4章 決断

「久しぶりに、こうして君に会えてよかったよ。幸恵から、最近忙しそうだとは聞いていたんだが、確かに少しばかり痩せたんじゃないのか?」

「ええ、まあ……。少し、仕事の方が忙しいものでして。」

「忙しいのはいいことだ。しっかり勉強して、しっかり稼いでこそ、男というものだからな!」

 そう言って朗らかに笑う父親を、

「あら、じゃあ女は稼がなくってもいいってわけ?」

幸恵がからかう。穏やかな日曜日の昼下がり。都内のお洒落なレストランで、何ヶ月かぶりに幸恵の両親とランチを共にする。少し前までの俺なら、ここぞとばかりに自分の有能さや夫婦仲がうまくいっていることを印象付けるために、最大限利用していただろうこの場も、今の俺にとっては、手からこぼれ落ちようとしている未来を見せつけられているように感じて、ただただ辛い時間でしかなかった。なんとか食後のコーヒータイムまで来たが、正直、早く帰りたい。そんな俺の思いを知ってか知らずか、3人は楽しげに会話を進める。

「そんなつもりで言ったわけじゃないわよ、ねえ?お父さん。」

「ああ。お前がしっかり働いて、社会に貢献しているのはいいことだ。そもそも私の会社に就職すればよかったものを、わざわざ他の企業に就職してまでな。」

「やっぱり、それ、ちょっと根に持ってるでしょ?嫌よ、私。父親が社長をやってる会社に新卒で入社するなんて。周りが気を遣うに決まってるし、私だって気を遣うわよ。想像するだけで、胃が痛くなりそう。」

 幸恵がふてくされたように話す。こうした話し方は、俺に対してはあまりしない。あえてこんな態度をとることで、幸恵なりに両親に対して甘えているのだろうと思う。二人も当然それに気づいているのか、まるで意に介していないように笑いながら、

「ふむ。新卒がダメなら、中途ならうちに来てくれるのか?」

「そういうことになるわよね?」

なんてことを言っている。

「そうねえ。泰介が移動するタイミングで一緒に移動する、っていうのなら、まあありかも?なんて。」

「……え?」

 突然、矛先がこちらに向かってきたことに、一瞬、反応が遅れた。

「あら!いいじゃない!」

「言質は取れたな。」

 嬉しそうにこちらを見てくる老夫婦に、

「いや……まあ、まだ約束の歳までには3年ほどありますし……。」

と詰まりながら答える。

「だが、幸恵の話だと、君は今の会社でも十分にうまくやれているようだし、数年早まったところで、特に問題はないんじゃないかな。私ももう歳だし、幸恵もうちの会社に来てくれるというなら、ますますいろいろと安心だ。」

「はあ……。」

 どうしようかと思案している俺の様子を見かねたのか、幸恵の父親は、

「まあ、今すぐに、ってわけではないさ。ただ、あまり年齢にこだわる必要もないんじゃないか、というだけだ。少なくとも君の抱えている仕事が落ち着くまでは、しっかり頑張りなさい。」

そう助け舟を出してくれた。

「……そうですね。」

 抱えている、仕事か……。すべて片付く時は、はたしてやってくるんだろうか。

 


 久しぶりの娘夫婦との交流の時間に、至極満足そうな老夫婦と別れ、俺は幸恵と家までの道のりを歩く。物思いに沈みがちな俺は、他愛もない話を続ける幸恵に、なんとなく相槌を打つのがやっとだった。そんな様子を見かねたのか、幸恵がいよいよ不安そうに、

「……そんなに、最近、忙しいの?この間も様子がおかしかったし。」

と尋ねてくる。

「そこまで忙しいなら、あんまり、今の会社で無理しなくてもいいんじゃない?確かに約束の歳までにはまだあるけど、お父さんたちもああ言ってたし、転職先には困らないわけだから。思い切って、辞めちゃっても……。」

「ああ、いや。ごめん。大丈夫だよ。」

「本当に?なんだか心配よ。」

「大丈夫だって。心配かけて、ごめん。じきに落ち着くと思うから。そしたら、いろいろと埋め合わせさせてくれ。」

「……分かった。」

 俺の弁解に100パーセント納得していないことは明らかだったが、幸恵はそう言うと、俺の方をみて笑ってくれた。それに、俺も少し笑い返す。先の見えない現状に気分は一向に晴れないが、幸恵の前ではあまりそうした様子を見せないようにしよう。これ以上、心配させるのはまずい。そう心の中で決意した時だった。

「本田さんじゃないですかー。」

 甘ったるいその声に顔を向けると、家まであと50メートルほどといったところから、美穂子がこちらに向かってくるのが目に入った。

 一体何を考えているんだ。会いに行っちゃうかも、とかなんとか、寝ぼけたメッセージを送ってきてはいたが、まさか本当に来るとは。

 どこまでバカなんだよ、この女は!

「ああ……庶務課の立花さん、でしたか?」

 爆発しそうになるのを必死に堪えながら、なんとか声を絞り出す。

「そうですー!立花ですー!……こちら、もしかして、奥様ですか?」

 白々しく、幸恵の方を向いて、美穂子が笑いかけた。口角はあがっているものの、眼は全く笑っていないその表情も、やけに馴れ馴れしい態度も、先入観を抜きにしたって異常に見える。

「ええ、そうです。妻の幸恵です。こちら、庶務課の高橋さん。時々仕事で関わることがあるんだ。」

「はじめまして。いつも主人がお世話になっております。」

 俺の最低限の紹介に、幸恵がぺこりと頭を下げる。

「とんでもない!いつもお世話になっているのはこちらの方ですー!」

 いつもよりも1オクターブ高い癪にさわる声が響く。

 勘弁してくれ。勘弁してくれよ!

「あー、申し訳ないんだが、先を急ぐので、また、会社で。」

 早口でそう言って、幸恵の肩を押し、俺は美穂子の前を通り過ぎようとした。

「……はいー!また、会社で。」

 俺の背中に、追い討ちのような美穂子の声が刺さったが、礼儀正しく美穂子の方を向いて軽く会釈をした幸恵とは違い、俺は決して振り返ろうとはしなかった。

「なんだか……ちょっと変わった人ね。この辺りに住んでるのかしら?」

 幸恵が言う。

「さあ。俺も仕事でごくたまに会うだけで、よく知らないんだ。ここで出くわしたってことは、この辺りに住んでいるんじゃないか?」

「そうねえ。」

 どうも釈然としていない様子の幸恵をせかすようにして、俺は家へと急いだ。ドアの鍵を開けて、幸恵を先に入れ、逃げるように俺も中へ入る。ふと美穂子がいた方角に目をやると、じっとこちらを見つめている彼女の姿が小さく見えたような気がして、心底ゾッとする。

 なんとかしないと。なんとかしなければ。早急に。


 

 幸恵が寝たのを見計らって、スマホのアプリを立ち上げる。久しぶりに美穂子とのトークルームを開くと、これまで未読スルーしてきたメッセージが一気に既読に変わった。メッセージの数は、減ったり増えたりを繰り返しており、その中身も、甘えるような口調のものから、連絡を返さないことに対して責めるようなものまでが折り重なっていた。最新のメッセージは、今日の夕方から始まっていた。


【びっくりした?( ^ω^ )】

【流石におうちまで行くのはルール違反かなー?とは思ったんだけど!】

【↑ほんとだよ?】

【でもたいちゃん、ぜんぜん、ぜんっぜん、連絡返してくれないから!!!】

【会社であっても他人行儀でぜんぜんお話ししてくれないし!!!】

【あたしもこれしか方法がなかったんだよー泣】

【許してくれるよね?ね?ね?】

【たいちゃん?】

【おーい】

【まだ無視するなら、また会いに行っちゃうぞー、なんて!笑】

【もしかして会いにきて欲しいのかにゃ?(^^)】


 クソうぜぇ……。なんなんだ、マジで!

 あまりの怒りと苛立ちに、スマホを握る手に力が入る。バカだとは思っていたが、ここまでバカだとは思わなかった。これでは、あいつの旦那にバラされる以前の問題だ。不倫相手本人が、バラシにかかってきているのだから。そんなことになったら、一体なんのために、金を借りたのか、わかったもんじゃない!しかもその借金は、生きている限りどんどんと膨らみ、一生返済できそうにもないのだ!こんなことになったのも、全部こいつのせいだというのに!!!

「くそ・・・っ!」

 小さく呟き、スマホの電源を落として、ベッドに横になる。何度か深呼吸を繰り返し、目をぎゅっと瞑ったが、当然ながら、全く眠くなる気配はない。俺はため息をついて、考え始めた。

 今俺が抱えている問題は二つ。末吉への借金と、美穂子だ。長期的に見れば末吉の方が重大性は高いが、短期的には美穂子の方をまずなんとかしなければならないだろう。こんな風に地雷化すると分かっていたら、手なんて出しやしなかったのに。……まあ、今更悔やんでも仕方ない。とりあえず、一度会って話をしなければならないだろう。そこで、はっきりと、もう終わりだと告げ、俺に関わらないように説得する。それしかない。それで理解してもらえるかどうかは、分からないが……。いや、ごまかすのはもう止めよう。理解してもらえない可能性の方が圧倒的に高いことは、分かっている。……もう、おしまいなのだろうか。すべては無駄なあがきなのか。いっそのこと、幸恵に全てを話し、頭を下げ、利子が増えないうちに、共同の貯金から末吉へ借金を返済させてもらうか……?もちろん離婚になるだろうが、それが最善の方法なのではないか……?描いていた経営者としての将来は手に入らないし、美穂子が会社にバレせば、肩身の狭い思いをすることになるし、どこかの支社へ飛ばされるか、最悪の場合クビになるかもしれないが……。そうなれば、俺のキャリアは一巻の終わりだ。


−−そんなの、お前に受け入れられるわけがない。

 揶揄するような自分の声が聞こえる。

−−そんな風に他人から見下されるような人生、お前が耐えられるわけがないだろ?

 ……その通りだよ、俺には無理だ。今まで俺は、常に周りから羨ましがられる立場だったんだ。うまいこと、人生をコントロールしてきた。使える奴や物は、全て利用して。今回だって、同じじゃないか。利用してやればいい。自分の人生を守るために。

 

 俺はスマホを持って、ゆっくりとベッドから立ち上がり、幸恵を起こさないよう、静かに寝室のクローゼットを開けた。若干着古された感の出てきたスーツの上着を取り出し、ポケットを探る。すぐに小さな紙切れが、指の先に触れる。11桁の数字が小さく書かれた、小さな紙切れ。それを握りしめて、そっと寝室から出る。そのまま音を立てないように静かに歩いて、リビングのソファへ座り、手のひらを開く。手のひらに収まっている皺の寄った紙切れをしばらく見つめた俺は、一度深く息を吐くと、スマホの電源を入れ、震える指で、最初の数字を押した。

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