第6話:春の見せる夢に景色は歪んで
「ハルタは休みなのか?」
「ハルタ?」
首をかしげる
「
きっとまた夢を見ていた。あの時と同じ夢を。続きのない夢を。いつまでも同じ景色が繰り返され、物語がないままその密度が増していく夢を。
「入院……。あ、えっとそうだよな。そうそう、お見舞いだ」
教室の窓から吹き込んでくる午後の春風が、机のに広げた教科書のページを無作為にめくった。パラパラとめくれるページに刻まれている言葉たちに、ハルタの声がゆっくりと再生されていく。
――文学は日常とは縁遠いものなんだ。むしろ引き寄せてはいけない。特に君のように感受性が豊かな人にはね。
ツグムは昔から物覚えが良いほうだった。みんなが忘れてしまうような、どうでも良いことを鮮明に覚えている。中学三年の修学旅行で京都を訪れた時にも、初めて眺める地図をあらかた記憶してしまった。印象に残った地名といえば、金閣寺とか清水寺とか、パンフレットに載るような京都の代名詞を挙げる生徒が多い中、ツグムの記憶にいつまでも鮮やかに残る風景は、清水寺参道の一つ、茶わん坂だった。
ツグムは自分の記憶には確かな自信があった。しかし、その日の彼は生まれて初めて記憶があいまいなものだと感じていた。ハルタと一緒に帰ったのは、いったい何時のことだったのか。あの田園風景の中、文学を引き寄せてはいけないと、そう言っていたハルタは本当にハルタだったのか。そもそも、そんな出来事が本当に存在したのだろうか。その日の授業に集中できるでもなく、ここ数日の記憶をゆっくり、丁寧に回想してく。
「えっと、先ほど大柳くんのご家族の方から連絡がありました。右足首の靭帯損傷だそうです。骨折ではないので、来週には学校に復帰できるという話でしたが、しばらくは松葉杖になると思います。不便も多いと思うから、みんなも協力してやっつてくれな」
ふっと記憶が輪郭を帯び始めたのは授業も終わりに近いころだった。担任から告げられたハルタの病状報告に、サッカー部エースストライカーだった彼の悔しそうな顔が思い出される。週明けに行われた練習試合で、相手方の選手と接触し転倒。足の靭帯を切断する怪我を負ってしまったのだ。
「なんで今頃になって思い出したんだろう」
独り言のようにつぶやいたツグムは放課後の昇降口で革靴に履き替えると、サオリが待つ正門へ急いだ。
「立原くん、遅いよ」
「ごめん。行こうか」
少し早め来て待っていたのだろう。機嫌を損ねたサオリに何を話しかけたらよいのか戸惑ってしまう。駅までの五分という道のりが果てしなく長く感じた。
「立原くん、東京出身だったよね」
会話のない時間に耐え切れなくなったのか、あるいは損ねた機嫌が回復したからなのか、駅の自動改札を抜けたところで、サオリはいつも通りの声色で話しかけてきた。
「ああ、中学まで東京で暮らしていたんだ」
そう言ってからツグムは気が付いた。ハルタとは、ずいぶん昔から一緒にいるように感じていたが、彼は生まれも育ちもこの土地のはずだ。だから彼と出会ったのは高校に進学してからなのだ。
「あまりにも田舎でびっくりしたでしょう。電車の本数、めっちゃ少ないし」
「家と学校の往復くらいだから、そんなに不便は感じないさ」
電車を利用するのは地元の学生くらいだ。だから通学の時間帯を過ぎれば電車の運行本数も極端に少なくなる。駅舎の天井から吊り下がる電光掲示板を眺めるサオリ。列車の到着まであと十五分というところか。
ツグムはベンチの横にたたずむ自動販売機の前に立った。ズボンの後ろポケットに片手を突っ込み、取り出した財布から銀色の硬貨をコンプレッサーが振動する自動販売機に投入した。
「サオリはなんか飲む?」
「え? ああ、お茶かな。立原くん、払うから」
「待たせちゃったから」
「そんな、気にしなくていいのに……」
並んでベンチに座り、缶のプルトップを開ける。カシュっという小気味よい音が駅舎に響き渡った。季節が巡り、陽が長くなっている。夕方に近い時間帯のはずなのに、線路の果てまで昼間と変わらない青空が続いていた。
二人が手にする飲み物が空き缶に変わる頃、二両編成の列車がゆっくりとホームに滑り込んできた。ここ数年でようやく電化された路線。かつて、この線路を走っていたのはエンジンを積み込んだ気動車だったそうだ。
車内には数人の乗客しかいない。みな長椅子に腰かけ、携帯端末を見つめている。ツグムは列車内に差し込む日差しを背に、閉まったドアにもたれた。
「座らないの?」
「二駅だし、外の景色を見たいから」
「ねえ、立原くん。ちょっと寄りたいところがあるんだけど……良いかな?」
「駄菓子屋だろう?」
「そうそう、ウメワサビチップス」
「あいつ、そんなに好きだったかな……」
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