1章 はじまりは、ありきたりな関係(2)

 翌日。

 一睡もできず、落ち着かない気持ちのまま、惰性で業務をこなしていたら、いつの間にか昼休みになっていた。スマホを確認するも、あれから美穂子からは一切の音沙汰がなく、気ばかりが焦って仕方がない。少々不自然な言い訳をしながらも、美穂子のいる部署へ内線電話をかけてみさえしたが、今日は休むとの連絡が早々にあったようだ。

「勘弁してくれよ……。」

 なんとも言えない恐怖と、動こうにも動けない焦燥感。自分で自分の人生をコントロールできない苛立ちに、思わず頭を抱えていると、

「先輩!今日、メシ、どうですか?」

「え?ああ……。」

 今年入社したばかりの後輩、須崎拓真が声をかけてきた。所属部署は違うのだが、俺と同じ大学の出身だということが、全社あげての新人歓迎会の時に偶然分かって以来、何かと懐かれており、時折こうして昼飯に誘ってくる。今時の若者らしく、コミュニケーション能力が高く、人好きのする男で、配属された部署でも可愛がられているようだ。そんな須崎と食事するのは苦ではなく、俺自身嫌いではなかったが、正直、昨夜から大して食欲もなく、飯にいったところで何か食える気もしない。……が、ここでひとり頭を抱えていても仕方がない。

 ちくしょう、なるようになりやがれ!そう自分をヤケクソ気味に奮い立たせ、財布を持って立ち上がったその時、ポケットに戻したスマホの震える感触がした。焦る気持ちを抑え、慌てて取り出したが、ロックを解除する必要もなく目に入った、画面上に踊る6文字に、俺の体は崩れるように椅子の上へと戻った。


【ごめんばれた】


「先輩!?大丈夫ですか?」


 聞きなれた須崎の声が、やけに遠くに聞こえた気がした。

 

 

「それは……かなりヤバイ状況ですね……。」

「……ああ、分かってる。」

 1週間後の昼休み。

 美穂子から、不倫がバレたという連絡が来た当日は、憔悴しきった俺を心配する須崎をなんとかごまかしたのだが、今日になって、会社から少し離れた居酒屋の一室で、結局俺は須崎にすべてを打ち明けていた。

 この1週間、毎日、時間帯を問わず、かかってくる電話…メッセージの通知……。返事をしなければ妻や会社にバラすと脅され、返事をすれば罵られる。

 美穂子の夫からは、慰謝料として300万円一括で支払うことを要求されていた。従わなければ、法的手段に出る、とも言われている。それがハッタリだと思えるほど、俺は呑気な性格ではなかった。それに加え、内心は、不安や恐怖、焦りでいっぱいなのに、それを押し隠して、家庭では今まで通り、何の問題もなく暮らしている良き夫を保ち続けなければならない。

 正直、すでに限界だった。誰かに吐き出さずには、いられなかったのだ。

「俺が口出しできることじゃないですけど……いっそのこと、奥さんに打ち明けた方がいいんじゃないですか?」

「妻に……?そんなこと、出来るわけがないだろう。もし出来るなら、とっくにそうしているよ……。」

「でも、ほら、俺もめちゃくちゃ詳しいってわけじゃないですけど、本田さんのケースって、いわゆるW不倫ってやつですよね?それなら本田さんの奥さんにも、相手の女性を訴える権利があるんじゃないですか?そしたら、慰謝料を相殺することが出来るんじゃないかなって思うんですけど。その……言い方は悪いですけど、お互い様になる、っていうか、喧嘩両成敗っていうか。」

 居酒屋ランチの、お世辞にも美味しそうとは言えない唐揚げをつつきながら、言いにくそうに須崎が言った。

 彼の言っていることは、正論だ。慰謝料を請求されてから、俺も一番に考えたことだ。お互いに既婚者なのは承知の上だったのだから、お互い様じゃないか!どうして、俺ばかり責められるんだ!そんな考えが頭を巡っては、おかしくなりそうだった。須崎の言う通り幸恵にすべて話せば、もしかしたら、今の雁字搦めの状況を、良くも悪くも打開出来るのかもしれない……。だが。

「そういうわけには……いかないんだよ。」

「どうして?」

「妻に話せば、きっと別れ話になる。妻は俺の前に付き合っていた男とは、それなりに長く付き合っていたのに、相手の浮気が原因で別れていて、そういう類には敏感なんだよ。妻は精神的にも経済的にも自立しているし、俺がいなくても、やっていけるんだ。既婚者と不倫していたなんてバレたら、一発でアウトだ……。」

「……本田さんは別れたくない、と。」

「ああ。そこは譲れない。」

 俺は絶対に妻とは別れたくない。もちろん、妻が良きパートナーである、ということも理由の一つだ。だが何よりも、彼女の父親が重要だ。義父は会社を経営しており、結婚する時、ゆくゆくは俺がその後を継ぐという約束を交わしているのだ。ひとまず今の会社で社会人としての経験を積み、30歳をひとつの節目に、義父の会社へ移る手筈だった。あと3年、今の会社で頑張れば、経営者としての未来が掴めることは決まっているのだ。それをたかだかどうでもいい女との不倫ぐらいでみすみす手放せるか。俺はそんなに諦めのいい男ではない。俺の将来を、こんなことで無茶苦茶にされるわけにはいかない。……もちろん、この事情については、須崎にも話せないが。

「んー……。それなら、300万、一括で払うしかないんじゃないですかね。相手の言いなりになるみたいで、癪ではありますけど……。」

「……300万なんて、そんな大金、俺にはないよ。もちろん、貯金自体はいくらかはあるけど、それは夫婦で貯めてるものだし、突然そんな大金が引き出されてたら、すぐに妻に気づかれる。」

「……じゃあ、交通事故を起こしたことにするとか。」

「その場合は保険がおりるし、交通事故なら普通に妻に話すはずだし、どう考えたってどこかでボロが出るとしか思えない。」

「ですよねえ……。」

 須崎は考え込むように、顎の下を指で摩っている。バカな先輩のために悩んでくれるなんて、実にいい後輩だと思う。いい後輩だとは思うが、この状況を打開する名案なんて、存在しないのだ。それはこの1週間、昼も夜も、この問題に頭を悩ませていた自分が一番よく分かっている。

 俺は深くため息をついた。社会人になったばかりの後輩にこんな愚痴をこぼして、俺は一体何を期待していたんだろう。確かに第三者に自分の事情を話すことで、少しばかり心は軽くなったが、同時に、実際に言葉にして説明することで、自分の愚かさを改めて突きつけらたような気がして、気が滅入った。

「……もし、ですけど。もし、俺がそれくらいの金を貸してくれそうな人を知ってるって言ったら、どうします?」

「え?」

 思わず聞き返して顔をあげると、須崎は両手を胸の前で組み、俺の眼をじっと見つめていた。

「いや……、まあ、それは……貸してくれる人がいるなら、借りたいけど……。でも、普通の人でそんな奴、いないだろ。怪しい業者とか、それこそ闇金とかじゃないのか?流石にそういうのに手を出す気にはなれないよ。」

「そういうんじゃなくて、個人でお金持ってる人なんですけど。大学の時に一回お世話になったことがあって。それからもいろいろと可愛がってもらってるんで、たぶん話せばいけると思うんですが……。本田さんが良ければ、聞いてみましょうか?」

 思いがけない須崎の提案に、一瞬止まった思考をフル回転させる。

 

−−そんなうまい話、あるか?闇金の類なんじゃないのか?

でも須崎は実際に借りたことがあるって言ってるし。問題に巻き揉まれてる様子もない。


−−そもそも須崎を信用できるのか?確かにいい奴だが、個人的なことをそこまで知ってるわけじゃない。

入社して以来、俺に懐いてくれてたし、こうして親身になってくれてるじゃないか。


−−他人に金を借りるなんてリスクが高すぎる。返せなくなったらどうする?

毎月少しずつなら、幸恵にバレずに返せるくらいの収入はある。


それに結局のところ……他に方法はないじゃないか。

 

「……お願いして、いいのか?」

「大丈夫ですよ!俺も男として、本田さんの気持ちも、分からなくもないですし。まあ、俺は不倫はしないし、間違っても同じ会社の子には手は出さないですけどね!」

そう言ってからかうように笑った須崎に、俺は1週間ぶりに、ほんの少しだけ口角をあげた。

 

 先方とのアポイントメントが取れた、と須崎から連絡が来たのは、それから3日後のことだった。

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