8章 水曜日の悪魔(2)
暗闇の中、俺は立ち尽くしていた。約束の23時は過ぎていたが、まだ富永は現れない。右手に握ったスマホは震える様子もなく、俺は次第に苛立ちを募らせていた。
「なんなんだよ……まったく。」
指定された場所はここでいいはずだ。俺は時間通りに来たというのに、結局のところ、やはり死ぬことに怖気付いたのだろうか。あと5分、あと5分だけ待っても来なければ、帰ろう。それでこの契約とやらとはおサラバだ。だってそうだろう。相手が約束を守らなかったのだから。
あと5分。あと4分。あと3分。
もしかしたら、人を殺さなくて済むかもという期待に、そわそわとしながら、俺は分刻みに時間を数えた。そして、とうとう残りあと1分を切った時。
「お待たせしました……。」
富永が現れた。
出会った時と同様、しっかりとスーツを着込み、ごく一般的なサラリーマンに見える。カジュアルな服装の俺とは対照的だ。下手な期待を頂き始めていた俺は、そのいつもの変わらない飄々とした態度に思わず声を荒げる。
「もう来ないかと思いましたよ!」
「いや、すみません。タイミングを少々、見計らっていたもので……。」
「タイミング……?」
「ああ、いえ、こちらの話です。お気になさらず。」
なんとなく含みを持たせた富永の物言いに、若干俺は違和感を覚えたものの、軽くいなされた。怖気付いたのか、と思っていたが、富永は特に緊張した様子もなく、むしろリラックスしているようにさえ見える。これから死のうというのに……死を選ぶほどに追い詰められた人間はこんなものなのか……?俺は若干戸惑いながらも、本題に入ることにする。とにかく、さっさと今日を終わらせたい。
「それで、一体どうするんです?やると決まったなら、できる限り速やかに終わらせたい。」
富永は少しだけ目を見張ってから、軽く微笑んだ。それは珍しく、いつもの表情とは違って、本当に心から微笑んでいるように見えた。
「……意外とあっさり覚悟を決めていただけようで良かった。やはりあなたは私の思った通りの人だ。」
「どういう意味です?」
「いつかも言いましたでしょう。自分の人生を守るためなら、他人がどうなろうと気にしない人間。」
口調も表情も穏やかで、皮肉られているような気配も無かったが、富永のそのセリフはどことなく冷たい。俺は憮然として答えた。
「……すみませんね、そんな人間で。」
「いえいえ、むしろ私にとっては有難い。心の底から、そう思いますよ。」
富永はそう言うと、左手に持っていた鞄の中から、手袋を取り出し、自分の手にはめた。その後、もう一つ、黒の革手袋を取り出すと、
「どうぞ。」
と言って俺の方へと差し出した。俺は無言でそれを受け取り、同じように手へはめる。
「それとパーカーの前は閉めたほうがいいかもしれませんね。下手に返り血が広がってもなんですし。」
そういえばそうだった。富永に言われるがまま、開けていたパーカーの前を閉じる。それにしても、黒いパーカーに黒いジーンズ、黒い革靴に、黒の革手袋か。これじゃあ、どこからどう見たって、通り魔そのものだ。
「……この場所、大丈夫なんでしょうね。誰かに見られでもしたら……。」
「大丈夫。ちゃんとその辺りは下調べしてありますよ。現に、末吉の件でも、目撃者は出ませんでしたし、私のところに警察も来ていません。」
「……そうですか。」
「少しはご安心いただけましたか?」
いたずらっぽくそう言うと、富永は再び鞄の中を漁り、ハンカチに包まれた何かを取り出した。慎重にそれを払うと、中から出てきたのは刃渡り10cmほどのナイフだった。
「それ……。」
「末吉を刺す時に使ったナイフです。通り魔の犯行に見せかけたいので、同じものを使ったほうがいいかと思いまして。」
そう言うと、慎重な手つきで、ナイフの柄を俺の方へと差し向ける。このナイフで、末吉が……。そう思うと、手に取るのが急に怖くなる。
「本田さん?」
なかなか受け取れずにいる俺に業を煮やしたのか、富永に名前を呼ばれ、俺は慌てて差し出されたナイフの柄を握った。富永は満足そうに一つ頷き、
「では、それで私の左胸をひと思いに刺してください。」
「え……?」
「そのナイフで、私の左胸を刺していただければ、それで終わりです。私は死に、あなたは去る。私の家族には保険金が下り、あなたは元の、なんの問題もない完璧な人生に戻れる。万事、ハッピーエンド、というわけです。」
なんでもないことのよう言う富永は、本当に心からそう思っているように見えた。その様子にたじろぐ俺に構うことなく、富永は淡々と続ける。
「ナイフや手袋については、好きにしてください。個人的には、下手にどこかに捨てるよりかは、ほとぼりが冷めるまで、ご自身で管理されたほうが安心できるようにも思いますが。服は……まあおそらく大丈夫でしょう。先ほどはああ言いましたけど、なるべく私も動かないようにしますし、返り血が飛ぶこともおそらくないでしょうから。」
「……死ぬのが、怖くはないんですか?」
気づけば、口から出ていたその問いに、富永は出会ってから初めて、声をあげて軽く笑った。
「怖くはありませんよ。自分が死ぬことより怖いことを、もう随分と前に経験していますから。」
なんでもないことのように言うその眼に、嘘はないように思えた。どうやら本当に、目の前の男は死にたがっているらしい。それが彼にとって、彼の人生を取り戻す唯一の方法なのだ。ならば、これは一種の人助けなんじゃないのか?そうだ、人助けだ。俺は何も悪くない。ただ、目の前の困っている人間を、救ってやるだけだ。
「……分かり……ました。」
俺は覚悟を決め、悠然と立っている富永の方へと一歩踏み出し、ナイフを握りしめた右手を思い切り引いた。
その時。
「動くな!武器を捨てろ!」
「ナイフを捨てろ!早く!」
それまでの静けさを切り裂くかのような怒号が響く。振り向くと俺の背後から、2人組の警官が銃を構えながら走ってくるところだった。なんで?どうして?一体どこから、現れたんだ?こんなタイミング良く……タイミング?
−−いや、すみません。タイミングを、少々見計らっていたもので……。
まさか。
行き当たった推測に、勢いよく富永の方を振り返る。富永は先程までの悠然とした態度を一変させ、尻もちをつき、俺からじりじりと離れながら、まるで本当に怯えているかのように、
「た、助けてください…助けてください!早く!」
と叫び出した。
「いや、ちょっと待ってくれよ……!話が違うだろ!なんでこんな!」
訳も分からず、富永の方へ向かって怒鳴る。
「早く、武器を捨てろ!」
そんな俺の様子に、俺に向かって叫ぶ警官たちの声にさらに緊張が増したのが分かった。ちくしょう……!はめられたのか?俺は?富永に?なんで?一体何が目的なんだ?混乱する頭を抱え、俺は右手にナイフを握りしめたまま、こちらに迫ってくる警官と怯えたようなふりをしている富永を交互に見やりながら、呆然と立ち尽くしていた。それでもなんとかして思考を巡らせる。タイミング良く、俺が富永を刺そうとしている場面を見させて、警察に逮捕させようって魂胆だってことだったってことだよな……?でもどうしてわざわざそんなことを?死にたいって言い出したのは、殺してくれって言い出したのは、こいつの方だろ?代わりに末吉を殺してやるからって……。そうだ、末吉を殺したのはこいつだ。俺じゃない。俺は何も、悪いことはしていない。美穂子のことだって、俺が直接襲ったわけじゃない。俺は、富永とは違う。こいつとは違って、何一つ、法に触れることはやっちゃいないんだ。俺は、すぐそこまでやってきて、俺に対して銃を向けている警官に必死になって訴えた。
「ち、違うんですよ、刑事さん。誤解、誤解なんです。全部、誤解です!」
「とにかく、ナイフを捨てろ!」
何度目かのその指示に俺はようやく右手に握りしめていたナイフを落とした。冷たいコンクリートにあたって、ガチンと無機質な音を立てる。
「確保だ!」
途端に警官が突進してきて、抵抗する間も無く、俺はすぐに組み伏せられた。なすすべなくコンクリートに叩きつけられ、身体中が痛む。耳元で警官が何か言っているような気がしたが、全く耳に入らなかった。ふと、視線をあげると、尻もちをついたままの富永と目があう。やはり、これは全部、こいつが仕組んだことだったのか。今まで目にしたことのない富永の満面の笑みに、俺はただ、
「違うんです……違うんですよ……。」
と言い続けるしかなかった。
それはまるで独り言のように、誰の耳に入ることもなかったのだが。
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