2章 掴んだ藁は(3)

須崎と別れて家に帰ると、時刻はすでに0時を回っていた。事前に、後輩と飲みに行くから今日は遅くなる、と伝えていたので、すでに幸恵は眠っているようだ。リビングの明かりをつけて、上着を脱ぎ、一息つく。スマホの電源を入れると、相変わらず美穂子からの通知が来ていたが、ずっと未読スルーしていることにいい加減に気づいたのか、段々と頻度は減ってきてはいるようだ。このままフェードアウトしてくれればいいんだが、と淡い期待を抱く。

 美穂子とは、慌ただしくホテルを後にした、あの水曜日の夜以来、一度も会っていない。美穂子はワガママで子供っぽく、自分の思い通りにいかないとすぐに拗ねる部分がある。このまま放置しておけば、暴走しかねず、やはり須崎にはああ言ったものの、一度きちんと会って話をつけた方が、いいのかもしれない。美穂子だって、まるっきりのバカ、というわけではないはずだし、話せば分かってくれる……と思いたいが。なんとか相手を逆上させないためにも、何をどう話すか、ちゃんと計画を練ってからにしないといけないな……。そんなことを考えていると、須崎との飲み会で少し浮上していた気持ちが、また落ち込んでいくのを感じる。まったく。どうして、俺ばっかりこんなに悩まないといけないんだか。大金を借金してまで。

「借金……。」

 そういえば、一度しっかり返済完了がいつ頃になりそうか、確認しておかなくては、と思っていたんだった。あまり気の進まない案件だが、いっそのこと、今夜は、落ち込むところまで落ち込んでおくか。ヤケクソ気味に手を伸ばし、ソファに放っていた鞄から、押し込んでいた契約書を取り出す。

「確か金利は10%って言ってたよな……。」

 契約書に目を通すが、相変わらず小難しい。とりあえず必要最低限の情報が手に入ればいいか、と利子について書かれた項目を探す。

「ああ…これか。えーと、甲は乙に対して……月利10%を負担するものとする……は?月利!?」

 なんだ、月利って!?月々ってことか?普通こういうのって、年利だよな……?

 何度も読み返すが、目に入る二文字が変わってくれることはない。全身から、血の気が引くのを感じる。手が震え、うまく思考を繋ぐことが出来ない。

 待て待て待て待て!流石に…流石にこれは暴利が過ぎるだろ!?月利ってなんだよ、年にしたら元金以上の利子を払うことになるじゃないか。弁護士に相談に行ったら、どんなポンコツでも契約内容を覆せるような案件だぞ!?

 ……いや、でも弁護士には相談できない……相談は出来ないんだ。それができるくらいならこんな金、初めから借りて無いし……。待てよ…まさかあの野郎、初めからそこまで見越して、こんな契約内容をふっかけてきたのか!?わざと小難しい言葉で、俺に考えさせないようにして……!くそっ、これじゃあいつまでたっても支払い終わることなんてできない……。ずっとあいつのいいカモでいるしかないじゃないか!

 混乱する頭に、ついさっき会った相手を無闇に信頼するからこういうことになるんだ、とどこか冷静な自分の声がこだまする。

「……うるさいっ!」

 気づけば、そう叫んで、契約書をぐしゃぐしゃに握りしめていた。

「……泰介?」

「……幸恵。」

 俺の声に起きてきた眠そうな妻が視界に入る。不審そうな顔で、俺のことを見ている。まずい。気づかれるわけにはいかない。妻には、何もかも、すべてうまく言っていると思っていてもらわないと。そうじゃないと、ますいんだ。俺は慌てて、ぐしゃぐしゃになった契約書の塊を鞄の中へと押し込んだ。

「なんでもない、なんでもないよ。」

 そう、なんでもない。こんなことはなんでもないはずだ。なんとかできる。なんとかしないと。俺の未来を、なんとかしないと。



「そんなこと言われましてもねー。ちゃんと契約書は事前にご確認いただいていましたし。」

「いや……でも、いくらなんでも、毎月10%の利子がつくなんて、おかしいでしょう!毎年じゃなくて、毎月ですよ!?普通、年利だと思うでしょう。これじゃあいつまでたっても完済なんてできない!そんなのわざわざ考えるまでもなく分かることでしょ!?」

「金利は10%ですとお伝えしたはずですし、そもそも契約書にサインをいただく前に、弁護士などを通さなくていいのか、と私は確認したはずですよ?それを必要ないと頑なに断ったのは、本田さんの方では?」

「……それは、そうですが……。だがしかし……!」

「私としては、お貸ししたお金が戻って来ればそれでいいので、利子が膨らむ前に、完済なさればそれでよいのではないでしょうか?」

「そんなことが出来るなら、初めから見ず知らずの出会ったばかりの人からお金なんて借りませんよ!」

「……随分な言い方だなあ。私は素敵な奥様がいながら、職場の女と深く考えもせずに不倫をし、四面楚歌に陥っている男を、純粋な好意で助けただけのつもりなんですが。」

「純粋な好意って……!こんな無茶苦茶な金利をふっかけておいて、よくそんなことが言えますね!」

「分かりました。契約書の内容がご不満なら、別に警察に訴えるなり、弁護士に相談するなり、お好きになさってください。私は、ただ、私のお金を返していただく、それだけのことです。」

「……やっぱりあんた、初めから俺の足元を見て……!」

「来月も返済、よろしくお願いしますね。」

 淡々とした冷たい末吉の声を最後に、ツーツーという機械音が耳の中で響く。

「くそっ!」

 ソファの上に投げつけたスマホの画面には、通話終了の通知が表示されていた。

「……どうすりゃいいんだよ……!」

 頭を抱えて、ソファへ座り込む。

 昨夜改めて契約書を確認し、その内容の異常さにようやく気づいた俺は、今日1日焦燥感にかられながらもなんとか仕事をこなし、定時で急いで帰宅して、幸恵が帰ってくる前に、急いで末吉に電話をかけた。教えられた連絡先がつながらないのでは、という予想は当たらず、末吉は2コールで電話に出た。まるで、俺から連絡が来るのを予想していたかのように。法外な金利について、何かの手違いじゃないのか、こんなに高い金利をふっかけるのはこの先一生毎月5万円振り込み続けろと言っているのと同じだ、と俺は必死に訴えたが、その結果がこれだった。動揺する俺とは正反対に、末吉は終始落ち着いていた。面白がっているようにさえ、聞こえた。奴にとっては、これは須崎から話を聞かされた問いから予想していたやり取りで、もしかするとこれまでに別のカモたちとの間で何度も繰り返されてきた通過儀礼のようなものだったのかもしれない。間違いない。末吉は初めから俺をカモにするつもりだったのだ。

「なんでこうなるんだよ…‥、せっかくなんとかできたと思ったのに。俺が何したってんだよ‥‥!」

 どんどん悪い方向へと進んでいく事態に、苛立ちばかりが募る。その時、ピコン、とスマホの通知音がなった。反射的にちらりと目をやったことを、俺はすぐに後悔した。


【ねー。なんでずっと未読スルーなの?( *`ω´)】

【もしかして、奥さんにスマホ取り上げられちゃったのかにゃ?泣】

【とにかく一回ちゃんと話そうよー。じゃないと……私の方から会いに行っちゃうかも??】


「あーーーーっ!うるせぇっ!!!」

 頭に血が上り、何も考えられない。

 何もかもが鬱陶しい。

 何もかもが面倒だ。

 俺が一体、何をしたっていうんだ!?

 今まで全部、うまくやってきたじゃないか!

 別に飛び抜けて頭がいいわけでも運動ができるわけでもない、なにか取り柄があるわけでもなかったが、要領よく立ち回って、ここまで自分の人生を作ってきた!

 これから、俺の人生は、もっとずっとよくなるはずだ!

 それがなんでこんなところで……!

 うんざりだ!頭も尻も軽いバカ女にも、守銭奴のクソ野郎にも!ちくしょう……ちくしょう!!!


「……た、泰介?」

 か細い声に、ふと、我に返る。振り向くと、リビングのドアを開けた幸恵が、不安そうに立っていた。

「ど、どうしたの……?なにがあったの?」

「え……。」

 幸恵の視線は、俺ではなく、リビングの中へと向かっている。その視線を追い、改めて周囲を見渡すと、床には俺が手当たり次第に投げつけたのであろう小物類が錯乱していた。ソファと向き合うように設置した大型テレビの黒光りする画面には、髪の毛をボサボサに乱して、憔悴しきっている男の姿が映し出されていた。

「泰介……?」

 幸恵がゆっくりと俺に近寄り、おそるおそる俺の腕に軽く触れた。その不安げな様子は、まるで心のそこから怯えているかのようだ。ここは、心も体も、最も落ち着くはずの愛しき我が家なはずなのに。

 そうか。俺か。俺が、妻を怯えさせているのか。

「いや……ごめん。なんでもないんだ、なんでもないんだよ。ちょっと仕事で、イライラすることがあって……。すぐに片付けるから。驚かせてごめん。仕事で疲れたろ。着替えておいでよ。その間にここを片付けて、風呂でも沸かしておくから。」

 俺は無理やり笑みを作り、なんとか言葉を絞り出したが、その声は自分でも驚くほどかすれていた。幸恵がじっと俺を見つめているのが分かったが、俺はどうしても目を合わせることが出来ない。しばらくの沈黙の後、

「わかった……。」

と呟くように言って、幸恵は寝室へと向かう。俺は気づかれないように、そっと息を吐いた。

「ねえ、泰介?」

「ん?」

 幸恵が、ふと振り返る。

「私に隠してること、ないわよね?」

「……ないよ。何もない。」

 やけに透き通った妻の瞳を見つめながら、俺はなんとかそう答えたが、彼女が下手な嘘だということは、お互いに分かっているのは明らかだった。

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