2章 掴んだ藁は(2)
【ちゃんとお金、払ってくれて良かったよー♪】
【おかげでこっちはなんとかなりそう!^^】
【次はいつ会えそう?】
【バレないように気をつければ大丈夫だよ!むしろ一回バレたからこそ、安心!みたいな?笑】
【おーい】
【無視ですか?】
【まさかこのまま別れるとか言わないよね?】
通知画面に増え続けるメッセージに俺はため息をついて、アプリは開かないまま、一切の通知をオフにして、スマホの電源を切った。
数日前、末吉から借りた金で300万円一括で支払い、今回の件については一切俺の妻や職場には知らせないこと、美穂子とは今後一切会わないこと等を取り決めた契約書を交わした。その際初めて会った美穂子の夫は、どこか気難しそうな印象を受ける眼鏡をかけた細身の男で、電話や送られてくるメッセージから、屈強な男をイメージしていた俺は、少し拍子抜けさせられた。感情的になるわけでもなく、淡々と話を進める様子に、美穂子に対してさほど興味はないが、けじめとして金を要求してきたような……そんな温度の低さを感じた。とにかく約束は守るタイプの人間だったようで、その後は連絡が来ることもなく、ひと安心していた……のだが。入れ替わりのように連投されるようになった美穂子からの連絡に、俺は辟易とさせられていた。流石に契約書を交わした後でさらに関係を続け、状況を悪化させる要因を自ら作るほど、俺もバカではない。だからといって、安直に着信拒否をして、もし自宅や職場に直接やってこられでもしたら……と思うと、どうしたものか、再び俺は行き詰まっていた。
「一難去って……か。」
無意識に小さく呟く。幸いなことに、疲れ切った終電の利用者たちの耳には入らなかったようで、特に周囲からの反応は無かった。
寄りかかった電車の扉から、窓の外を見る。すっかり闇に包まれた景色が次々と視界の端へと流れていく。……自業自得、といえばそれまでだが、まさかこんな風になるなんて、というのが正直な気持ちだ。不倫、というとバレた時の風当たりは確かに強いが、正直なところ、やっている奴は多い。俺だけじゃない。今回は美穂子のせいで、向こうの家庭にバレてしまったからこうなっただけで、実際、運が悪かっただけだ。そう考れば考えるほどに、なんだか腹が立ってきた。俺はいつだって、自分の力で自分の人生をうまくコントロールしてきたのだ。勉強はさほど得意な方では無かったが、高校は地元の進学校へ入れたし、大学だって一流ではないものの、なんとか入学した。就職も安定した会社に籍を置けたし、結婚だって。そう、特に結婚は、完璧だった。人生で一番の成功だ。今回は、ただ、運が悪かっただけなのだ。
電車のスピードが落ち、最寄駅へ近づいたことを知らせるアナウンスが聞こえる。それでも、まあ、今回も、なんとかなった。なんとかできたんだ。心の中でそう呟いて、ほんの少しだけ自信を取り戻せたような気がした俺は、1日の疲れに消耗した人々の群れを押しのけ、最寄りの駅へと降り立った。
「泰介!」
改札を出たところで、呼び止められる。声の方を振り向くと、そこにいたのは妻の幸恵だった。俺の顔を見て、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「幸恵……!どうしたんだ、こんなところで。」
「どうしたもこうしたも、私もちょうど仕事帰りよ。電車の中であなたの姿を見かけてね。距離があったからスマホで連絡して知らせようとしたのに、スマホを見ようともしないんだもの。」
そう言って恨めしそうに見上げる幸恵に、
「あ、ああ……ごめん。ちょっと仕事関係が忙しくて、スマホでのやりとりも多くてね。オンオフの切り替えがしたくて、通知を切ってたんだよ……。」
俺はなんとか切り返す。幸いな事に幸恵は疑う様子もなく、
「そっか。あんまり根を詰めすぎないようにね。」
と軽く微笑みかけてくれた。気づかれないようにそっと安堵の息を吐き、夜道を並んで、家路を急ぐ。俺はふと思いついて、幸恵に尋ねた。
「そういえば、まだ例の通り魔事件の犯人、捕まってないんだっけ。危ないから、なるべく待ち合わせて一緒に帰るようにした方がいいか?」
「なに言ってんの!あなたも私も仕事が終わる時間があうことなんてほとんどないし、大通りを歩くようにすれば大丈夫よ。それにどんなに気をつけてたって、結局、なるようにしかならないでしょ。」
「そうか……。そうだよな。」
そう言って笑い飛ばす幸恵に、俺はしみじみと思う。やはり美穂子とは、こういうところが違うのだ。
「あ、そういえば、お父さんが近々ご飯でもどうだって。」
「お義父さんが?」
「こないだ、あなた、会社で賞をもらったでしょ。その話をしたら、すごいじゃないか、俺の会社に移ってもらうのを早めてもいいかもなー、とかなんとか言ってたわよ。」
「賞……?ああ、あれか。」
「なあに?自分がもらった賞も忘れちゃったの?そんなの大したことじゃないぜって?」
幸恵がからかうように俺の脇腹を軽くつついた。幸恵の言う賞は、実際のところ、俺の仕事ぶりに対してというより、たまたま俺が関わったプロジェクトチーム全体に与えられたものだった。特にチームの中心となっていたわけでもなく、どちらかというと、棚ぼた的に手に入れた賞だったが、幸恵には少々盛って話をしてしまった……ような気もする。それを、俺にとって良いように義父に伝えてくれたらしい。
「適当に予定合わせて、美味しいご飯、おごってもらいましょ!あなた、最近なんだか元気がなかったし、美味しいもの食べて、リフレッシュしないと。」
「俺、元気がないように見えたか……?」
「うーん。どっちかっていうと、何か考えてるなーって感じ?まあ、仕事のことかな、とは思ってたけど。」
鋭い私的に、内心ギクリとする。
「そうか……。心配かけて、悪かったな。」
「あら、誰が心配したって言ったー?」
幸恵の笑顔を見ながら、美穂子との一件は絶対に知られるわけにはいかないと改めて強く思った。やはり、美穂子との関係はすっぱりと切らなければならない。
……でも、どうやって?
*
「本田さん!お疲れ様です!」
「ああ、お疲れ。」
相変わらずメッセージを送り続けてくる美穂子が、思い余って待ち伏せなんてしてきたらたまったものではないし、今日はさっさと帰った方がいいか、とパソコンの電源を早々に落としたところで、須崎が声をかけてきた。なかなかタイミングのいい奴だ。
「今日はもうあがりですか?」
「そのつもりだよ、ここのところ残業が多かったし。」
「よかった!実は、今日は給料日だし、飲みでも行きませんか、って誘いにきたんですよ。」
にこにこと笑いながらそう話す須崎の顔を、まじまじと見つめる。須崎には随分と世話になったが、今回の件について相談する前と、彼の態度は全く変わらない。相変わらず、時々ランチに誘いに来ては、どうでもいいような話をする。そうした時間に、随分と気を紛らわすことが出来ている。
「……そうだな。お前にはいろいろと世話になったし、今日は俺が奢ってやるよ。」
「いいんですか!?それじゃあ、お言葉に甘えて!」
「ああ。でもその前に、ATMに寄っていっても構わないか?金をおろして、5万、忘れないうちに振り込まないと。」
「真面目ですねー。全然いいですよ!俺はその間、うまそうで高そうな店、探しときます!」
「高そうな、は勘弁してくれよ……。」
返済しなきゃならない金や美穂子の思いがけない執着に参っている現状、こうして軽い言葉を交わせることになんとなくホッとする。俺は鞄を持って、立ち上がり、
「行くぞ。」
と須崎の肩を叩いて、職場を出た。
「えーっと……振込先はっと。」
とりあえず5万円下ろした後、振込先を探して鞄の中に押し込んだままにしていた契約書を引っ張り出す。確か、末尾に記載があったはずだ。
「あった、あった。これだ……。」
記載されている振込先を入力し、間違いがないか、確認する。
「これでよし……と。」
振り込みを完了して、はき出された通帳を受け取り、契約書とあわせて再び鞄に押し込んだ。しかし毎月この作業をするのは結構な手間だな、と心の中で思う。返済までどれくらいかかるんだろう。一度しっかりと計算しておくか。ATMを出ると、
「あ、終わりました?」
スマホをいじっていた須崎が顔をあげて声をかけてきた。
「ああ、待たせて悪かったな。」
「いえいえ。無事に終わって良かったです。」
「じゃあ、飲みに行くか。」
「待ってる間、いい店見つけたんですよ!天ぷらが、めっちゃうまそうで!ここなんですけどね……。」
見せられたスマホに表示されている店は、思いっきり予算の価格帯をオーバーしており、俺は軽く須崎の肩を叩いた。
「勘弁しろよ。いくらなんでも、これは無理だ。」
「はは。ですよねー。じゃあいつもの店、行っちゃいますか!」
「だな。」
軽口を叩きながら、店へと向かう。とりあえず今月分の返済を終えたこともあって、ほんの1週間前とはうって変わって、気分は軽かった。
結局、よく利用している高すぎず安すぎない居酒屋のチェーン店に腰を落ち着け、お互いにビールを頼んで軽く乾杯した。
「今日もお疲れ様です!」
「お疲れ。」
そのまま須崎は一気にビールを飲み干す。
「……いやー!仕事終わりの一杯は格別ですよね!」
「そうだな。」
「……あれ?本田さん、まだ本調子にはほど遠い感じですか?先週よりかはだいぶマシになった感じはしますけど。……もしかして、まだ、解決してない感じですか?」
須崎が伺うように俺の方を見た。話すがどうか一瞬悩んだが、こいつには既に情けない話を散々聞かせている。いまさら取り繕うこともないだろう。俺は一口ビールを飲んで、
「あー、いや、旦那とのやりとりの方は、お陰様で一段落着いたんだが。今度は不倫相手だった女の方がうるさくてね……。向こうも離婚する気は無いんはずだし、大人しくしていてくれればいいのに。」
と、自嘲するように笑った。
「あー、より戻したい……みたいな感じですか?」
「まあ、そんなとこだよ。」
「それ、絶対相手にしちゃいけないやつですよ!一回バレて、せっかく落ち着いたところなのに、水面下で続いてることがバレたら相手の旦那の神経、めちゃくちゃ逆撫でするはずですし。それこそ本当に裁判沙汰になるかも。」
「分かってるって。俺も相手にするつもりは全く無いよ。」
熱くなりかけている須崎をいなすように言ったが、須崎はあまり納得がいっていないような表情をしている。
「……まあ、それならいいんですけど。放っておいたら家まで突撃されるかもー、そしたら奥さんにバレるかもー、とか考えて、下手に相手なんてしちゃ、ダメですよ。」
的確な読みに、一瞬、答えに詰まる。
「……わ、分かってるって。」
「なら、いいんですけど。なんか俺にできることとかあったら言ってくださいね!」
「……流石にこれ以上、お前には頼れないよ。先輩として、面子が立たなすぎるだろ。」
「何言ってるんですか!入社してもらって以来、本田さんにはいろいろとよくしていただいてますし。ほんと、気にしないでくださいね!」
そう言ってからりと笑い、もう一杯ビール頼もうっと、と呟きながら、須崎はコールボタンを押した。その様子を見ながら、俺は自然と笑みを浮かべる。やっぱり、こいつはいい奴だな。いろいろとストレスも多いが、こんな後輩を持てたことに関しては俺はツイてる。そう思った。
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