6章 完璧なアリバイ(2)

 午後7時、風呂から上がり、俺はそのまま食堂の方へ向かった。

「お湯加減の方はいかがでしたか?」

 ちょうど支度を整えていた女将が笑顔で振り返り、声をかけてくる。

「最高でした。ありがとうございます。」

 つとめて笑顔で、明るく返す。

「お気に召したようで、安心いたしました。今、お食事をお持ちいたしますので、どうぞこちらへおかけになってお待ちください。」

 女将から指定された、入り口から一番遠い椅子に腰をかけ、あたりを見回す。部屋には他にも三つ、机と椅子が用意されていた。2階にもそれほど部屋数があるようにも見えなかったし、本当にこじんまりとした宿なのだろう。

 ふと、壁にかけられた絵画が目に入った。真っ黄色のひまわりが、空に向かってまっすぐに伸びている。プロが描いた効果な絵……というよりかは、どちらかというと、子供が思いのまま素直に描いたような、そんなのびのびとした水彩画だ。

 ……なぜだろう。この絵を、俺は以前どこで目にしているような気がする。

「お待たせいたしました。どうぞ、お召し上がりください。」

 なんとなく気になって、絵画をまじまじと見つめていると、御膳を手にした女将が俺の横に立っていた。

「ああ、ありがとうございます。」

 軽くお礼を言って、目の前に差し出されたお善に目を向ける。焼き魚を中心とした、和食だ。特段豪華なわけではないが、出来立て特有の温かさそうな湯気を立てていて、食欲をそそられる。

「お口にあうとよいのですが……。」

「ありがとうございます。いただきます。」

早速箸を持って腹を満たしにかかった俺に、

「……あの絵が気になりましたか?」

女将がつぶやくように言った。

「え?」

 顔をあげると、女将は壁にかかったひまわりの絵を、どこか懐かしそうな眼で見つめている。俺がまじまじと見つめていたことに、気が付いていたのか。

「ああ……あの絵ですか。不思議な話なんですけど、なんだか、どこかで見たような気がして。まあたぶん、似たような絵をどこかで見かけただけだとは思うんですけど。誰か有名な方が描いた絵なんですか?」

 それにしては、子供っぽい作風ではあるが。

「いえいえ、あれは私の息子が、中学生の時に描いた絵なんですよ。」

「ああ、そうでしたか。」

「ひまわりの絵だなんて、学校が生徒に描かせそうなお題ですからね。既視感があるのは、無理のないことかと思います。」

「そういえば……僕も中学生の頃に学校の夏休みの宿題で描かされた覚えがありますよ。1年生の時だったかな。」

 そうか、それでなんとなく見覚えがあるような気がしたのか。それぐらいの歳の子供が描く絵なんて、どれも似たり寄ったりに思えるが、大人がよくわからない基準で選んだ、いわゆる優れた作品は、校内に飾られていることもあった。あまり記憶が定かではないが、おそらく中学校生活を送る中で、飾られているひまわりの絵を目にする機会もあったのだろう。そんなことを考えていると、

「どこが良かったのか、学年の最優秀作品に選ばれましてね。一年間ほど、学校に飾られていたんです。親バカだとは自覚しているんですが、なにもないのも殺風景ですし、せっかくだからと思って、ここに飾っているんですよ。」

女将が嬉しそうに言った。

 どこの中学もやることは同じだな。心の中ではそう思ったが、

「へえ、そうでしたか。優秀なお子さんなんですね。」

口には出さないでおく。

「ええ……そうでした。誰に似たのか、絵を描くのも得意だったんですけど、勉強もよくできたんですよ。」

 誇らしげにそう笑う女将に、

「お子さんは、お一人ですか?」

さりげなく俺は尋ねた。この女将はどうやら子供のことが相当自慢らしいから、その話題で褒めておけば、印象にも残りやすいだろう。

「いえ、二人です、二人兄弟。この絵を描いた上の子は、繊細で心の子の優しい子で、どちらかというと勉強とか絵を描くことが好きでした。反対に下の子は社交的でお調子者なところがあって、大の野球好き。……性格も好きなことも正反対でしたけど、歳が5つ離れていたせいか、あまり喧嘩もしなかったですねえ。」

「へえ。私はひとりっ子なので、仲のいい兄弟というのは羨ましいです。」

 本当のところ、祖父母や両親からの愛を一心に受けられるひとりっ子で良かった、と思っているのだが、適当に返しておく。女将は笑って、

「懐かしい話です。……お食事をお止めして、大変失礼いたしました。何かあれば、お呼びください。玄関を入ってすぐ左手の部屋におりますので。」

一礼して部屋を出ていった。本人も言っていたが、どうやら相当な親バカらしい。年齢からして、おそらく息子もいい歳だと思うが、あれじゃあ、息子の結婚相手は大変だろうな、などと思いながら、まっすぐに伸びたその背を見送り、俺は食事に意識を戻した。

 食べながらぼんやりと考える。なにはともあれ、女将と話すことはできた。だがなるべく接点は増やした方がいいだろうし、念のため、飯のお礼を言いにでも、後で女将のところに顔を見せておくことにしよう。食事の味は、可もなく不可もなく……といったところで、ごく普通の家庭料理というのが正直な印象だったが、とりあえず褒めておくとしよう。

 それにしてもこの宿は、立地もそれほど良いわけではないし、風呂も飯も、悪くはないが、かといって特筆すべきところがあるわけでもない。富永も、こんな目立たない宿をよく見つけてきたものだ。実際採算が取れているのかどうかも怪しいところだが、アリバイ作りという目的を持った身からすると、人気があるわけでもなく、実にこじんまりとしたこの宿は丁度良かった。

 

 今の所はすべて、順調だ。

 

 

 飯を終え、女将にも挨拶をして、俺は部屋へと戻ってきた。適当にテレビをつけて、食事の間に用意されていた布団の上に横たわる。

「ふー……。」

 一息ついて目を閉じると、なんだか本当に息抜きのための小旅行にきているかのような錯覚に陥った。実際、ここ最近の俺の生活は、どことなく現実味がなかった。不倫がバレて借金生活が始まり、不倫相手を会ったばかりの他人と共謀して脅し、今度は借金相手を殺させようとまでしている。これまで送ってきた波風のない人生とのギャップがありすぎて、こうして思い返していてもどこか他人事のように思えてしまう。ほどよく温まりリラックスした体が柔らかい布団に沈み込む。それに満たされた腹がプラスして、なんだか急速に眠くなり、俺はその誘惑にあらがうことなく、そのまま身を任せた。

 

 ブーブーという規則的な振動を感じて、意識が戻る。少しぼんやりしたままスマホに手を伸ばすと、時刻はすでに23時を回っており、幸恵から、


【宿についたかな?リラックスできてる?】


というメッセージが来たことを知らせる通知が目に入った。

「やべ……写真を送らないと。」

 慌ててカメラロールを操作していると、タランタランとやけに軽快な音が耳に入った。発信源は、スマホではなく付けっ放しにしていたテレビのようだ。そちらに目をやると、バラエティー番組が終わり、夜のニュース番組が始まるところだった。落ち着いた雰囲気の男女のアナウンサーが声を揃えて挨拶をする。

「−−速報です。本日、〇〇県△△市にて、殺人事件が発生しました。人気のない路地裏で、刃物で襲われたとのことです。犯行場所、犯行曜日から、半年ほど前から発生している一連の通り魔事件によるものとの恐れがあり、現在捜査中です。」

 男性のアナウンサーが神妙な顔で伝え、画面には、

『被害者は■■市在住の末吉豊さん(43)』

という短いテロップとともに、たった一度会っただけなのに忘れることのできない男の顔写真があらわれた。

 

 本当に……やったのか。すっと顔から血の気が引く。もちろん、富永を疑っていたわけではない。もし疑っていたら、こんなところへわざわざ泊まりに来ない。だが……心のどこかで、そんなことになるわけがない、と思う部分があったのは事実だった。そんな、俺のせいで誰か人が死ぬなんて、殺されるなんて、そんな非現実的なことは起こらない、と。それが……実際にこうして現実を突きつけられると……。

 

 ウーウー……ウーウー……

 

 呆然としたまま、機能を停止し、なにも考えられなくなった俺の意識は、手の中で小刻みに震えるスマホによって無理やり浮上させられた。非通知設定になっているが、誰からの電話かはすぐに分かった。富永だ。震える指で、応答ボタンを押す。

「……もしもし。」

「ああ。本田さんですか。今、大丈夫ですか?」

 自分でも驚くほど、かすれた声しか出なかった俺とは対照的に、富永はいつもと同じように淡々としていて、まるで職場で取引先と話す時みたいに、ビジネスライクな口調だった。

「だ、大丈夫です。」

「それは良かった。こちらの首尾は上々、というご報告です。もしかすると近日中に話を聞きに本田さんのところへ何かしらの連絡があるかもしれませんが、おそらく問題はないかと。そちらはどうです?ゆっくりできていますか?今後のことは、本田さんが落ち着き次第、改めて話し合いましょう。」

 なんとなく濁したような言い方だが、要するに、予定されていた仕事は終わった、警察が俺に事情を聞きにくるだろうから、それが片付いてから、最後に残された取引の話をしよう、ということなのだろう。早速最後の取引について話を持ち出してくるあたり、本気で俺に殺されたがっているらしい。それも、なるべく早く。……だが、そうでもなければ、自分自身は何の恨みも抱いていない人間を、わざわざ殺したりなんかしないか。

「本田さん?」

「……ああ、すみません。少し、考え事をしていて。……こちらも首尾は上々です。あとは、妻にメッセージでも送ろうかと。」

「そうでしたか。それは早めに送られた方がいい!奥様もご心配なさっているでしょうからね。また落ち着いた頃合いに、私の方からご連絡しますよ。」

「……わかりました。」

「それでは。」

 そう言って、富永は通話を切った。

 末吉は死んだ。俺の足元を見て、法外な借金を吹っかけてきたやつはもういない。俺がやったわけではないから、俺が捕まることもない。あとは、契約通り、俺が富永を殺せば……それで終わりだ。だが、そんなリスクは犯せない。昨夜考えていたように、なんとしてでも、俺は富永との契約をバックレるつもりだった。おそらく、簡単には逃がしてもらえないだろうが……。

 そう思うとなんだかまた気分が暗くなってきたが、それでも、よくよく考えてみると、今まで抱えてきた問題に比べたら、それほど大した問題でもないように思える。金が絡んでくる末吉の件や、情が絡んでくる美穂子の件とは違って、死にたがっている奴を死なせてやるだけの話だ。そもそも富永は死にたがっているわけで、死にたがっている奴を殺すこと自体には、法律上はどうあれ、何の罪悪感もない。問題は、それが警察にバレないか、ということだけだ。

 とりあえずは、富永の提案を聞くだけ聞いてみるか……。俺はそう思い直した。リスクヘッジの観点から考えても、俺が抱えていた問題を知っている人間が一人でも減ることは、悪いことじゃない。富永の提案に少しでも懸念材料があれば、それを指摘し、頑としてやらなければいいだけの話だ。

 なにはともあれ、とにかく今は、俺のアリバイを完璧なものにすることが最優先だ。スリープ状態になっていたスマホを再び起動させて、カメラロールからここへきた時に撮影した写真を選んで、幸恵へ送る。


【無事についたよ。一人旅、許してくれてありがとう。お陰でリラックスできてます。】

 続けてメッセージも送ると、すぐに既読になり、返信が来た。

【良かった!ゆっくり休んでね。おやすみなさい。】

【おやすみ。】

 

 美穂子とは違い、実にあっさりとした内容だったが、そこに幸恵なりの気遣いを感じる。スマホの電源を切って、テレビも消し、布団へ横になる。ネットニュースや深夜のニュース番組で、末吉の件について、情報を漁りたい気持ちはあったが、それ以上に、とにかく休みたかった。なにも考えず、休みたかった。だが、そんな俺の思いとは裏腹に、結局その夜は一睡もできず、朝を迎えたのだった。

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