第5話:そして感情はいつだって景色に紐づいている

「たくさんあるね、レーション。ここは食糧保管庫なのかな……」


 床から天井まで、壁面全体が収納構造となっていて、その中に薄緑色のレーションが大量に積み重ねられていた。立原たてはらツグムは少しだけ背伸びをして棚からレーションのパウチを取り出していく。中身を確認するでもなく、それをリュックサックに詰めた。


「いくつかのサプライがあるの。きっと、眠らない人たちのための生活資源を提供しているんだわ」


 そう答えた佐伯さえきトワは、長方形の小さな端末に視線を落とし、その画面を人差し指で器用にタップしていく。彼女がもたれる壁には、配線用差込接続器がいくつも並んでいて、端末の側面から伸びる細いコードはそこに接続されていた。


 伝えたい相手に間違いなく届いているのか、それさえも分からない文字情報を、彼女は何度も繰り返し作る。今のトワにとって、最終的に言葉が他者に届くかどうかは、あまり重要ではないのだ。伝えたい想いは言葉に意志を吹き込み、文章に含まれる意味を重層化させていく。ただそのことだけで充分だった。それは彼女自身に向けたられたある種の慰めであり、また精神の安定剤マイナートランキライザーでもある。文字情報をネットワーク空間に放つ、ただそれだけのことが、佐伯トワというアイデンティティーを支えていた。


「その端末、使えるの?」


 人間社会という関係性の網目がプツリと切れたこの世界で、情報通信ネットワークの網目だけが存在していることにツグムは驚いた。トワは彼の質問に答えるでもなく、相変わらず端末画面をタップし続けている。そんな彼女を横目にツグムはレーションの棚に視線を戻すと、足元からオレンジとモスグリーンでデザインざれたパウチを手に取った。


「ウメワサビ風……。おいしいのかな。栄養はありそうだけれども」


「ツグム、ごめん。この水筒に水を入れてきてもらえないかしら。きっと奥に水道設備があると思う」


 トワは思い出したようにそう言うと、大きな水筒をリュックから取り出してツグムに差し出した。彼女から水筒を受け取りながら、目覚めてから一滴の水も飲んでいないことに気が付く。あの透明なカプセルで眠っていた時には、十分すぎるほどの水分が体を包んでいたというのに、今はただ身体が水を欲している。緊張で感覚が鈍っていたのか、喉の渇きをしばらく忘れていた。


 壁面の収納構造にはどこまでもレーションが積み上げられている。いったい誰が管理しているのだろうか。後ろを振り返ると、トワは相変わらず端末を操作していた。モニターの青白い光が、彼女の顔を静かに照らし、ショートボブの髪がかすかな風に揺れている。


 トワの言ったとおり、水道設備は食糧保管庫を抜けたすぐ先にあった。ステンレス製の流し台に、小さな蛇口が無数に並んでいる。曇りがかった銀色の蛇口レバーは錆びついていて硬かったが、ゆっくりと力を入れると、一気にゆるみ、やがて蛇口から水が噴き出した。


 流れ出る水は冷たい。流し台を叩きつけるように飛び出した水流は、そのまま排水溝へ流れ落ち、ごぼごぼと音を立てる。ツグムは預かった水筒を蛇口にあて、流水で中身を軽く濯いでから、水を溢れるほどに詰め込んだ。


 水を入れ終えた水筒を足元に置き、今度は自分の頭を蛇口の下に持っていく。水の冷たさは、その知覚とは正反対の温かさを内包している。流れ落ちる音に耳を澄ましてツグムはじっと目を閉じる。目の前で起こる出来事を、一つ一つ考えていたら先へ進めない。考えるという行為は相応の時間的コストを支払わねばならないのだから。

 でも、たとえそうだとしても、ブレーキのない乗り物には乗れないように、その時々でタイミングを見計らいながら歩みを止めることも必要だ。人の生は事物の総体ではなく、出来事と出来事のネットワークであり、その関係性の意味そのものだから。


「水の補給、大事だよね。忘れていたよ」


 ツグムは水で満たされた水筒をトワに返す。濡れたままの髪から小さな水滴がぽたりと床に落下した。


「髪……。どうしたの?」


「ずっと頭が真っ白だった。今この瞬間に何が起きているのか、あるいは数秒先に何が起こるのか、目の前の景色は僕の理解を超えているんだ。トワ……。僕たちはどこに向かうの?」


 一瞬だけ止まったトワの瞳が、凍り付くような鋭い眼光に変わる。背後に得体の知れぬ気配を感じたツグムは後ろを振り返る。その時、突如として壁の構造体が動き始めた。壁と壁の間から濃紺色ネイビーブルーの開閉装置が現れると、ガラガラと大きな作動音を辺りに放ち、金属製のシャッターが持ち上がっていく。


 程なくして壁の中から現れたのは五体のエンフォーサーだった。開閉装置と同化している濃紺色の胴体は、人間のそれよりも太く、対照的に頭部は小さい。視認センサーと思しき人間の目を模した装置から放たれる青い光が二人に向けられた。


「ツグム、逃げるの」


 トワがツグムの腕を引くように走り出した瞬間、エンフォーサーの視認センサーから放たれる光が青から赤に変わった。いつの時代、どの文化であっても警告、危険、異常、緊急事態は赤と相場が決まっている。


「ちょっと……」


 縺れた足にバランスを失いかけたツグムは、自分のリュックを担ぎ直し、トワに引かれるように走り出す。小柄な彼女は思いのほか足が速い。床に散らばる配管を器用に飛びぬけながら、サプライの狭い通路を抜けていく。エンフォーサーが追ってきているか確認したい衝動に駆られたが、ツグムには振り返る余裕すらなかった。


「こっち」


 そう叫んだトワは、二股に分かれる通路を右に折れる。角を曲がった一瞬、後方を見やると、闇の中で赤い視線をこちらに向けるエンフォーサーたちは二人の後方、数メートルの位置を滑走していた。追いかけてきているとはいえ、その速度は決して早くはない。滑らかな動きではあるが、高速で移動できる設計ではないようだ。


「ここまで来れば大丈夫だから」


 正面を向くと、トワは通路先の階段の上に立ってツグムを見下ろしていた。


「段差を登れないの、あの子たちは。いつもは各フロアに眠っている」


「エンフォーサーって……言ったよね。あのロボットのようなもの」


 荒い呼吸を落ち着けるように深く息を吸い込みながら階段を上る。広間から続いていた、らせん状の階段とは異なり、その作りもしっかりしていて、人が通行することを前提に設計されていることが良く分かった。階段の両脇には小さな排水路が作られており、どす黒い水がゆっくりと流れている。


「あれは、単一の機械というよりも、この都市そのものなのかもしれない……」


「都市? ここは何かの施設じゃないの?」


「ツグム、前を見て」


 トワの声に足元を確認していた視線を正面に向ける。通路の先は開けていて、真っ白な床が広がっていた。天井はやや高いけれども、トンネルの内部なのだと分かる。白い床は縦長に伸びていて、全長は500メートルほどはあるだろう。両脇には大きな溝がトンネル内の闇の中、どこまでも続いていた。


「僕はここに来たことがある……」


 人が認識できるのは、無限なものの断片。記憶とはその断片が見せる認識の在り方の一つだ。しかし、何層にも折り重なる断片は、いつしか記憶の片隅に追いやられ、やがて消えてゆく運命にある。無限を一度に認識できるほど、人間は器用ではないし、そうでなければ、悲しみや苦しみで記憶が蹂躙されてしまうだろう。しかし、消えかかっていた断片を呼び戻すのもまた悲しみや苦しみの感情。そして感情はいつだって景色に紐づいている。


「ええ、来たことある」


 そう言ってトワは端末を確認しながら「そろそろだわ……」と呟いた。トンネル内を強い風が吹き抜けていく。いつのまにか断続的に聞こえるようになったゴォーという音は徐々にその大きさを増し、何かがこちらに近づいて来ることを想像させた。


「列車っ!?」


 程なくして二人の目の前に現れたのは銀色の車体だ。すべての乗降口に赤くペイントされた東亜メトロ株式会社のエンブレム。先頭車両が跳ねのけた風が、ツグムとトワの間をすり抜け、白い床に降り積もった埃を巻き上げる。


 天井から吊り下げられた電光パネルの文字は、記憶の断片を呼び戻す声となって、ツグムの脳内に響き渡っていた。


――新宿三丁目

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