1:c.もう一つの終わり

「——う! おい司郎しろう! 起きろ!」


 微睡まどろみを破り、そんな声が彼の聴覚を揺さぶる。

 心地よい眠気は彼方へと吹き飛ばされ、意識は急速に覚醒へと向かう。


「……ん?」


 重い瞼をゆっくりと持ち上げた青年は、上体を持ち上げると同時に盛大に欠伸をしながら伸びをした。


「やっと起きたな。もう放課後だぞ。さっさと帰ろうぜ」

「……ああ、もうそんな時間か。すまん」


 呆れたように息を吐くもう一人の青年に軽く謝りながら、彼は机の脇に掛けてあったリュックを手に取り背負う。そして二人で席を立ち、教室を出た。


「疲れてんのか? 親御さんが今いないからって無理してんじゃないだろうな」

「心配はありがたいけど、そうじゃない。ただ少し、寝付けなかっただけだ」


 まだ少し眠気の残る目をこすりながら司郎は言った。


「そっちこそ珍しいな、宗治そうじ。今日はさっさと帰ってゲームするんじゃなかったのか?」

「まだメンテ中だ。感謝してくれよ? いつもならさっさと帰ってるんだからな」

「感謝はしてるよ」


 話しながら二人は廊下を歩き、昇降口から外に出る。

 夕刻であっても懸命に練習を重ねている部活動中の同級生たちの間をすり抜けていく。


「最近は部活の勧誘も終わって、練習ムードに移ってるな」

「毎年のことだ。見飽きたよ」

「そしてそれを毎年のように俺らは眺めるだけ、と」


 自嘲するように笑う宗治を見て、司郎は肩を竦める。


「そんなにやりたいなら入ればいいのに」

「別にやりたいってわけじゃない。運動は趣味に合わねえし」

「前は空手やってただろ。体育でもいつも成績トップのくせに」

「成績と趣味は別さ。それに、お前にだけは言われたくねぇ」


 二人で無駄口を叩きながら校門へ向かう。野球、テニス、サッカーなど数々の運動部を脇目に、のんびりと歩きながら。


 次の瞬間。


「——あっ、すいません!」


 突然そんな声が飛んで来たと思えば、それに続いて同じ方向から丸い白黒の球体が回転しながら勢いよく飛んできた。このまま反射的にでも動かなければまず間違いなく彼らに直撃するコース。

 ふと司郎が声のした方を確認すると、彼らより二つほど年の低い部員がいた。


「ほっ」


 慌てて身を翻すでも躱そうとするでもなく、軽く息を吐いて司郎は空中に飛び出し、体の上下を反転した。

 落ち着き払った彼はボールの回転もものともせずにそれを足で受け止め、完全に勢いを殺した状態で空中に放り出した。そして着地してすぐ足で地面に固定する。

 別の光景を思い浮かべていたらしい年下の部員は、少しばかり呆けたような表情をしていた。


「……へ?」

「ほらな。お前が言えたことじゃねぇ」

「自分でもそう思う。……返すぞー」


 宗治と軽くやり取りをした後で、司郎はボールを蹴り上げて、後輩らしき部員にボールを蹴って渡した。

 彼が蹴ったボールは放物線を描いて飛んでいき、正確に相手の足元に着地した。


「じゃ、練習頑張れよー」

「お疲れー」


 最後にそれだけ声を掛け、二人はすぐ目の前にある校門から校外へ出た。


「お前も運動神経はずば抜けてるよな、昔から」


 宗治はそうしみじみと呟いた。


「別にスポーツもなにもやって来たわけじゃないんだけどな。する暇も無かったし」

「それもそうだよなぁ。つくづく疑問だ。今もお前の両親は海外なんだろ?」

「ドイツだよ。どっかの民間企業に勤めてるとかなんとかって聞いてるけど」


 また下らないような話を続けながら、二人は同じ帰途につく。

 いくつかの信号と交差点を超えると、やや強めの傾斜角がついた坂道を登り、登り切った先からまた緩やかに降る。そしてまたいくらか道を行くと、小さくはないが大きくもない駅が見えて来る。駅舎は塗装や張り替えで新しく見えるが、内側から見ればそれが外側だけのハリボテだと一目で分かる。


「昔っから大変だな、お前ん家は」

「一人じゃないからまだマシさ」

「そうか、弟がいるんだっけ。ホントにお前らは仲良いな」


 茶化すように言った宗治に向けて、司郎は真顔で言い返した。


「お前こそ、妹の面倒見てるのか?」

「…………」


 階段を上がった先にある改札に慣れた手付きで定期券を押し当て、ゲートが開くと同時に流れるように進む。そしてまた階段を下りて、ホームの真ん中ほどの位置に陣取った。

 電車が来るのを待っている間、司郎は宗治と雑談する。


「なんだ? 昔はかなり仲良かっただろ」

「昔の話だろ」

「喧嘩でもしたのか?」

「……ちょっと前にな」

「ま、最近見ないからそんなこったろうとは思ったけども」


 同じく年下の家族を持つ司郎には、宗治の様子を見ればすぐにわかった。


「別に大したことじゃない」

「そうか。ま、そこまで深く詮索はしないさ。仲直りぐらいはしとけよ」

「……善処する」


 一人でいると退屈でどうしようもない時間だが、二人で駄弁っていると時間はあっという間に過ぎ去る。

 いつの間にやらホームに電車が入って来たので、彼らはそれに乗った。


「お前は、弟と喧嘩にならないのか? ずっと一緒にいるんだろ?」

「喧嘩にならないわけじゃないが……次の日には戻ってるな。あいつは根に持つタイプじゃないし、それこそ喧嘩って言っても、忘れ物がどうとか夕食を何にするかとか、そんな程度だし」

「仲良いかよ」


 何も言い返せない司郎は苦笑いをするだけだった。


「……ああ、そりゃそうと、明日はどうするんだ?」

「明日? どうするって、何が?」

「お前、明日の朝に片桐のスピーチ原稿手伝うって言ってたろ。電車の時間変わるんじゃないか?」

「そのことか。いつもと同じで大丈夫だ」

「そうか。なら無駄に早起きしないで済みそうだな」


 そう話している間も電車は動き続け、しばらくして二人の家の最寄り駅に到着する旨のアナウンスが車内に響き渡った。

 電車の扉が開くと同時に二人はホームへ降り、エスカレーターから改札へ向かって駅を出た。


「無駄に早起きってお前な……早く起きる分にはいいことだろ」

「いーや俺は寝られるなら寝ていたいね。その方が絶対いいに決まってる」

「ふーん」

「知ってるぞ、興味なさげなフリして本心では同じこと考えてるんだ」


 謎に不敵な笑みを浮かべた宗治を見て呆れたようにしながらも、司郎は渋々頷いた。


「……ああそうだよ。でも俺の場合、お前みたいにするとズルズル引きずってそのまま寝続けるからなぁ」

「ちっこい頃は揃って寝坊魔だったからな」

「わかってんなら言うなよ……」


 軽口を叩きあいながら家への道を歩き、いくつかの信号と交差点を越えた先に、ようやく彼らの家が見えた。

 しかし司郎はその光景に違和感を覚える。


「……ん? 車?」

「お前ん家に車が止まってるなんて珍しいな。親戚の誰かか?」

「いや、そんな話は聞いてないが」


 困惑する司郎は家の方を見る。

 一階の電気が付いているのと、時間を考慮して彼の弟は既に家に帰っている。それ以外に変化がないことから、突然ではあっても害のある来客ではないことは想像が付いた。


「……まぁ、入ってみればわかるだろ」

「そうか。色々大変だな、本当に」


 同情するようにそう呟いた後で、宗治は別れを告げて向かいの家に入って行った。

 一瞬の寂寥感を感じながらも、司郎はやがて自分の家へと体を向ける。


「さて、誰が来たのかな……っと」


 そう言いながら玄関の鍵を開け、家の中に入る。


(……この靴……? まさか……)


 そこで彼は、自分のものでも弟のものでもない黒革の靴を発見した。

 来訪者が誰なのか心中で想像がついた時、彼の中でそれを否定する声もまた上がる。

 彼はその想像の答えを求め、リビングに繋がるドアを開いた。


「「「——誕生日、おめでとう!」」」


 途端に三つの破裂音が連続して響き、彼の頭に紙製のリボンが覆いかぶさった。控えめな火薬の匂いが鼻をつく。


「…………」

「ありゃ? どうしたー固まって。そんなに誕生日を祝われるのが意外なの?」


 呆けたような表情で司郎がただただ突っ立っていると、破裂したクラッカーを片手に持った女性がそう声を掛けてきた。きっちりとした黒一色のスーツを着ている。きっと仕事終わりすぐなのだろう。

 その女性は、まごうことなき司郎の母親であった。今は海外にいるはずの。


「……いや、そういうわけじゃ」

「じゃあもっと明るい顔しなさいよ、せっかく一年に一回しかない日なんだからさぁ」


 母は軽い口調でそう言い、彼に向けて苺が沢山乗ったケーキを差し出した。

 その意図するところを理解した司郎は、そのケーキに突き立っていた蝋燭の火を一息で全て消し去った。


「改めて、司郎。Happy Birthday!」


 三人から拍手され、彼は控えめだが心からの感謝を送った。


「……ありがとう、父さん、母さん、孝明たかあき

「うん。……ほら、お風呂入ってきちゃいなよ。もうすぐ料理も出来るからさ」


 弟の孝明にそう急かされたので、彼は両親と積もる話はあったものの、ひとまず自室に戻った。

 その後は風呂に入り、さっぱりしたところで夕食の準備を手伝った。


「二人とも、どうしてここに? 今はドイツにいるんじゃ」


 手伝いながら、司郎は両親に対してそう尋ねた。すると、それには彼の父親が答えた。器用に鶏肉を捌きながら。


「ああ、そういえばまだお前には話していなかったな。単純な話、急な仕事で日本こっちに呼び戻されたんだ。ならついでだし、お前の誕生日もあるしと思って、一日だけ抜け出してきたのさ」

「そうそう。せっかくの祝いの席だと思って……じゃじゃーん」


 父の話に同調するように母が取り出したのは、大層立派な包装がなされた一升瓶。


「げぇ、酒かよ。明日も仕事なんだろ?」

「大丈夫だいじょーぶ。私は酒にだけは強いから」

「持ってくるのも飲むのも文句はないけどさ、開けるなら全部今日中に飲み切ってくれよ。俺と孝明はまだ飲めねえんだから」


 そう言いつつ、彼は手際良く食卓に料理を運んでいく。サラダに七面鳥、色とりどりのおかずと、豪華な料理がこれでもかと並ぶ。

 全ての料理が食卓に並ぶと四人で席に着き、大人二人は酒の入った、子供二人はコーラの入ったコップを片手に乾杯した。


「……うーん、美味い」

「ちょっと何コレ、美味しいじゃないの孝明」

「ああ、数年前とは大違いだ」


 料理を口に運ぶや否や、三人揃って作成者の孝明を褒めちぎる。


「……やめてよ、二人とも」

「昔は作ったものも食べられたものじゃなかったのに、成長したな」

「そんなところで感じなくていいから」


 実に数年ぶりという長い期間を経ての再会であるために、お互いに多少距離感を掴みあぐねている所があるものの、そこは家族というものだ。数分で慣れる。


「おいおい父さん。この前なんて炒飯に砂糖入れやがったからな。それだけじゃない、ハンバーグも焦がしたし、麺は茹で過ぎだし、まだ直ってないよ」

「ちょっと! 兄さんまで!」

「ふふふ、孝明の料理下手も相変わらずね」

「でも、最近は母さんの料理も食べてないからなぁ。もしかしたら抜かされてる、とかあるかもしれないぞ」

「うーん……負けられないわね」


 久々の団欒を心から楽しむ四人。家族である故の弄り回しやふざけが面白い。

 しばらくそうやって笑いあった後で無事に全ての料理を完食し、司郎は孝明と共に片付けをした。

 その間に入れ替わりで風呂に入っていた両親は、片付けの後で部屋に案内し、急ピッチで布団を敷いた。


「悪いわね、ぜーんぶやって貰っちゃって」

「いいってことよ。じゃ、おやすみ」


 そう言って司郎は二人の部屋を後にし、自分の寝室に入った。

 部屋の中にある二つのベッドの内の一つには既に孝明が寝転がっており、手元の明かりで何かの雑誌を見ているらしかった。


「……なんだそりゃ、ゲーム誌?」

「ううん、パソコンのカタログ。ウチのはもう古いから、何か良いヤツないかなって」

「……ああ、そうか。二人が帰ってきたってことは、“振り込み”あったのか」

「そうそう。あと五年は保つぐらいの金額が来たから、これを機にって思って」


 彼も孝明の肩越しにカタログを覗き込む。

 しかし、彼にはあまり理解できたものではなかった。


「うーむ……そっち関連はまだ理解不足なんだよな。ま、任せるわ」

「りょーかい」


 そう言って、司郎は自分の布団の中に横たわった。そして目を閉じ眠りにつく。

 変わらぬ日常に想いを馳せながら。

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