5章 危険な夜道(1)

「でもホント、今日は、ようやく会ってくれて嬉しかったよー!このまま無視されるんじゃないかと思ってたからさー。」

「ほとぼりが冷めるまでは、仕方ないだろ。ついこの間、お前の旦那に関係がバレたばかりなんだ。それを忘れるなよ。」

「別に忘れたわけじゃないけどさー。もうたいちゃんが300万円払ってくれて、解決したんだし、よくない?私も旦那にちゃんと謝って、一応再構築するってことで、まとまったし。万事解決ってことで!」

「お前な……。」

 いつも逢瀬に使っていた場所とは違う駅の喫茶店で、数週間ぶりに会う美穂子は、まるで慰謝料騒動なんてなかったかのように、あっけらかんとしていた。どうやら向こうの旦那に離婚するつもりはなかったようだし、実際美穂子からすると、とっくに終わった話なのだろう。俺からすれば、たまったもんじゃないが。

「でも、さすがたいちゃん!って感じだよね!請求されたお金、ぽーんと支払っちゃうんだもん。うちの旦那、ホントはたいちゃんが支払えないよーって泣きついてくるの期待してたと思うんだよね。たいちゃんの奥さんとか会社とかに全部バラしてやりたい!って思ってたっぽいから、内心ちょっと悔しがってたんじゃないかなー。ま、たいちゃんの方が一枚上手だったってことで!」

 美穂子が笑いながら言う。300万払わされている時点で、上手もへったくれもあるか。その金のせいで俺がいまどれだけ窮地に立たされているか、この女はなにも分かっちゃいない。ただ、自分の見たいようにしか、物事を考えられないのだ。どうして、こんなバカな女に手を出しちまったんだろう。美穂子の笑顔に苛立ちを隠しきれない俺は、

「そんなに簡単な話じゃない。」

と固い声で返すのが精一杯だった。美穂子はそんな俺の様子に気づいているのか、もしくは気づかないふりをしているのか、

「それで!今日はこれからどうする?もしかしてこのまま……ホテル、いく?」

妙に作られたような上目遣いと甘えた声で、俺を窺った。

「いくわけないだろ。いい加減にしてくれよ……!」

 美穂子がびくりと体を震わせたことに、つい声が荒くなってしまったことに気づき、

「……先のことはともかく、しばらくは大人しくしておかないと。分かるだろ?」

と出来る限り冷静に諭した。ここで、あまり美穂子を刺激して、逆ギレされるようなことは避けたい。美穂子は不服そうにネイルをいじりながら、

「……はいはい、分かってまーす。」

と不貞腐れたように返してきて、その態度にさらに苛立ちが募るが、なんとか抑え込む。

「……それならいいけど。」

「でも、無視はしないでよね!あたし、無視されるのが一番嫌いだから。」

 何様だよ、と喉まで出かかった台詞をすんでのところで飲み込み、

「……分かったよ。ほら、そろそろ行くぞ。今日は水曜だし、駅までは送っていくから。」

そう言って、伝票を取った俺に、

「あーあ、今日はこのまま大人しく帰宅かー。」

美穂子が不満そうに呟いた。

「まだ文句言ってんのか?」

 いい加減にしてくれよ。どこまで譲歩してやれば、気が済むんだ。

「別に文句ってわけでもないけどー。なんか旦那にバレた途端、たいちゃん、ビビっちゃってさ。なんかちょっと、ムカつくってゆーか。」

「ビビるも何も、こっちは300万払ってるんだぞ。もともとお互い離婚するつもりもない、気楽な関係だったはずだろ?そっちだって、また旦那にバレたら、流石にまずいんじゃないのか?」

「どーだろ。うちの旦那もたいちゃんと同じで、世間体とか気にする人みたいだから。バレた後も、まあ最初はちょっと怒ってたけど。結局、スルーっていうか、無視っていうか、お金が入ったら、無かったことって感じで。なんで不倫なんてしたのかー、とか、俺に不満があったのかー、とかそういうのも一切なしだし。これまでどおり、家事やって派遣で軽く仕事してればそれでいいみたい。関心が薄いっていうか、もはやゼロっていうか。……男ってみんなそんなもんなのかなー?」

 笑みを含みながら話しているものの、美穂子の表情はどことなく冷めている。もしかしたら、あまり夫に相手にされておらず、美穂子は美穂子なりに、寂しい気持ちがあるのかもしれない。慰謝料の支払いの時にも、旦那から美穂子に対する愛情は感じなかったが、美穂子からも旦那に対する愛情はどうも感じられない。冷え切った夫婦関係からくる寂しさもあって、俺に異常に執着しているのかもな。

 ふとそんなことを思ったが、たとえそうだったとしても、俺には関係のないことだ。その寂しさが暴走して、これ以上俺や俺の周囲に被害が及ばないうちに、やはり手を打っておかないと。

 伝票を持ち、レジへと向かう。美穂子も大人しく荷物をまとめ、あとをついてきた。

「ごちそうさまでーす。」

 気の抜けたような美穂子の声に、ますます苛立ちが募るのを感じながら、俺は支払いを済ませ、店の外へと出た。時計にちらりと目をやると、時間はまもなく20時になろうかといったところだ。それほど長居をしたつもりはなかったが、季節は冬へと移り変わろうとしていることもあって、すっかり外は暗くなっていた。話し合いをするにあたって、駅の周辺で会うことは避けたかったので、駅までは少しばかり歩かなければならない。俺は大通りではなく、あえて裏通りへと足を向けた。

「え?そっちから帰るの?」

 美穂子が意外そうに声をあげた。いつもは駅までの最短距離を、美穂子が前を歩き、その後ろを俺がついていく、という形で歩いていた。不倫がバレた夜に、美穂子が文句を言っていたやり方だ。

「こっちの方が、人に見られずにすむだろ。そうしたら、お前が前に行っていた、ストーカースタイルじゃなくて、並んで駅まで送ってやれる。」

「……りょーかい!」

 珍しくそんなことを言った俺に、美穂子は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「ねーねー、手、つないでもいい?」

「それはダメ。」

「えー。」

 そんな言葉を交わしながら、暗い道を並んで歩く。もともと、人目を避けるため、あまり人の集まらないマイナーな駅を選んでいたこともあって、辺りには俺たち二人以外、人の気配もない。

「ちょっとぐらい繋いでも大丈夫だよー!全然人いないし……って、え?」

 無理やり俺の左手を取ろうとしていた美穂子が、突然後ろから聞こえてきた足音に驚いて振り向く。俺も同じように振り向くと、黒いフードを被ったような人影が、闇に紛れながら、こちらに向かって走ってくるところだった。その右手には……何か握られている。

 銀色に光る、何かが。

「た、たいちゃん……!」

「……走るぞ!」

 怯えたように俺の腕にすがりついてくる美穂子の肩を抱いて、俺は走り出そうとしたが、美穂子は足がすくんだようで動かない。何度か引っ張り上げようとするが、まるでダメだ。

「何やってんだ!さっさといくぞ!」

「ま、待って……!」

 怒鳴りつけ、ようやく美穂子が動こうとし始めたが、その間にすでに人影は距離を詰めていた。右腕を、美穂子に向かって振り上げる。右手に握られていたのは……やはり、ナイフだった。

「た、たいちゃん!!!」

「……くそっ!」

 俺は叫んで、背後から美穂子の体を思い切り引っ張りあげた。振り下ろされたナイフは、すんでのところで空を切る。

「きゃっ!!!」

 俺は美穂子をかばうように前に出て、人影と対峙した。黒いフードに、黒のジーンズ。フードに深く覆われた顔はよく見えず、かろうじて、おそらく男であるだろうことだけが分かった。男が腕を振り下ろした状態から体勢を建て直す前に、俺は体重を乗せて、思い切り、男の右頬を殴りつけた。その勢いによろけ、男は冷たいコンクリートへと倒れ込む。

「今の内だ!早く、逃げるぞ!」

 目を見開き、震えながらこちらを見ていた美穂子の体を、俺は半ば引きずるようにして、今度こそ走り出した。途中ちらりと後ろを振り返ったが、どうやら人影は追ってきてはいないようだった。そのままなんとか、大通りへと出る。突然路地裏から飛び出てきた俺たちに、付近を歩いていた何人かの人々が驚いたように顔を向けたが、関わり合いになることを避けるかのように、皆すぐに視線を逸らした。

「はあ……はあ……。」

 俺はネクタイを緩め、荒く息を吐いた。

「……な、なんなの…?今の……なんなの?」

「……とにかく、歩き続けるんだ。このまま、駅まで行くぞ。」

 美穂子にそう言うと、腕を掴み、無理やり駅の方へと歩かせる。掴んだ腕から、美穂子の体が震えているのが分かった。それが寒さのせいではないことも、分かっていた。俺の体も、きっと震えているのだろう。自分では、分からないが。

「さ、さっきのって、もしかして……”水曜日の悪魔”……?」

「……さあな。模倣犯かもしれないし……たまたま頭のおかしい奴に出くわしただけって可能性もある。」

「け、警察……!警察に通報しないと……!」

 震える手でスマホを取り出そうとする美穂子に、

「今更通報したところで、もう逃げてるだろ。実際、俺たちに被害は出なかったんだし。信じてもらえるかどうかすら、微妙なところだ。あんな裏路地じゃ、防犯カメラも期待できないしな。」

俺は淡々と告げた。

「じゃ、じゃあ、どうするの?このまま、なにもしないの?」

「他にどうしようもないだろう。とりあえず、この駅には二度と降りないことは確かだ。それに……俺たちの関係も、続けるのは難しいだろうな……。」

「……!ど、どうして?」

「俺たちが会えるのは毎週水曜日だけだろ?さっきのあいつが例の通り魔かどうかは分からないとはいえ、俺たちの方はばっちり顔も見られているんだ。そんな状態で、こんな目にあってまで……まだ水曜の夜に出歩きたいのか?家の最寄駅からはひとりで帰ることになるんだぜ?」

「……それは、嫌だけど……。」

 美穂子が青ざめた顔を俯ける。

「ごめんな……。」

「……どうして、たいちゃんが謝るの……?」

「俺と付き合ったりしなけりゃ、こんな怖い目にあうこともなかったんだ。俺も正直……めちゃくちゃ怖かった。悪いけど、もう前にみたいに、何も気にせず、お前と会うことはできないよ。そのせいで、お前が同じような目にあったらと思うと……。」

「たいちゃん……。」

「ごめんな、美穂子……。」

 そう言って唇を噛み締めた俺を、美穂子は見つめていたが、しばらくして視線を外す。それから駅までの道のりの間、ふたりとも一言も口を開かなかった。

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