炎天のコカ・コーラ

田中太郎

炎天のコカ・コーラ


 時刻は午前五時半であたりに起き出した家は他になく、どこからともなくセミの鳴き声が延々と聞こえた。太陽はすでに空の高いところにあり、朝日があたりを眩しく照らしている。その日差しを浴びながら僕はひたすら自転車を漕いでいた。家から三十分ほど漕いだところで、ようやく平地にぽつんと建ったアルバイト先の事務所が見えてくる。

 集合時刻は午前六時のはずであったが、事務所前にはもうすでに作業服に着替えた男達が集まっていた。僕は駐輪場に自転車を停め、事務所の階段を上がって二階に向かった。扉を開け「おはようございます」と小さく挨拶をしてから、タイムカードを受付の男から受け取り、名前と出勤時間を書いて印鑑を押してもらう。それが済むと、一階の更衣室に向かった。八畳ほどの広さしかない更衣室はすでに他の男たちで満員だ。カビと汗が入り混じったようなツンとした匂いが鼻をつく。冷房は作動しておらず、中はサウナ風呂のように蒸し暑い。着替えをしている男たちの間を通り抜けながら、鍵のかかっていないロッカーを見つけると、僕は服を脱いでロッカーに積まれた青色の作業服に着替えた。部屋にいる男たちは誰ひとり口を開くことなく、皆もくもくと着替えを進めていた。部屋にいるほとんどの男たちは僕と年の近い大学生ばかりで全員がアルバイトだ。引越しのアルバイトは一日の労働時間が長く、体力的にもキツいが、時給が良く、その分一日に十分な金を稼ぐことが出来る。また勤務した三日後には口座に金が振込まれるため、麻雀やパチンコで負け、生活費に困り、早急に金が必要な学生たちに人気のあるアルバイトだった。僕もその一人で、親の仕送りが底をつきそうになると定期的にこの引越しのアルバイトに申し込んでいた。

 着替えを終えて外に出ると、もうすでに二十名ほどの男たちがそこに集まっていた。煙草を吸っていたり、両手をポケットに突っ込みながら大きな欠伸をしていたり、仕事はこれからだというのに皆疲れ切った表情をしている。時刻は六時を過ぎたころだったが、すでにあたりは容赦ない日差しに照らされていた。昼ごろには気温はさらに高くなり、現場は地獄になるだろう。そう思うと僕は少し憂鬱な気分になった。

 しばらくすると二階から社員達がぞろぞろと降りてきた。普段から力仕事をしているためか、皆がっしりとした体格をしており肌は黒く日焼けしている。

「じゃあ適当に並んで」

 まとめ役の男の指示に従い、僕を含むアルバイト達は虫のようにのろのろした動きで三列に並んだ。「選別」が始まった。体格の良いアルバイトは重い荷物を運び続けるようなキツい仕事に回される。これまでの経験から僕はそれを知っていた。幸い僕は背も低く、身体の線も細い。体力のいらない楽な作業に回されることがほとんどだったが、運が悪いときは「ハズレ」を引くこともあった。

 後ろから肩を叩かれた。「お前はこっちだ」と声をかけて来た社員の男は肌が黒ずみ、唇が分厚くタコのような顔をしていた。背も高く、がっしりした体型をしている。男に駐車場に停まっている白いワゴン車に乗って待つように言われ、僕は言われた通りにした。しばらく一人で待っていると車のドアが開き、別の男が一人乗り込んできた。自分とほとんど年も変わらないように見えたので、きっと同じアルバイトだと僕は思ったが、彼は肩と胸の筋肉が作業服の上からでもわかるくらいにパンパンに盛り上がっていた。まるで熊みたいだ、と僕は思った。

 それから運転席のドアが乱暴に開かれ、先ほどのタコのような男が乗りこんできた。「じゃあ行くか」とタコのような男が低い声で言い、車のエンジンをかける。車が駐車場から道路に出ると、タコのような男は運転席の窓を開けて痰を吐き、胸のポケットから煙草を一本取り出し吸い始めた。

「なあ、お前もバイトか?」

 隣に座っていた熊のような男が声をかけてきた。前に座っている社員の目を気にしているのか、ぼそぼそとした喋り方だった。僕は「そうだよ」と返事をした。

「俺、引越しのバイト初めてなんだよ。お前よくここでバイトしているのか?」

「まあ何回かあるよ」

「へえ。やっぱキツいのか?」

「まあキツいときはキツいよ」

 その熊のような男は名前をカトウと言った。近くの私立大学に通っており、年は僕と同じ二十だった。推薦でスポーツ系の学部に入り体育会の柔道部に所属していたが、上下関係に嫌気が差したため三ヶ月で退部したのだと、カトウは話した。彼はよくしゃべる男だった。

「お前は?何かスポーツやっているのか?」

「いや、特になにも」

「大学で何かサークルとかは?」

「入ってないよ」

「なんだ。退屈じゃねえのか」 

 どうなんだろう、と僕は呟いた。僕は大学に入学してから親元を離れてアパートで一人暮らしをしていた。文学部に所属しており、毎日決まった時間に起き、大学にいって講義を受けている。講義を休んだことは一度もない。生活費を稼ぐために時々こうして日雇いのバイトもしている。たまにゼミの友人と飲みにいくことはあるが、煙草を吸ったこともなかったし、ギャンブルもしたことがなかった。いたって普通の健全な生活だと思うが、退屈だと言われれば、たしかにそうなのかもしれなかった。

「おい、お前らあ」運転席にいたタコのような男が不機嫌そうに言い、僕は思わず姿勢を正した。男がルームミラー越しにこちらを睨んでいる。

「車の中くらい静かにしろや。運転に集中できねぇだろ」

 僕とカトウはおとなしく会話をやめて黙った。

 事務所の駐車場を出てから一時間が経った頃、車は住宅やマンションが並ぶ緩やかな坂を上り、団地の前で停車した。広々とした敷地に五階建ての白く地味な住宅が三棟ほど並んで建っている。どれも古い建物だった。たとえ五階建てであっても、古い団地であればエレベーターがないことが多い。今日は「ハズレ」を引いたみたいだ、と僕はうなだれた。

 そのまましばらく車の中で待っていると、引越し用のトラックが手前から走ってき、ワゴン車の前で停まった。

「やっときたかあ」

 タコのような男が苛立った声を上げて車を降りた。僕とカトウも彼のあとに続いた。外ではセミの鳴き声が鳴り響き、眩しい日光がアスファルトの地面を照らしていた。団地の敷地には小さな公園もあったが、遊んでいる子供の姿はなく、そこにあるブランコや鉄棒といった遊具でさえも暑さにうなだれるように静止している。

「遅いじゃねえかあ」

 タコのような男がトラックに向かって怒鳴った。ちょうどトラックから一人男が降りてきた。気弱そうな目をした小太りの男だった。

「すみません。渋滞に巻き込まれちゃって」

「言い訳してんじゃねえよ!ほら、さっさと取り掛かるぞ!」

 タコのような男はまた怒鳴って、小太りの男の頭を手で叩いた。小太りの男は、すみません、すみませんと何度も頭を下げ、走って住宅の階段を登っていった。

「ほら、お前らも早くいけ!」

タコのような男に怒鳴られ、僕とカトウも慌てて階段を登った。

 引っ越しを依頼した住人の部屋は四階にあった。客は中年の女性で、玄関にはダンボール箱が山積みにされていた。小太りの男は部屋の奥にいき、テレビやら鏡やら運ぶときに傷がつきそうな物を専用の資材で梱包する作業に取り掛かった。その間に僕とカトウは玄関に山積みされたダンボール箱を一つか二つ抱えてトラックに積みに向かった。予想した通りその建物にはエレベーターがなく、階段を使わなければならなかった。やっとのことで一階まで降りると、タコのような男がトラックの荷台に上がって待っていた。荷物を彼に渡し、それからまた走って階段を登って、部屋の荷物を運び出す。ひたすらその繰り返しだった。

朝よりも気温は上がり、階段を二往復もしないうちに全身から汗が噴き出した。汗で濡れた下着がべっとりと背中や腰に張り付き、その感触はひどく不快だった。それでも日差しは容赦なく照りつけ、僕の体力を削り続けた。

「結構キツいな」

 作業服の袖で額の汗を拭いながらカトウが言った。すでに彼も顔面を汗まみれにしていた。

「まだ本当にしんどいのはこれからだよ」

 僕たちがマンションの下でそう声を掛け合っていると、タコのような男が荷台から「お前ら勝手に休むな!」と怒鳴り声を上げた。

 カトウはその声に反応し、男を強く睨んだ。彫りの深い顔がさらに険しくなり、今にも殴りかかっていきそうな勢いだったので、僕は慌てて「早くいこう」と彼の腕を引っ張った。

「あの野郎、自分だけ楽して卑怯じゃねえか」

 階段を上りながらカトウはぶつぶつ文句を言ったが、僕はあまり相手にはしなかった。

 時間が経つごとに日差しは強さを増す一方で、汗が溢れ出、息が切れ、身体の節々やいたるところの筋肉がしびれだした。夏場の引っ越し作業はまさに地獄だった。この時期にアルバイトを入れたことを後悔しながら、僕は黙々と作業を続け、ようやくダンボール箱を全てトラックに積め終えた。タコのような男は荷台の影に座りこみ、のんびりジュースを飲んでいる。その姿をみてカトウはまたぶつぶつ文句をいった。

 段ボールを運び終わったあとは洗濯機や冷蔵庫といった大型の荷物を運ぶ作業に移る。まずは梱包材に包まれた一面鏡の化粧台から運ぶことになった。まだ部屋の中の作業が残っているから君たち二人で運んでほしい、と小太りの男に言われ、僕とカトウで運ぶことになった。僕が先頭になって化粧台の頭を持ち、カトウが台の部分を後ろで支えながら、落として傷つけないよう一段一段慎重に階段を降りていく。化粧台は見た目の大きさよりもずっと重く、腕の筋肉が何度かつりかけた。途中、階段の踊り場で僕は、一端休もうとカトウに声をかけた。カトウは「だらしねえなあ」と言って笑い、それから持つ方を代わってくれた。

 ようやく階段を下り終わり、トラックの荷台へ化粧台を運んだ。タコのような男が荷台の上から化粧台を引っ張りながら「もっと持ち上げろ!」と声を荒らげた。僕も荷台へとあがり、上から引っ張るのを手伝い、カトウは下から両手で化粧台を上へと押し上げた。あとひと押しで、化粧台が荷台に上がる、その時だった。力が余ったのか、カトウが一瞬バランスを崩した。すると荷台に上がりかけていた化粧台が横に滑り、僕の手から離れた。嫌な音を響かせ、化粧台はコンクリートの地面の上に落ちた。タコのような男が急に青ざめた表情になって、荷台から飛び降り、慌てて化粧台を包んでいた梱包材を剥がした。化粧台の鏡が中で粉々に割れていた。

「バカ野郎!」

 僕が謝るより先に、タコのような男は僕とカトウの頭を叩いた。なにやってんだ!弁償だぞ!今すぐ客のとこ行って謝ってこい!男は唾を散らして喚いた。僕はただ呆然と立ちつくしていた。あまりのショックで身体が動かなかったのだ。しかしカトウは違った。彼は男をじっと睨み、それから突然口を開いた。

「あんたにも責任あるだろ」

 低くて重い、ドスのきいた声だった。タコのような男の顔が一瞬引きつり、カトウを強く睨み返した。

「なんだと?」

「バイトに責任ばっか押し付けて恥ずかしくねえのか」

「なんだ、その口の利き方は!それが目上に対する言葉遣いか!」

 タコのような男は声を荒げ、カトウに詰め寄った。しかしカトウは一歩も引かない。

「お前、さっきも俺にガンつけてただろ?バイトのくせに生意気な野郎だなあ」

 タコのような男は再び声を荒らげ、カトウの胸ぐらを掴んだ。それでもカトウは表情を一つ変えることなく、男をじっと睨んでいる。僕は二人を止めようと、慌てて間に割って入ろうとしたが、屈強な男たちはどちらもぴくりとも動かなかった。

「手離せよ。痛い目に遭うぞ」

「そうか、やれるもんならやってみろ」

タコのような男がそう言い返した瞬間だった。カトウがその太い腕で男の胸を掴み、足を一歩踏み出して、くるりと右に回転した。「あっ」と男の短い悲鳴が聞こえたかと思うと、鈍い音とともに男は地面に叩きつけられていた。カトウの渾身の背負投げが決まった。

「やってらんねえよ」

 カトウは帽子を地面に投げつけて、倒れた彼に背を向けて歩きだした。タコのような男は痛みに悶えた表情でカトウに向かって何か喚いている。僕は慌ててカトウの背中を追いかけた。

「どこいくんだよ」

 僕が後ろから声をかけると、カトウはチッと舌打ちをした。

「帰るにきまってるだろ」

「でも、まだバイトの途中じゃないか」

「知らねえよ。別に金もいらねえし、俺にはもうバイトなんか関係ねえ」

 カトウは団地の坂をひたすら下っていった。僕は彼を引き止めるのを諦めた。しかし今から引き返して、もう一度あの現場に戻りたいとは思わなかった。どうしたらいいのかわからなかったので、とりあえず僕はカトウについていくことにした。

 バスの停留所の傍まできたとき、丁度後ろからバスがきて停まった。迷わずカトウがバスに乗ってしまったので、僕も慌ててバスにとび乗った。車内は比較的空いており、冷房がよく効いていた。僕はカトウと並んで一番後ろの席に座った。カトウはバスに揺られながらぶつぶつと文句を言っていた。

「苛々するんだよ、ああいう奴と一緒にいると。年上だから、社員だからとかいう理由で偉そうにしやがって」

「カトウはああやってよく喧嘩するの?」

「たまにな。前入ってた柔道部も、二つ上の先輩殴って退部になったんだ。どいつもこいつも年上だからって偉そうな口聞きやがって。一つ、二つ前の年に生まれたことが、何でそんなに偉いんだよ」

 カトウは決して冗談などではなく、本気でそう考えているのだろうな、と僕は思った。

「なあ、お前は平気なのか?ああいう奴と一緒にいて、自分が惨めにならねえのか?」

 苛つくことは勿論あるけれど、多少の我慢はやっぱり必要だと思う、僕はそう答えた。カトウは黙ったまま遠くのほうをじっと睨んでいた。

 何度かバスを乗り換えて、ようやく事務所が見えてくると、僕は急に落ち着かない気分になった。バイトを途中で投げ出してしまった罪悪感。きっとこのバイトはクビになるだろう。あとから社員に呼び出されてひどく怒られるかもしれないし、大学に連絡がいって何か処分を受けるかもしれない。僕はこれまで生きてきたなかで学校の先生や他人から怒られたことがほとんどなかった。なるべくルールや規律は守り、彼らの機嫌をなるべく損ねないように意識して生きてきたからかもしれない。そのため、実際他人から怒られるような場面に遭遇してしまったとき、僕はいつも不安の渦に飲み込まれた。もう自分の人生が終わってしまったのではないかというように、ありもしないようなことを想像し、一人で勝手に苦しんでいるのだ。

「気にするな。よくあることだろ」

 僕の思いを見透かしたようにカトウは言った。だけど、あとあと面倒なことになるのは嫌だよ、そう僕が返すとカトウはフンと鼻を鳴らした。

「それなら今からまた現場に戻ればいい。あいつらの奴隷になって働けばいいさ。だけど、それでいいのか?俺は絶対に嫌だぜ。俺は奴隷じゃない、俺はあいつらとは違うんだ」

 カトウの言葉には不思議な力強さがあった。それからカトウは更衣室の傍にあった自動販売機でコカ・コーラを一本買った。フタを開け、うまそうにそれをゴクゴクと飲む。

「やっぱうめえな」カトウは嬉しそうに呟いた。「こういう時に飲むコーラは最高だ。喉に炭酸がよく染みこんで、スカッとした気分になれる。なあ、お前も一口飲むか?」

 僕は首を横に振り、「遠慮しとく」と言った。カトウは残っていたコーラをあっと言う間に飲み干した。カトウを見ていると、不安は徐々に取り除かれていくような気がした。この男についていけばなんとかなるだろう、そんな不思議な頼もしさが彼にはあった。

 僕とカトウはそのまま更衣室に入り、私服に着替えた。更衣室には、おそらく別の社員かアルバイトだろうか、髪の薄い中年の男が週刊誌を読みながら壁を背もたれにして座っていて、それ以外に誰もいなかった。

 着替えながら僕はカトウと次に始めるアルバイトの話をした。楽そうだからスーパーの品出しがいいとか、おしゃれなバーでアルバイトをしたら女にモテるかもしれないとか、マグロ拾いとかいう電車や車に轢かれてバラバラになった人の死体を拾うアルバイトの時給がかなり高いと聞いたとか、そんなくだらない話だ。すると床に座り込み週刊誌を読んでいた男が突然声をかけてきた。

「お前ら楽して金稼ぎたいんだろ?なら倉庫のバイトなんかどうだ?隣町の山の麓に運送会社の倉庫があるんだ。仕事はベルトコンベアーから流れてくる荷物を仕分けて運ぶだけ。サボり放題だし、時給も悪くねえからやりなよ」

 僕はその男にその運送会社の名前と連絡先を教えてもらい、早速電話をしてみることにした。

「お電話ありがとうございます。K運送株式会社です」

落ち着いた声の女性が電話にでた。僕はそちらでアルバイトをしたいと用件を伝え、名前と年齢を告げた。すると、それでは明日の正午に事務所にきてほしいと言われた。

「カトウはどうする?せっかくだし一緒にいこうよ」

 僕はそう言って彼を誘った。カトウは少し悩んだ表情を浮かべたが、首を横に振った。

「悪いけどやめとくぜ。しばらく働くのはごめんだ。今日でわかったよ。俺にはアルバイトなんて向いてねえ」

 翌日、僕はその運送会社の事務所へ向かった。運が良いことにその事務所は僕が住むアパートから徒歩で行ける距離にあった。しかし炎天下の天気はその日も続いていた。立っているだけで全身から汗が吹き出し、目的地である事務所についたときには下着のシャツが汗でべっとり濡れていた。

 目的地には鉄とコンクリートで纏われた大きな倉庫があり、その横にこじんまりした事務所が併設されていた。事務所に入って受付の女性に名前を告げると、奥から汚いジャージを着た老人が出てきた。小柄でやせ細り、まるでチンパンジーみたいな男だった。履歴書を渡すと面接みたいなものは一切なく、そのまま倉庫の中へと案内された。目の前にまっすぐと伸びたベルトコンベアーがあり、その上をダンボール箱が流れている。ベルトコンベアーの周りには老人と似た格好をした男たちがのろのろとした動きで荷物を運んでいた。倉庫のなかは薄暗い上に冷房が効いていないのか蒸し暑く、鉄錆と土埃の匂いがした。

「仕事はベルトコンベアーを流れてくる荷物に県名の書かれたラベルが貼ってあるから、それをその地方ごとに分けて運ぶ、それだけだ。ここで働いている連中には福岡が日本のどこにあるかも知らない奴がいるが、お前は大学に行っているからそれぐらい教えなくてもわかるだろう」

 チンパンジーのような老人は嗄れた声でそう言った。僕は早速他の男たちに混じり作業に取り掛かった。流れてくるダンボール箱を持ち上げ、ラベルにある県名を確認し、それを所定されたエリアに運ぶ。仕事は本当にそれだけだった。

 ふと周りの男たちを見回すと、男たちは皆、中年を過ぎた男たちばかりだった。前歯が欠けて常に鼻水を垂らしている男、何日も風呂に入っていないのか肌が浅く黒くツンとした臭いを漂わせた男、ほとんど直角に腰が曲がりぷるぷると身体を振るわせながら荷物を運ぶ老人。彼らからはまともな生気を感じることが出来なかった。誰も口を開くことなく、もくもくと作業を続け、ベルトコンベアーの作動音だけが倉庫の中で虚しく響いている。昨日の引越しと比べればたしかに随分と楽な仕事だった。だが彼らと一緒にいると自分まで同じように生気を抜かれていくような気がした。それに冷房の効いていない倉庫はサウナのように蒸し暑く、大して動いていないのにじわじわと嫌な汗が溢れ出た。その汗を手で拭うと、それは土埃と混じって黒い液体になっていた。まるで自分が汚い雑巾になってしまったかのようだった。時間が早く過ぎることを祈ったが、単調な作業の中ではたったの五分が一時間のように長く感じられた。そしてようやく一時間が経ったころ、僕は耐え切れなくなって、持ち場を一端離れ倉庫を出た。

 倉庫の外でトイレを見つけ、個室に閉じこもった。ぼんやりしながら、しばらくそこで時間を潰し、十分経って倉庫に戻った。勝手に持ち場を離れた自分を注意する者は誰もおらず、彼らは相変わらずのろのろとした動きで作業を続けていた。僕はまた作業に加わったが、二十分経つとまた耐え切れなくなり、再び倉庫の外に出た。

 トイレには向かわず、そのまま僕は自分の家に帰った。炎天下の道路を歩きながら自分は一体何をやっているのだろうと思ったが、考えるのも面倒だった。

帰宅すると、僕は冷たいシャワーを浴びて、それからベッドに寝転んだ。そのままぼんやりしているといつの間にか寝落ちしていた。携帯電話の着信音で目が覚めたのは、倉庫を抜け出してから二時間経った頃だった。寝ぼけながら電話に出ると、「お前はいまどこにいるんだ」と嗄れた声で怒鳴られた。電話の相手はあのチンパンジーのような老人だった。

「トイレにいます」と咄嗟にウソをついたが、「ウソをつくな!さっき確認したが誰もいなかったぞ」と簡単にバレてしまった。

「とにかく今すぐ戻ってこい!仕事を舐めてんのか。戻らなかったら、お前の大学にも連絡するからな」

 老人はそう言って電話は切れた。面倒なことになった、と僕は大きくため息をついた。あの老人なら本気で大学に連絡にしかねない。そうなればもっと面倒だ。僕は仕方なく倉庫に戻ることにした。倉庫への道をだらだらと歩きながら、僕はなんて言い訳しようかずっと考えていた。倉庫までの道のりがひどく長く感じられ、途中何度も引き返そうと思ったが、元来た道を引き返すのも面倒に感じられた。

 事務所に辿り着くと、入口でチンパンジーのような老人が待ち構えていた。どこに行っていたんだ!勝手に持ち場を離れるな!と、老人は文句を言い始めた。怒鳴られながら僕は、こういうときカトウならどうするか考えていた。タコのような男を投げ飛ばしたときと同じように、彼ならきっとこの老人も投げ飛ばすだろうと思った。俺は奴隷じゃない、俺はあいつらとは違うんだ。ふとカトウの言葉を思い出す。

「わしの話を聞いているのか!」

老人に胸をどつかれ、我に帰った。別に痛くもなんともなかったが、何も出来ずにいる自分がひどく惨めに思われた。カトウが羨ましかった。老人を投げ飛ばしてやりたかったが、そんな勇気は僕にはなかった。だけど、こんなところまで戻ってきて一体僕は何をやっているのだろう、なんだが全てが馬鹿らしく思われた。

 僕は大きく息を吸って吐き、呼吸を整えた。それから彼に背を向けて、僕はゆっくりと足を踏み出した。「おい、どこにいくんだ」背中のほうから老人が喚く声が聞こえたが、僕はもう彼を相手にしようとは思わなかった。事務所を出ると、太陽はちょうど真上にあり、眩しい日差しが視界を覆った。僕はもときた道を歩いて帰った。後ろから追いかけてくる者は誰もいない。道の途中にある公園の前で自動販売機を見つけた。僕はそこで立ち止まりコカ・コーラを買い、歩きながらそれを飲んだ。冷えた炭酸が心地よかった。コーラがこれほど美味しい飲み物だったとは今まで知らなかった。俺は奴隷じゃない、俺はあいつらとは違うんだ。コーラを飲んでから今度はそう声に出して呟いてみた。炭酸がヒリヒリと喉によく染みこんで、それは今の気分にぴったりだった。


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