7章 そして夜が明けて(1)

 午前6時。眠ることも、巡り続ける考えを止めることもできなった頭は、鈍く重い。それでも今日も平日で、俺には仕事がある。移動時間を考えると、そろそろ活動を開始するべきだろう。重たい体を無理やり起こして、着替えを済ませ、荷物をまとめた。部屋を出て階段を降りると、

「おはようございます。」

女将が一礼とともに、出迎えてくれた。

「ああ……おはようございます。」

「ご朝食のご用意はできておりますが……いかがなさいましょうか。あまりご気分が優れないようにお見受けいたしますが。」

 傍目に分かるほど、ひどい顔をしているのか。俺はため息をついた。正直、食欲は全くと言っていいほどに湧いていなかったが、ここで朝飯を食べないのもおかしな印象を与えかねない。無理にでも、口をつけるべきだろう。

「いえ、いただきます。ありがとうございます。」

「左様でございますか。それでは、どうぞこちらへ。」

 女将の後に続いて、食堂へと入る。昨晩と同じ椅子に腰掛けると、間も無く、女将が朝食を乗せた御膳を持ってきた。昨晩の夕食を少し簡単にしたような和食だ。箸を取り、ゆっくりとつまみ始める。パサパサとして、あまり味を感じないが、何度か噛んで無理やり流し込む。そんなことを繰り返していると、

「……お口に合いませんでしょうか。」

心配そうな女将の声が耳に入った。朝食の御膳を置いた後、食堂を出て行ったと思ったが、いつの間にか戻ってきていたらしい。俺は慌てて、

「いえいえ。美味しいですよ。ただ、もともと朝食はあまり食べられないたちでして。」

と取り繕った。

「左様でございましたか。どうぞご無理はなさらないでくださいね。もしご希望でしたら、おかゆかスムージーのようなものを作ってお持ちいたしましょうか。そちらの方が、幾らかは喉を通りやすいかもしれません。」

「いえ、そこまでしていただかなくとも大丈夫ですよ。量を食べられないだけなので、少し残してしまうかもしれませんが、それだけお許しいただければ。」

「それはまったく構いませんので。もし、お気持ちが変わりましたらいつでもお声がけくださいね。」

 女将はやけに親切にそういうと、再び食堂を出て行った。女将の申し出は、本音を言えばありがたかったが、わざわざ別メニューを作り直してもらうのは、ちょっと大げさすぎるだろう。そう考えて断ってしまったが、その後も食は全く進まなかった。少し残すどころか、半分以上を残して、ついにそれ以上咀嚼するのを諦めた俺は、最後にお茶を一口飲み、席を立った。そのまま昨晩同様、女将に声をかけに階段下の部屋を覗きにいくと、

「ええ……今、朝ごはんをお出ししたところ。ええ……ええ……。」

 どうやら電話中のようだ。視線に気づいたのか、女将は顔をあげて俺の顔を見ると、

「ええ、それではまたこちらからご連絡いたしますので。失礼いたします。」

と言って、早々に電話を切ってしまった。

「すみません、お邪魔してしまいましたか。」

「いえ、業務連絡のようなものですし、まったく問題ございません。お食事はお済みでしょうか。」

「はい。美味しかったです。ありがとうございました。思っていたよりも残してしまって申し訳ないのですが……男のくせに量が食べられず、すみません。事前にお伝えしておけば良かったですね。食材を無駄にしてしまったのでなければ、良いのですが。」

「とんでもございません。わざわざご丁寧にありがとうございます。」

 微笑みながら礼を言う女将に、俺も会釈で返した後、スマホで時間を確認した。すでに午前7時を回っている。そろそろ出ないと、遅刻しかねないな。そう思って、再び女将に声をかけた。

「すみません、慌ただしくて申し訳ないのですが、そろそろ出発しようと思います。荷物を取ってくるので、清算をお願いします。」

「かしこまりました。お待ちしております。」

 自室へと戻り、忘れ物がないか確認した後、上着を着て、まとめていた荷物を持つ。階段を下りると女将が待っていて、すぐに精算することができた。

「朝食・夕食付きのお一人様ご一泊で、12960円になります。」

「領収書はお願いできますか。」

「領収書、ですか。……かしこまりました。」

 一瞬女将が動揺したようにも思えたが、あまり領収書を求められることはないのだろうか。

 提示された代金を支払い、領収書を受け取って財布にしまう。それにしても、大して見所のない、普通の宿だが、なかなか高かったな。まあ、殺人のアリバイ代だと思えば安いものか。そんなことを思いながら靴を履いたところで、女将から荷物を渡された。

「この度はご利用、誠にありがとうございました。お気をつけて、行ってらっしゃいませ。」

「こちらこそ、ありがとうございました。お陰様でリフレッシュできました。」

「それは大変ようございました。またいつでも、いらしてくださいね。」

 笑顔でお辞儀をし、見送ってくれる女将を背にして、俺は宿を出て、バス停へと向かう。外に出てみれば、日はすでに昇っていて、澄んだ青空が広がっていた。歩きながら、考える。これで俺のアリバイは完璧だ。何も気にやむことはない。末吉の件で、俺が罪に問われることはないのだ。

 あとは、富永をどうするか……。

「あの男が、どう出てくるかだな……。」

 富永は読めない男だ。どんな連絡が来るか、予想もつかない。だが、当面は、おそらく近いうちにやってくるだろう警察に、うまく対応するのが先だ。いくら俺が実際に犯人ではなく、完璧なアリバイがあるからとはいえ、下手な対応はしないように気をつけなくては。そうだ。自分の人生を守るためにも、いつまでも、鬱々としている場合じゃない。末吉なんて、その死を悼む価値もないような男だったじゃないか。俺はそう自分に言い聞かせながら、職場への道を急いだ。


 

「本田泰介さんですね?」

 週が明けた月曜日の朝、いつものように出勤しようと家を出たところで、2人組の男に声をかけられた。きたか。末吉が死んでからずっとそわそわしていたが、想像していたよりも遅かったようにも思う。

「そうですが……。」

 何が何だか分からない、といった体を装う。

「朝早くに申し訳ありません。○○県警の安田と申します。こちらは堀内。少々お話をお伺いしたいことがございまして。早速で申し訳ないのですが……末吉豊さんをご存知ですよね?」

 口調や物腰は柔らかいが、2人とも、眼光は鋭く、一挙一投足を見られている気がして、どうにも落ち着かない。嘘をつくのは、どう考えても得策じゃないだろう。

「警察の方でしたか。末吉さん、……ええ、知っていますが。亡くなったんですよね。ニュースで観ました。」

「その件について、少しお話をさせていただけますか。」

 決して押し付けがましく言われたわけではないが、妙な威圧感を感じる。俺は少々狼狽えながらも、

「……任意ですよね?それなら、出勤しなければならないので、歩きながらでも、よろしければ。」

なんとか淡々とした調子で返した。2人の刑事は一瞬視線をあわせた後、

「それで構いません。参りましょうか。」

安田と名乗った男がそう言った。3人の男が連れ立って、朝の住宅街を歩き始めるも、しばらくの間、刑事たちは何も言わなかった。俺もあえて自分から口を開くことはせず、歩き続ける。はたから見れば、なかなかに異様な光景だろう。俺の方を横目でちらりと見てから、ようやく、安田が再び口を開いた。

「末吉さんとは、具体的にはどういったご関係で?」

「……もうご存知なのでしょうが、お金を借りていました。300万円ほど。契約書をお互いに持っていますから、彼の部屋にもあったのではないですか。それで、私のところへいらしたのでは。」

 白々しい問いに、できる限り感情をのせないようにして答える。

「実のところ、その通りです。契約書を拝見するに、かなり本田さんにとって不利な契約のようでしたが。」

「……ええ、まあ。ただ、不利といっても、すぐに返済すればどうということもありませんから。」

「なるほど。すぐに返済できるあてがおありである、ということですか。」

「そうですね。うちは、金に困っているわけではないので。刑事さんも、それもご存知なんでしょう?」

 やけに含みをもたせたような言い方をする安田にそう返すと、俺は隣を歩く2人の男にちらりと目をやった。おそらく刑事たちが、会社に行きがてら話すという提案を許可するほど低姿勢で柔和な態度を保っているのは、義理の父親が金持ちでそれなりに権力があることを知っているからだろう。今のところ彼らの手の内にあるのは、俺が末吉に対して、無茶苦茶な条件で借金をしていた、という事実だけで、殺しに加担した証拠は一つもない。……まあ、そんな証拠はこの先も出てくる予定はないのだが。おそらく末吉が金を貸していた相手は、俺以外にもいるだろうし、その状態であまり俺に強く出すぎて、やぶ蛇をつつくことになったら面倒だ、という算段なはずだ。安田は俺の問いに、一瞬だけ目を見張ったが、すぐに口元に笑みのようなものを浮かべた。

「……お義父さまのことは存じ上げています。ですから、すぐに返済するあてがある、という本田さんのお話は理解できるのですが、それならそもそも借金をする必要はなかったのでは、とそこが我々はそこが気になっているのです。」

「……それには色々と事情がありましてね。話すつもりは、ありません。」

「……そうですか。」

 刑事はまったく納得していない様子だったが、

「とにかく、借金についてはお互い合意の上で契約したものですし、私もちゃんと契約通りに今月分の返済金額を振り込んでいます。来月か、おそくとも再来月には全額返済するつもりでしたよ。特に、問題はなかった。」

俺はきっぱりと答えた。

「振込をされた日の直後に、何度か末吉さんに電話でご連絡されていたようですが。」

 どうやら末吉は、着信履歴をまめに消すタイプではなかったらしい。

「振込をしたという連絡をしただけですよ。」

「それなら一度の連絡で済みそうなものですけどねえ。」

「……具体的に何を話したかについては、覚えていません。特に覚えておくべき内容でもなかったんでしょう。」

「……そうですか。」

 再び、まるで納得いっていないことをアピールするかのように、平坦な口調で刑事が答えた。その様子に、苛立ちが募り始める。早く、アリバイのことを聞いてこいよ。そうすれば、この馬鹿みたいに面倒な時間はすぐにでも終わらせられるっていうのに。

「念のため、確認なのですが、この間の水曜日の夜は、どちらに?」

 どうやら思いが通じたのか、ようやく安田がアリバイを俺に聞いてきた。俺は待ってましたとばかりに、はっきりと答える。

「その日なら、仕事で神奈川の方へ行っていました。」

「それは……日帰りで?お戻りは何時頃でしたか?」

「あいにく、仕事の後、神奈川の民宿に宿泊したので、その日は東京へは戻ってきていないんですよ。」

「民宿……ですか。」

「ゆたか亭、というこじんまりとした宿です。」

「なるほど……。その宿へは、どういった目的で宿泊されたんですか?宿泊は、お一人で?」

 畳み掛けるように問いかける安田に、俺は悠々と答えた。

「一人で泊まりましたよ。半分は保険、半分はリフレッシュするために、思いつきで宿を取ったんです。このところ、仕事関係で少しストレスが溜まっていたもので。その日は打ち合わせで神奈川まで行ったんですが、仕事が終わるのが遅くなる可能性がありましてね。宿を取っていれば、もし遅くなったとしてもすぐに休めるし、早くに終わったとしたら、一人の時間を堪能してちょっとゆっくりできるし、まあいいかな、と思いまして。」

「なるほど。それは、奥様もご存知で?」

「もちろん。妻に内緒で外泊なんてしませんよ。」

 これは本当のことだ。美穂子と関係を持っていた時も、外泊はせず、その日のうちに帰宅していた。だから、会うのは、仕事が早く終わる毎週水曜日に限っていたのだ。

「分かりました。いや、お時間を取らせて申し訳ありませんでした。」

「歩きながらですからね。大したことではありません。」

「もしかすると、またお話をお伺いしにくることがあるかもしれませんが……。」

「私が何かご協力できることはないとは思いますが、それでもよろしければ。」

「そう言っていただけると、助かります。」

 安田はそう言うと、軽く礼をして、踵を返し、来た道を戻っていく。もう一人の刑事も、軽く俺に会釈をした後、そのあとを追うようにして歩いて行った。おそらく、俺の家の周辺にパトカーでも駐めてあるのだろう。

 俺は男2人の後ろ姿を見送って、軽く息を吐いた。残り3分の1程度になった駅までの道のりを、再び歩き始めて、ふと嫌な考えが頭をよぎる。彼らは、幸恵にも話を聞くつもりだろうか。そこまで気が回っていなかった。つくづく俺はバカだ。刑事達は、俺が水曜日は外泊していたことを確認しにいくかもしれない。それだけで済めばいいが、俺が末吉に借金をしていたことを知っていたかどうかも尋ねる可能性は大いにある。あいにく今日は幸恵の方が先に家を出たから、もう自宅にはいないはずだが、俺が不在にしている時はいくらでもある。或いは、俺が家にいる時でも気にせずやってくるかもしれない。外泊の方は、むしろ俺が嘘をついていないことの裏付けになるし、問題ないとしても、借金の方は何かしら言い訳を考えておかないとマズい。

 なかなか上手く具合にいかない状況にイライラするが、とにかく警察は俺のアリバイを確認するだろうし、女将の証言ですぐに裏付けは取れるはずだ。借金も、無事に無くなったわけだし、何も問題はない。繰り返し、そう自分に言い聞かせていると、いつの間にか、駅へとたどり着いていた。

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