第2話 途中駅での乗客

 駅は汽車の出発した駅とは比べ物にならないほどみすぼらしいかった。駅舎はとりあえず柱と屋根がついてあるだけで乗客が雨風をしのぐような機能を果たしていない。代わりにホームのあちこちにテーブルと椅子が並べてあり、乗客はそこに座ってティータイムらしい。

 駅舎に併設されている売店はレンガではなく木製で見栄えしないが、お茶を買えるのがここしかないので、紳士やマダムがこぞって寂れた小さな売店にお行儀よく並んでいるのは奇妙で腹の奥が笑った。

 そして同時に腹の虫が鳴った。

 売店の窓口からはニシンの燻製が焼きあがるいい匂いが漂っていた。ユーリには強情を張っていたが、節約のため朝飯を抜いて汽車に乗っていたから腹が減っていた。 この匂いからしてこの前食べた警察署一のメニューよりは期待できそうだ。

 早速並んだが列は意外と長く、なかなか進まない。しかしユーリは待たされるのなんて関係ないと即興で歌いあげる。


「おっさけ、おっさけ。おつまみにニシンの燻製~♪」

「酒は買わないって言ったろ」


 やっぱりこいつ酒のことしか考えてない。ほかの客はすでに胃の中を紅茶とパンで膨れてしまったようで俺たちの後ろに誰も並んでいない。駅舎にかけられている時計の長い針が三の字を過ぎたところでやっと俺たちのところに回ってきた。


「おばさん、お酒ありますかぁ」

「ごめんなさいね。今日の分の入荷は入ってきてないの。後お砂糖もさっきのお客さんのでちょうど切らしちゃったのごめんなさいね」

「えー!?」


 諦め悪く酒を買おうとしていたが、運命はユーリを許さなかったらしい。残念だったな。しかし砂糖がないとは、砂糖なしの紅茶はロンドンの屋台で飲みなれているからいいが、砂糖入りのやつは飲みたかったな。

 仕方なく二人分のニシンの燻製サンドと紅茶を頼んだ。売店のおばさんは手慣れた手つきで、切れ込みを入れたパンにニシンの燻製をはさみ終えると、次に陶器の中に紅茶を入れた。と紅茶の中に白い液体が注ぎ入れたのを見逃さなかった。


「サービスのミルク入り紅茶だよ」


 おいおいまじかよ。ロンドンでミルクなんてビールやジンを買うよりも高く、ロンドンのティースタンドでもミルクを置いていないところがほとんどだというのに。ロンドンの紅茶と変わらない価格で飲めるとは。砂糖よりもうれしいぜ。

 受け取った紅茶は、いつも見ている紅のインクを一滴だけ垂らしたお湯の色ではなく、茶器のそこが見えないぐらいにミルクと紅茶が混ざったブラウンのものがたっぷり入っていた。一口飲んだだけでお茶とミルクの甘い濃さでむせそうになった。いや違うこれが本来の紅茶の味なのだと理解できた。


「ミルク入りの紅茶なんて久しぶりぃ」

「うん。お前の酒飲みと食いしん坊が役に立ったな」

「むーぅ。私食いしん坊じゃないですぅ」


 酒飲みは認めるのか。

 美味い紅茶と身が詰まっているニシンの燻製サンドをむさぼっているとさっきのおばさんが窓口から身を乗り出してユーリに話しかけた。


「かわいいお嬢ちゃん今日は旅行? ご両親はどちらにいらっしゃるの」

「え。あ、あーあの」


 売店のおばさんの質問にユーリが戸惑っているのを見て、代わりに俺が前に出た。


「ロンドンの生活が苦しくなっていて、父親がいるリバプールにまで行くんだ」

「あら、そうなの。ロンドンは何でもあるけど何でも高いから大変ね」

「でもリバプールも同じだと思います。新しい場所に行ってもそこが楽園だという保証はないですから。しっかり稼げるようにならないと。こいつは楽観的なところもあるから」

「そうね。しっかりしてそうなお兄ちゃんだこと。妹ちゃん大事にするのよ」

「ああ、ちゃんと守ってやる」


 おばさんに悪気はないだろう。ユーリはアイルランドから一人イーストエンドに逃げこんだ。あの時は十七と独り立ちしても問題ない年だが、アイルランドの飢饉の悲惨さは一家全滅の危機まであったというのは知っている。ならば家族も一緒に逃げてくるはずだが、ユーリは最初から一人しかいなかった。

 そのあともユーリを尋ねてくる家族らしき人間も見かけなかった。だとすればユーリの家族は死んだか、もしくは。どちらにせよ。ユーリに家族はいないのだ。

 売店から離れてホームの端で残りを食べようと移動すると、急にユーリが正面から抱き着いた。そして顔を上げてにへぇっと笑みを見せた。


「お兄ちゃん、私を守ってね」

「こんな酒飲みの妹なんかいらねえよ」

「まもなく出発時刻です。早めにご乗車ください! 切符の検札がまだの人はお早めに」


 ホームで駅員が大声でくるんだ緑の旗を持ちながら呼びかけた。まだ紅茶が飲みかけだというのに、まだもう少しゆっくりさせてくれと美味い紅茶を前にもどかしさを感じながら、残りを一気に一飲みで流し込んだ。

 急いで客車に戻る道すがらに駅員に二人分の切符を切ってもらい駅舎を見るとまだ時計の長い針は四のところを過ぎたばかりだ。


「まだ時間あるじゃねえか。三十分って六のところを指したところだろ。こんなに早く乗り込まないといけねえのかよ」

「ん。ありゃ、まだ直してなかったのか。今二十五分。つまり長い針が五のところだ。まったく時計の針ぐらい直せよな駅長」


 あの時計遅れていたのかよ。あんたじゃなくて俺の方が文句言いてえよ。改めて時刻ギリギリになって客車に飛び乗ったタイミングで駅員がドアを閉め、汽車は出発しだした。紳士はすでに戻っていた。そういえばあの紳士はどこに行ってたのだろう。すぐ駅舎の方に行ったと思ったが鉢合わせしなかったし。


「もう、先に座っちゃってるぅ」


 紳士は断りもなくユーリが座っていたその席に鼻歌を歌いながら足を組んで座っていた。いや代わる約束をしていたから紳士が座るのは道理だろうが、一言の断りを入れずに席に座るのは無礼だ。一つ文句を言ってやりたかったが、ここは大人しく座ることにした。


 最初に乗っていた男は相変わらず眠ったままで、このまま特に問題も起きないだろうと安心して、どっかりと座ると、目の前にもう一人乗客が乗り込んでいたことにようやく気づいた。オールバックで白髪交じり初老の男だ。初老の男は身なりはスーツをきっちり着込んでジェントリのような風貌を醸し出しているが紳士とは異なり、体は使い古した蝋燭のように細く、少し力を入れたらぽきりと折れそうなほどひ弱に見える。しかしこの男がいつ乗り込んでいたのかその気配すら気づくことができなかった。

 正面の男に警戒していると、初老の男の黄ばんだ歯が覗き出した。


「おや、ご兄妹でご旅行ですかな」

「兄妹じゃねえよ。ただの仕事仲間だ」

「ああ、そうですか。それは申し訳ない。あまりにも仲がよさそうなので、交際している風体ではないから兄妹と思ったのですが、予想が外れましたな」


 なんだいなんだい。どいつもこいつも兄妹だと思いやがって。そんなに俺がシスターコンプレックス拗らせている顔に見えるのかよ。それだったら英国人みんなマザコン女王様コンプレックスだよ。目の前の老人は目を細めると、スーツのポケットから手帳と鉛筆取り出して書き込みだした。


「私趣味で自分の頭の中で思いついたことを書きまとめているのですよ。先ほどのだと『この二人は一見不愛想で関係は薄いようだが、男の方は少女の方に目を配らせている。よほど少女のことを大切に想っているからして兄妹である可能性がある』とノートに書き起こしていたのです」

「へーそうかい」


 正直気持ち悪ぃ趣味だな。それを口にするのもだが。この客車には変なのばっかしか乗らないな。


「おじさんそこまで観察していたんだねぇ」

「ええ、大学で教授職を務めておりますと論文を書くときにインスピレーションがどうしても必要でしてね。おっと、もうすぐトンネルだ」


 教授は立ち上がると、窓をぴったりと閉じた。

 どうやら汽車の煙が入らないように窓を閉めなければならないらしい。反対側に座っている紳士のところはぴったりと窓が閉められている。客車が揺れながら光のないトンネルの中に入って行く。当たり前だが中は真っ暗、そして車内も真っ暗、位置を忘れてなければユーリがどこにいるかすらわからない。


「わー真っ暗」


 ユーリの呑気な声がした途端、ドサッと大きな物が倒れる音が床から聞こえた。荷物か何かが倒れたのか判明したのは、ほんの二十秒程度でトンネルを抜けた後。再び採光が車内に戻ってくると車内の真ん中で紳士が倒れていた。


「おじさん? ねえ、どうしたの」


 ユーリが突然倒れた紳士を心配して体を揺さぶった。首の脈のところに手を当ててみたが、脈がない完全にこと切れている。発作か何かかと一瞬思ったが、紳士に触ったユーリの手の中が赤く染まっていた。


「え、…………血?」

「人殺しだ!!」


 隅で眠っていた男が起きて、状況を見るや否や大声で叫び、ユーリを指差した。


「ち、ちがうよぅ。ジョーンズ、私」

「警察だ、殺人犯が車内にいる。早く汽車を止めろ」

「いや。いやだ。ジョーンズ離れたくない、お願い離れないで」

「落ち着け。お前が殺しなんかするはずない」


 しかし目の前の男はそんなことを知る由もなく、ヒステリックに喚き続けた。


「目の前で倒れたんだぞ。その男と隣にいた女が一番怪しいに決まってる! 次の駅で警察に突き出してやる。こんな殺人犯といっしょなんか」

「君、少し黙っててくれないか。見分できない。それに次の停車駅はリバプールまで停まらないぞ」


 男の前に挟まる形で教授が割り込むと、倒れた紳士の体を眺めた。その切れ長の目は好奇心や使命感とはまるでなく、仕事をしているかのように淡々と骸を観察していた。不気味だと俺の人生で初めて感じた、それも生きてる人間でというのが余計に増長させた。


「被害者の死因は、頭部の損傷だ。ほら後頭部を見たまえ、血の跡が固まっている。誰かに殴られたか。あるいは打ち所が悪かったか」

「トンネルの中に入ったとき列車が揺れて、打ち所が悪かったということか」

「それではないだろう。トンネルの中は非常に平穏だった。となれば暗闇の中で誰かに殴られたという仮説が有力だ」


 男が「そらみろ」と言葉を紡ぐ前に教授が手をかざして静止させた。


「あのトンネルに入って、それから出てきた時間はほんの二十秒もかかってない。短時間で確実に殺すことができるかといえば、微妙だな」

「確かに二十秒は短すぎる。暗闇の中でいきなり目の前のこの紳士を殺せるとなれば難易度はさらに上がる。が、最初から目を閉じた状態で夜目に慣らして殴ることだって可能だ」

「俺を疑うのか! 俺はな。この男が倒れた音を聞いて今起きたんだ。今! それに殴られた凶器によっては、あんたたちでもできるだろうが」


 男は唾を教授に向けて飛ばしながら反論するが、しかし教授は怒りもせず、手を後ろに回して講釈のように再び口を開いた。


「確かに、あり得る。私も目の前の彼も、つまり容疑者は全員ということだ。この急行の次の停車駅は終点のリバプールまでノンストップだ。後二時間、この中の誰が犯人か決着をつけなればならない」


 教授の言わんとすることは、推理をして犯人を見つけろということか。結局また事件様がやってきやがったのか、骸は欲しくても殺人事件に巻き込んでくれとは頼んでないぞ。



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