5章 危険な夜道(2)
「いや、想像していたよりもうまくいってよかった。」
交換殺人を提案してきた男は、震える声で電話してきた俺に、富永と名乗った。富永は今、俺の目の前で、右頬を少し赤く腫らし、満足そうに酒を揺らしている。富永に指定されたバーの隅で、俺たちは酒を酌み交わしていた。バーテンダー以外、他に客もおらず、誰かに話を聞かれる心配もない。富永は楽しそうに続ける。
「うまくいかない可能性ももちろんありましたからねえ。可能性は低いと踏んだとはいえ、より一層あなたへ依存してくる懸念はあった。」
「……そうですね。」
「今のところは、落ち着いているんでしょう?」
「ええ。連絡はあの夜の直後に少しあったくらいで、今は会社で顔をあわせることがあっても、会釈くらいなものです。」
「それは本当に良かった!無事、作戦成功、ですねえ。」
そう笑うと、富永は酒を口に含む。赤くなった頬の様子からして、口の中もどこかしら切れているのでは、と思わなくもなかったが、特に痛がるそぶりもない。痛みも後ろめたさもなく、計画がうまくいったことに対する単純な喜びしか読み取れないその様子に、俺はなんとなく薄気味悪さを感じた。それを無理やり断ち切るかのように、声をかける。
「あの……。」
「なんですか?」
「今回の件って……俺も一緒に襲われる必要は、あったんですかね?」
「と、いいますと?」
「別に美穂子一人だけを脅してもらえば、それで良かったような気もして……。ようは、外を出歩きたくなくならせればいいわけでしょ?」
「その方法ですと、先ほども申し上げた、あなたに対する依存度が高まる可能性があがってしまいます。」
「どうして?」
至極当然のことのように富永に返されたものの、よく理解できていない俺に、富永は嚙んで含めるような口調で続けた。
「今回の方法の良いところは、まず第一に、あなたと一緒に襲われることで、あなたに対するイメージがマイナスに塗り替えられます。それまでは、彼女にとってのあなたは、退屈な結婚生活に刺激をあたえる、いわば娯楽の一種でしたが、これからはあなたを見るたび、あなたのことを考えるたびに、通り魔に襲われたことを思い出すことになる。これは彼女のあなたに対する執着心を失わせるためには、とても重要なことです。第二に、あなたが通り魔をけん制したおかげで逃げ出すことができた、という事実は、ある種あなたに対して借りを作ったことになる。命の恩人という、非常に重たい借りをね。そんな借りのある相手を追い詰めるような行動を取り続けることは、やはり精神的な負担になります。これらを考えると、彼女にとっても、あなたから距離を取ることは自分の心の安定を守る、という点で有効な選択肢になりうる、というわけです。最後に、あなたも一緒に襲われることで、あなたに絶対的なアリバイができますからね。失礼ながら、それほど賢い女性にも見えませんでしたが、あなたが彼女を脅すために襲ってきた、と疑われても困りますし、万一正体がバレるようなことがあれば、それこそおしまいですからねえ。念には念を、というわけです。」
「なる……ほど。」
「一方で、これがひとりでいるときにただ襲われただけだと、あなたに対するイメージが変わることもないし、あなたに借りをつくることもない。逆にひとりでいることが不安になり、その気持ちを鎮めるために、あなたを利用しようとする可能性が出てくるわけです。」
「そういうものですか……。」
「まあ、ごちゃごちゃといろいろ言いましたが、何も私だって心理学の天才というわけではありませんからねえ。詰まるところ、結果オーライ、というやつですよ。」
富永は明るくそうまとめると、俺の肩を軽く叩いた。俺の問題を解決してやる、と大口を叩いた割には若干の行き当たりばったり感が否めなくもなかったが、富永の言う通り、何はともあれ、美穂子の件はとりあえず落ち着いた。無論、完全に安心できるというわけではないものの、それもこれも、富永の協力のおかげであることには間違いない。かなり荒っぽい方法ではあったが。
「あの、富永さん。ありがとうございました。お陰で、美穂子の件は、なんとかなりました。顔も、その、思い切り殴ってすみませんでした。芝居なわけだから、もう少し手加減すれば良かった。」
そう言って、頭を下げる。
「お礼を言われるようなことではありませんよ。これは、取引ですから。」
「取引……。」
改めて突きつけられたその言葉に、思わずたじろぐ。取引。今回の一件は、結局のところ未遂だし、警察にも届け出ていない。だが、続く二つの取引は、違う。両方とも、警察沙汰になることは間違いない。果たして今回のように、二つともうまく行くのだろうか。
富永は逡巡する俺の様子に気づいたそぶりを見せることはなく、軽く腫れた頬を撫でると、
「これも、思い切りやってください、と言ったのは私ですからね。どうか気にしないでください。やはりこういったことには、リアリティーがなにより重要ですから。」
どこか楽しんでいるかのような口調でそう続けた。
「はあ……。」
「さて、次は……いよいよ末吉豊の方を始末しないといけませんねえ。」
富永から発せられた名前に、俺は口を噤んだ。末吉豊。それがあの男の本名らしい。一応、名前については、本当のことを言っていた、ということだ。俺が富永に取引を引き受ける旨の連絡をした後、次に今回の通り魔未遂事件を仕立てるための打ち合わせの連絡を取ったときには、すでに富永はその名前をつかんでいた。俺が伝えたのは俺が知っていることだけ、すなわち、教えられた苗字と連絡先、見た目くらいなものだったのだが。
……おそらく、この富永という男も、一筋縄ではいかない、まともな人間ではないのだろう。事業に失敗して、という話も本当かどうか、怪しい。俺も、興信所へいくなりなんなりして、この男についてよく調べてから、連絡すべきだったか、と後悔がよぎる。
……いや、いまさらそんなことを考えたところで、もう遅い。とにかく、美穂子の件はなんとかすることに成功したのだ。ここまできたら、この男を最大限利用して、もう一つの問題を解決するまでだ。もう一つの問題。終わらない借金。それを終わらせる。終わらせるためには……。
「次は、未遂、じゃなくなりますからねえ。流石に、ちょっと気合が入りますね。」
わざと茶化すようなその口調に、俺は顔をあげて富永を見た。
「もし、嫌になったのなら……。」
「いえいえ。私の方から降りるつもりは毛頭ありませんよ。もっとも、本田さんにも降りていただくわけにはいきませんが。ようやく見つけた取引相手だ。人生のコントロールを取り戻したいのは、本田さんだけではないんですよ。……まあ、私の場合は、取り戻したい、というよりも、終わらせたい、の方が正確でしょうかね。」
「はあ……。」
自嘲気味にそう言った富永の顔は、口角はあがっているものの、眼は笑っていない。まるで、最初に居酒屋で会った時のようだ。一つだけ違うのは、終わらせたい、と言った時の富永の眼が、異様に暗く沈んで見えたことだ。もしかすると、借金以外にも、何か死にたい理由があるのかもしれないな。自分の人生を捨てたくなってしまうような、何かが。
「詳しいことは、また連絡しますよ。今回も少し、あなたにも動いていただかなければならないことがあるかもしれない。」
なんでもないことのように言われた言葉に、
「え?俺も、関わるんですか!?」
一気に胸に不安が募った。富永は俺との契約書を持っている。富永が殺されれば、富永の所持品などはすべて調べられるはずだし、そうすれば俺も容疑者候補に浮上することは想像に難くない。そんな状況下で下手に事件に関われば、真っ先に警察に疑われるだろうし、実際になんらかの形で関わっている以上、うまく警察の目をごまかせる自身も正直あまりない。そんな胸中を読み取ったのか、富永は笑いながら続けた。
「いやいや、何も実際に何か手伝っていただく、というわけではありませんよ。」
「そう、なんですか……?それじゃあ、一体なにを……?」
「むしろ、本田さんには身を隠しておいていただきたいんです。」
「身を、隠す……。」
「ご自身でもお気づきだと思いますが、この間の一件とは違って、次は警察の介入が不可避ですからね。そうすると、末吉の身辺調査が行われ、直近で、しかもものすごく不利な契約で大金を借りているあなたはまず間違いなく疑われるはずです。おそらく、警察が事情を聞きに現れる可能性だってある。」
「警察……。」
富永も俺と同じことを考えていた。実際に警察に疑われ、事情を聞かれる状況を想像して、思わず背筋に寒気が走る。どうにかして、ごまかせるだろうか。とにかく幸恵にだけは、なんとしてもバレないように、うまくかわさなければ。
「そうです。そうなった時、なるべく速やかに本田さんを捜査線上から外してもらえわなければいけない。そのためには、鉄壁のアリバイが必要です。」
「アリバイ……ですか。」
「たとえば、どこか少し離れたところに一晩泊まっていただく、というのはどうでしょうか。それもその日にあなたが宿泊していたことを覚えていてくれるような……そうだな、小さな民宿なんかはどうでしょうか。まあ防犯カメラや宿泊台帳はあるでしょうから、ビジネスホテルでも構わないとは思いますが、念には念を入れた方がいいでしょう。わざわざ一泊する必要はないんじゃないかとお思いになるかもしれませんが、次も通り魔事件に見せかけますから、水曜の夜に実行することになります。しばらく末吉の行動パターンなどを調べはみますが、具体的に何時何分に刺し殺します、とあらかじめ私の方でも言えない可能性が高い。」
「……。」
富永の直接的な表現に、俺は思わず一瞬言葉を失う。刺し殺す。俺たちは今、人ひとりの命を奪う話をしているのだ。その事実に改めて、気付かされ、俺は俯いて唇を噛み締めた。そんな俺を他所に、富永の方は、まるで気にしていないかのように淡々と続ける。
「ですから、できれば、その日は一晩中都内にはいなかった、としていただくのが確実なのではないかな、と思うんです。家にいた、では弱い。たとえ奥さんと一緒に過ごされても、家族の証言は庇っている可能性がありますし、基本的に信用されないでしょうからね。ただ、どこかに泊まるとなると、奥さんに対しての言い訳も必要になってきますから、できればお仕事と何かしら絡めることができれば丁度いいのですが。」
「なるほど……。」
富永の言う通り、どこかへ一晩泊まるとなると、それなりの理由づけをする必要があるだろう。急に明日仕事帰りにちょっとどこどこへ一泊してくる、というのは逆に怪しすぎる。
「たとえば、直近の水曜日で、どこか出張にいかれるご予定はありますか?それほど遠い場所でなくても構わないんですけど。」
富永の問いに、仕事のスケジュールを思い出す。もともと俺の部署は、それほど出張が多くない。せいぜい、打ち合わせのため日帰りでどこかへ行くくらいだが……そういえば。
「……ちょうど再来週の水曜日に、神奈川の会社に、打ち合わせに行く予定がありますね。朝一で行って、夕方ごろには終わる予定なので、泊まりの予定は今のところ全くないですが。」
それを聞いて、富永は満足そうに頷いた。
「それはちょうどいいですね!仕事で遅くなるかもしれないし、ちょっと良い民宿を見つけたから息抜きを兼ねて泊まることにした、とでも言っておけばいいでしょう。普段そういったことをしないのならば、もしかすると奥様には多少怪しまれるかもしれませんが、まあ特に都合の悪いことをするわけでもなく、本当にただ民宿に泊まるだけですし、最近のストレスが溜まりに溜まったあなたの様子を考えれば、おそらく奥様も多めに見てくださるでしょう。」
「そう……ですかね。」
確かに幸恵に既にストレスによる醜態を二回も晒している。うまく話せば、分かってもらえるかもしれない。会社の連中には、適当に説明して、先に帰京してもらえばいい。
「神奈川の方で良さそうなところを見繕っておきますよ。……取り急ぎ、決行は再来週の水曜日、ということで。よろしいですね?」
念を押すかのようにそう言って、富永はじっとこちらを見つめた。俺はその視線に少したじろぎながら、
「……はい。」
と小さく頷く。
再来週には、すべて片付く。元の将来への希望に満ちた生活に戻れる。その考えに素直に喜んでいる自分と、どうせまたこの選択を後悔することになるって分かっている癖に、と妙に達観している自分がいて、俺はなんとも言えず、小さくため息をついた。それに気づいたのか、富永は少し笑って言った。
「正直、少し意外ですね。」
「意外……ですか?」
「なんとなく、ですが。あなたはもっと、気にしない人間かと思っていたものですから。」
「……気にしない人間?」
「自分の人生を守るためなら、他人がどうなろうと気にしない人間。」
そう言ってこちらを見つめる富永の眼は、どことなく暗い。俺は何も返すことができず、眼を伏せた。
「いや、お気を悪くさせてしまったのなら申し訳ない。どうも少し飲みすぎたようです。今日はこの辺でお開きとしましょうか。」
「……そうですね。」
手をあげてバーテンダーへ合図する富永を横目で見ながら、俺は富永に言われた言葉を反芻していた。彼の言ったことは間違っていない。俺は自分の人生を守るためなら、なんだってする。子供の頃からそうだった。ついた嘘は数え切れないし、そのせいで誰かが傷つくことがあっても、自分が傷つくことはなかった。むしろ、やり返してくればいいのに、とすら思っていた。どうして自分の人生への他人の介入を許すのか。これまでの人生の中で、踏み台にしてきたのは、皆、直接的に歯向かってこないような、繊細な心の持ち主だったように思う。あまり、記憶に残っている訳でもないが。
自分の人生を守るために、他人を利用することは悪いことじゃない。今回の件では、末吉を利用した結果、痛い目にあったが、でも、それももう終わる。そう。末吉は、俺を利用しようとして、失敗するだけの話だ。俺の方が一枚上手だった。それだけの話。
「……本田さん?」
「あ、すみません……。」
気づけば、支払いを終えた富永が不思議そうに俺を見ていた。
「あの、お会計……。」
「かまいませんよ、ここは私が。」
「……ありがとうございます。」
正直、今は少しの金も惜しい。ここは素直に甘えておくことにする。目の上のたんこぶが無事無くなったその時は、充分にお礼をするとしよう。まあ、この男にとっての最大限のお礼は、俺に殺されることらしいが。
でも、俺に、人が殺せるのか……?
富永に最初に電話をかけて以来、ずっと頭の中から消えないその思いを無理やり振り切り、俺は席を立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます