6章 完璧なアリバイ(1)
夕方には仕事が終わり、仕事仲間と食事を取った後、家族にお土産を頼まれているから少し買い物をしてから帰る、と適当に嘘をついて、富永から紹介された民宿へと向かった。中心部から離れた駅から、さらにバスを使って30分ほどかけ、ようやく着いたその宿は、ちょっと洒落た少し大きめの昔ながらの古風な一軒家のような印象だ。『ゆたか亭』とシンプルな看板が掲げられている玄関を通って中に入ってみると、少々年季は感じさせられるものの、清潔感のある落ち着いた雰囲気に包まれている。扉を開けるとすぐ、50代くらいに見える女性が出迎えてくれた。着物を着ており、髪には白いものが混じってはいるが、なかなかの美人だ。俺を顔を見て、一瞬だけ顔を強張らせたような気がしたが、すぐに笑顔で、
「ようこそお越しくださいました。」
と一礼してくれる。それは、どことなく上品に感じられる所作だった。
「あの……予約している、本田です。」
富永が予約してくれているはずの自分の名前を言うと、
「本田様ですね。お待ちしておりました。」
優しげな笑みとともにスリッパが差し出され、俺はそれを素直に履いて、玄関からあがった。
「お部屋はお二階になります。お風呂場が廊下をまっすぐ行って突き当たりを右、お食事は左にございますお部屋にてお取りいただいております。どうぞ、こちらへ。」
風呂が右で、飯が左。心の中で復唱し、今西に続いて、玄関からすぐのところにある階段を上がる。部屋は階段をあがってすぐの8畳ほどの広さがある和室だった。見たところ、部屋の中央に机と座椅子があり、その他にもテレビに電話に冷蔵庫といった最低限のものは揃えられているようだ。
「なかなか……雰囲気のある宿ですね。」
まあ普通の和室だな、というのが本音だったが、とりあえず褒めておくにこしたことはないだろう。なるべく会話をして、俺自身を印象付けるよう、富永からも言われていることだし。女将は額面通りに受けっ取ったのか、
「ありがとうございます。ほとんど私がひとりで切り盛りしておりますこじんまりとした宿ですので、そのように言っていただけると、大変嬉しく思います。」
と嬉しそうに顔をほころばせた。
「お風呂は午後6時以降、ご利用いただけます。お食事は何時頃にご用意いたしましょうか。」
「食事の時間は決まっていないんですか?」
「本来ですと、ご夕食は午後7時ごろ、ご朝食は午前7時ごろでお願いしているのですが、本日のご宿泊は本田様のみですので、本田様のご都合にあわせて、ご用意させていただきます。」
今日は、俺しか泊まらないのか。そもそもここへ泊まりに来た目的を考えると、それはかなりラッキーな情報だ。ここに来て、俺もようやく運が向いてきたかな。
「あの……?」
そんなことを考えていたら、どうやら無意識のうちににやけていたらしく、女将に不審そうな目でみられる。俺は慌てて、
「ああ、いや。なんでもありません。それでは夕食については、いつも通り、午後7時ごろにご用意いただけますか。朝食は、7時にはここを出たいので、できれば少し早めて午前6時半ごろだとありがたいです。」
と返した。印象付けるにしても、おかしな奴だと思われるのは得策じゃない。なるべく誠実で迷惑をかけない良い客だったと証言してもらいたい。殺人を犯すような人には見えなかった、と。
「かしこまりました。ご夕食が午後7時ごろ、ご朝食が午前6時半ごろですね。その通りにご用意させていただきます。それでは、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ。もし外出される際は、お部屋の鍵を私の方にお預けになられますようお願いいたします。その他、何かございましたら、ご連絡ください。内線1番でつながりますので。」
女将はそう言うと、一礼して、部屋を出て行った。
「ふう……。」
俺は女将を見送り、一息ついてから、座椅子に座った。体を背もたれに思い切り預け、着ていたスーツの上着を脱ぎ捨てる。時刻は午後6時。飯まではまだ1時間ある。部屋でじっとしているのも落ち着かないし、外を少しうろうろしたい気もしたが、ここへ来たのはあくまでもアリバイ作りのためだ。なるべく怪しまれるような行動は避けたほうがいいだろう。外に出るには女将に鍵を預けなければならない。ということは、外に出なければ、それを女将の方で証言してもらえるだろう。まあ、もちろん女将の目を盗んでこっそり外に出た、という可能性も考えられなくはないが、食事の時間を午後7時に指定しているから、1時間で都内へ戻り、人を殺して、またここへ戻ってくる、というのは時間的に不可能なことはすぐにわかるだろう。
「要は大人しく一晩この部屋で時間を潰して、大人しく時間通りに飯を食って、それなりに女将と会話すれば、俺のアリバイが完璧に保障されるってわけか……。」
ひとり、呟く。富永は今頃、どうしているのだろうか。具体的な方法については、何も聞かされていない。正確には、聞くには聞いたものの、一切答えてもらえなかった、というのが正しい。富永曰く、この件については、俺は完全に白なのだから、余計な情報は耳に入れないほうがいい、ということらしい。それはもちろん正論だとは思うが……どこか、騙されているのではないか、という疑念もぬぐいきれない。しかし、とにかく、来るところまで来てしまったのだ。今更気にしたところで、もう遅いだろう。
「あ……そうだ。」
ふと、富永に言われていたもう一つのことを、思い出す。宿に泊まっている証拠写真を念のため幸恵に送るよう、言われていたのだ。俺は傍に脱ぎ捨てた上着のポケットを探り、スマホを取り出した。立ち上がって、窓を背にして立つ。時計が映らないようにして、部屋の全体像を写真に収めた。だいたい23時くらいになってから、これを幸恵に送ればいいか。忘れないように、アラームも設定する。
「……これでよし、と。」
再び座って、テレビをつける。どの局もこの時間帯はニュース番組だ。富永の犯す事件は、今日のニュースで報じられるだろうか。報じられるとしたら、何時頃になるだろう。本当に彼は、人をひとり殺すのだろうか。居酒屋で偶然出会った、男のために?
いや、それは違う。彼が人を殺すのは、俺のためなんかじゃない。
彼自身のためだ。彼が俺に殺されるため。それが唯一の目的だ。
その時が来たら、俺は本当に彼を殺せるだろうか……。
後回しにしてきた疑問が、再び頭によぎる。慎重に連絡を取り合ってはいるが、実際に俺と富永は何度か会っているし、富永が末吉を殺したとバレれば、芋づる式に俺の存在に警察が勘付くかもしれない。それを防ぐためにも、なるべく早く、俺が富永を通り魔の犯行に見せかけて殺す必要がある、と富永は言っていた。彼の言うことは、正しいだろう。万一、俺と富永が会っているところを誰かが覚えていて、それを警察に話されでもしたら、多額の借金を抱えた俺が殺しを富永に依頼したという推測は、小学生にだって立てることができる。特に初めて会話をした居酒屋での夜は、俺が動揺して大声を出したせいで、店員や周囲の客にそれなりに記憶に残ってしまっている可能性が高い。だから、やるなら早いほうがいいのだ。それこそ、来週の水曜にでも。
「できるのか……俺に。」
単純に考えればできないだろうな。どこか他人事のようにそう思った。流石にこれまでの人生で人を刺したことはないし、刺された人間をみたこともない。この間、美穂子を脅すために、末吉と一芝居打ったのだって、芝居だとは分かっていてもかなり緊張した。それが今回は、本当に刺さなければならない。そして、命を奪う。どう想像してみても、問題なくやり遂げている自分のイメージが湧かない。
正直なところ、俺はバックレるつもりだった。人ひとりの命を奪う良心の呵責に耐えられない……というよりも、やはり実際に殺してしまったら、それだけで警察に逮捕され、刑務所に入れられるリスクが高まる。末吉の件は、俺には犯行が不可能なわけだから、なんとか言い逃れができるかもしれないが、実際に自分の手を汚してしまえば、どこから足がつくか分からない。富永は最大限協力するから大丈夫だ、と言っていたが……。
いつか富永に指摘されたように、俺は自分の人生を守るためなら、他人がどうなろうが気にしない人間だ。子供の頃からそうだ。小さなことからあげていけばキリがない。小学生の時は、工作の材料のペットボトルを自分が忘れてしまったのに、クラスで一番気弱なやつから奪って、自分のものにした。当然、そいつは俺に盗られたと訴えたが、成績も良く、愛想も良かった俺の言うことを皆信じた。中学の時は、ひとりどうしてもテストの成績で敵わない男子生徒がいた。そいつの存在がずっと目障りで、中2で同じクラスになってからは、教師にバレないように、他のクラスの連中にいつが俺の悪口を言っていたと嘘をついて孤立させたりしてストレスを解消していたし、中3になり、そいつが俺と同じ進学校の推薦を狙っていると分かった時には、担任教師の弱みを握って脅してまで、蹴落としてやった。風の噂で聞いただけだが、結局そいつは地元のレベルの低い高校へ入学せざるを得なかったらしい。
高校、大学と進むにつれ、流石に俺よりも賢いやつが増えてきて、それまでより派手に自分の思う通りに動かすことは出来なくなったが、それでも利用できると思った奴はとことん利用してきたし、社会人になってからもそうだ。今回だって同じ。末吉も富永も、結局名前しか知らない他人だし、利用するだけ利用して、あとはどうでもいい。富永に末吉を消してもらって、俺自身の手は汚さない。それでいいじゃないか。確かに富永を消さない限り、末吉の件で俺が疑われる懸念は消えない。だが、そっちはいくらでもごまかせるんじゃないか。少なくとも、実際に富永を殺すよりは、よほど気が楽だ。なんたって、俺には富永が用意してくれた鉄壁のアリバイがあるし、結局のところ、俺と富永の契約成立を裏付ける証拠なんて、ないのだ。万が一、居酒屋での会話を誰かに盗み聞きされていたとしても、俺は一切承諾していないのに、勝手に富永が暴走してやってしまったことにすればいい。
自分の中で結論を出して、なんとなくスッキリした。座椅子の上で、ぐっと一つ伸びをして、時計をちらりと見た。時刻は午後6時半。風呂に入って、飯を食うか。飯の時は、なるべく女将と会話しなければ。いざという時、俺の味方になってもらうためにも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます