2章 掴んだ藁は(1)
「この居酒屋で待ち合わせです。」
「へえ……。」
須崎に連れてこられたのは、大通りから少し外れたところにある、お洒落な体裁の居酒屋だった。どことなく、入りづらい雰囲気があり、それがずっと気づかないふりをしてきた警戒心を呼び起こし、再び胸の内を覆い始めた。こういう店を指定してくるとは、一体どういう相手なのか。そんなことを考えて、店の中に入ることを逡巡している俺の様子に気づいたのか、
「ちなみに、この居酒屋選んだの、俺です。」
須崎が照れたように言った。
「お前が?」
正直、意外だった。須崎は俺と同じ大学で、同じように野球部に所属していたと言っていた。体育会系の部活に入っていれば就活に有利に働くだろう、という打算からの選択をした俺とは違って、須崎はどうやら真面目に活動していたらしく、均整のとれた体をしており、皮膚は浅黒く、黒髪短髪、まさに体育会系といった印象を全身から醸し出している。おそらく大学時代の、いわゆる飲んだり女と遊んだり、といった生活とは無縁だったのではないか。それが、こんなどことなく高級感を漂わせる、隠れ家風の飲み屋を知っているとは。
「元々、大学の時にバイトしてたんですよ。酒もうまいし、いい感じの個室があるんで、ちょうどいいかなって。」
「……そうか。色々気を遣わせて悪いな。」
俺の内心を読んだかのような須崎に、ぽつりと礼を言う。なにからなにまで先輩として、かなり情けない。
「いえ、全然!」
須崎は短く答えると、ゆっくりと居酒屋の扉を開いた。ひとつ大きく息を吐き、俺も須崎に続いて、店の中へと足を踏み入れた。
*
「末吉さん、こちらがお話しした会社の先輩の本田泰介さんです。」
「はじめまして……。」
暖かな照明に満たされた店内。ゆったりとしたBGMがちょうどいい音量でかかり、内装もセンスがいい。だが、そんなプラス要素は、初めて入る店、初めて会う相手、なによりその相手に金の貸し借りを依頼しなければならないという事実で打ち消され、居心地が悪く感じて仕方がない。そんな俺とは対照的に、先に個室の一席に座って待っていた細身の男、末吉は、朗らかな笑みを浮かべていた。
「お話しは聞いていますよ。末吉と申します。どうぞおかけください。」
「……失礼します。」
促されて、おずおずと座り込む。なんとなく厳つい大男を想像していたが、実際の末吉は、どことなく柔和な雰囲気すら感じさせられる。
「拓真くんから話は聞いていますよ。いやあ、なかなかに大変な状況ですな。」
ははは、と声に出して末吉が笑った。俺にとっては、笑い事では全くないのだが。
「はあ……まあ、お恥ずかしい限りです。」
「とりあえず、何か飲まれてはいかがですか?酒が入った方が、話もしやすいでしょう。」
「じゃあ……とりあえずビールで。」
「俺も同じで。」
末吉は軽く頷くと、店員を呼び出し、須崎と俺のオーダーを告げた。その様子を見ながら、末吉の気さくな態度と口調に、俺はゆっくりではあるが、緊張がほぐれてくるのを感じていた。
「拓真くんと僕は、拓真くんが大学生の時に知り合いましてね。」
「末吉さん、俺がバイトしてたこの居酒屋の常連さんなんですよ。」
「最近はちょっと足が遠のいていたから、この店に来るのは久しぶりだけどね。拓真くんは、最近の若者には珍しい、真面目ないい子でしてね。店に通って話をしたりするうちに、だんだんと弟みたいに思えてきまして。拓真くんからお聞きになっているかもしれませんが、拓真くんが大学生の時に、一度、金に困っている、と相談してきたことがあって、その時、少しばかり手助けをしたんですよ。」
末吉は笑みを浮かべながらそう言うと、懐かしそうに目を細めた。
「そうなんですか……。あの、失礼ながら、お仕事はなにを……?」
「私ですか?色々とやってますが、メインは投資です。それなりに食べていける程度には、上手くいっていますよ。」
投資か。末吉は謙遜しているようだが、よく見ると身につけている服も小物も、どれも質のたかそうなものばかりだし、須崎が言っていたように、かなり金を持っているのだろう。投資というのは、それほど儲かるものなのか。俺も興味がないわけではなかったが、そもそも原資にできるような金があれば、こんなところには来ていない。
店員がやってきて、ビールを二杯、置いていく。店員が去っていくのを確認してから、末吉は改まったように口を開いた。
「さて、早速本題ですが。拓真くんの話だと、不倫が相手の旦那さんにバレて、300万円、一括での支払いを請求されている、とのことでしたが……。」
きた。いよいよだ。一気に緊張が戻ってくる。俺は震える手でジョッキに手を伸ばし、少しだけビールを口に含んで、
「ええ、その通りです。」
と呟くように答えた。どう考えたって、初対面の相手とする話ではない。これまでの人生の中で最も情けない状況に、俺は末吉と目を合わせることができなかった。
「その要求に従わない場合、先方は訴訟も辞さない覚悟なんですよね?」
「はい……。それだけは避けたいんです。妻にだけは、絶対に知られたくない。」
「ふむ……。」
考え込むように口を閉ざした末吉に、俺はここぞとばかりに畳み掛けた。
「須崎くんから、末吉さんは大変な資産家と伺っています。恥を忍んでお願いします!なんとか、300万円、お貸し願えませんでしょうか……?これでも、それなりの会社に勤めてはおりますので、毎月滞りなく、お金をお返しすることはお約束いたします!ですからなんとか……なんとかお願いできませんでしょうか?」
一気に言い切ると、俺は思い切り、頭を下げた。ほんの5分前にあった奴を信用して後悔することになるんじゃないか、という至極最もな意見が頭の片隅をよぎったが、他に妙案があるわけでもない。この窮地を乗り越えるには、300万円をどうにかして用意するしか、ないのだ。プライドなんてどうでもいい。とにかく現状をなんとかしなければ、俺には後悔する未来すら来ないのは考えるまでもない。
「いやいや、頭をあげてください。」
困ったような末吉の声が聞こえた。俺は少しだけ頭をあげて、彼の顔を見上げる。末吉は苦笑して言った。
「金を貸すこと自体には、問題はありません。あなたとはお会いしたばかりですが、心から信頼している拓真くんから依頼されたことでもありますし、同じ男として、あなたの境遇に同情しないわけでもありません。こう言ったらなんですが、男の火遊びなんて、よくある話ではありますからね。ただ、300万円一括で返済して、それで本当に相手が引っ込めば良いのだが、と考えていたんですよ。」
「はあ……。」
ということは、金を貸してくれるということだろうか。気の抜けたような声が出る。
「確かにそうですよね。後々になって、そんな約束してない!とか言われたら、たまったもんじゃないですよね。」
それまで黙ってやりとりを見ていた須崎が、しみじみと言った。
「そうだね。だから、契約書かなにかを作成した上で、金銭のやり取りをした方がいいと思いますよ。」
「……そうですね。そうします。」
「よければ知り合いの弁護士を紹介しましょうか?」
末吉のその提案は、正直魅力的だった。しかし……。
「……できれば全て内々に済ませたいんです。末吉さんや後輩の須崎くんにはこんな情けないところをみせていて今更なのですが、妻に知られるリスクは最小限に抑えたくて……。」
俺の完璧な将来設計のためには、どうしても妻に知られるわけにはいかない。それだけは譲れないのだ。
「……わかりました。では、そちらの方は、本田さんの思うようになさってください。一応、300万円お貸しするにあたっての契約書については、私の方で作成してきたのですが……。」
言いながら末吉は傍のビジネスバックを開き、A4用紙を2枚と朱肉を取り出し、俺の方へと差し出した。
「本来であればこれも弁護士や行政書士といった専門家を通してからと考えていたのですが、そういう事情がおありでしたら、本田さんにご確認いただいて、ご納得いただければサインしてもらえますか。私の分はすでにサイン済みですので。1枚ずつ、原本を持ち合いましょう。そうしましたら、300万円、お貸ししますよ。」
『契約書』と書かれたA4用紙に目を通す。やたらと細かい字で、甲やら乙やらといった文字が踊っている。こういういわゆる"文書"のようなものは苦手だが、俺はなんとか読み進めようとした。
「少々堅苦しいかとも思ったんですが、やはりちゃんと体裁を整えておいた方が、後々お互いに安心かと思いましてね。もちろん、拓真くんの紹介ですし、本田さんを疑っているわけではないのですが、念のため、ということでご理解いただければ。」
「はあ……。」
話しかけてくる末吉に曖昧に相槌を打つ。末吉は気にした様子もなく、話し続ける。
「いろいろと小難しいことを書いてはいますが、要するに月々5万円ずつご返済いただければそれでよい、という内容になります。もちろん可能であれば、月によって返済額を増やしていただいても構わないですし、逆にどうしても5万円払うことが難しい、ということであれば、その月の返済額については、減額の相談には応じます。まあ個人間のやり取りですから、その辺りは私としても柔軟に対応したいと思っていますよ。」
月々5万円か……。
まるで頭に入ってこない小難しい文章を睨む俺の耳にとめどなく流れてくる末吉の声のうち、その部分だけがやけにはっきりと残り、俺は文書を読み進める目を止めた。キツイといえばキツイが、それくらいなら、なんとかなる……か?
「あの……ちなみに、利子は……?」
「利子は10%に設定してあります。」
「え……それでいいんですか?」
相場についてはよくわからないが、クレジットカードのキャッシングは確か18%ぐらいだったと記憶している。資金繰りを検討していた時、真っ先に調べていたのだ。……もちろん、クレジットカードの明細は、毎回妻も確認しているので、早々に諦めたが。
「構わないですよ。」
末吉は穏やかに笑った。その場に沈黙が広がる。
ここまでよくしてもらって、今更借りないとも言えない……。そんな思いが俺の胸の内を過ぎる。
「……分かりました。ご面倒おかけしますが、よろしくお願いします。」
俺は頭を下げて、2枚の契約書にサインをし、拇印を押した。末吉はそのうちの1枚を引き取るとバッグへとしまい、代わりに3cmほどの厚みの封筒を取り出した。
「どうぞ。300万円きっかり、お貸しいたします。」
300万。末吉があらかじめ用意してきていたことに少し驚いたいたが、これであの執拗なメッセージの攻撃から、電話口での脅しから、眠れない夜から解放される……。
俺は震える手でそれを引き取り、ちらりと中身みた。新札の1万円札が押し込まれているのが見え、すぐさま、それを鞄の中に押し込んだ。
「さ!話も片付いたことですし、飲みましょう!この居酒屋の酒は、なかなかうまいんですよ。」
「つまみもうまいのが結構あるんですよ。厨房で結構ちゃんと作っているんで。」
話が片付き、すっきりしたかのように盛り上がる末吉と須崎を見ながら、俺も少しずつ心が軽くなるのを感じていた。
これですべてよくなっていくはずだ。
とりあえず借りた金で慰謝料を払い、あとは妻にバレないようにこつこつ金を返していけば、それで何も問題ない。すべて、なかったことにできる。
大丈夫。俺の未来は、まだ大丈夫だ。
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