第4話:あとがきの意味、言葉の音に耳を澄ませること

 目の前にいる初老の男性は小さな椅子のようなものに腰掛け、乱雑に積み上げられた大量の本に囲まれていた。天井からは大きなダクトの入り口なようなものがあり、断続的に大きな音を立てながら何かが落下してくる。


「本が落ちてくる。これは、世界から言葉を消すための装置……」


 トワのいう通り、ダクトから落下してくるのは書籍だ。分厚い百科事典のようなものや、小さな文庫本など、様々な形態の本がフロアのいたるところに積み上げられている。


 男は積み上げられた本を手に取ると、少しだけページをめくり、しばらく視線を止める。やがて後ろを振り返ると、手にした本を暖炉の中に投げ入れた。ぱっと火の粉が舞い上がり、白い煙があたりに霧散していく。このフロアの空気を濁らせているのは本が焼ける匂いだったのだ。


「この人、眠っていないようだ」


「とにかく話をしてみましょう。でも、うまく話せるかしら……」


 ツグムは本に視線を落としたまま微動だにしない男にゆっくりと近づくと、「あの……」と小さく声をかけた。男は目の前のツグムを無視するかのように、本のページをめくり、「分からない」とつぶやくと、それを暖炉に投げ入れた。


「あの、聞きたいことがあるんです」


 決して大きな声ではないけれども、その鮮明な輪郭は濁った空気を振り払うかのようだった。自分にもこんな声が出せるのかと、ツグムは少しだけ驚きつつ男の瞳をじっと見つめる。窓から差し込む陽の光。物理的な光の波長にかかわらず、とかく人間が経験してしまう色彩現象というものがある。光があるからこそ人の生は豊かになり、そして鮮やかになる。


「私は本を燃やしている。ここには本がたくさん運び込まれる。それを一冊ずつ丁寧に燃やすんだ」


 男は顔をもたげ、ツグムとトワを交互に見やった。煙と灰にまみれた顔はやや赤く、その声はかすれている。煙を日々吸い込んでいるせいかもしれない。


「なぜ燃やすの? これは……これは大切なもののはず。あなたは人間ではないの?」


「ふむ。君の話す言葉の意味がよくわからない。少なくとも私は人間であろう。意味が分からないといえば、ここにある本に書かれている言葉も意味も分からない。意味が分からないものは燃やしたほうがいい」


 そういって男はまた一冊の本を手に取り、ページをめくる。


「言葉の意味を調べつくしても、分からないものがあるから。だから大事なのは燃やしてしまうことではなくて、分からないままに残しておくこと。わたしは意味よりも先に、言葉に宿るかすかな音に耳をすませたい」


――知性が言葉を支配するのではなく、言葉が知性を支配することがある。


 いつだったか大柳おおやぎハルタはそう言った。ツグムはその言葉の意味をもう一度考える。これは何かの儀式なのか。それとも無意味な行動の繰り返しなのか。


「意味が分からないのだとしても、あなたは燃やすべき本を選別しているように見えるんです。選んでいる。何を基準に選んでいるのか、そのことを僕は知りたい」


「選んでいる? 面白いことを言うね、君は。私はただ、ここにある本をすべて燃やすことに意味を持つと信じているんだ。だからね、選んでいるわけじゃないんだ。ただ順番を決めているだけさ。いずれは全てが灰になる。そのとき、人は本当の夢から目覚めるんだ」


「では、あなたが最後に燃やすべきと考えている本はどれですか?」


 ツグムはそう問いかけると、しゃがみながら目の前にある本を一冊手に取った。小さな文庫本のような本だ。


「私はね、本を燃やす前に、こうして『あとがき』だけを読むようにしている。知らない言葉だらけで、書いてあることの半分も理解できないけれどね。だけど、『あとがき』に引用される言葉たちが、この世界から消えてしまうことはね、君には信じられないかもしれないけれど、実は本当に困ったことなのだと、そう思うんだよ。言葉というのはそれほど難しい技術なのさ。だからこそ危険でもある。危険は排除しなくてはいけない」


「あなたが最後に燃やそうとしている本が欲しいです」


「私は神など存在しないと思っているんだ。無神論者と言うそうだよ。でも、この世界で最後まで残すべき本を一冊だけ選ぶのだとしたら、間違いなくこの本さ。この本を君にあげよう。だから、君が右手に掴んでいる本をよこしなさい。それは燃やすべき本なのだから」


「なぜこの本を?」


 ツグムは男が手渡してきた分厚い本を受け取ると同時に、右手に持っていた文庫本を床に戻した。


「この本には『あとがき』が書かれていないんだ。本を読んだ後、読んだ人がそれぞれの『あとがき』を考えなければいけない。だから最後に燃やすべき本なんだよ」


 そう言って、男はしばらくうつむいていた。その瞳からは大粒の涙が流れていた。


「その先を進みなさい。お前さんたちの役に立つものがあろう。好きなだけ使うがよい」


 やがて、顔をもたげた男は二人を先に進むよう促した。トワは「ありがとう」とだけ言うと、男に促されたほうへ向かって歩みを進めた。


「ありがとうございました。本を大切にします」


 ツグムは相変わらず本のページをめっている男に向き直り、深く頭を下げると先を行くトワの後を追った。


「トワ、この本……」


「読み手に届くこと強く願っている、そんな言葉が確かにあるの。きっとあの男性はそれをよく分かっていた。かつては……という条件付きかもしれないけれど」


 ツグムは歩きながら本を開いてみる。最初のページには数行の文字が並んでいるだけだった。


 はじめに言葉があった。

 言葉は神と共にあった。

 言葉は神であった。

 この言葉は、初めに神と共にあった。

 万物は言葉によって成った。

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