8章 水曜日の悪魔(1)
富永と別れ、自宅に着いた頃にはすでに日付が変わろうとしていた。できる限り静かに鍵を開け、中へと入る。玄関には幸恵の仕事用の靴があり、すでに帰宅していることが分かった。リビングの電気はついていない。先に寝ていてくれていればいいんだが。一応、借金の言い訳は考えてはいたが、これ以上嘘をついて、事態をこじらせることになるのはできれば避けたい。上着を脱いでソファーへ放り投げる。
ネクタイを外していると、寝室の方から音が聞こえ、幸恵がやってくるのが分かった。起きて待っていたのか……。思わず身構える。
「おかえりなさい。」
「ああ、ただいま。遅くなって、ごめんな。」
「ううん……お疲れ様。」
「疲れたから、シャワーだけ浴びて、さっさと寝ることにするよ。」
そう言って服を脱ぎながら脱衣所へと向かう俺を、幸恵は黙って見ている。やはり警察に何か聞かされたのだろうか。確認したい気持ちもあるが、やぶ蛇になるとまずい。
「そうね、そうした方がいいわ。疲れてるだろうから、早めに休んで。」
「ありがとう。……幸恵は?今日はどうだった?」
とりあえず、当たり障りのない質問を投げかけてみる。しばらく間があった後、
「別に……いつも通りよ。仕事に行って、少し残業して、帰ってきて、今に至る……って感じ。」
とつぶやくような返事が帰ってきた。
「そうか。」
「私も疲れたから、先に寝てるわね。スーツの上着はシワになるから、ちゃんとハンガーにかけておいてよ。……おやすみ。」
「ああ、おやすみ。」
そう返すと、幸恵は軽く手を挙げて、寝室の方へと戻っていった。俺は脱衣所の扉を閉め、深く息を吐く。いつもなら、特別話さなければならないことがあるわけでもないのに、この時間まで幸恵が寝ないで俺のことを待っているのは珍しい。そう考えると、やはり刑事に何か聞かれたのではないか、とも思うが、幸恵の口調や態度自体には、さほど不自然なところは無かった。とりあえず、様子を見てこちらから余計なことを口にするのは避けた方がいいだろう。それにしても……
「次から次へと……考えることが多すぎるだろ……。」
気づけば情けない独り言が漏れていた。俺は再びため息をついて、シャワーを浴びるため、浴室へと足を踏み入れた。
*
翌日は、穏やかな1日だった。警察がやってくることもなく、幸恵の態度も普段通りで、富永から連絡が来ることも無かった。須崎からも、特に富永のことについて聞かれることはなかったし、いつも通り仕事をして、家に帰り、幸恵とたわいもない会話を交わす。久しぶりにここまで事態がこじれる前の生活に戻れたような気がしたが、いざ眠ろうと目をつぶると、とたんに翌日のことが気になり、どうにも目が冴えて仕方がない。
明日、午後23時。富永の言っていた通り、これですべて終わるのだろうか。すべて、うまくいくのだろうか。そんな考えが頭の中を堂々巡りして、結局一睡も、できるわけが無かった。
*
「昨日はなかなか眠れなかったみたいだけど、大丈夫だった?」
翌朝。朝ごはんのトーストを食べながら、幸恵が心配そうに聞いてきた。
「ああ、なんだか目が冴えちゃって。でも、ちゃんと寝たから、大丈夫だよ。」
「そう……。」
「大丈夫だって。新人の頃は仕事で徹夜なんてしょっちゅうだったし、それに比べれば、ちょっと寝つきが悪かったくらい、なんてことはないさ。俺も歳を取ったんだろ。」
「……そうかもね。」
つとめて明るい口調で返した俺に、幸恵が少しだけ笑った。
「そういえば、今日は結構遅くなるかもしれない。」
「そうなの?」
「うん。日付が変わるかもしれないから、先に寝ててよ。」
「……分かった。あなた、水曜日はいつも遅いわよね。ここ何週間かは、そうでもないけど。」
幸恵が思い出したかのように言う。俺は内心ぎくりとしつつも、
「そ、そう?まあ週の中日だし、なるべく週末まで仕事を引きずりたくないからね。」
なんとか平静を装ってそう答える。
「……そうね。でもあんまり、無理しないで、疲れたら早めに帰るようにしてね。」
「分かってるよ。ありがとう。」
水曜日に帰りが遅いのは、今日で最後だ。今日を境に俺は元の生活を取り戻す。心の中でそう呟いて、俺は残りのトーストを一気に口に詰め込んだ。
会社に出社してからも、特に富永から連絡は無かったし、概ね昨日と同じような穏やかな1日ではあった。だが、当然のように、気分が落ち着くことはない。自分でもはっきりと自覚できるくらい、そわそわと1日を過ごし、仕事が捗るわけもなく、気づけば時刻はすでに21時を回っていた。同じフロアの人間も、ほとんどが退社しており、オフィスにはあまり人気がない。
「もうこんな時間か……。」
ここから指定場所の最寄駅まで移動し、用意してきた黒い服に着替えてから、指定場所まで移動することを考えると、そろそろ行動を開始した方がいいだろう。
「……いよいよか。」
気づけば、小さな声でつぶやいていた。軽く震えだした両手を、一度ぎゅっと握りしめ、荷物をまとめる。
「お先に失礼します。」
誰に言うでもなく、とりあえずそんな決まり文句を口にして、俺はオフィスを出た。今日は須崎に呼びとめられることもなく、一人で会社から出る。外はすでに真っ暗で、気温もかなり下がっていた。これから待ち受けることを思うと重くなりがちな足を引きずりながら、俺は駅までの道のりを急いだ。
スマホで事前に調べていた通りに乗り換えを済まし、無事に指定場所の最寄駅に到着した。時間もまだ余裕がある。あとは着替えて、指定場所へ向かうだけだ。最寄駅の構内図をスマホで検索し、一番利用者が少なそうな、立地の悪いトイレへと向かう。狙い通り、他に使用者がいないのを確認してから、一番奥の個室に入り、持ってきた黒いパーカーとジーンズに着替えた。しかし、個室を出て、鏡に映る自分の姿を確認すると、あまりに怪しい。どうしたものかと考え、とりあえず、パーカーのジッパーは下ろし、前を開けておくことにした。こうするだけでも、比較的まともな人間に見えるから不思議だ。
「そういえば……靴……。」
カジュアルな服装に、黒の革靴だけが浮いている。スニーカーか何かも、持ってくるべきだったか。
「慣れないことはするもんじゃないな……全く。」
まあこんなことに慣れたくもないし、慣れたところで、仕方ないのだが。
時計を見ると、そろそろ時刻は22時半に差しかかろうとしており、この時間から靴屋を探しても無駄だろう。ましてや、あえて選んだ利用者の少ない未開発のこの駅では店もないはずだ。
「このまま、行くしかないか……。」
富永には呆れられるかもしれないが。人ひとり刺すだけだ。しかも相手は刺されたがってるわけだし、逃げられて追いかけたりすることもない。革靴でも、別に問題ないだろう。いずれにせよ、もうどうしようもないわけだし。俺はそう自分を納得させて、駅のトイレから出た。
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