9.招かれざる者

 膝から床に崩れ落ちる。

 体から力が抜けていく。

 背に受けた小さな傷から血が流れ出ていく。

 命が削れて行く。

 声を発することさえ出来ず、司郎は力なく体を横たえた。


 彼の仲間たちが、その突然の窮地に何か行動を起こすような暇もなく、事を起こした張本人は、高らかに笑い声をあげる。


「くふっ……ふふふふふ……! あははははははッ!!」


 天を仰ぎ愉悦の笑みを漏らす少女は、普段の天真爛漫てんしんらんまんな様子はどこにもなく、狂気に彩られたどす黒いオーラを放っていた。


「……く、クリスティア、さん?」


 達哉は困惑して、恐る恐る彼女の名を呼ぶ。

 しかし、それに答える声は、決して彼女のものではなかった。


「はぁ? だれよそれぇ……って、そっかぁ、この肉体からだのことかぁ! ハハハッ!!」


 鼓膜を破るために発されているのでは、とすら錯覚するほどの耳障りな声。確かに女の声なのだが、明らかにクリスティアのものより音が高く、異質な感情を湧き立たせる。

 ただ、しかめっ面の面々を見ても、彼女は全く意に介さずに、その視線はまっすぐ司郎にのみ負けられていた。


「それにしても……よぉーやく念願が叶ったわぁ〜。まぁさか本当にこんなことができる日が来るなんて思いもしなかった。久しぶりねぇ〜神器使いクン?」


 異様にねっとりとした声が発される度に司郎の顔は歪む。それをすら「愉悦」だとでも言うかのように、彼女は優雅な足取りで、手で短剣をクルクルと弄びながら、司郎の元へと歩み寄る。


「……させない!」


 司郎を背に庇ってルネリットが間に立つ。

 しかし、クリスティア——の姿をした女の力は異常なほど強く、瞬きすら許されない一瞬のうちに組み伏せられ、喉元に刃を突きつけられる。


「あ……ぐぅっ……!」

「あはぁ〜……温室育ちのお姫サマねぇ。ぬるくて甘っちょろくて……反吐が出る」


 愉悦から一転して軋むほどに醜悪な表情になり、ルネリットをそのままに起き上がってから蹴りを見舞う。


「ぐふっ……!?」

「寝てるといいわぁ。アンタみたいなん見ると殺したくなっちゃうからさぁ」


 ルネリットは肺の中の空気を吐き出しながら、数メートルほども蹴り飛ばされた。超人的な力だ。どれほどの威力なのかは想像したくもない。


「このぉッ!!」


 そこに飛びかかる勇ましい影が一つ。

 部屋の扉の前で待機していた兵士の片割れだ。もう一人は姫のそばに駆け寄っている。

 兵士は槍を突き出し、自らもまた槍の一部であると言わんばかりの見事で速い刺突を繰り出した。


「……ふぅん」


 しかし、女は、それを短剣のみで見せた。常人の目には霞んで見える熟練者の迷いのない刺突を、これ以上ないほど完璧に。

 そこからの反撃への流れもまた流麗だ。体を捻り、すれ違いざまにももと腰、肩を裂く。


「あがっ!?」


 鎧の隙間を、まるで針に糸を通すように繊細に、それでいて疾風よりはやく切る。まさに神技。

 その体の使い方、その力の入れ方、その所作の端々に至るまでが、熟練と呼ぶにはあまりに凄まじい。


「…………っ!」


 兵士の男の切られた傷から、じわりと赤が滲み出す。助け起こそうとした達哉はそれを見て、固まる。


「中々だけど……駄目ねぇ。あんまり歯ごたえ無いわぁ~」


 けらけらと楽しむように笑う女。眼光鋭く男を睨む。

 ただ立っているだけで、まるで眼前に刃を突き付けられているかのような緊張をもたらす。

 しかし、一体、何故。そんな疑問が彼らに纏まとわりつく。司郎たちと共にこの世界に来た時、彼女は普通の学生だったはずだ。そんな彼女が、あれだけの絶技を持っているとは信じ難い。


 だが、その疑問に答えたのは、彼女自身ではなかった。


「……フィール」


 そう言葉を発したのは、司郎だった。

 宗治の肩を借り、神器を床に突き立てて杖とし、かろうじて立ち上がりながら女を睨み返していた。


「伝説の傭兵、短剣に愛された女、世界で最も疾い女。……貴様、憑りついたな」


 言われた女は、一瞬だけ呆けたような顔になり。

 気付いた時には、にんまりと、満面の笑みを浮かべていた。


「……なぁ~んだ。知ってたんだぁ」


 一歩、一歩。揺れるように女は歩いてくる。

 司郎は警戒の色を強め——次の瞬間、思い切り宗治を肘で突き飛ばした。


「うおっ!?」


 いきなりのことで様子がつかめず、宗治は床を転がる。

 何をする、と文句の一つでも言おうと顔を上げた瞬間、彼は見た。

 甲高い音を立てて拮抗する、金属と石の刃。触れているだけで、橙の火花がまき散らされる。


「く……ぅ……!」

「ホラホラ、どうした神器使い? 力が入ってない、ぞぉ!?」

「おああッ!」


 あっけなく均衡を崩された司郎は、蹴り飛ばされて床を転がる。しかしすぐに手を付いて立ち上がり、石の剣を構えた。

 肩は未だ激しく上下し、体全体が力不足に見える。


「……”バインドダガー”。お前は呑まれていたのか」


 何かに納得したように呟く司郎に対し、女は笑みを崩さない。

 ただし、それは愉悦というよりも、凶悪に歪んだ狂気の笑みだ。


「そのとぉりぃ〜。よく知ってるねぇ。その神器に教えてもらったのかなァ? てことは……騙し合いってとこぉ?」

「手の内の読み合いと言え」


 両者ともに睨みあう。

 その場にいる誰かが固唾を飲んだ瞬間、女の姿は掻き消えた。


「ぐっ!」

「ふはははッ!!」


 瞬間、司郎の眼前に彼女は現れる。

 その凶刃を司郎は石の刃で受けた。刃に左手を添え、両手で力強く握る。

 連撃に次ぐ連撃だが、彼はその全てを剣で受け切って見せた。


「……へぇ、もうそんなに回復してるんだ。なら初めから動きなよぉ」

「貴様が動きすぎているだけだ」

「言うねぇ、かなり余裕ないクセに。さっさとそこの"お荷物"たち切り捨てて全力で来ないとキミの方が危ないんじゃな〜い?」


 司郎はより一層の眼力を込めて女——フィールを睨む。視線だけで圧し殺さんとばかりに。

 けらけらと本当に楽しそうに笑う彼女は、それをすらも笑い飛ばして短剣を弄る。


「ふっふ〜ん……そいっ!」


 一息で司郎の懐に飛び込んだ彼女は、先ほどまでとは動きを変えた。剣を順手に持ち、目にも留まらぬ速さで槍の如く突き込む。

 比較するのは酷だろうが、先の護衛の男とも互角であろうと容易に想像させる突きだ。言ってしまえばこちらの方が純粋に速い。


「…………!」


 司郎の胸、心臓へと一直線に打ち込まれた一撃は、狙い違わず彼の胸を貫く——はずだった。事実、彼にさえもその短剣の切っ先は、全く捉えられていなかったのだから。

 しかし、その凶刃は、


「……何ぃ!?」


 不可視の何かに突き刺さったように、彼の胸へ届く手前でその動きを止めていた。

 バチリ、と、金色の光がその存在を主張するかのように音を立てた。


「はっ!」


 彼女の動きが止まった一瞬を司郎は見逃さなかった。

 静止した刃を石の剣でもって弾き、次いでガードが開いた腹に左手の掌底しょうていを思い切り叩き込んだ。

 今までは極度に疲弊し頼りなかった司郎の体、そのどこから出しているのかまるでわからないほどのエネルギーと加速力を最大限に活かした一撃。


「ぐぅ……ぉっ……」


 攻撃を確実にくらった彼女は数歩も後退り、片膝を付きすらもした。思わずといった様子で被弾箇所を押さえる。

 少しして腕をどけ、改めて見れば、その跡はとても痛々しく刻み付けられていた。

 見るからに、遠巻きにでもわかるほどに、彼女の腹は異様に凹んでいるのだ。そして微妙に痙攣してもいる。


「……は、ハハっ。良いの、かなぁ〜? この体、キミのトモダチなんでしょ? 傷ついちゃったよ〜」

「数分もすれば治る。なんなら貴様を祓ってからすぐに解除すればいい話だ」


 一ミリも顔色を変えない司郎。彼の態度は非常に冷酷で、一切の慈悲を削ぎ落としたものだった。


「そのくらいは簡単だ。仮にも神の兵器なんだからな」

「……ふーん、あっそ。さっすが雷帝」


 心底面白くなさそうに、フィールは笑顔をかき消した。

 数秒後には、何ともなさげに姿勢を正し、やはり忙しなく手の中で短剣を弄ぶ彼女は、しかしすぐに気付いた。

 彼の手の中で息づいているはずの剣は、未だ石のまま眠っていることに。


「……ねぇ、今キミが考えてることを教えてあげよっか?」


 司郎は答えない。

 というよりも、答えられない。


「キミの中にある魔力と体力が尽きる前に、この私を倒す。キミのその神器なら簡単だからねぇ~、。ハハハッ!」


 剣の柄に左手を添え、握る。もはや片手のみでは支えていられない。

 彼は今、己を奮い立たせている。それはハッキリと言ってしまえば虚勢に他ならない。本来ならば立っているだけで精一杯、否、それすらもままならないほどに消耗している。

 一番最初——彼女に背後からの一撃をくらった時点で、大勢が決してしまっていたと言っても何ら不思議はないのだ。


「今のキミの全力を一瞬に集中すれば、どうにかなるかもねぇ。あるいはその魂の全てを賭けてみるかい? そんなお荷物を抱えたボロボロの体じゃ、何したって無駄な気もするけどねぇ」


 間違っていない。司郎は心の中でのみ、彼女の弁を肯定した。

 何も間違ったことなどない。体そのものが鉛のように重くなっているのに、手の中の重圧は一向に軽くなる気配がない。どころか一層重く、沈み込んでゆく錯覚すら引き起こされる。

 意識を集中しなければ、手から零れ落ちてしまうだろう。


「…………」

「へぇ、まだやれるんだ。意外だなぁ〜」


 しかし、彼は意識を振り絞って、再び剣を片手で構えた。姿勢を低く、足を開いて腰を落とす。視線の先はただ一点、相手の剣の切っ先のみ。

 それ以外を存在ごと意識から消し去る。


「ふーん」


 彼の臨戦体勢を見て、フィールもまた姿勢を変える。

 全身をだらりと脱力し、右足を引いて、いつでも飛び掛かれるように。


 司郎の視界で、彼女の姿が歪み始める。

 彼と彼女しかいないはずの閉塞した世界が開けゆく。

 そして、限界を超えかけている彼の頬から一筋の汗が滴り落ちた、その刹那。


「——ハッ」

「——セアッ!」


 短く息を吐いた彼女と、裂帛の気合いを声にして出した彼とが、お互いの中間点で交錯する。


「ふっ……はははっ!!」


 袈裟から逆袈裟、右上、返して横一閃。

 石と金属の刃がぶち当たる度に、膨大な火花と衝撃が飛び散る。


「ちっ……おおおぉッ!!」


 横二閃、前傾で回避し剣で防御。すかさず反撃。

 刃が肉を掠る度に、少量の赤い水滴と鈍い疼きが撒き散らされる。


 真正面からの切り合いの応酬。

 それを制したのは——


「……ふふ」

「! しまっ——」


 どちらでもなかった。

 司郎の反撃を持ち前の身軽さで易々と回避してのけたフィールは、あろうことか、彼の背後に集まる仲間たちの元へと突っ込んでゆく。


「な——」

「バーカ。ほっとくわけが、ないでしょぉがぁあ!」


 突然のことに反応が遅れた宗治を、彼女は見事と言うほかない足技で真っ直ぐに蹴り飛ばした。その更に後ろの女性陣二人を巻き込んで、奥の武器棚をなぎ倒しながら転がっていく。


「ふふーん……オリャ!」

「チィっ……ぐぅ!!」

「ほらほらぁ、どうしたぁ? どんどん動きがノロくなっていくぞぉ〜?」

「くっ……そ」


 背後からの攻撃ですら、初めから見ていたかのように避け回りあまつさえ反撃すら放ってくる彼女に対して、彼は有効打を与えられないでいた。

 どころか、体から少しずつ力が抜け続けている現状でそれを為すのは不可能に極限まで近かった。


「……はぁ……はぁ」

「おやおやぁ、とうとう限界が来たかねぇ~」


 嘲笑う彼女に向けて、司郎は睨みつけることしか出来なかった。

 もはや立っていることすら難しく、片膝を付き、剣を床に突き立てる。


「……正直驚いたよぉ。まだそんな顔が出来るなんてねぇ」


 彼の顔の前に短剣をちらつかせながら、彼女は再びその顔に笑みを咲かせる。

 心底楽しそうに。見せびらかすように。誘うように。

 ——わざと注目されるように。


「でも、いいのかなぁ? こっちにばっかり意識向けててさぁ」

「……?」


 司郎は彼女が言っている意味が理解できなかった。

 しかし、数秒——もしくはそれ以下の時間の後に、彼はそれを強制的に理解させられた。

 肩から腰にかけて、背中を斜めに大きく走った一筋の光と、鮮明な苦痛によって。


「————!?」


 痛い。そんな言葉では形容することが不可能なほどの痛みが全身を駆け巡る。

 それでも彼は、剣を手放すことだけはしなかった。朦朧もうろうとする意識の中で、絶対にそれだけはしてはならないと叫ぶ”何か”があった。

 やがて声すらも出すことが出来ない彼は、たまらず前方に体を傾ける。

 床に体を横たえる寸前、フィールがその肩を支え、無理矢理に起き上がらせた。


「…………か、ぁ」

「おぉ~、ようやくいい顔になったじゃ~ん? ……うりゃッ!!」


 蹴り飛ばされる。その鈍痛すら意識の外に、彼はただ力なく床を転がる。

 その度に、ぐしゃりと音をたてながら、赤い水が噴き上がる。彼は、深紅の湖にその体を横たえた。

 そして、霞みゆく視界の奥で、見た。

 細く長い新たな剣。刃が大きく反った、研ぎ澄まされた鋼の一振り。

 それを手に、フィールと同じく狂気的で獰猛な笑みを浮かべる、彼の親友。


(…………)


 状況は、彼が想定していたものよりも最低な方へ。

 それを認識した——してしまった後、遂に事切れた彼の肉体は、力と熱を失った。

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