発か保身か、彼女は笑いながら叫び続ける。その謎の気迫に誰もが身動きを止める。
彼もまたピクリとも動かなかった。
「ダンマリか? ダンマリなのかァ!? そりゃあそうだよなァ! またやっちまったんだからなァァ! はははははは! 傑作ダァ!」
(なんだ……!? なんなんだ、あの笑い……!)
側で聞いている達哉の方がおかしくなってしまいそうな狂気に満ちた叫び。
その意味は全くもって彼にはわからない。
だが、司郎が動かないことを察するに、彼に関係があることなのだろう。
「テメェは! また! 何も! 守れなかった! 知ってるか、アタシらん中じゃあ潜在的な意識としてコイツらの意識も覚醒してる! つまり、さっきまでのコトぜぇぇーんぶコイツらも知ってるし、覚えてるし、感じてるんだゼェ! テメェにしたことも、されたこともだ!」
その暴露は、その場の空気のみならず、達哉の心までもを凍りつかせた。
(……嘘、だろ?)
今更、本当に今更になって罪悪感が湧き上がる。思い返すのは、自分の前に立ち塞がり、自分の手で取り憑いた何者かを"禁じ"た少女。
迫り上がってくるモノをどうにか腹の奥底に留めおきながら、達哉はフィールの言葉を聞く。
「いつまで経ってもどこまでいっても、テメェはァ! 何一つ守れやしねェ! どころか今度ァ、自分の手にかけやがった! はははははははははは! これ以上面白ェことあるかァ!?」
時間でも止まったかのように、部屋の空気が重かった。
達哉が力を借りた時の優しさや全能感に包まれたようなものではない。全身の皮膚を突き刺すような、それでいて全てを押し流すような重厚な威圧が漏れ出している。
その発生源は探るべくもない。
「ははははははは! ははははは、ははは、はは…………ふぅ。久々に心から笑ったナァ。ま、あたしの知ったこっちゃないけどさぁ」
フィールは唯一動く頭をどうにか動かし、司郎に笑いかけた。
「後悔、動揺、恐怖、絶望、罪悪感……さてさてどうなることかねぇ。見れないのが残念だわぁ……ふふ」
そう言い切った直後、笑いを張り付けた顔をした少女は、雷によって首を裂かれた。
鎖が解けた小さな体が倒れ伏す。傷ひとつなく、規則正しい寝息を立てる少女は、普段通りの可愛らしい表情を取り戻していた。
「……おわっ、た……?」
達哉の小さな呟きは空気に溶けて消えた。
直後、けたたましい金属音が響く。
「……! しろ——っ」
神器を手から零し、糸が切れた人形のように倒れ伏す司郎。それに駆け寄ろうとして、達哉もまた床に手をつく。
凄まじい倦怠感と痛烈な体の節々の痛み。もはや意識すら繋ぎ止められず、急速に視界が塗りつぶされていく。
(…………あぁ、疲れた、なぁ)
誰かが慌てて近づいてくる音をぼんやりと聞きながらそんなことを考えた所で、ぷつりと彼の意識は途絶えた。
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