7章 そして夜が明けて(2)

「……本田さん!」

 落ち着かない気持ちで午前中の仕事を終え、昼飯にするかと財布を持ってオフィスを出たところで、声をかけられた。振り返ると、不安げな顔をした須崎の姿が目に入る。どうやら俺のことを待っていたらしい。

「……須崎か。」

「お、お疲れ様です。」

 須崎と話すのは久しぶりだ。時々社内で見かけることは会ったが、末吉とのことで須崎を責めて以来、お互いに話しかけることは無かった。

「……お疲れ。」

 軽く返して、そのままエレベーターホールへと向かう俺を、須崎が慌てて追ってくる。

「あの……本田さん、えと、今日久しぶりに飯でもどうですか。」

 おどおどと昼飯に誘ってくる須崎をちらりと見やり、俺はため息を吐いた。

「末吉のことだろ?」

「あ、いえ、あの……。」

「いいって。俺もニュースで観たよ。正直、驚いた。」

「はい……。」

 須崎は俯いたまま、何も言わない。

「なんだよ、俺のことを疑ってんのか?」

「い、いえ!そういうわけでは……!」

 図星か。焦ったような声をあげる須崎に、俺はため息をついた。

「あのなあ……流石にそんなことするわけないだろ。勘弁しろよ。」

「で、ですよね!いや、俺、ニュースで観て、驚いちゃって。本田さんに声かけるかどうか……迷ったんですけど……。すみません、ホント疑ってたとかじゃないんですけど……。」

 言い訳するようにおどおどと言い募る姿を見ていると、だんだんと気の毒になってきた。須崎の気持ちはよく分かる。俺が末吉に対して憤っていたことを、その理由も含めてよく知っているし、その上、末吉と俺を引き合わせたのは須崎だ。そんな中、突然テレビから末吉が殺されたとのニュースが流れれば、動揺するのも当然だろう。

「別に気にしちゃいないよ。ただ、俺じゃないのは事実だ。それだけは、信じてくれよな。」

「は、はい!もちろんです。」

 エレベーターホールにつき、須崎が下りのボタンを押す。

「テレビでも、通り魔の仕業じゃないかって言ってました。」

「ああ……水曜日の悪魔か。」

「めちゃくちゃダサいネーミングですよね。でも最近は死人まで出るようになってるとかで……。末吉さんで2人目らしいです。」

「警察がなかなか捕まえられないから、犯人が調子に乗り始めたんじゃないのか?」

「俺としては……なんか複雑な気分です。」

 ポン、と高い音が響き、エレベーターが開く。中には同じように昼食を取りに向かう人々がそれなりに乗っており、俺も須崎も一旦口をつぐんだ。しばらくして、独特な浮遊感とともに、エレベーターが軽快な音を響かせて、1階に到着したことを知らせる。1階のエントランスフロアに降り立って、周りから人がいなくなったことを確認した後、俺は再び口を開いた。

「複雑……?」

「はい……。俺としては、末吉さんは恩人っていうか……可愛がってもらって、金、貸してもらって。いいイメージしかなかったんで、本田さんの話を聞いた時もショックだったんですけど……ニュース観て、亡くなったって知って……結構ショックだったっていうか……。でも、本田さんの話を聞くと、完全に悪徳高利貸しだったわけだし……。なんかもう、よく分からなくなっちゃって……。」

「まあ……そうだよな。」

 この様子だと、須崎は本当に末吉の本性を知らず、いい兄貴分だと思っていたんだろう。そう考えると、俺の事情に巻き込んでしまったせいで余計なことを考えさせてしまい、ちょっと申し訳ない気持ちになってくる。

「……なんか、悪かったな。色々と。」

 末吉に対する借金問題がとりあえず片付いて、俺の心にも余裕が生まれたのか、気づけばそんなことを呟いていた。須崎は慌てて、

「いえいえ!そんな!俺の方こそ、すみません!なんか……余計なことばっかり、しちゃったみたいで……。本当、申し訳ないです。」

「いや、元はと言えば俺が巻き込んだわけだしな。もう、この件については、気にするな。」

「そう、ですね。はい、すみません。」

 少し強めの口調で須崎に言った。須崎はいい奴だ。だからこそ、いつまでも引き摺られても困る。俺としても、なるべく早く、元の生活に戻りたい。死人が出るほどにこじれていく前の、元の俺の生活に。そのためには、須崎にも、さっさと忘れてもらわなければ。

 

 そのまま須崎と近くの定食屋で昼飯を取った。末吉について面と向かって俺に聞いたことで、須崎もある程度すっきりしたのか、それ以降は話を蒸し返すこともなかった。初めは何を話すか戸惑っていたようだが、徐々に以前と同じようにたわいもない話をするようになり、それがやけに有難かった。久しぶりの須崎との会話で、溜まっていたストレスがいくらか解けたのか、食後に急に腹が痛くなったのには参ったが、それでもずっと緊張していた気分を、ほんの少しだけ紛らわせることができた。

 


 なんとか1日の仕事を終え、会社を出た。日はすっかり暮れており、冬めいた寒さが体に染み渡る。

「本田さん。」

 ふと、名前を呼ばれた。一瞬須崎かと思ったが、声が違う。誰か、会社の人間だろうか。あたりを見回した俺は、自分の顔と体が一気にこわばっていくのを感じた。

 富永だ。会社のエントランスから少し離れたガードレールに寄りかかっている、あの独特の、口角だけをあげた微笑んでいるかの表情をたたえて立っている富永の姿が見えた。

 無視するわけにも行かず、俺はおそるおそる富永の方へと近づく。

「夜遅くまで、ご苦労様です。」

「富永さん……どうして、ここが……?」

 俺の勤務先は教えていなかったはずだ。それ以外も、名前と携帯の電話番号以外は何も知らせていない。

「まあ……私も全くのバカ、というわけではありませんので。重大な契約を結ぶ取引相手のことは、事前にある程度調べておくようにしているんですよ。念のため、ね。」

「……。」

 何も言い返せない。考えてみれば、至極真っ当なことだ。自殺するためとはいえ、人ひとり殺さなければならない契約なのだから、慎重になるのは当然だろう。だが、まさか、直接会いに来るなんて。

「だからって……なにも直接会社まで来なくてもいいじゃないですか。会社の誰かに見られでもしたら……。」

「暗いですし、どこの誰だかまでは分からないでしょう。そう邪険にしないでくださいよ。あなたのために、人まで殺したっていうのに。」

「……富永さんっ!」

 からかうように言う富永に、思わず語気が荒くなる。

「いやいや、すみません。ただ、電話だと、もしかして出てもらえないんじゃないかと私も不安でして。本田さんを信用していないわけではないんですが、私の方も人生がかかっておりますのでね。」

 図星を突かれて、思わず黙り込んでしまう。一応、電話がかかってきたら、提案を聞くだけ聞いてみようかとは思ってはいたが、いざとなったら、電話に出ずバックれようという気持ちが、よぎらないわけでも無かったからだ。そんな心を読んだかのように、富永は、

「立ち話もなんですから、移動しましょうか。」

そう微笑んだのだった。



「前回とは、違う店なんですね。」

「同じ店へ何度も連れ立って行くのは、得策ではありませんからねえ。それだけ店員や常連客の記憶に残る可能性が高まりますし。」

 富永に連れてこられたのは、俺の会社から3駅ほど離れたところにあるバーだった。美穂子の一件があった際に使った店と雰囲気はよく似ていて、とても静かだ。ほとんど客がいないのは、月曜日の夜であるということもあるのだろうが。

「それで……本題ですが。」

 穏やかに発せられた富永の言葉に、体に緊張が走る。

「ニュースにもなっていたので、すでにご存知かとは思いますが、こちらの方は問題なく片付きました。すでに、話は聞かれましたか?」

 巧みに濁した末吉の問いに、俺はささやくような声で答える。

「ええ……今朝方。とりあえず聞かれたことには答えましたが……妻にも話を聞きに行くんじゃないかと、それが不安で。」

「ああ、確かにその可能性はありますねえ。先にアリバイの方をあたってもらえれば、疑いはまず晴れるでしょうから、そこまで念入りに調べられないかとは思いますが。まあ、万一の時は、適当に話を作るしかないでしょうな。」

「適当に……。」

「金を借りること自体は別に犯罪じゃない。強気でいけばいいんですよ。」

 なんだか他人事だと思って、それこそ適当なことを言われているような気がするが、実際富永にとっては他人事なことに間違いはない。なにか考えておくしかないか。俺は軽くため息をついた。

「次から次へと考えることがあって、大変そうですねえ。まあ、でも、それもこれが最後でしょう。」

「だといいんですけどね……。」

「最後ですよ。あとはあなたが私に対する約束を守っていただければ、それでおしまいです。……まさか、私は守ったのに、あなたの方は守らない、なんてことはありませんよね?」

 富永がおかしそうに言いながら、俺の方を見やる。その眼は声音とは対照的に全く笑っておらず、まるで射すくめるように鋭かった。気圧されながらも、

「あ、当たり前じゃないですか。」

俺はなんとか声を絞り出した。

「それなら、よかった。」

 ふ、と富永の発していた緊張が解ける。

「それでは早速ではありますが、日程は今週の水曜日でお願いします。明後日ですね。」

「明後日!?」

 思わず大声を出した俺の方を、店の中にいる数少ない他の客たちがちらりと見やった。その視線に慌てて声を落とし、続ける。

「いくらなんでも、急すぎやしませんか?」

「急すぎるくらいが丁度いいんですよ。それは本田さんも分かっているはずでしょう?期間が短い方が私が疑われるリスクが下がりますし、それはすなわち、本田さんにご迷惑がかかるリスクも下がる、というわけです。それにここで畳み掛けた方が、死人が出ても、なかなか捕まらないことに調子づいている通り魔の犯行に見せかけやすいですからね。」

「しかし……明後日って……。」

「大丈夫ですよ、何も問題はない。早めにスッキリしちゃいましょう。明後日の水曜日の夜23時、□■駅の△▲町の裏路地にいらしてください。そこで落ち合いましょう。道具などは私が持っていきますから、そうだな、本田さんには念のため、黒いパーカーに黒いジーンズで夜の闇に紛れやすい服装をしてきていただければそれで結構です。もともと人通りのほとんどない場所であることは確認済みですが、まあそこはお互い協力関係にあるわけですから、タイミングのいい時を見計らえるでしょう。」

 富永は言いながら自分のスマホを操作し、

「ここです。」

と落ち合う位置が示された地図を俺に見せた。俺はスマホを受け取り、場所を確認する。一度も行ったことのない場所だが、まあ大丈夫だろう。

「……分かりました。」

 スマホを返しながら、そうつぶやく言う。俺の怖気付いたような様子が気にかかったのか、富永は、

「お願いしますよ。こんなことは言いたくないですけど、万一裏切るようなことがあれば、私にも考えがありますので……。」

「考え……?」

「本田さんとのやりとりは、初めに居酒屋でお会いした時から、すべて記録してあるんです。」

「え……!?」

「本田さんの身の上話、私の提案、そしてそれを受けると言う本田さんからの電話。美穂子さんの件でうちわせた時の内容も、そのあとのバーでの会話も、すべてね。」

「なんでそんな……!」

「保険ですよ、ただの保険です。私の立場もご理解いただきたい。もしここであなたに約束を破られたら、私の人生はそれこそおしまいだ。警察にバレなくても、一生怯えて暮らすことになる。しかも、多額の負債を抱えながらね。そんな人生は、さすがにゴメンだ。」

 憤りを隠せない俺とは対照的に、富永は落ち着いていて冷静だ。ゆっくりと酒を口に含み、続ける。

「大丈夫ですよ。約束さえ守っていただければ、決してそれが表に出ることはありません。」

「そんなの……どうやって信じればいいんですか!?」

「信じてくださいという他、ないですねえ。ご理解いただきたいのは、私はあなたを助けたいわけでも、苦しめたいわけでもないんです。ただ、お互いの利益が一致しただけ。互いに互いの問題を解決して、気分良く終わろうじゃないですか。」

 俺は何も言い返せず、黙るしかなかった。そもそも富永が本当のことを言っているかどうかも分からないのだ。実際に会った時の会話はともかく、こちらからかけた電話の内容まで、そう都合よく記録できるものだろうか。すべて、俺を逃さないためのハッタリかもしれない。だが……しかし……。

 富永の話がすべて本当だという可能性を完全に否定することも、俺にはできないのだ。

「……分かりましたよ。明後日の午後23時。お会いするのは、それが最後だ。」

「ええ、そうですね。よろしくお願いします。」

 結局のところ、ここまできたらやり通すしかない。自分の人生は、自分で取り戻してやる。俺は、残された酒を一気に飲み干し、そう腹を決めたのだった。

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