第3話:恐怖とは夢見の番人、そして死に対する意味の不在

「あれは……いったい」


 立原たてはらツグムは大きな柱の影にうずくまりながら、押し殺した声でつぶやく。透明なカプセル型の生命維持装置、およそ三個分先の距離にいる金属製の物体は、有機的な肉体を持たないにせよ、人を恐怖させるに足る明確な意思、あるいは意図をまとっていた。


「エンフォーサー。夢見の番人、わたしにはそれ以上のことは分からない」


 佐伯さえきトワがエンフォーサーと呼んだ夢見の番人は、起動を停止させたカプセル装置から忙しなく触手を動かし、その中身を取り出している。むろん、取り出そうとしているのは人間だろう。ゆっくりと引きずり出される人型の有機物を、二人は固唾を呑んで見つめていた。


 引きずり出された人間は、その細い脚部からエンフォーサーの胴体内部に格納されていく。周囲に血なまぐさい匂いが広がり、ツグムはこみ上げる吐き気をこらえるのに必死だった。冷や汗が背中を伝い、意思とは無関係に膝が震える。他者の死が怖いわけではない。むろん、自分の死が怖いわけでもない。そうではなくて、目の前の死に対する意味の不在が恐怖なのだ。


「存在が消えていく。あれは再生の儀式なの? 母さん……」


 トワの無感情な声と、彼女の瞳に浮かぶ微かな涙。ツグムは吐き気と頭痛をこらえながら、彼女の右手をそっと握る。


 カプセルの内部から引きずり出されていく人間は、あばら骨が浮き上がり、腹部が極端にへこんでいた。栄養失調による老衰か、あるいは……。

 やがて、カプセル装置の淵から、しわにまみれた顔がのぞく。髪は白く、本数も少ない。瞳には色がなく、すでに息絶えていることは容易に理解できた。


 白髪の老人を胴体内部に取り込み終えたエンフォーサーは、来た時と同じように音もなく滑らかに床を滑走し、どこかへ消えた。凄惨な光景はいまだ余韻を残し、目を閉じれば残像としてツグムの心に、思考に、そして身体に入り込んでくる。血とカプセル内の充填物が入り混じった液体は、床にピチャピチャと不気味な音をたて続けていた。


「先へ急ぎましょう、ツグム」


 そういって、ツグムの左手を軽く振り払うようにしてトワは立ち上がった。彼女の瞳から情動の歪は消えている。


「僕の名を、どこで……」


 自分の名をトワに告げていないことに改めて気が付いた彼は、トワに何度目かの質問をした。


「もう、ずいぶんと前からよ」


 それっきり口をつぐんだ彼女の背を追いかけるようにツグムは歩みを進める。広大な間取りのこの部屋は、巨大なドーム状の天井を、無数の柱によって支えている構造になっている。床には同じ形をしたカプセル型の生命維持装置が碁盤の目のように並べられ、内部に充填されている透明な液体を運ぶ配管のようなものが、その間を縫うように張り巡らされていた。


 むろん、カプセルの中にいるのは生身の人間だ。男女問わず、子供から大人、老人まで、実に様々な人間が透明な液体の中でゆらゆら揺れている。その穏やかな寝顔は幸せに満ちた夢を見ているようにさえ思えてしまう。


――夢見の番人


 寝ている間に見る夢と、覚醒している間に見る幻覚。見ている当人にとってはどちらもリアルな世界なのに、夢も幻覚も虚構に等しいという直感がある。なぜ人は夢を見るのだろうか……という問いは、ツグムにとつて既に素朴さを失っている。一つだけ明確なのは、知性は素朴であるときよりも批判的であるときにこそたち現れるのだということ。


「こっちよ」


 トワが指差す先に見えたのは階段の踊り場のような狭い空間だった。高い天井から放たれる蛍光灯の明かりは届かず薄暗い。その先には灰色の壁で囲まれた階段が上層に向かって、らせんを描いていた。


「上に行くのかい?」


「ええ」


 どこまでも続いているらせん状の階段を見上げる二人。その先に光はなく、ただただ密度の濃い藍色が広がっている。歩むべき方向が規定されることの安心感と、到達点が見えないことの不安感。生きることはいつだって、そんなアンビバレントな感情が渦巻いているけれども、星が闇という無に存在しているわけではないように、ただ有るものたちの断面を垣間見ることが、変化の只中を進む希望となる。


「先へ行かないといけないんだね」


 ツグムの言葉にトワは小さくうなずいた。

 鋼鉄製の細いパイプを編み合わせて作られているその階段は、安全性という概念がすっぽり抜け落ちている。むろん手すりなどもなく、ただ段差がらせん状に延々と続いているだけの構造体。トントン、という二人の靴音が狭い空間に反響して、何度もこだましていく。


 一見すると変化の無いように思えた状況でも、現実が現実として目の前にある限り、あらゆる変化は常に起こっている。気づかないだけかもしれない。あるいは気づいたとしても関心を向けることができない、ということは往々にしてある。変化に気づくには、注意深く丁寧に歩みを進めるほかない。


「何かが燃える匂い……」


 ツグムも先ほどから感じていた。微かではあるが何かが燻るような匂いだ。煙が充満しているというほどでもない。適度な換気が行われている状況で何かが燃えている。自然に発火しているわけではない予感は、そこには何者かの意思が介在していることの傍証。


 口元を手で覆うほどではない濁った空気の中を進むと、やがて光が見えてきた。階段の行きつく先は少しだけ開けた場所になっていて、大気中に舞っているチリや埃が、噴煙の中を透過する光の中で乱反射している。


「トワ、あそこに人がいるっ」


 キラキラした光の道筋の向こう側に、小さな椅子に腰かけた初老の男性が座っていた。


 この世界には、眠っている人間と眠っていない人間がいる。

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